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「レシュノ」の版間の差分

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レシュノが初めて記録に現れるのは、1393年のことである。当時、この村はヴィエニアヴァ氏族のステファン・ズ・カルニナの所領であった。中世ポーランド貴族の慣習にしたがい、一族は姓を地名に由来するレシュチニスキに変えた。
レシュノが初めて記録に現れるのは、1393年のことである。当時、この村はヴィエニアヴァ氏族のステファン・ズ・カルニナの所領であった。中世ポーランド貴族の慣習にしたがい、一族は姓を地名に由来するレシュチニスキに変えた。


1473年から[[神聖ローマ帝国]]の伯爵位にあり、[[カルヴァン派]]に改宗していたレシュチニスキ家は16世紀初頭、[[ボヘミア]]を逃れて難民となっていた[[プロテスタント]]の共同体「同胞の団結」をレシュノに落ち着かせた。ボヘミアのプロテスタントだけでなく、近くの[[シレジア]]からやってきた織物職人も発展に寄与し、1547年に[[ジグムント1世]]から特権を得て町となることができた。プロテスタント系コミュニティの活動のおかげで、レシュノは大ポーランドの印刷業の中心地ともなった。[[三十年戦争]]でシレジアからドイツ人避難民が流入したため、その人口はさらに増えた。当時、町ではボヘミアの教育家で「同胞の団結」の牧師をしていたヤン・アーモス・コメンスキー([[コメニウス]])がギムナジウムを開設していた。ドイツの詩人ヨハン・ヘールマンは、1638年から1647年に亡くなるまで当地に住んだ。1636年から1639年にかけて、町は防衛力を強化し市域を拡張した。1655年に大火が発生して、レシュノの黄金時代は終わった。[[大北方戦争]]中の1707年には[[ロシア帝国|ロシア]]に焼き討ちされ、1709年には疫病が流行した。1738年、2度目の王位を放棄した[[スタニスワフ・レシチニスキ]]は町を売却し、レシュチニスキ家の支配に幕が下ろされた。
1473年から[[神聖ローマ帝国]]の伯爵位にあり、[[カルヴァン派]]に改宗していたレシュチニスキ家は16世紀初頭、[[ボヘミア]]を逃れて難民となっていた[[プロテスタント]]の共同体「同胞の団結」をレシュノに落ち着かせた。ボヘミアのプロテスタントだけでなく、近くの[[シレジア]]からやってきた織物職人も発展に寄与し、1547年に[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]から特権を得て町となることができた。プロテスタント系コミュニティの活動のおかげで、レシュノは大ポーランドの印刷業の中心地ともなった。[[三十年戦争]]でシレジアからドイツ人避難民が流入したため、その人口はさらに増えた。当時、町ではボヘミアの教育家で「同胞の団結」の牧師をしていたヤン・アーモス・コメンスキー([[コメニウス]])がギムナジウムを開設していた。ドイツの詩人ヨハン・ヘールマンは、1638年から1647年に亡くなるまで当地に住んだ。1636年から1639年にかけて、町は防衛力を強化し市域を拡張した。1655年に大火が発生して、レシュノの黄金時代は終わった。[[大北方戦争]]中の1707年には[[ロシア帝国|ロシア]]に焼き討ちされ、1709年には疫病が流行した。1738年、2度目の王位を放棄した[[スタニスワフ・レシチニスキ]]は町を売却し、レシュチニスキ家の支配に幕が下ろされた。


1793年の第二次[[ポーランド分割]]で、レシュノは[[プロイセン王国]]に併合され、リッサとしてポーゼン州に編入された。1918年から翌年にポーランド大反乱が起きるとそれに加わり、[[ヴェルサイユ条約]]によって1920年1月17日に[[ポーランド第二共和国]]に復帰した。地元住民はポーランドの市民権を取得しなければならなかった。1939年、町は[[ナチス・ドイツ]]に占領された。ポーランド人は[[ポーランド総督府]]へ再定住することを強いられた。町の大半のユダヤ人(レシュノに関係のあるユダヤ人にはレオ・ベックやリッサのヤーコプといった有名な[[ラビ]]のほか、ポーランド系ユダヤ人作家のルートヴィヒ・カリシュがいた)と残ったポーランド人は、ナチスの[[アインザッツグルッペン]]に虐殺された。ナチス・ドイツが壊滅した1945年、町は再びポーランドに復帰した。戦後は急速に開発され、1975年から1998年には県庁が置かれた。2000年には、[[欧州委員会]]から「姉妹都市の金星」賞を受賞した。
1793年の第二次[[ポーランド分割]]で、レシュノは[[プロイセン王国]]に併合され、リッサとしてポーゼン州に編入された。1918年から翌年にポーランド大反乱が起きるとそれに加わり、[[ヴェルサイユ条約]]によって1920年1月17日に[[ポーランド第二共和国]]に復帰した。地元住民はポーランドの市民権を取得しなければならなかった。1939年、町は[[ナチス・ドイツ]]に占領された。ポーランド人は[[ポーランド総督府]]へ再定住することを強いられた。町の大半のユダヤ人(レシュノに関係のあるユダヤ人にはレオ・ベックやリッサのヤーコプといった有名な[[ラビ]]のほか、ポーランド系ユダヤ人作家のルートヴィヒ・カリシュがいた)と残ったポーランド人は、ナチスの[[アインザッツグルッペン]]に虐殺された。ナチス・ドイツが壊滅した1945年、町は再びポーランドに復帰した。戦後は急速に開発され、1975年から1998年には県庁が置かれた。2000年には、[[欧州委員会]]から「姉妹都市の金星」賞を受賞した。

