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2021年8月4日 (水) 11:56時点における版

斎藤太吾(さいとう だいご、1980年3月7日 - )は埼玉県所沢市出身のD1グランプリに参戦するレーサーである。愛称は「ダイゴ」。FAT FIVE RACING の代表兼ドライバー。2008年、2016年のD1グランプリシリーズチャンピオン。

来歴

高校時代、軽井沢バイクでツーリングに出かけた際、通りがかった峠で偶然ドリフトを見かけ、ドリフトに興味を持つ。免許取得後当初はミニクーパーに乗るが、その後シルビア(S13型)でドリフトを始める[1]

2004年度よりD1に参戦し、2006年頃から追走にしばしば進出するようになった。マシンはマークII(JZX90型)を使用し、重量のある4ドアセダン車で、軽量の2ドアクーペ車をも上回るほどの進入速度を効果的に利用して戦った。しかし当時は単走を得意とする一方で追走では成績が安定せず、審査委員長の土屋圭市からは「単走番長」とのレッテルを貼られたことがある。

2007年、第2戦富士スピードウェイでは、ベスト8での川畑真人とのサドンデスで300Rの芝生に乗り、アンダーステアとなり川畑のマシンに接触してしまったことがきっかけで、D1史上最悪とも言える大クラッシュが発生する。このクラッシュで特に川畑の安否が心配されたが、結果的に双方に大事はなかった。クラッシュの後の第3戦鈴鹿サーキットからマシンをマークII(JZX100型)に変更、シーズンの途中からは松田豊久・前田謙の所属先であるチームK&L JAPANに加入しシリーズ成績7位。なお2007年のシード選手の中では、唯一、追走準決勝への進出経験がなかった。

2008年度は単走の審査基準から進入速度が外されると、より大きな角度と大量の白煙を出す走り方に切り替えた。パワーを生かした追走で、第2戦富士スピードウェイで決勝進出、第3戦鈴鹿で4位、続いて第4戦岡山国際サーキットで準決勝へと進出した。第5戦オートポリスにて地元出身の野村謙を下して優勝。最終戦富士スピードウェイでは、マシントラブルにて準決勝で敗退するも、2位の今村陽一を直接対決で下し、2008年度のシリーズチャンピオンを決めた。

2009年からはベールマンのエアロ提供でマシンをフォード・マスタングに切り替え、メンテナンスとチューニングはこれまでと同様FNATZが担当する予定だったが白紙になった。

2012年からインドネシアのアキレスタイヤのサポートを受けてフォーミュラ・ドリフトレクサス・SCで参戦、シリーズ初参戦にして見事シリーズチャンピオンを獲得した。さらにフォーミュラ・ドリフト・アジアでもレクサス・IS Cで参戦し、こちらもチャンピオンを獲得しており、D1でチャンピオンを獲得した場合三冠の可能性があったものの、フォーミュラ・ドリフト及びアジアを優先した都合上3戦を欠場したのが最終的なリザルトに響き、出場したラウンドのうち最終戦以外の全てで決勝に上がるなど活躍したものの、シリーズランキング2位に終わった。

2013年は自身のショップであるFAT FIVE RACINGを立ち上げ、フォーミュラ・ドリフト、フォーミュラ・ドリフト・アジア、D1に参戦。シーズン終盤に車両を保管していたガレージが火災に見舞われ、それまで使用していたマシンが焼失してしまうという憂き目に合う。

2014年にはJZX100型マークIIをベースに、車重わずか1トンのボディに、2JZ-GTE改3.4Lとギャレット製GTX40タービン(レスポンスを重視してインタークーラーレス仕様)を組み合わせて1000馬力を発揮するフルチューンエンジンを搭載したマシンを新規製作し、第4戦から投入した(製作が間に合わなかったため、第3戦までは前年までフォーミュラ・ドリフト・アジアで使用していた車両をD1規定に合うように改修して使用した)。

2015年にはHKSと共にR35型GT-Rでフォーミュラ・ドリフトに参戦。一方D1では前年に引き続きマークIIをドライブし、第2戦、第5戦、第6戦と3度の優勝を果たし、シリーズランキングを2位で終えた。また、同年にはランボルギーニ・ムルシエラゴの世界初となるドリフト仕様を製作し[2]、10月のD1最終戦・お台場に参戦した。

2016年にはD1に初参入となる中国企業のワンリタイヤと契約を結び、同社のワークスドライバーとしてD1に参戦[3]。同社のデビュー戦となる開幕戦・お台場を優勝で飾ると[4]、続く第2戦、第3戦も優勝し開幕3連勝とした。第5戦エビスも優勝し、第6戦終了時点で、6戦中4勝という圧倒的な成績を残し、最終戦のお台場を待たずしてシリーズチャンピオンを決めた。 また、最終戦お台場でも優勝を収め、前人未到の年間5勝という金字塔を打ち立てた。

2017年はマシンをマークIIからコルベットGT3をベースとした車両にスイッチ。第6戦エビスサーキットでの優勝を含め四度表彰台に立ち、シリーズランキング3位となった。

2018年はグッドライドタイヤのサポートを受けて参戦。また、同年12月に南アフリカで行われたジムカーナグリッドにもコルベットで出場、初出場にしてRWDクラス優勝を飾った[5]

2019年はZeknovaタイヤのサポートを受けて新型車となるGRスープラでD1に参戦した。

2020年も引き続きGRスープラでD1に参戦し、第2戦エビスで準優勝の成績を収めた。また同年、埼玉県内にある自身のファクトリー近くに建設していた練習やテスト用のマイサーキットが完成した[6]

2021年もGRスープラで参戦。SAILUNタイヤのサポートを受けて参戦する。

エピソード

  • カレーが大好物ではあるが、エアロパーツを提供してくれるBNスポーツのカレー限定とのこと。
  • 憧れの人に、WRCドライバーであったコリン・マクレーを挙げている。
  • 2008年6月7・8日にお台場で行われたエキシビジョンにおいて、他の選手が皆ホイールスピンを警戒してアクセルをコントロールしながら走っていたのに対し、アクセル全開で白煙を巻き上げながら1コーナーへ進入していった。
  • その豪快な走りは時として審査対象にとどまらないことがあり、かつてD1で審査委員長を務めていた土屋圭市は「太吾の走りは凄すぎて参考にならないから、みんなは真似しないように」と笑いながら言った。
  • 2010年第5戦エビスでは、特別ルールによるライン変更を効果的に利用し、最終コーナーの飛び出しで前2輪が完全に浮き上がる進入速度でドリフトし、車体の下から向こう側が見えるという通常ではありえないジャンピングドリフトを行い、会場を大いに沸かせた。このとき審査を行った土屋圭市は立ち上がって実況の鈴木学とハイタッチをするほど絶賛した。
  • 主に練習の相方を務めている同じD1ドライバーの箕輪慎治のマシンは、特訓のおかげで至る所が凹みだらけになっているという。
  • 実家が経営する保育園で、保育園バスの運転手をしていた時期がある。当時は園児から「太吾先生」と呼ばれていた[1]
  • 2012年のD1セントレアラウンドにて行われた「角度番長決定戦」にて70.7°をマークし、2位の日比野哲也に10°の差をつけて優勝した。表彰式にて賞品のリーゼントカツラを着用したところ、あまりに似合っていたため会場を爆笑させた。

脚注

外部リンク

先代
2007年
川畑真人
D1グランプリ
シリーズチャンピオン
(2008年)
次代
2009年
今村陽一