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「シュヴァーベン公国」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[496年]]に[[アラマンニ人]]は[[フランク王の一覧|フランク王]][[クロヴィス1世]]に敗北して[[フランク王国]]に組み込まれ、フランク王麾下の公によって統治された。[[7世紀]]にアラマンニ人は[[キリスト教]]に改宗して[[アウクスブルク]]と[[コンスタンツ]]に司教区が設置され、[[8世紀]]には[[ライヒェナウ島]] 及び[[ザンクト・ガレン修道院]]が建てられた。アラマンニ人は徐々に[[フランク人]]の支配から脱したものの、[[730年]]に[[カール・マルテル]]によって従属せしめられ、その息子である [[ピピン3世|小ピピン]]はアラマン人の部族大公を廃して[[:en:county palatine|パラティン伯領]]による統治を行った。この時に[[公爵領|公国]]は[[:en:Gau (country subdivision)|ガウ]]ないし[[カウンティ|伯領]]に分割されて割り当てられ、この状態は[[中世]]を通じて維持された。アラマンニ人の伯領は[[ライン川]]、[[ボーデン湖]]、[[レヒ川]]、[[フランケン大公|フランケン公国]]と国境を接していた。[[:en:Alamannia|アラマンニ]]と[[バイエルン公国]]を隔てるレヒ川は両者を民族的にも地理的にも形成することはなく、とても強固な国境線であり、そこでは双方の人々間の行き来が盛んであった。[[:fr:Empire carolingien|カロリング帝国]]の後期及び衰退期間中にアラマンニ人の伯領は殆ど独立した形となり、支配権を巡って[[:de:Bistum Konstanz|コンスタンツ司教区]]との間で闘争が繰り広げられた。[[:en:Raetia Curiensis|ラエティア・クリエンシス]]の伯であったアラマンニ人の一族の族長は時折、[[辺境伯]]と呼ばれ、その中の1人であった[[:de:Burchard I. (Schwaben)|ブルカルト1世]]はアラマンニ公と呼ばれていた。ブルカルト1世は[[911年]]に殺され、それ故にベルトルドとエルハンガーの2人のパラディン伯は[[コンラート1世 (ドイツ王)|東フランク王コンラート1世若王]]の命によって反逆罪で告訴されて処刑された。
[[496年]]に[[アラマンニ人]]は[[フランク王の一覧|フランク王]][[クロヴィス1世]]に敗北して[[フランク王国]]に組み込まれ、フランク王麾下の公によって統治された。[[7世紀]]にアラマンニ人は[[キリスト教]]に改宗して[[アウクスブルク]]と[[コンスタンツ]]に司教区が設置され、[[8世紀]]には[[ライヒェナウ島]] 及び[[ザンクト・ガレン修道院]]が建てられた。アラマンニ人は徐々に[[フランク人]]の支配から脱したものの、[[730年]]に[[カール・マルテル]]によって従属せしめられ、その息子である [[ピピン3世 (フランク王)|小ピピン]]はアラマン人の部族大公を廃して[[:en:county palatine|パラティン伯領]]による統治を行った。この時に[[公爵領|公国]]は[[:en:Gau (country subdivision)|ガウ]]ないし[[カウンティ|伯領]]に分割されて割り当てられ、この状態は[[中世]]を通じて維持された。アラマンニ人の伯領は[[ライン川]]、[[ボーデン湖]]、[[レヒ川]]、[[フランケン大公|フランケン公国]]と国境を接していた。[[:en:Alamannia|アラマンニ]]と[[バイエルン公国]]を隔てるレヒ川は両者を民族的にも地理的にも形成することはなく、とても強固な国境線であり、そこでは双方の人々間の行き来が盛んであった。[[:fr:Empire carolingien|カロリング帝国]]の後期及び衰退期間中にアラマンニ人の伯領は殆ど独立した形となり、支配権を巡って[[:de:Bistum Konstanz|コンスタンツ司教区]]との間で闘争が繰り広げられた。[[:en:Raetia Curiensis|ラエティア・クリエンシス]]の伯であったアラマンニ人の一族の族長は時折、[[辺境伯]]と呼ばれ、その中の1人であった[[:de:Burchard I. (Schwaben)|ブルカルト1世]]はアラマンニ公と呼ばれていた。ブルカルト1世は[[911年]]に殺され、それ故にベルトルドとエルハンガーの2人のパラディン伯は[[コンラート1世 (ドイツ王)|東フランク王コンラート1世若王]]の命によって反逆罪で告訴されて処刑された。


