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「ニューヨーク徴兵暴動」の版間の差分

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{{Infobox civil conflict
{{複数の問題|出典の明記 = 2020年7月|独自研究 = 2020年7月}}
|title = ニューヨーク徴兵暴動
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|image = New York Draft Riots - fighting.jpg{{!}}border
|caption = 武装した暴徒と北軍兵士が武力衝突した場面を描いた[[イラストレイテド・ロンドン・ニュース]]紙のイラスト
|date = {{Start date|1863|7|13}} – {{End date|1863|7|16}}
|place = [[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]][[マンハッタン]]
|causes = {{unordered list| [[南北戦争]]における[[徴兵]]
| 黒人に対する[[人種差別]]
| 白人-黒人間の労働問題
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|result = 暴動の鎮圧
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|fatalities = 119ないし120人(諸説あり)
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'''ニューヨーク徴兵暴動'''(ニューヨークちょうへいぼうどう、New York City draft riots)、別名に'''マンハッタン徴兵暴動'''(Manhattan draft riots)とは、[[南北戦争]]中の[[1863年]]7月13日から16日に掛けて[[ニューヨーク]]の[[ロウアー・マンハッタン]](ダウンタウン)で起こった[[暴動|暴動事件]]。当時は'''徴兵週間'''(ドラフト・ウィーク、Draft Week)と呼ばれていた<ref name="barnes">{{cite book|title=The Draft Riots in New York, July 1863: The Metropolitan Police, Their Services During Riot|url=https://archive.org/details/draftriotsinnew01barngoog|author=Barnes, David M.|publisher=Baker & Godwin|year=1863|pages=[https://archive.org/details/draftriotsinnew01barngoog/page/n11 5]–6, 12}}<!-- ISBN needed --></ref>。発端は、その年の3月に[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]で可決された{{仮リンク|徴兵法 (アメリカの1863年の法律)|label=徴兵法(Enrollment Act)|en|Enrollment Act}}に対して白人労働者の不満が頂点に達して起きたものであるが、同時にかねてより存在していた[[奴隷制度廃止運動]]への反感および黒人に対する差別感情にも火がつき、人種暴動(race riot)の様相も呈した。また、暴徒の多くは[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]の労働者階級の者たちだったという特徴もあった。

1863年は1月に[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[エイブラハム・リンカーン]]大統領によって正式に[[奴隷解放宣言]]がなされ、3月に連邦議会で初の徴兵法が可決された年であった。奴隷解放宣言はニューヨークに黒人労働者を呼び込むと既存の白人労働者に憂慮された。また徴兵法は多くの移民を[[市民権]]と引き換えに徴兵対象に含める一方で、黒人は市民とみなされないために対象外であり、白人の富裕層は大金を支払うことで徴兵を回避できた。また、市民の4分の1を占めるアイルランド系移民は伝統的にニューヨークに地盤のあった[[民主党 (アメリカ)|民主党]]を支持し、過去の[[ノウ・ナッシング]]から共和党には不信感を持っていた。こうしてアイルランド系移民が多かったニューヨークの白人労働者の不満と怒りは[[ゲティスバーグの戦い]]直後の7月半ばに始まった徴兵業務に際して頂点に達した。

当初、暴動は徴兵令に対する怒りを表すためのものであったが、抗議行動は人種憎悪に発展して白人の暴徒が黒人を襲い始め、街中で暴行事件が頻発した。これを受けてリンカーンは、ゲティスバーグの戦い直後の民兵と志願兵からなるいくつかの連隊を暴徒鎮圧のために[[ペンシルベニア州]]から引き上げさせ、ニューヨークに派遣することを決めた。しかし、それら主力が到着するには数日を要し、その間に暴徒は多くの公共施設、2つのプロテスタント教会、様々な奴隷廃止論者や賛同者の家、多くの黒人住宅、44丁目・5番街にあった{{仮リンク|黒人孤児院|en|Colored Orphan Asylum}}を略奪や破壊し、焼き討ちした。暴動発生翌日に800人ほどの手勢を率いて現地にやってきた東部方面軍司令官{{仮リンク|ジョン・E・ウール|en|John E. Wool}}将軍が「[[戒厳令]]を宣言すべきだが、私にはそれを執行するに十分な部隊を持っていない」と述べたほどであった。

