「ルポ2世 (ガスコーニュ公)」の版間の差分
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769年、[[フランク王国]]の[[カール大帝|カール1世]]と[[カールマン (フランク王)|カールマン]]に対する最後の[[アキテーヌ地域圏|アクィタニア]]反乱が鎮圧され、アクィタニア公[[ウナール1世 (アキテーヌ公)|ウナール1世]]が[[ガスコーニュ|ヴァスコニア]]に逃れてきた。ウナール1世の同盟者だったルポ2世は、彼にヴァスコニア軍を貸し与えた<ref>Lewis, p 26.</ref>。しかしルポ自身はカール大帝の支配を覆そうとは考えておらず、自らは領地にとどまりカール大帝の宗主権を認めていた<ref>Einhard.</ref>。 |
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ルポ2世は[[バスク人]]であったとされるが、[[フランク人]]、[[ガロ・ローマ文化|ガロ・ローマ人]](アクィタニア人)だったとする説もある。ルポ ("狼", [[バスク語]]: ''otsoa'')という名は、中世初期の[[バスク地方]]では一般的な男性名だった。彼は[[ピピン3世]]によって任命された統治者だったが<ref>Collins, p 110.</ref>、任地で住民によって[[公]]に選出されたとみられる。彼の勢力圏がどこまで及んでいたかは不明である。769年以降アクィタニア全土を支配したといわれているが、これは信憑性が低い。彼の時代のヴァスコニア公国の国境は[[アジャン]]にあったことから、実際の国境線は[[ガロンヌ川]]であると考えられている<ref>Lewis, p 28.</ref>。[[ボルドー]]はルポ2世の領土ではなく、カロリング宮廷が任命した[[伯]]が支配していた<ref>Lewis, p 38.</ref>。南方のピレネー山脈がルポ2世の支配下にあったかどうかも定かでないが、カロリング朝の著述家[[アインハルト]]が[[ロンスヴォーの戦い]]におけるこの地域のバスク人の「裏切り」に言及していることから、元からピレネー山脈のバスク人はルポ2世のもとでフランク王国の宗主権下にあったと考えられる<ref>Collins, p 121, disagrees. As does Lacarra, pp 14 – 20, who separates Aquitaine, Gascony, the [[ガリア・ナルボネンシス|Narbonensis]], and the [[バスク州|Spanish Basque Country]].</ref>。一部の歴史家は、この戦いでの[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]]急襲にルポ2世が関与していたと考えている<ref>Lewis, p 38.</ref>。 |
ルポ2世は[[バスク人]]であったとされるが、[[フランク人]]、[[ガロ・ローマ文化|ガロ・ローマ人]](アクィタニア人)だったとする説もある。ルポ ("狼", [[バスク語]]: ''otsoa'')という名は、中世初期の[[バスク地方]]では一般的な男性名だった。彼は[[ピピン3世 (フランク王)|ピピン3世]]によって任命された統治者だったが<ref>Collins, p 110.</ref>、任地で住民によって[[公]]に選出されたとみられる。彼の勢力圏がどこまで及んでいたかは不明である。769年以降アクィタニア全土を支配したといわれているが、これは信憑性が低い。彼の時代のヴァスコニア公国の国境は[[アジャン]]にあったことから、実際の国境線は[[ガロンヌ川]]であると考えられている<ref>Lewis, p 28.</ref>。[[ボルドー]]はルポ2世の領土ではなく、カロリング宮廷が任命した[[伯]]が支配していた<ref>Lewis, p 38.</ref>。南方のピレネー山脈がルポ2世の支配下にあったかどうかも定かでないが、カロリング朝の著述家[[アインハルト]]が[[ロンスヴォーの戦い]]におけるこの地域のバスク人の「裏切り」に言及していることから、元からピレネー山脈のバスク人はルポ2世のもとでフランク王国の宗主権下にあったと考えられる<ref>Collins, p 121, disagrees. As does Lacarra, pp 14 – 20, who separates Aquitaine, Gascony, the [[ガリア・ナルボネンシス|Narbonensis]], and the [[バスク州|Spanish Basque Country]].</ref>。一部の歴史家は、この戦いでの[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]]急襲にルポ2世が関与していたと考えている<ref>Lewis, p 38.</ref>。 |
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ルポ2世はおそらく778年に死去した<ref>Collins, p 128. Estornés. FMG gives 775.</ref>。 |
ルポ2世はおそらく778年に死去した<ref>Collins, p 128. Estornés. FMG gives 775.</ref>。 |
2021年7月24日 (土) 22:28時点における版
ルポ2世[1] (フランス語: Loup II de Vasconie 英語: Lupo II of Gascony 778年没) は、歴史上知られている3人目のヴァスコニア(ガスコーニュ)公(dux Vasconum or princeps[2])。769年の記録から登場する。ルポ2世の出自、系統については学術的な議論が続いている[3]。
生涯
769年、フランク王国のカール1世とカールマンに対する最後のアクィタニア反乱が鎮圧され、アクィタニア公ウナール1世がヴァスコニアに逃れてきた。ウナール1世の同盟者だったルポ2世は、彼にヴァスコニア軍を貸し与えた[4]。しかしルポ自身はカール大帝の支配を覆そうとは考えておらず、自らは領地にとどまりカール大帝の宗主権を認めていた[5]。