[[917年]]にブルカルト1世の息子であるラエティア・クリエンシス伯[[:de: Burchard II. (Schwaben)|ブルカルト2世]]は公の称号を採用し、それを[[919年]]に[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|東フランク王ハインリヒ1世捕鳥王]]によって承認された。その位置付けは事実上独立したものとなっており、[[926年]]にブルカルト2世が没すると、その未亡人と結婚したフランク人貴族である[[ヘルマン1世 (シュヴァーベン大公)|ヘルマン1世]]によって継承された。[[948年]]にヘルマン1世が死ぬと、[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世大帝]]は、公国をヘルマン1世の娘であるイダと結婚していた[[リウドルフ (シュヴァーベン大公)|リウドルフ]]に授けたものの、公国の特権を削減し、王族の関心ごとを観察するために伯を任命した。リウドルフは反乱を起こして廃位され、他の者が後任として公位を継ぐこととなった。ブルカルト2世の息子である[[:de:Burchard III. (Schwaben)|ブルカルト3世]]は[[954年]]から[[973年]]にかけて公国を統治し、後者の年にリウドルフの息子で後に[[バイエルン大公|バイエルン公]]となる[[オットー1世 (シュヴァーベン大公)|オットー]]が継承して[[982年]]まで統治し、それからヘルマン1世の縁者である[[:de:Konrad I. (Schwaben)|コンラート1世]]が[[997年]]まで統治した。コンラート1世の息子であろう[[ヘルマン2世 (シュヴァーベン大公)|ヘルマン2世]]が後を継いで[[1003年]]に死に、息子の[[:de:Hermann III. (Schwaben)|ヘルマン3世]]が継承した。これらの期間中、シュヴァーベンは、恐らくは司教の影響からか[[リウドルフィング家|ザクセン王家]]の王に忠実であった。ヘルマン3世には子がおらず、公位はその姉である[[:de:Gisela von Schwaben|ギーゼラ]]と[[オーストリア君主一覧|オーストリア辺境伯]][[:de:Ernst I. (Schwaben)|エルンスト1世]]の息子である[[エルンスト2世 (シュヴァーベン大公)|エルンスト2世]]に移った。エルンスト1世は[[1015年]]に死ぬまで息子のために公国を掌握し、エルンスト1世が死んだ年にギーゼラは統治権を引き継ぎ、[[フランケン大公|フランケン公]]コンラート、後の[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝コンラート2世]]と再婚した。エルンスト2世は年齢に達すると継父であるコンラート2世と言い争い、[[1030年]]にコンラート2世はエルンスト2世を廃してギーゼラの2番目の息子である[[:de:Hermann IV. (Schwaben)|ヘルマン4世]]に公国を下賜し、ヘルマン4世が[[1038年]]に没するとコンラート2世の息子である[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ1世黒公]]が母親であるギーゼラから公国を与えられた。王に即位して[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ王ハインリヒ3世]]を名乗ったハインリヒ1世は[[1045年]]にアラマンニを[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝オットー2世]]の孫である[[ライン宮中伯|ロタリンギア宮中伯]][[:de:Otto II. (Schwaben)|オットー2世]]に、[[1048年]]には[[:de:Otto III. (Schwaben)|シュヴァインフルト伯オットー3世]]に公国をそれぞれ与えた。次の公となった[[ルドルフ・フォン・ラインフェルデン|ラインフェルデン伯ルドルフ]]は[[1077年]]に[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝ハインリヒ4世]]の[[対立王]]に選ばれたもののシュヴァーベンでは僅かな支持者しか見出すことが出来ず、同地はハインリヒ4世の婿で忠実な支持者であった[[:de:Friedrich I. (Schwaben)|ホーエンシュタウフェン伯フリードリヒ1世]]に与えられた。フリードリヒ1世は公位を維持するためにルドルフの息子である[[:de:Berthold von Rheinfelden|ベルトルト]]や婿である[[:de:Berthold II. (Zähringen)|ツェーリング公ベルトルト2世]]と争わなければならず、[[1096年]]に後者に[[:de:Breisgau|ブライスガウ]]を譲渡した。[[1105年]]に息子の[[:de:Friedrich II. (Schwaben)|フリードリヒ2世独眼公]]が父の後を継ぎ、その後は[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世、後のローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王]]が継承した。