暴動発生から4日目の16日に連邦軍や州の民兵が到着し暴動は鎮圧された。正確な死者数は不明だが、一説に119人ないし120人であり、公式には少なくとも2000人が負傷、物的損害は最低でも約100万ドル(2020年現在で約1690万ドル相当)に上った。加えて、この地域の人口構成は変わり、多くの黒人住居者らはマンハッタンから[[ブルックリン区|ブルックリン]]に移り住んだ。一方、暴徒たちの主力であったアイルランド人コミュニティの世評も著しく貶められることとなった。また、暴徒鎮圧のために多くの軍隊を戦場から引き上げねばならなかったことは、ゲティスバーグで敗北直後の南軍を大いに利すことにも繋がった。この暴動はアメリカ史上最大の市民運動であると同時に、最も人種差別的な都市騒乱であったとも評される。

== 背景 ==
[[File:New York enrollment poster june 23 1863.jpg|thumb|right|1863年6月23日に掲示された徴兵登録を促すニューヨーク市のポスター]]

=== 南北戦争直前のニューヨーク ===
当時の[[ニューヨーク]]は北部の中でも南部と経済的な結びつきが強かった都市であり、1822年に船積みされる輸出品の半分近くは[[綿花]]が占めるほどであった<ref>[http://nydivided.org/VirtualExhibit/T1/G1/G1ReadMore.php "King Cotton Cotton Trade"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130330070752/http://nydivided.org/VirtualExhibit/T1/G1/G1ReadMore.php |date=March 30, 2013 }}, ''New York Divided: Slavery and the Civil War'', New-York Historical Society; accessed May 12, 2012.</ref>。
また、州北部では南部の綿花を加工する織物工場があった。南部諸州の離脱が始まっていた1861年1月7日には、民主党の{{仮リンク|フェルナンド・ウッド|en|Fernando Wood}}市長が、市会議員に対して「(州都の)[[オールバニ (ニューヨーク州)|オールバニ]]と(連邦首都の)[[ワシントンD.C.|ワシントン]]から、市の独立を宣言する」ように要請し、「南部諸州の全面的かつ統一的な支持を得るだろう」と述べるほど<ref name="Roberts"/>、ニューヨークと南部には強いビジネス上の結びつきが存在した。
同年4月に[[南北戦争]]が勃発した時、ニューヨークには南部諸州([[アメリカ連合国]])に共感する者も多かった<ref name="Divided">[http://www.nydivided.org/VirtualExhibit ''New York Divided: Slavery and the Civil War Online Exhibit''], New York Historical Society (November 17, 2006 to September 3, 2007, physical exhibit); accessed May 10, 2012.</ref>。

また、ニューヨークは多くの移民が集まる街でもあり、1840年代以降、そのほとんどは[[アイルランド]]と[[ドイツ]]からの移民であった。例えば1860年当時、市の人口の25パーセント近くが、その多くが英語を話せないドイツ出身者であり、戦争直前には市内人口80万人の25パーセントが[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系移民]]になっていた{{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}。こうした情勢にあって、ウッド市長の出身母体でもあった[[民主党 (アメリカ)|民主党]]系の政治団体[[タマニー・ホール|タマニー協会]]では、地方選挙での票田とすべく移民をアメリカ市民に登録する活動を行っており、特にアイルランド系移民を勧誘していた{{sfn|Harris|2003}}。一方で、1850年代に興隆し、60年代には瓦解していた移民排斥を訴える[[ノウ・ナッシング]]運動の残党が[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に合流して、その躍進の一助になっていたために、アイルランド系移民は共和党に対する不信感があった{{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}。もっとも、南北戦争の発端となる[[サムター要塞の戦い]]が起こるとアイルランド系コミュニティでも連邦支持が優位となり、彼らアイルランド系で構成される10以上の義勇連隊がすぐに充足した{{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}。

