コンテンツにスキップ

「西島克彦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Dxsujlrr71 (会話 | 投稿記録)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
{{BLP unsourced|date=2012年1月}}
{{存命人物の出典皆無|date=2012年1月}}
'''西島 克彦'''(にしじま かつひこ、[[1960年]][[2月4日]]<ref name="animage198305">『[[アニメージュ]]』1983年5月号、[[徳間書店]]、1983年、p.99。テレビアニメーションワールド プロフェショナル探訪Vol.35 アニメーター西島克彦より</ref> - )は、[[日本]]の[[アニメ監督]]、[[アニメーター]]、[[演出家]]。[[千葉県]][[船橋市]]出身。[[千葉商科大学]]中退<ref name="animage198305" /><ref name="Kyukyoku1">同人誌『究極のラムⅡ』究極編集部、1983年、p.4-17。究極スペシャル 西島克彦インタビュー ―西武沿線に謎の原画家発見より</ref>。
'''西島 克彦'''(にしじま かつひこ、[[1960年]][[2月4日]]<ref name="animage198305">『[[アニメージュ]]』1983年5月号、[[徳間書店]]、1983年、p.99。テレビアニメーションワールド プロフェショナル探訪Vol.35 アニメーター西島克彦より</ref> - )は、[[日本]]の[[アニメ監督]]、[[アニメーター]]、[[演出家]]。[[千葉県]][[船橋市]]出身。[[千葉商科大学]]中退<ref name="animage198305" /><ref name="Kyukyoku1">同人誌『究極のラムⅡ』究極編集部、1983年、p.4-17。究極スペシャル 西島克彦インタビュー ―西武沿線に謎の原画家発見より</ref>。



2021年8月1日 (日) 06:32時点における版

西島 克彦(にしじま かつひこ、1960年2月4日[1] - )は、日本アニメ監督アニメーター演出家千葉県船橋市出身。千葉商科大学中退[1][2]

略歴

1960年2月4日、東京で誕生した直後に千葉県船橋市へ移る。学生時代に漫画家を志し、『機動戦士ガンダム』のファンだったことから、大学中退後に富野由悠季へ手紙を送り、日本サンライズへの入社を志願する。それは叶わなかったが、サンライズの岩崎正美プロデューサーの紹介で芦田豊雄率いるスタジオ・ライブの入社試験を受験し、同社に入社する[1][2]

1981年のテレビアニメ『うる星やつら』の放送開始後、スタッフ参加を芦田へと直訴する。これには、かねてから西島が原作の『うる星やつら』のファンであったことと、当時担当していた『Dr.スランプ アラレちゃん』の絵柄が西島には描きにくいものだったという理由があった[2]。当時、『うる星やつら』のアニメーション制作を担当していたぴえろとライブの間に業務関係はなかったが、芦田から作画監督の野辺駿夫へ紹介される形で作画スタッフとなった[1]1983年放映の105話(82回)「太陽がいっぱい浮気がいっぱい」にて初の作画監督を務めた(遠藤麻未と共同)後、『銀河漂流バイファム』の原画を担当することとなり、一時『うる星やつら』の原画ローテーションから抜けることとなったが、制作会社が、スタジオぴえろからスタジオディーンに移った後に、西島もスタジオ・ライブからスタジオディーンに移籍[3]し、再び『うる星やつら』のスタッフとなった。

1984年には増尾昭一庵野秀明、伊藤浩二と共にフリーランスのアニメーター集団スタジオ・グラビトンの設立にも参加した[4]。『うる星やつら』の放送終了後、1986年公開の劇場アニメ『プロジェクトA子』で初監督を務める。1990年代以降は監督業へ本格的に取り組むようになり、フリーとしてスタジオ・ファンタジアを中心に活動[5]していた。

その他・エピソード

  • 初監督作『プロジェクトA子』の公開前に『アニメージュ』に掲載されたインタビューについて、宮崎駿から非難を浴びることになった[6](詳細は脚注リンク先および『プロジェクトA子』の記事を参照[7])。
  • 2015年末よりイラストレーターのANO清水(清水雅治)が西島の別名義であるとする記載がWikipedia上で見られたが、この記載は事実ではなく、2人は別人である[8][9]

作品リスト

テレビアニメ

OVA

劇場アニメ

ゲーム

その他

脚注・出典

  1. ^ a b c d アニメージュ』1983年5月号、徳間書店、1983年、p.99。テレビアニメーションワールド プロフェショナル探訪Vol.35 アニメーター西島克彦より
  2. ^ a b c 同人誌『究極のラムⅡ』究極編集部、1983年、p.4-17。究極スペシャル 西島克彦インタビュー ―西武沿線に謎の原画家発見より
  3. ^ アニメージュ』1984年9月号、徳間書店、1984年、p.28-29。ドキュメントスタジオディーンの全貌1(演出・原画・制作部門) 仕上げスタジオから制作スタジオへの変身!より
  4. ^ 庵野秀明公式ウェブ 個人履歴”. 2016年12月31日閲覧。
  5. ^ ナジカ電撃作戦 公式サイト Creator(インターネット・アーカイブ2010年1月24日付保存キャッシュ)
  6. ^ WEBアニメスタイル アニメ様365日第299回 - 小黒祐一郎「宮崎駿の「セーラー服が機関銃撃って……」発言」(2010年2月3日)
  7. ^ 小黒祐一郎は『アニメージュ』1986年6月号のみを取り上げているが、宮崎が非難するきっかけになった元の発言は前の1986年5月号に掲載されている。
  8. ^ 『EXTRA mag.#3 《エクストラ マガジン 2017年 夏号》』マイコン&ゲームBEEP(株式会社三月うさぎの森)、2017年、p.1-27。巻頭特集ANO清水さんの世界より
  9. ^ pacfのツイート(803188596345712640)
  10. ^ a b c d 同人誌『究極のラムⅡ』究極編集部、1983年、p.20。西島克彦不完全作品リストより
  11. ^ a b 同人誌『STUDIOライブの本 らでぃっく Vol.3』スタジオライブ、1984年、p.18-19。西島克彦徹底よいしょより
  12. ^ アニメージュ』1983年1月号、徳間書店、1983年、p.60-61。T.VアニメTOPICS2 サンダーバードSPECIALより
  13. ^ LD『魔法のプリンセス ミンキーモモ 11』ケイエスエス、1995年、JSLA22581。ジャケット裏面の各話クレジットより
  14. ^ 『くりいむレモン メモリー PART4 POP CHASER 記録写真集』フェアリーダスト、1985年。ポップ♥チェイサー パニックin雑談会より
  15. ^ 『ANIME BEST COLLECTION プロジェクトA子2』徳間コミュニケーションズ、1987年、p.59-63。森山ゆうじインタビューA子2の裏のウラより
  16. ^ アニメージュ』1983年9月号、徳間書店、1983年、p.70-71。中村 学のいいメカ見つけた!!■連載第5回■ 2等身ギャグ世界のリアル・メカ 映画チョロQダグラムより
  17. ^ 『ANIME BEST COLLECTION プロジェクトA子』徳間コミュニケーションズ、1986年、p.83-95。プロジェクトA子未公開資料集&インタビューより
  18. ^ 『ANIME BEST COLLECTION プロジェクトA子』徳間コミュニケーションズ、1986年、p.5-81。パラパラアニメより