「1920年アントワープオリンピックのラグビー競技」の版間の差分
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2021年8月8日 (日) 14:26時点における版
1920年のオリンピックのラグビー競技(1920ねんアントワープオリンピックのラグビーきょうぎ)はベルギーのアントワープで行われた。フランスとアメリカの2ヶ国が参加した。フランスが金メダルを獲得すると考えられ高い人気を集めたが、アメリカが8-0でフランスを破り周囲を驚かせた[1]。
概要
1試合のみ、アメリカとフランス間で行われた。アメリカのチームはカリフォルニア大学、特にスタンフォード、カリフォルニア、サンタクララからのアメリカンフットボール選手で構成されていた。アメリカンフットボールがだんだんと暴力的なスポーツになったため、これらの大学および西海岸の大学は1906年-1914年からラグビーをすることを選択した[2][3][4]。
一方でフランスのチームはパリ近くの4つのクラブ、Racing Club、Olympique、Club Athlétique des Sports Généraux、Sporting Club Universitaireの選手で構成されていた。
アメリカの選手Rudy Scholzは試合について次のように書いている。
「 | 午後5時(全ての大きな試合をする時間)に始まり、雨が降っていたにもかかわらず約2万人の観客が集まった。作戦会議で我々はグラウンドが濡れて滑りやすくボールも同じ状況だったのでフォワードゲームにすることにした。フランスはバックフィールドゲームを試し速さはあったが敗れた。滑りやすいボールとフィールドが彼らの敗北となった・・・[5] | 」 |
オリンピックの後、アメリカのチームは1924年にイングランドとフランスを回り1924年のオリンピックへの準備としてイングランドで3試合行った[6][7]。
9月19日、リヨンでアメリカがフランス南東代表を26-0で破った。アメリカのチームはフランス南部のチーム(トゥールーズ)とボルドーの南西にも勝利を収めた。のちにパリでフランスに14-5で敗れている[5]。
試合の詳細
アメリカ合衆国 ![]() |
8–0 | フランス ![]() |
アントワープ、オリンピスフ・スタディオン 観客数: 55,000人 | |
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トライ: Hunter コンバート: Templeton PK: Templeton |
Report |
チームの詳細 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メダル概要
メダル表
順位 | チーム | 試合数 | 点 | 平均点 | トライ数 | 平均トライ数 |
---|---|---|---|---|---|---|
金 | USA | 1 | 8 | 8 | 1 | 1 |
銀 | FRA | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 |
銅 |
メダリスト
競技 | 金 | 銀 | 銅 |
---|---|---|---|
ラグビーユニオン | ![]() Coach: Harry Maloney 出場せず |
![]() Édouard Bader 出場せず |
なし |
注
ラグビーコミッショナーでカリフォルニアラグビーユニオンの会長であるHarry Maloneyがチームのコーチ兼トレーナーであった。
- James FitzpatrickはIOCメダルデータベースにはいないが、試合には出場している。
- James WinstonはIOCメダルデータベースに入っているが、試合に参加していない。
- Bill Muldoonもアメリカのチームのメンバーであったが出場していない(IOCメダルデータベースにも入っていない)。
- Raymond BerrurierはIOCメダルデータベースに入っているが出場していない。
- Constant Lamaignière, Eugène Soulié, およびRobert Thierryはフランスチームのメンバーであったが、プレーしなかった(IOCメダルデータベースにも入っていない)。
- モリス・カークシーは4 x 100mリレーにも出場し金メダルを獲得した。
脚注
- ^ Rugby in the Olympics on University of Idaho website
- ^ “Many changes in rugby game”. The Evening News (San Jose). (1906年9月14日) 2010年11月10日閲覧。
- ^ Elliott, Orrin Leslie (1937). Stanford University – The First Twenty Five Years 1891–1925. Stanford, California: Stanford University Press. pp. 231–233. ISBN 9781406771411 2010年11月10日閲覧。
- ^ Park, Roberta J (Winter 1984). “From Football to Rugby—and Back, 1906–1919: The University of California–Stanford University Response to the "Football Crisis of 1905"”. Journal of Sport History 11 (3): 5–40. オリジナルの2010年8月7日時点におけるアーカイブ。 2019年10月12日閲覧。.
- ^ a b Rugby at the 1920 Antwerpen on Sports Reference
- ^ Gallagher, Brendan (2016年5月15日). “Olympic spirit was forgotten amid violence and acrimony”. The RugbyPaper (400): pp. 32–3
- ^ “1924 Rugby: A Wild Olympic Rematch”. 2016年5月18日閲覧。