=== 黒人差別と奴隷解放宣言 ===
1840年代から80年代にかけてはジャーナリスト達が白人労働者階級を対象として、異人種間の付き合いや関係、結婚の「不道徳性(evils)」をセンセーショナルに煽る記事を掲載しており、改革運動家たちもこの流れに加わっていた{{sfn|Harris|2003}}。
新聞は黒人を侮蔑的に扱い、「投票、教育、雇用における平等な権利に対する黒人の願望」を嘲笑した。[[骨相学]]を基にした[[疑似科学]]的な講義は、医師たちの批判を受けても人気を博した{{citation needed|date=November 2020}}。
こうした黒人の扱いは労働問題の分野にも存在し、1850年代からすでに黒人と白人労働者の間には緊張関係があった。特に港湾地域において自由民となった黒人と白人移民が低賃金労働を巡って対立関係にあった。

1861年の[[エイブラハム・リンカーン]]の大統領就任は、伝統的に民主党の地盤であったニューヨークにも影響を与え、1862年に新たな市長に当選したのは共和党の[[ジョージ・オプダイク]]であった。そうした中で1863年1月に正式に行われた[[奴隷解放宣言]]は、解放された黒人奴隷がさらにニューヨークに流入してくるのではないかと白人の労働者階級を憂慮させた。同年3月には白人の港湾労働者が黒人労働者との労働を拒否して暴動を起こし、200人の黒人を襲撃する事件を引き起こした{{sfn|Harris|2003}}。

=== 連邦徴兵法の可決と白人労働者層の不満 ===
1863年3月、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]は長引く戦争に対して、兵力補充のため、初の{{仮リンク|徴兵法 (アメリカの1863年の法律)|label=徴兵法(Enrollment Act)|en|Enrollment Act}}を可決した。この法は移民からすれば[[市民権]]を得るためには徴兵登録を義務付けられるものであった。一方で、黒人は市民と見なされないがゆえに徴兵の対象から外され、裕福な白人は300ドル(2021年現在で6,600ドルに相当)の大金を支払うことで徴兵を回避することができた(300ドル条項){{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}{{sfn|Harris|2003}}。このため、白人移民の労働者層に不公正感が渦巻く中で、さらに共和党の市長として戦争に協力的であったオプダイクのスキャンダラスな収賄疑惑が持ち上がっていた。

6月に戦争に反対する新聞や、あるいは民主党は徴兵法にかこつけて白人労働者階級を扇動した。戦時体制における経済的苦境の中にあって白人労働者は黒人のために売られ、連邦政府は「ニガー戦争」を根拠に地方政治に介入すると批判した。白人労働者からすれば、戦争を通して自分たちの犠牲によって黒人が権利が獲得していくように見え、相対的に政治的影響力と経済的地位が急速に低下していくように錯覚した{{sfn|Harris|2003}}。アイルランド系のコミュニティ内でも、かねてよりあった親南部的感情や共和党への不信感が主戦派と和平派の分裂を生み出し、黒人のためにアイルランド人の血が流れるのは許されないという意見も出てきていた{{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}。

== 暴動の経過 ==
[[File:John Alexander Kennedy by Brady.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|ジョン・アレグザンダー・ケネディ|en|John Alexander Kennedy}}。ニューヨーク市警本部長(1860年-1870年)]]
[[File:Bullsheadhotelnyc.jpg|thumb|酒の提供を断って暴徒たちの焼き討ちにあったホテル「ブルズ・ヘッド」(1830年に描かれた絵)]]
[[File:HEADLEY(1882) -p170 New York - the attack on the Tribune building.jpg|thumb|upright|襲撃を受けるトリビューン紙の建物。]]
[[File:NYRiot.jpg|thumb|right|upright|暴徒たちの襲撃を受ける[[レキシントン・アベニュー (マンハッタン)|レキシントン・アベニュー]]の建物。]]

=== 暴動直前 ===
7月11日(土曜日)、徴兵対象者に対する最初の抽選が行われた。この日、[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]や他の都市では暴動が起こったと報道されたが、マンハッタンでは平穏に終わった{{sfn|Harris|2003}}。

