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'''別紙 壮一'''(べっし そういち、[[1941年]]-)は、[[日本]]の元[[アニメ]][[プロデューサー]]。[[香川県]][[高松市]]出身。



2021年8月4日 (水) 05:16時点における版

別紙 壮一(べっし そういち、1941年-)は、日本の元アニメプロデューサー香川県高松市出身。

来歴・人物

1966年シンエイ動画の前身である有限会社エイプロダクションに経理として入社。

1976年にエイプロダクションがシンエイ動画株式会社へ組織変更するのをきっかけに専務取締役へ就任し、『おれは鉄兵』よりプロデューサーを務める。主に『怪物くん』、『パーマン』、『ドラえもん』などの藤子不二雄作品のアニメーションを数多く手がけた。

ドラえもん』はあくまでも藤子・F・不二雄作品であるという意向が強く、ザ・ドラえもんズなどの後年の派生キャラクターの存在に否定的な見解を示していた[1]

エスパー魔美』には『ドラえもん』以上に惚れていたと語っている。アニメ化の際には当初テレビ朝日から提示された毎日6分の帯時間枠を「6分で作る作品ではない」と言いはって30分枠を確保。当時若手の演出家だった原恵一をチーフディレクター(監督)、アニメーター堤規至を作画監督(総作画監督)として抜擢した。番組終了後、原は若手監督だったという事が災いして各所からのクレームでひどくストレスが溜まり、遂には「辞めたい」と発言。別紙が異例の1年休職を認めたという逸話もある(原は東南アジアへ7ヶ月半の旅行をし、最終的に10ヶ月の休職ののちに復帰した)[2]

2009年、永く勤めたシンエイ動画を退社。東京世田谷ロータリークラブの会員として活動している。

実子は、同じくシンエイ動画に勤務し『ドラえもん』や『あたしンち』の制作進行・制作デスクなどを務めた別紙直樹[3]

参加作品

テレビアニメ

劇場映画

脚注

  1. ^ 藤子FCネオ・ユートピア|米たにヨシトモインタビュー”. web.archive.org (2004年6月10日). 2020年8月15日閲覧。
  2. ^ 『藤子不二雄FCネオ・ユートピア』第46号p.41
  3. ^ 大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。 涙と笑いの26年うちあけ話』小学館、2006年6月20日、99頁。ISBN 978-4-09-387654-4