「山名義数」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 改名によるテンプレートおよびテンプレート引数の置き換え依頼 (Template:複数の問題) - log |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{複数の問題 |
{{複数の問題 |
||
| |
|存命人物の出典皆無 = 2020-10 |
||
|特筆性 = 2020-10 |
|特筆性 = 2020-10 |
||
}} |
}} |
2021年8月4日 (水) 17:17時点における版
![]() |
時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
---|---|
生誕 | 正平7年/文和元年(1352年) |
死没 | 元中8年/明徳2年12月30日(1392年1月24日)? |
主君 | 足利義満 |
父母 | 父:山名時氏 |
兄弟 | 師義、義理、氏冬、氏清、義継、時義、時治、氏頼、氏重、義数、高義 |
山名 義数(やまな よしかず)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。
生涯
山名時氏の八男として誕生。
元中6年/康応元年、六兄・時義が没して子・時熙が後を継ぐようになると、時義が惣領となったことに不満を抱いていた四兄・氏清と甥・満幸の自認が頂点に達した。
将軍・義満は、氏清と満幸に時熙、氏之の討伐命令を下し、氏清は義満の命令に応じて時熙を攻めて追放、恩賞として時熙の領国但馬を手に入れた。その後、義満は時熙、氏之を赦免し、元中8年/明徳2年12月に山名軍は京都に攻め入った(明徳の乱)。しかし、幕府軍の反攻により、氏清は討ち死、満幸は逃亡した。