=== 7月13日(月曜)、暴動発生 ===
[[ゲティスバーグの戦い]]での北軍の勝利から10日後の7月13日(月曜日)に2回目の抽選が行われた。午前10時、「ブラック・ジョーク(Black Joke)」として知られた第33機関団の志願消防士に率いられた約500人の群衆が、抽選が行われていた3番街・47丁目の第9区憲兵司令部を襲撃した<ref name="nyt-18630714">{{cite news|title=The Mob in New York|date=July 14, 1863|work=The New York Times}}</ref>。

群衆は大きな敷石を窓に投げつけたり、ドアを破り、そして建物に火をつけた<ref name="schouler-p418">{{cite book|title=History of the United States of America, Under the Constitution |url=https://archive.org/details/historyunitedst03schogoog |author=Schouler, James|year=1899|publisher=Dodd, Mead & Company|page=[https://archive.org/details/historyunitedst03schogoog/page/n450 418]}}</ref>。
消防隊が駆けつけると暴徒たちは彼らの車を破壊した。馬車鉄道の馬を殺し、車両を破壊した者たちもいた。さらに暴徒たちは市内の他の地域に通報されるのを防ぐために、電信線を切断した<ref name="nyt-18630714"/>。

ニューヨーク州の民兵隊(州兵)はゲティスバーグに派兵されていたため、暴動の鎮圧は地元のニューヨーク市警のみで行わなければならなかった<ref name="schouler-p418"/>。
警察本部長の{{仮リンク|ジョン・アレグザンダー・ケネディ|label=ジョン・ケネディ|en|John Alexander Kennedy}}は状況確認のため現場を訪れた際に暴徒に襲われた。彼は制服を未着用であったが、暴徒の中に彼を識別した者がいた。ケネディはほとんど意識を失い、顔には痣と切り傷があり、目を負傷して唇は腫れ上がり、手はナイフで切られた状態だった。全身にも痣が残り、血まみれになるほど殴られた<ref name="barnes"/>。

警察は警棒と拳銃で応対したが、逆に圧倒された<ref name="rhodes">{{cite book |first=James Ford |last=Rhodes |author-link=James Ford Rhodes |date=1902|title=History of the United States from the Compromise of 1850, Volume 4 |publisher=Macmillan |location=New York |pages=[https://archive.org/details/historyofuniteds04rhod/page/320 320]–23 |url=https://archive.org/details/historyofuniteds04rhod}}</ref>。
多勢に無勢であり、鎮圧することはできなかったが、暴徒たちを[[ユニオンスクエア (ニューヨーク市)|ユニオンスクエア]]から南部の[[ロウワー・マンハッタン]]より遠ざけることはできた<ref name="barnes"/>。
[[サウス・ストリート・シーポート]]や[[ファイブ・ポインツ (マンハッタン)|ファイブ・ポインツ]]周辺の「血塗れの第6地区(Bloody Sixth)」の住人たちは暴動には参加しなかった<ref>Bernstein, Iver (1990), pp. 24–25.</ref>。
憲兵隊の一部として配属されていた第1大隊所属第19中隊の傷痍軍人の隊は、銃声で暴徒を鎮圧しようとしたが逆襲を受け、14名以上の負傷者と1名の行方不明者(おそらく死亡)を出した。

