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「グン・ビリク・メルゲン晋王」の版間の差分

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'''グン・ビリク・メルゲン晋王'''([[1506年]] - [[1542年]]<ref>『[[蒙古源流]]』では「四十五歳の庚戌の年([[1550年]])」としているが、[[明]]の記録によると、[[嘉靖]]二十一年(1542年)頃としており、『[[アルタン・ハーン伝]]』でも、「壬寅の年(1542年)に三十七歳で」とあるように1542年に亡くなったとしている。《岡田 2004,p252》</ref>)は、[[オルドス]]・トゥメンの晋王([[ジノン]])。[[バルス・ボラト・サイン・アラク]]の長男で、[[アルタン・ハーン]]の兄。
'''グン・ビリク・メルゲン晋王'''([[1506年]] - [[1542年]]<ref>『[[蒙古源流]]』では「四十五歳の庚戌の年([[1550年]])」としているが、[[明]]の記録によると、[[嘉靖]]二十一年(1542年)頃としており、『[[アルタン・ハーン伝]]』でも、「壬寅の年(1542年)に三十七歳で」とあるように1542年に亡くなったとしている。《岡田 2004,p252》</ref>)は、[[オルドス]]・トゥメンの晋王([[ジノン]])。[[バルス・ボラト・サイン・アラク]]の長男で、[[アルタン・ハーン]]の兄。


==生涯==
==生涯==

2021年8月15日 (日) 03:04時点における版

グン・ビリク・メルゲン晋王1506年 - 1542年[1])は、オルドス部・トゥメンの晋王(ジノン)。バルス・ボラト・サイン・アラクの長男で、アルタン・ハーンの兄。

生涯

1506年、バルス・ボラト・サイン・アラク晋王の子として生まれる。

1531年、父のバルス・ボラト・サイン・アラク晋王が亡くなったため、翌年(1532年)27歳で晋王(ジノン)位を継ぎ、オルドス・トゥメンを領す。

グン・ビリク・メルゲン晋王は、弟のアルタンとともに、右翼のトゥメンを率いて毎年中国のオイラトモグーリスタン青海に侵攻し、略奪を行った。[2]

1542年、グン・ビリク・メルゲン晋王は37歳で亡くなり、翌年(1543年)息子のノヤンダラが後を継いで晋王となった。

[3]

妻子

タンスク大ハトン…トゥメト・トゥメンのハンリン部のアイラン・セゲルの娘
  • ノヤンダラ晋王
  • バイサングル・ラン太子
エシゲ叔母ハトン…ハルハ・トゥメンのジャライル部のエセン舎人の娘
  • オイダルマ・ノモハン・ノヤン
アルタンチュ・サイン・ハトン…トゥメト・トゥメンのチェグト部のホサイ・タブヌンの娘
  • ノム・タルニ・フワ太子
  • ブヤングリ・ドゥラル・ダイチン
  • バジャラ・ウイジェン・ノヤン
  • バドマ・サンバワ・セチェン・バートル
アムルジャ・ハトン…ヨンシエブ部のイバライ(イブラヒム)太師の娘
  • アムダラ・ダルハン・ノヤン
  • オンガラハン・イェルデン・ノヤン

[4]

脚注

  1. ^ 蒙古源流』では「四十五歳の庚戌の年(1550年)」としているが、の記録によると、嘉靖二十一年(1542年)頃としており、『アルタン・ハーン伝』でも、「壬寅の年(1542年)に三十七歳で」とあるように1542年に亡くなったとしている。《岡田 2004,p252》
  2. ^ 宮脇 2004,p153
  3. ^ 岡田 2004,p250-252
  4. ^ 岡田 2004,p251-252

参考資料

先代
バルス・ボラト・サイン・アラク晋王
晋王(ジノン
1532年 - 1542年
次代
ノヤンダラ晋王