初期の[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]はシュヴァーベンにて皇帝領を増やし、そこで必要な支援を得たものの[[教会]]勢力の影響は強大であった。[[1152年]]にフリードリヒ1世は一族である[[:de:Friedrich IV. (Schwaben)|フランケン公フリードリヒ]]に公国を授け、彼が[[1167年]]に没すると自身の3人の子が立て続けに掌握し、その中の末子の[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]は[[1198年]]にローマ王に選出されている。王位を巡って抗争中の間にフィリップはシュヴァーベンの広大な割譲地から支持を得たことから、[[1214年]]に甥の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が帝位につくまでに[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]が皇帝位についた間でも公国はホーエンシュタウフェン家のもとに残っていた。フリードリヒ2世はシュヴァーベンを嫡男である[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ2(7)世]]に授け、その反乱後はもう1人の息子である[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3(4世)]]に授けた。後者の息子である[[コッラディーノ|コンラディン]]は[[1266年]]に、自らが[[シチリア王国|シチリア]]を得るがために[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク伯]][[:de: Ulrich II. (Württemberg)|ウルヒリ2世]]に対してシュヴァーベンを継承させることを約束した。[[1268年]]にコンラディンが刑死した煽りを受けて公国は崩壊する機運が高まり、シュヴァーベンの有力者の長達はヴュルテンベルク伯、[[:de:Liste der Markgrafen und Großherzöge von Baden|バーデン辺境伯]]、テュービンゲン宮中伯、[[ホーエンツォレルン家|ホーエンツォレルン伯]]、その他の麾下に入った。
[[917年]]にブルカルト1世の息子であるラエティア・クリエンシス伯[[:de: Burchard II. (Schwaben)|ブルカルト2世]]は公の称号を採用し、それを[[919年]]に[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|東フランク王ハインリヒ1世捕鳥王]]によって承認された。その位置付けは事実上独立したものとなっており、[[926年]]にブルカルト2世が没すると、その未亡人と結婚したフランク人貴族である[[ヘルマン1世 (シュヴァーベン大公)|ヘルマン1世]]によって継承された。[[948年]]にヘルマン1世が死ぬと、[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世大帝]]は、公国をヘルマン1世の娘であるイダと結婚していた[[リウドルフ (シュヴァーベン大公)|リウドルフ]]に授けたものの、公国の特権を削減し、王族の関心ごとを観察するために伯を任命した。リウドルフは反乱を起こして廃位され、他の者が後任として公位を継ぐこととなった。ブルカルト2世の息子である[[:de:Burchard III. (Schwaben)|ブルカルト3世]]は[[954年]]から[[973年]]にかけて公国を統治し、後者の年にリウドルフの息子で後に[[バイエルン大公|バイエルン公]]となる[[オットー1世 (シュヴァーベン大公)|オットー]]が継承して[[982年]]まで統治し、それからヘルマン1世の縁者である[[:de:Konrad I. (Schwaben)|コンラート1世]]が[[997年]]まで統治した。コンラート1世の息子であろう[[ヘルマン2世 (シュヴァーベン大公)|ヘルマン2世]]が後を継いで[[1003年]]に死に、息子の[[:de:Hermann III. (Schwaben)|ヘルマン3世]]が継承した。これらの期間中、シュヴァーベンは、恐らくは司教の影響からか[[リウドルフィング家|ザクセン王家]]の王に忠実であった。ヘルマン3世には子がおらず、公位はその姉である[[:de:Gisela von Schwaben|ギーゼラ]]と[[オーストリア君主一覧|オーストリア辺境伯]][[:de:Ernst I. (Schwaben)|エルンスト1世]]の息子である[[エルンスト2世 (シュヴァーベン大公)|エルンスト2世]]に移った。