「イェジ・ラジヴィウ」の版間の差分
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イェジは[[ラジヴィウ家]]のうち[[ビルジャイ]]および[[ドゥビンギェイ]]を本拠とした系統の始祖であり、彼の子孫たちは同家のうちでも代々[[プロテスタント]]を信仰していたことで知られる(この系統は1695年に断絶した)。 |
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イェジは有能な政治家であると同時に優れた軍事指導者であり、[[モスクワ大公国]]、[[コサック]]、[[タタール]]との数多くの戦いに参加した。30もの戦いに勝利し、「リトアニアの[[ヘラクレス]]」の異名をとった。リトアニア元老院議員でもあったイェジは、1526年[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]に対し、その息子[[ジグムント2世|ジグムント・アウグスト]]の治世以後、[[リトアニア大公国]]の国称を「リトアニア王国」に変更するよう奏請したが却下された。1530年代には兄の[[ヤン・ラジヴィウ (1474-1522)|ヤン]]と共に、リトアニアの国政をほぼ牛耳る立場にあった。 |
イェジは有能な政治家であると同時に優れた軍事指導者であり、[[モスクワ大公国]]、[[コサック]]、[[タタール]]との数多くの戦いに参加した。30もの戦いに勝利し、「リトアニアの[[ヘラクレス]]」の異名をとった。リトアニア元老院議員でもあったイェジは、1526年[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世]]に対し、その息子[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント・アウグスト]]の治世以後、[[リトアニア大公国]]の国称を「リトアニア王国」に変更するよう奏請したが却下された。1530年代には兄の[[ヤン・ラジヴィウ (1474-1522)|ヤン]]と共に、リトアニアの国政をほぼ牛耳る立場にあった。 |
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ラジヴィウ家の一員として、彼は先祖たちが進めてきたように所領の拡大に努め、死後、遺産は全て長男の[[ミコワイ・ラジヴィウ・ルディ]]に相続された。イェジには娘が2人いたが、下の娘[[バルバラ・ラジヴィウヴナ|バルバラ]]は後に[[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]の愛人となり、1550年には王妃となった。バルバラが王妃となったことで、ポーランドとリトアニアにおけるラジヴィウ家の地位は飛躍的に高まった。 |
ラジヴィウ家の一員として、彼は先祖たちが進めてきたように所領の拡大に努め、死後、遺産は全て長男の[[ミコワイ・ラジヴィウ・ルディ]]に相続された。イェジには娘が2人いたが、下の娘[[バルバラ・ラジヴィウヴナ|バルバラ]]は後に[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世アウグスト]]の愛人となり、1550年には王妃となった。バルバラが王妃となったことで、ポーランドとリトアニアにおけるラジヴィウ家の地位は飛躍的に高まった。 |
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2021年7月17日 (土) 22:02時点における最新版
イェジ・ラジヴィウ・"ヘルクレス" Jerzy Radziwiłł "Herkules" | |
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出生 |
1480年 |
死去 |
1541年 |
子女 |
ミコワイ アンナ・エルジュビェタ バルバラ |
家名 | ラジヴィウ家 |
父親 | ミカロユス・ラドヴィライティス |
イェジ・ラジヴィウ・"ヘルクレス"またはユルギス・ラドヴィラ・"ヘルクリス"(ポーランド語:Jerzy Radziwiłł "Herkules";リトアニア語:Jurgis Radvila "Herkulis", 1480年 - 1541年)は、リトアニア大公国の大貴族、ヘトマン。
生涯[編集]
リトアニア大法官を務めたミカロユス・ラドヴィライティスの三男。1510年からリトアニア副酒膳官およびキエフ県知事、1521年からリトアニア野戦ヘトマン、翌1522年からトラカイ城代、1527年からヴィリニュス城代、1528年からリトアニア宮内長官、1531年からリトアニア大ヘトマンを務めるなど、重職を歴任した。フロドナ、ヴィリニュス、ウテナのほか8地区を代官として支配する大領主でもあった。
イェジはラジヴィウ家のうちビルジャイおよびドゥビンギェイを本拠とした系統の始祖であり、彼の子孫たちは同家のうちでも代々プロテスタントを信仰していたことで知られる(この系統は1695年に断絶した)。
イェジは有能な政治家であると同時に優れた軍事指導者であり、モスクワ大公国、コサック、タタールとの数多くの戦いに参加した。30もの戦いに勝利し、「リトアニアのヘラクレス」の異名をとった。リトアニア元老院議員でもあったイェジは、1526年ジグムント1世に対し、その息子ジグムント・アウグストの治世以後、リトアニア大公国の国称を「リトアニア王国」に変更するよう奏請したが却下された。1530年代には兄のヤンと共に、リトアニアの国政をほぼ牛耳る立場にあった。
ラジヴィウ家の一員として、彼は先祖たちが進めてきたように所領の拡大に努め、死後、遺産は全て長男のミコワイ・ラジヴィウ・ルディに相続された。イェジには娘が2人いたが、下の娘バルバラは後にジグムント2世アウグストの愛人となり、1550年には王妃となった。バルバラが王妃となったことで、ポーランドとリトアニアにおけるラジヴィウ家の地位は飛躍的に高まった。