ルポ2世はバスク人であったとされるが、フランク人、ガロ・ローマ人(アクィタニア人)だったとする説もある。ルポ ("狼", バスク語: otsoa)という名は、中世初期のバスク地方では一般的な男性名だった。彼はピピン3世によって任命された統治者だったが[6]、任地で住民によって公に選出されたとみられる。彼の勢力圏がどこまで及んでいたかは不明である。769年以降アクィタニア全土を支配したといわれているが、これは信憑性が低い。彼の時代のヴァスコニア公国の国境はアジャンにあったことから、実際の国境線はガロンヌ川であると考えられている[7]。ボルドーはルポ2世の領土ではなく、カロリング宮廷が任命した伯が支配していた[8]。南方のピレネー山脈がルポ2世の支配下にあったかどうかも定かでないが、カロリング朝の著述家アインハルトがロンスヴォーの戦いにおけるこの地域のバスク人の「裏切り」に言及していることから、元からピレネー山脈のバスク人はルポ2世のもとでフランク王国の宗主権下にあったと考えられる[9]。一部の歴史家は、この戦いでのローラン急襲にルポ2世が関与していたと考えている[10]。
ルポ2世はおそらく778年に死去した[11]。
系譜
彼と彼以前・以後のアクィタニア公やヴァスコニア公との関係は不明である。父称を利用して彼の子孫を推定する説が正しければ、系譜を容易にたどることができる[12]。これによれば、ルポ2世の息子にサンシュ、スガン、サンチュール、ガルサンドという4人がいる。この4兄弟はガスコーニュを共同統治したとされるが、ガルサンドは819年にトゥールーズ伯ベランジェとの戦闘で戦死したため、ガスコーニュ公の中に入れないこともある[13]。またルポ2世は、初代トゥールーズ伯トルソーの時代に活躍したガスコーニュのアダルリックの父にも比定されている。
脚注
- ^ His name has many variants in other languages: Basque: Otsoa, French: Loup, Gascony: Lop, Latin: Lupus, Spanish: Lobo or Lope. It is the basis of the patronymic López. It may have been a Latinisation of the Basque word for "wolf", otso. However, it is an acceptable Latin or Frankish name in its own right (see Lupus).
- ^ "Astronomus", Vita Hludovici.
- ^ Lupo is frequently said to be related to dukes Odo the Great and Hunald I of Aquitaine. However, this is based on the spurious Charte d'Alaon. This discredits much of Monlezun's research.
- ^ Lewis, p 26.
- ^ Einhard.
- ^ Collins, p 110.
- ^ Lewis, p 28.
- ^ Lewis, p 38.
- ^ Collins, p 121, disagrees. As does Lacarra, pp 14 – 20, who separates Aquitaine, Gascony, the Narbonensis, and the Spanish Basque Country.
- ^ Lewis, p 38.
- ^ Collins, p 128. Estornés. FMG gives 775.
- ^ Collins, p 130.
- ^ Collins, p 129.
参考文献
- Collins, Roger. The Basques. Blackwell Publishing: London, 1990.
- Einhard. Vita Karoli Magni. Translated by Samuel Epes Turner. New York: Harper and Brothers, 1880.
- Lewis, Archibald R. The Development of Southern French and Catalan Society, 718–1050. University of Texas Press: Austin, 1965.
- Lacarra, J. Vasconia medieval: Historia y Filología.
- Wallace-Hadrill, J. M., translator. The Fourth Book of the Chronicle of Fredegar with its Continuations. Greenwood Press: Connecticut, 1960.
- Estornés Lasa, Bernardo. Auñamendi Encyclopedia: Ducado de Vasconia.
- Cawley, Charles, Medieval Lands Project: Gascony., Medieval Lands database (英語), Foundation for Medieval Genealogy, [自主公表][より良い情報源が必要]
- Annales Laurissense, in Mon. Gen. Hist. Scriptores, I, 148.
- "Astronomus", Vita Hludovici imperatoris, ed. G. Pertz, ch. 2, in Mon. Gen. Hist. Scriptores, II, 608.
- Sedycias, João. História da Língua Espanhola.
- Monlezun, Jean Justin. Histoire de la Gascogne. 1864.