44丁目にあったホテル「ブルズ・ヘッド(Bull's Head)」は、暴徒たちに酒を提供することを拒否して焼かれた。5番街にあった市長の邸宅も狙われたが、ジョージ・ガードナー・バーナード判事の説得によって破壊は免れ、その代わり約500人の暴徒たちは別の場所で略奪に勤しんだ<ref name="mob">{{cite news |url=https://static01.nyt.com/packages/pdf/archives/draftriots_07-14-1863.pdf |title=The Mob in New York |work=[[The New York Times]] |date=July 14, 1863}}</ref>。
第8地区と第5地区の警察署や、その他の建物は襲撃された上に火をつけられた。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙の事務所も狙われたが、タイムズの創設者{{仮リンク|ヘンリー・ジャーヴィス・レイモンド|en|Henry Jarvis Raymond}}を含めた職員たちは[[ガトリング砲]]で武装して暴徒たちを待ち受け、彼らを追い返した<ref>[https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/learning/general/onthisday/harp/0801.html "On This Day"], ''New York Times''; accessed March 17, 2016.</ref>。
消防隊も出動していたが、彼らの一部にも徴兵が決まった消防士たちがいたために、暴徒らに同情的であった。[[ニューヨーク・トリビューン]]紙は、警察が到着して消火活動および暴徒らを追い払うまで、略奪に遭い燃えていた<ref name="mob"/><ref name="rhodes"/>。
午後遅く、2番街と21丁目にあった武器庫が襲撃された際に、当局は男を射殺した。暴徒たちは通りの敷石を剥がして投げつけ、すべての窓を割った<ref name="nyt-18630714"/>。
暴徒は多くの黒人市民にも襲いかかり、拷問や殺害を行った。その中には400人の暴徒の群れに棍棒や敷石で殴られた上に、木に首を吊られて火をつけられた男もいる<ref name="nyt-18630714"/>。

43丁目・[[5番街 (マンハッタン)|5番街]]にあった{{仮リンク|黒人孤児院|en|Colored Orphan Asylum}}は「白人による黒人への施しと彼らの上昇志向の象徴」{{sfn|Harris|2003}}として233人の子供たちを保護していたが、午後4時頃に暴徒たちの襲撃を受けた。暴徒たちの中には女性や子供も含まれており、彼らは食材や物資を略奪し、火を放った。しかし、警察が孤児院を確保したことで、建物が焼け落ちる前に孤児たちを救出することはできた<ref name="rhodes"/>。
暴動が起こった地域全体で、暴徒たちは多数の黒人市民を襲い、殺害し、また、彼らが黒人が住んでいると知っていた住居も破壊した。さらにアメリカ国内で初めて黒人が経営者となったとされる、ウエスト・ブロードウェイ93番地にあった{{仮リンク|ジェームズ・マキューン・スミス|en|James McCune Smith}}の薬局も破壊された{{sfn|Harris|2003}}。

3月に黒人に対する暴動があったミッドタウンの港湾地域でも、同様の襲撃が行われた。暴徒たちは「すべての黒人港湾労働者(porters, cartmen and laborers)」を探しに通りになだれ込み、港付近一帯から黒人や彼らとの社会生活の痕跡を完全に消し去ろうとした。白人の港湾労働者たちは、黒人向けの売春宿、ダンスホール、寄宿舎、アパートを襲撃して破壊した。そして彼らを雇う白人事業主を襲い、彼らの衣服を剥ぎ取った{{sfn|Harris|2003}}。

=== 7月14日(火曜) ===
月曜の夜に大雨が降ったことで火災は収まり、暴徒たちは一度は帰宅したが、再び集まり始めた。暴徒たちは刑務所改革者かつ奴隷廃止論者であった{{仮リンク|アイザック・ホッパー|en|Isaac Hopper}}の娘{{仮リンク|アビゲイル・ホッパー・ギボンズ|label=アビー・ギボンズ|en|Abigail Hopper Gibbons}}の家を焼き払った。彼らはまた黒人と結婚していた2人の白人女性アン・デリクソンとアン・マーティン、また黒人男性を客にしていた白人娼婦のメアリー・バークといった白人を「混血主義者(amalgamationists)」として攻撃した{{sfn|Harris|2003}}<ref>Bernstein, Iver (1990), pp. 25–26</ref>。