エルンスト1世は[[1015年]]に死ぬまで息子のために公国を掌握し、エルンスト1世が死んだ年にギーゼラは統治権を引き継ぎ、[[フランケン大公|フランケン公]]コンラート、後の[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝コンラート2世]]と再婚した。エルンスト2世は年齢に達すると継父であるコンラート2世と言い争い、[[1030年]]にコンラート2世はエルンスト2世を廃してギーゼラの2番目の息子である[[:de:Hermann IV. (Schwaben)|ヘルマン4世]]に公国を下賜し、ヘルマン4世が[[1038年]]に没するとコンラート2世の息子である[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ1世黒公]]が母親であるギーゼラから公国を与えられた。王に即位して[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ王ハインリヒ3世]]を名乗ったハインリヒ1世は[[1045年]]にアラマンニを[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝オットー2世]]の孫である[[ライン宮中伯|ロタリンギア宮中伯]][[:de:Otto II. (Schwaben)|オットー2世]]に、[[1048年]]には[[:de:Otto III. (Schwaben)|シュヴァインフルト伯オットー3世]]に公国をそれぞれ与えた。次の公となった[[ルドルフ・フォン・ラインフェルデン|ラインフェルデン伯ルドルフ]]は[[1077年]]に[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ローマ皇帝ハインリヒ4世]]の[[対立王]]に選ばれたもののシュヴァーベンでは僅かな支持者しか見出すことが出来ず、同地はハインリヒ4世の婿で忠実な支持者であった[[:de:Friedrich I. (Schwaben)|ホーエンシュタウフェン伯フリードリヒ1世]]に与えられた。フリードリヒ1世は公位を維持するためにルドルフの息子である[[:de:Berthold von Rheinfelden|ベルトルト]]や婿である[[:de:Berthold II. (Zähringen)|ツェーリング公ベルトルト2世]]と争わなければならず、[[1096年]]に後者に[[:de:Breisgau|ブライスガウ]]を譲渡した。[[1105年]]に息子の[[:de:Friedrich II. (Schwaben)|フリードリヒ2世独眼公]]が父の後を継ぎ、その後は[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世、後のローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王]]が継承した。初期の[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]はシュヴァーベンにて皇帝領を増やし、そこで必要な支援を得たものの[[教会]]勢力の影響は強大であった。[[1152年]]にフリードリヒ1世は一族である[[:de:Friedrich IV. (Schwaben)|フランケン公フリードリヒ]]に公国を授け、彼が[[1167年]]に没すると自身の3人の子が立て続けに掌握し、その中の末子の[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]は[[1198年]]にローマ王に選出されている。王位を巡って抗争中の間にフィリップはシュヴァーベンの広大な割譲地から支持を得たことから、[[1214年]]に甥の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が帝位につくまでに[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]が皇帝位についた間でも公国はホーエンシュタウフェン家のもとに残っていた。フリードリヒ2世はシュヴァーベンを嫡男である[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ2(7)世]]に授け、その反乱後はもう1人の息子である[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3(4世)]]に授けた。後者の息子である[[コッラディーノ|コンラディン]]は[[1266年]]に、自らが[[シチリア王国|シチリア]]を得るがために[[ヴュルテンベルク君主一覧|ヴュルテンベルク伯]][[:de: Ulrich II. (Württemberg)|ウルヒリ2世]]に対してシュヴァーベンを継承させることを約束した。[[1268年]]にコンラディンが刑死した煽りを受けて公国は崩壊する機運が高まり、シュヴァーベンの有力者の長達はヴュルテンベルク伯、[[:de:Liste der Markgrafen und Großherzöge von Baden|バーデン辺境伯]]、テュービンゲン宮中伯、[[ホーエンツォレルン家|ホーエンツォレルン伯]]、その他の麾下に入った。