2021年7月17日 (土) 21:57時点における版

レシュノ
中央広場
中央広場
レシュノの紋章
紋章
標語: 
"Leszno — rozwiń skrzydła"
「レシュノ — 汝の翼を広げよ」
レシュノの位置(ポーランド内)
レシュノ
レシュノ
北緯51度51分 東経16度34分 / 北緯51.850度 東経16.567度 / 51.850; 16.567
ポーランドの旗 ポーランド
ヴィエルコポルスカ県
郡に相当
建設 14世紀
町制施行 1547年
政府
 • 町長 トマシュ・マレプシ
面積
 • 合計 31.9 km2
人口
(2008年)
 • 合計 71,000人
 • 密度 2,200人/km2
等時帯 UTC+1 (中央ヨーロッパ時間)
 • 夏時間 UTC+2 (中央ヨーロッパ夏時間)
郵便番号
64-100から64-106, 64-110
市外局番 +48 065
ナンバープレート PL
ウェブサイト www.leszno.pl

Pl-Leszno.ogg レシュノ[ヘルプ/ファイル]ポーランド語: Leszno[ˈlɛʂnɔ] ( 音声ファイル))は、ポーランド中部の町。ドイツ名リッサドイツ語: Lissa、1800年から1918年まではポルニシュ・リッサ (Polnisch Lissa) とも)。人口6万3955人(2008年)。1998年までレシュノ県の県都であったが、1999年にヴィエルコポルスカ県の所属となった。

歴史

町役場
洗礼者ヨハネ教会

レシュノが初めて記録に現れるのは、1393年のことである。当時、この村はヴィエニアヴァ氏族のステファン・ズ・カルニナの所領であった。中世ポーランド貴族の慣習にしたがい、一族は姓を地名に由来するレシュチニスキに変えた。

1473年から神聖ローマ帝国の伯爵位にあり、カルヴァン派に改宗していたレシュチニスキ家は16世紀初頭、ボヘミアを逃れて難民となっていたプロテスタントの共同体「同胞の団結」をレシュノに落ち着かせた。ボヘミアのプロテスタントだけでなく、近くのシレジアからやってきた織物職人も発展に寄与し、1547年にジグムント1世から特権を得て町となることができた。プロテスタント系コミュニティの活動のおかげで、レシュノは大ポーランドの印刷業の中心地ともなった。三十年戦争でシレジアからドイツ人避難民が流入したため、その人口はさらに増えた。当時、町ではボヘミアの教育家で「同胞の団結」の牧師をしていたヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス)がギムナジウムを開設していた。ドイツの詩人ヨハン・ヘールマンは、1638年から1647年に亡くなるまで当地に住んだ。1636年から1639年にかけて、町は防衛力を強化し市域を拡張した。1655年に大火が発生して、レシュノの黄金時代は終わった。大北方戦争中の1707年にはロシアに焼き討ちされ、1709年には疫病が流行した。1738年、2度目の王位を放棄したスタニスワフ・レシチニスキは町を売却し、レシュチニスキ家の支配に幕が下ろされた。

1793年の第二次ポーランド分割で、レシュノはプロイセン王国に併合され、リッサとしてポーゼン州に編入された。1918年から翌年にポーランド大反乱が起きるとそれに加わり、ヴェルサイユ条約によって1920年1月17日にポーランド第二共和国に復帰した。地元住民はポーランドの市民権を取得しなければならなかった。1939年、町はナチス・ドイツに占領された。ポーランド人はポーランド総督府へ再定住することを強いられた。町の大半のユダヤ人(レシュノに関係のあるユダヤ人にはレオ・ベックやリッサのヤーコプといった有名なラビのほか、ポーランド系ユダヤ人作家のルートヴィヒ・カリシュがいた)と残ったポーランド人は、ナチスのアインザッツグルッペンに虐殺された。ナチス・ドイツが壊滅した1945年、町は再びポーランドに復帰した。戦後は急速に開発され、1975年から1998年には県庁が置かれた。2000年には、欧州委員会から「姉妹都市の金星」賞を受賞した。

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