現地に到着した[[ホレイショ・シーモア]]知事は、[[ニューヨーク市庁舎|市庁舎]]で徴兵法は違憲であると宣言する演説を行い、暴徒たちを宥めようとした。また、東部地区司令官{{仮リンク|ジョン・E・ウール|en|John E. Wool}}将軍は、[[ニューヨーク港]]の砦、[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校(ウェストポイント)]]、[[ブルックリン海軍工廠]]から約800人の兵士を率いて現地に到着し、またニューヨークから離れていた民兵隊に戻って来るよう命令を出した<ref name="rhodes"/>。後にウールは「戒厳令を宣言すべきだが、私にはそれを執行するに十分な部隊を持っていない」と司令部に報告した<ref name="wool">{{cite web|url=http://www.civilwarhome.com/woolor.htm|title=Maj. Gen. John E. Wool Official Reports for the New York Draft Riots|access-date=August 16, 2007|work=Shotgun's Home of the American Civil War blogsite|archive-url =https://web.archive.org/web/20200611015237/http://www.civilwarhome.com/woolor.htm|archive-date=2020-06-11}}</ref>。

=== 7月15日(水曜) ===
徴兵の抽選業務を行っていた憲兵司令部のロバート・ヌージェント司令官が、上官にあたるジェームス・バーネット・フライ大佐から徴兵延期の通達を受けて状況は好転した。このニュースが新聞で報じられると一部の暴徒は自宅に留まった。一方で民兵隊の一部が帰還し、暴徒の残党らに苛烈な処置を取り始めていた<ref name="rhodes"/>。
暴動は[[ブルックリン区|ブルックリン]]や[[スタテンアイランド]]にも広がった<ref name=History.com>{{cite web |url=https://www.history.com/topics/american-civil-war/draft-riots |title=New York Draft Riots |publisher=[[A&E Networks|A&E Television Networks]] |date=April 16, 2021 |website=[[History (American TV network)|HISTORY]]|access-date=January 13, 2022}}</ref>。

=== 7月16日(木曜)、暴動鎮圧 ===
暴動発生から4日目の16日、秩序が回復し始めた。ニューヨーク州の民兵隊と、その他一部の連邦軍(第152ニューヨーク義勇連隊、第26ミシガン義勇連隊、第27インディアナ義勇連隊、ニューヨーク州民兵第7連隊)が、メリーランド州フレデリックから強行軍の末にニューヨーク市内に到着した。さらに州知事は連邦軍には参加していなかった州民兵第74連隊と第65連隊、さらにスロッグス・ネックのシュイラー要塞に駐屯していた第20独立砲兵部隊(義勇兵)の一部も派遣した。最初にニューヨークの民兵部隊が到着した。市内には数千人の民兵と連邦軍がいた<ref name="wool"/>。

最後の戦闘は、夕方に[[グラマシー・パーク]]近くで発生した。エイドリアン・クックによれば、この暴動最後の日に、暴徒と警察・軍隊の小競り合いで12人が死亡したという<ref>Cook, Adrian (1974). ''The Armies of the Streets: The New York City Draft Riots of 1863'', The University Press of Kentucky.{{ISBN?|date=2022年5月}}{{page needed|date=2020年10月}}</ref>。

== 被害状況と影響 ==
ニューヨーク徴兵暴動における被害について、最も信頼できる推定では、最低でも2000人が負傷したとされている。死者数については正確な数は不明だが、歴史家の{{仮リンク|ジェームズ・M・マクファーソン|en|James M. McPherson}}によれば119人ないし120人が殺されたとしている<ref name="casualties">{{citation|last=McPherson|first=James M.|author-link=James M. McPherson|date=1982|title=Ordeal By Fire: The Civil War and Reconstruction|page=[https://archive.org/details/ordealbyfirecivi0000mcph/page/360 360]|publisher=Alfred A. Knopf|location=New York|isbn=978-0-394-52469-6|url-access=registration|url=https://archive.org/details/ordealbyfirecivi0000mcph}}</ref><ref name="aftermath">{{cite web|url=http://www.vny.cuny.edu/draftriots/Aftermath/aftermath_set.html|title=VNY: Draft Riots Aftermath|website=Vny.cuny.edu|access-date=August 1, 2017}}</ref>。本件を扱った1928年の小説『{{仮リンク|ザ・ギャング・オブ・ニューヨーク|en|The Gangs of New York (book)}}』([[ギャング・オブ・ニューヨーク|2002年の同名映画]]の原作)の著者{{仮リンク|ハーバート・アズベリー|en|Herbert Asbury}}は、死者2,000人、負傷者8,000人という数を唱えたが<ref name="asbury-estimates">{{cite book|author=Asbury, Herbert|publisher=Alfred A. Knopf|title=The Gangs of New York|year=1928|page=169}}</ref>、これは異論もある<ref name="Hamill">{{cite news|title=TRAMPLING CITY'S HISTORY 'Gangs' misses point of Five Points|author=Pete Hamill|newspaper=New York Daily News|date=December 15, 2002|url=http://knickerbockervillage.blogspot.com/2007/11/gangs-of-new-york-2.html}}</ref>。
物的損害額は、約100万ドルから500万ドルと見積もられている(2020年現在の価値に換算して1690万ドルから8470万ドルに相当)<ref name="asbury-estimates"/><ref name="Oxford">{{cite book|last=Morison|first=Samuel Eliot|title=The Oxford History of the American People: Volume Two: 1789 Through Reconstruction|publisher=Signet |year=1972|pages=451|isbn=0-451-62254-5}}</ref>。後に市財政局は、その額の4分の1を補償した。