2021年7月24日 (土) 22:26時点における版

シュヴァーベン公国
Herzogtum Schwaben (de)
Ducatus Allemaniæ (la)
フランク王国
及び神聖ローマ帝国部族大公領

915年–1313年


国章

シュヴァーベンの位置
ユーラブルグント王国 (緑色)とシュヴァーベン公国 (オレンジ色)。
首都 Uncertain
政府 諸侯国
歴史・時代 中世初期
 •  アラマンニ部族
    公国
より誕生
915年
 •  公国の消滅 1268年
 •  ハプスブルク家による
    公国再建

1289年
 •  解体 1313年
前身
後継
en:Alamannia
en:County of Württemberg
als: Alte Eidgenossenschaft
de:Markgrafschaft Baden
ブルゴーニュ公国
ツォレルン County of Zollern
de: Fürstentum Fürstenberg County of Fürstenberg
現在

シュヴァーベン公国: Duchy of Swabia, : Herzogtum Schwaben)は、中世ドイツにおける部族大公国の一つであり、それゆえに最も有力な諸侯国の一つであった。

シュヴァーベンの名はゲルマン民族の一派であるスエビ族に由来し、その名は、中世盛期の部族大公領が拡張している時代にはしばしばアラマンニ英語版に置き換えて使われることもあった[1]ライン川ドナウ川の隅にいたスエビ族に他の部族たちが加わることによって、11世紀頃までには、アラマンニが転訛してアレマン人と呼ばれるようになったが、この頃にシュヴァーベンの語形が普及し始めた。

917年ブルカルト2世ドイツ語版によって公国の誕生が宣言された。ブルカルト2世は東フランク王コンラート1世若王と同盟を結んで、915年ヴァーフルヴィーブスの戦いにてアラマンニの支配を巡って争っていた敵対者を破った。

シュヴァーベンを支配した最も有名な一族がホーエンシュタウフェン家であり、同公国を短い中断期を挟んで1079年から1268年にかけて支配した。ホーエンシュタウフェン時代を通じてほとんどの間、同家はローマ王皇帝を兼ねていた。

公国は1268年に最後のであるコンラディンが処刑されるまで存続していた。ローマ王ルドルフ1世1273年シュヴァーベン公の称号を復活せんとして末子のルドルフ2世に授け、そのルドルフ2世は息子のヨーハン・パリツィーダに継承させた。1312年1313年にヨーハンが後継者を残すことなく没したことで"復活した"称号は終焉を迎えることとなった。

バーデン辺境伯領自体が12世紀にシュヴァーベン公国から分離している。

歴史

496年アラマンニ人フランク王クロヴィス1世に敗北してフランク王国に組み込まれ、フランク王麾下の公によって統治された。7世紀にアラマンニ人はキリスト教に改宗してアウクスブルクコンスタンツに司教区が設置され、8世紀にはライヒェナウ島 及びザンクト・ガレン修道院が建てられた。アラマンニ人は徐々にフランク人の支配から脱したものの、730年カール・マルテルによって従属せしめられ、その息子である 小ピピンはアラマン人の部族大公を廃してパラティン伯領による統治を行った。この時に公国ガウないし伯領に分割されて割り当てられ、この状態は中世を通じて維持された。アラマンニ人の伯領はライン川ボーデン湖レヒ川フランケン公国と国境を接していた。アラマンニバイエルン公国を隔てるレヒ川は両者を民族的にも地理的にも形成することはなく、とても強固な国境線であり、そこでは双方の人々間の行き来が盛んであった。カロリング帝国の後期及び衰退期間中にアラマンニ人の伯領は殆ど独立した形となり、支配権を巡ってコンスタンツ司教区との間で闘争が繰り広げられた。ラエティア・クリエンシスの伯であったアラマンニ人の一族の族長は時折、辺境伯と呼ばれ、その中の1人であったブルカルト1世はアラマンニ公と呼ばれていた。ブルカルト1世は911年に殺され、それ故にベルトルドとエルハンガーの2人のパラディン伯は東フランク王コンラート1世若王の命によって反逆罪で告訴されて処刑された。

