コンテンツにスキップ

「山本暎一」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎劇場用アニメ映画: 公開日を追加。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
{{BLP unsourced|date=2012年1月}}
{{存命人物の出典皆無|date=2012年1月}}
'''山本暎一'''(やまもと えいいち、[[1940年]][[11月22日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[アニメ]][[監督]]、[[演出家]]、[[脚本家]]、[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[小説家]]。[[京都府]]生まれ。
'''山本暎一'''(やまもと えいいち、[[1940年]][[11月22日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[アニメ]][[監督]]、[[演出家]]、[[脚本家]]、[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[小説家]]。[[京都府]]生まれ。



2021年8月4日 (水) 00:22時点における版

山本暎一(やまもと えいいち、1940年11月22日 - )は、日本映画監督アニメ監督演出家脚本家アニメータープロデューサー小説家京都府生まれ。

経歴

幼少期に父親が太平洋戦争に応召し、母親とともに母方の実家がある香川県小豆島へ移住。中学時代よりアニメーターを志し、高校卒業後に横山隆一が主宰するおとぎプロに入社した。1960年手塚治虫がアニメ映画を作ろうとしていると知り、おとぎプロを退社して手塚を訪問。翌1961年に設立された虫プロダクションの創設メンバーのひとりとなる。

1962年の第1回虫プロダクション作品発表会で上映された同社最初のアニメーション作品『ある街角の物語』(芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞受賞作)で、スタッフの中軸として活躍。以後、1973年の同社倒産まで、演出、作画、脚本、プロデューサーと、多岐にわたる業務をこなした。特に、「アニメラマ」と名づけられた日本ヘラルド映画配給の劇場用成人向けアニメ千夜一夜物語』『クレオパトラ』、および同路線で文芸色が強い「アニメロマネスク」として制作された『哀しみのベラドンナ』で監督を務めたことが有名である(『クレオパトラ』は手塚治虫との共同監督)。

虫プロ倒産後は、1974年に第1作がテレビ放送された『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに企画段階から参加。「ヤマト」のロゴをデザインした他[1]、脚本を担当して同作の人間ドラマを構成し、脚本と絵コンテチェックも行った[2][3]。その後もいくつかのアニメ作品で監督、脚本等を担当している。

1989年春に虫プロ時代を回想した小説仕立ての『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』を発表。同作で山本の氏名は「安仁明太」としている。あとがきでは、仕事(アニメ制作)に関する記述はほぼ事実だが、プライベートに関する箇所はほぼフィクションであると記しているものの、同書はアニメ研究家にとって虫プロを知る上での基礎文献となっている[4][5][6]

フィルモグラフィ

連続テレビアニメ

単発テレビアニメ

パイロットフィルム、OVA

劇場用アニメ映画

著書

  • 『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年

出典

  1. ^ 伊藤秀明編著『宇宙戦艦ヤマト大クロニクル』グライドメディア、2010年、p.14
  2. ^ 西崎義展「ヤマトの続編はこう作りたい」『月刊マンガ少年臨時増刊 TVアニメの世界』朝日ソノラマ、1977年、p.85
  3. ^ 山本暎一「『宇宙戦艦ヤマト』への情熱――西崎義展さんを悼む」『東京新聞』2010年11月26日付夕刊
  4. ^ 津堅信之手塚治虫と虫プロダクション」 津堅信之のアニメーション研究資料図書室 2008年4月17日
  5. ^ 古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、p.223
  6. ^ 皆河有伽『日本動画興亡史 小説手塚学校2 ~ソロバン片手の理想家~』講談社、2009年、p.24

外部リンク