コンテンツにスキップ

「憲節皇后」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「牟太釩」等の改名に伴うリンク修正依頼 (趙旉) - log
40行目: 40行目:


== 高宗の皇后遙封を巡って ==
== 高宗の皇后遙封を巡って ==
『[[宋史]]』憲節皇后伝に記された、高宗の邢秉懿に対する「16年不娶」の愛の誓いは潤色が加えられている。高宗は帝位が動揺すると考えて父帝と兄帝の帰国は婉曲に拒んだが、邢秉懿に関しては積極的であったという。しかし『宋史』潘賢妃伝によると、高宗は側女の[[潘賢妃|潘氏]](元懿太子[[趙フ|趙旉]]の母)を皇后に立てようとも考えた<ref>[[呂好問]]の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。</ref>。また南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった<ref>『朝野遺記』</ref>、あるいは[[ペドフィリア]]<ref>『鄧粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。</ref>との噂も立った。邢秉懿に対する夫婦愛の顕示は、それらに対するカムフラージュの可能性もある。
『[[宋史]]』憲節皇后伝に記された、高宗の邢秉懿に対する「16年不娶」の愛の誓いは潤色が加えられている。高宗は帝位が動揺すると考えて父帝と兄帝の帰国は婉曲に拒んだが、邢秉懿に関しては積極的であったという。しかし『宋史』潘賢妃伝によると、高宗は側女の[[潘賢妃|潘氏]](元懿太子[[趙旉]]の母)を皇后に立てようとも考えた<ref>[[呂好問]]の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。</ref>。また南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった<ref>『朝野遺記』</ref>、あるいは[[ペドフィリア]]<ref>『鄧粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。</ref>との噂も立った。邢秉懿に対する夫婦愛の顕示は、それらに対するカムフラージュの可能性もある。


邢秉懿本人に関しては、以下の逸話がある。
邢秉懿本人に関しては、以下の逸話がある。

2021年7月12日 (月) 20:16時点における版

邢皇后
南宋の皇后
在位 建炎元年5月4日[1] - 紹興9年6月2日
1127年6月15日 - 1139年6月29日

全名 邢秉懿
別称 憲節皇后
出生 崇寧5年(1106年
死去 紹興9年6月2日[2]
1139年6月29日
配偶者 高宗
父親 邢煥
母親 熊氏
テンプレートを表示

憲節皇后(けんせつこうごう、1106年 - 1139年)は、南宋高宗の最初の正室。皇后に遙封(不在のまま冊立すること)された。姓は秉懿(ひょうい)。

生涯

開封府祥符県の人。正五品儀曹の邢煥と妻の熊氏の娘。康王趙構(後の高宗)にとつぎ、嘉国夫人に封ぜられた。

靖康の変後、に連行され、金軍に凌辱を受け、途中で流産した[3]建炎元年(金の天会5年、1127年)、高宗は南宋を建てて皇帝に即位し、金に抑留されたままの邢氏を、皇后に封じた。金に到着後の同年6月7日、高宗に屈辱を与えるため、高宗の生母の韋賢妃(顕仁皇后)、高宗の側室(姜酔媚田春羅)、高宗の娘(趙仏佑・趙神佑など)と共に、洗衣院に落とされた。天会9年(1131年)、男子を1人産んだ。

南宋の紹興5年・金の天会13年(1135年)、邢秉懿は洗衣院から解放された。紹興9年・金の天眷2年(1139年)、金で死去した。紹興12年・金の皇統2年(1142年)、韋賢妃が南宋で高宗と再会した際に、死去の事実が伝えられた。は初め「懿節」であった。孝宗の時代に「憲節」へ改諡された。

邢秉懿の死が明らかになった翌年の紹興13年(1143年)、側室のうちから呉氏(憲聖慈烈皇后)が新たに皇后に立てられた。

高宗の皇后遙封を巡って

宋史』憲節皇后伝に記された、高宗の邢秉懿に対する「16年不娶」の愛の誓いは潤色が加えられている。高宗は帝位が動揺すると考えて父帝と兄帝の帰国は婉曲に拒んだが、邢秉懿に関しては積極的であったという。しかし『宋史』潘賢妃伝によると、高宗は側女の潘氏(元懿太子趙旉の母)を皇后に立てようとも考えた[4]。また南宋では、高宗は逃走中に金軍の襲撃を受けた際のショックで性的不能になった[5]、あるいはペドフィリア[6]との噂も立った。邢秉懿に対する夫婦愛の顕示は、それらに対するカムフラージュの可能性もある。

邢秉懿本人に関しては、以下の逸話がある。

  • 曹勛[7]が金から南宋へ逃亡した際、邢秉懿は耳輪の片方を託し、「耳輪のように夫婦相和すことを願います」と言づてした。

伝記資料

  • 『靖康稗史箋證』
  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』

脚注

  1. ^ 『宋史』巻24, 高宗紀 建炎元年五月癸巳条による。
  2. ^ 『宋会要』
  3. ^ 同時に、柔福帝姫洵徳帝姫、鄆王趙楷の妃朱鳳英らも流産している。『靖康稗史箋證』「二十九日、邢朱二妃、二帝姫以墜馬損胎、不能騎行」
  4. ^ 呂好問の諫言のため沙汰やみとなった。その後、太子は薨去し、潘賢妃も高宗にかえりみられなくなった。
  5. ^ 『朝野遺記』
  6. ^ 『鄧粛撰奏札子』によると、靖康の変後、高宗はすぐさま美貌の幼女多数を強引に内廷へ召し集めた。
  7. ^ 北宋の武義大夫。靖康2年(金の天会5年、南宋の建炎元年、1127年)、連行の途中に逃亡し、7月に商丘(当時の南宋の都城)に到着した。