917年にブルカルト1世の息子であるラエティア・クリエンシス伯ブルカルト2世は公の称号を採用し、それを919年東フランク王ハインリヒ1世捕鳥王によって承認された。その位置付けは事実上独立したものとなっており、926年にブルカルト2世が没すると、その未亡人と結婚したフランク人貴族であるヘルマン1世によって継承された。948年にヘルマン1世が死ぬと、皇帝オットー1世大帝は、公国をヘルマン1世の娘であるイダと結婚していたリウドルフに授けたものの、公国の特権を削減し、王族の関心ごとを観察するために伯を任命した。リウドルフは反乱を起こして廃位され、他の者が後任として公位を継ぐこととなった。ブルカルト2世の息子であるブルカルト3世954年から973年にかけて公国を統治し、後者の年にリウドルフの息子で後にバイエルン公となるオットーが継承して982年まで統治し、それからヘルマン1世の縁者であるコンラート1世997年まで統治した。コンラート1世の息子であろうヘルマン2世が後を継いで1003年に死に、息子のヘルマン3世が継承した。これらの期間中、シュヴァーベンは、恐らくは司教の影響からかザクセン王家の王に忠実であった。ヘルマン3世には子がおらず、公位はその姉であるギーゼラオーストリア辺境伯エルンスト1世の息子であるエルンスト2世に移った。エルンスト1世は1015年に死ぬまで息子のために公国を掌握し、エルンスト1世が死んだ年にギーゼラは統治権を引き継ぎ、フランケン公コンラート、後のローマ皇帝コンラート2世と再婚した。エルンスト2世は年齢に達すると継父であるコンラート2世と言い争い、1030年にコンラート2世はエルンスト2世を廃してギーゼラの2番目の息子であるヘルマン4世に公国を下賜し、ヘルマン4世が1038年に没するとコンラート2世の息子であるハインリヒ1世黒公が母親であるギーゼラから公国を与えられた。王に即位してローマ王ハインリヒ3世を名乗ったハインリヒ1世は1045年にアラマンニをローマ皇帝オットー2世の孫であるロタリンギア宮中伯オットー2世に、1048年にはシュヴァインフルト伯オットー3世に公国をそれぞれ与えた。次の公となったラインフェルデン伯ルドルフ1077年ローマ皇帝ハインリヒ4世対立王に選ばれたもののシュヴァーベンでは僅かな支持者しか見出すことが出来ず、同地はハインリヒ4世の婿で忠実な支持者であったホーエンシュタウフェン伯フリードリヒ1世に与えられた。フリードリヒ1世は公位を維持するためにルドルフの息子であるベルトルトや婿であるツェーリング公ベルトルト2世と争わなければならず、1096年に後者にブライスガウを譲渡した。1105年に息子のフリードリヒ2世独眼公が父の後を継ぎ、その後はフリードリヒ3世、後のローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王が継承した。初期のホーエンシュタウフェン家はシュヴァーベンにて皇帝領を増やし、そこで必要な支援を得たものの教会勢力の影響は強大であった。1152年にフリードリヒ1世は一族であるフランケン公フリードリヒに公国を授け、彼が1167年に没すると自身の3人の子が立て続けに掌握し、その中の末子のフィリップ1198年にローマ王に選出されている。王位を巡って抗争中の間にフィリップはシュヴァーベンの広大な割譲地から支持を得たことから、1214年に甥のフリードリヒ2世が帝位につくまでにヴェルフ家オットー4世が皇帝位についた間でも公国はホーエンシュタウフェン家のもとに残っていた。フリードリヒ2世はシュヴァーベンを嫡男であるハインリヒ2(7)世に授け、その反乱後はもう1人の息子であるコンラート3(4世)に授けた。後者の息子であるコンラディン1266年に、自らがシチリアを得るがためにヴュルテンベルク伯ウルヒリ2世に対してシュヴァーベンを継承させることを約束した。1268年にコンラディンが刑死した煽りを受けて公国は崩壊する機運が高まり、シュヴァーベンの有力者の長達はヴュルテンベルク伯、バーデン辺境伯、テュービンゲン宮中伯、ホーエンツォレルン伯、その他の麾下に入った。

1512年ローマ皇帝マクシミリアン1世が帝国をクライスに分割した際に、事実上シュヴァーベン公国とは同一延長上にあるクライスのことをシュヴァーベン・クライスと呼んだ。かつてのシュヴァーベンであった同地域は、ヴュルテンベルク伯領バーデン辺境伯領およびバイエルン選帝侯領西部を含んでいた。

シュヴァーベンの名は時折、かつて公国が占めていた地域を表現するものとして使われてはいるものの、今日ではバイエリッシュ・シュヴァーベン行政管区およびその中心都市アウクスブルクの一帯に限って使うのが一般的である。

領域

シュヴァーベン公国が10世紀に形成された時には以下の地区 (パギガウ) から成り立っていた[2]

今日のドイツ
今日のスイス
今日のフランス
今日のオーストリア

同時に公国の一部であったラエティア・クリエンシスは歴史的にはアレマン二の一部ではなく、ブルカルト2世が公国の誕生を宣言した際にラエティア・クリエンシス伯の称号を奪取したものであった。

関連項目

脚注

  1. ^ Germany, the Stem Duchies & Marches”. Friesian.com (1945年2月13日). 2012年10月19日閲覧。
  2. ^ G. Droysen, Allgemeiner Historischer Handatlas, Bielefeld / Leipzig, 1886, 22f.

参考文献

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Swabia". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 26 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 176.