この暴動はアメリカ史上最大の市民運動であると同時に、最も人種差別的な都市騒乱であったとも評される<ref name="foner">{{cite book |first=Eric |last=Foner |author-link=Eric Foner |date=1988 |title=Reconstruction: America's Unfinished Revolution, 1863–1877 |url=https://archive.org/details/isbn_9780060158514 |url-access=registration |series=The New American Nation |pages=[https://archive.org/details/isbn_9780060158514/page/32 32]–33 |location=New York |publisher=Harper & Row |isbn=0-06-093716-5}} (updated ed. 2014, {{ISBN|978-0062354518}}).</ref>。

=== 黒人層の被害と救済 ===
[[File:HEADLEY(1882) -p080 New York - the Colored Orphan Asylum, 143rd Street.jpg|thumb|right|焼き討ちに遭った{{仮リンク|黒人孤児院|en|Colored Orphan Asylum}}。]]

上記の通り、きっかけは徴兵法であったが、この事件は黒人層への被害が大きかった。特に港湾地域において、港湾労働者による黒人男性への暴力が激しかった{{sfn|Harris|2003}}。5日間で計11名の黒人が吊られた状態で殺され<ref name="McPherson">{{cite book|title=Ordeal by Fire: The Civil War and Reconstruction|author=McPherson, James M.|url=https://books.google.com/books?isbn=0077430352|publisher=McGraw-Hill Education|year=2001|isbn=0077430352|page=399}}</ref>、その一部の件について記した当時の記録がある。

{{Quotation|
ブロードウェイの西26丁目以下は昨夜の9時には静かなものだった。同時刻、7番街・27丁目の角に群衆が集まっていた。
この場所は朝に一人、また夕方6時にもう一人、黒人(ニグロ)が吊るされていた所だった。
朝方の方の死体は駅舎で衝撃的な姿を見せていた。その指とつま先は切り落とされ、一寸の余地もないほど、切り刻まれた痕だらけであった。
もう一方は、午後遅くに西27丁目の自宅から引きずり出された者であり、歩道で殴打や恐ろしいやり方で乱打され、そして木に吊るされた<ref name="Eagle">{{cite news|title=The New York Riot: The Killing of Negroes|date=18 Jul 1863|newspaper=Buffalo Morning Express and Illustrated Buffalo Express|location=Buffalo, New York}}</ref>。
}}

暴動の発生中には、暴徒たちが家屋を破壊することを恐れた家主によって、住居から追い出された黒人たちもいた。店を破壊されたジェームズ・マキューン・スミスは家族と共にニューヨーク(マンハッタン)を離れ、同様に何百人もの黒人たちが近辺の[[ブルックリン区|ブルックリン]]([[ウィリアムズバーグ (ブルックリン)|ウィリアムズバーグ]]){{refn|group="注釈"|当時のブルックリンは、[[ブルックリン橋]]建造前で、フェリーで行き来するニューヨーク市外の扱いだった。}}や[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]に移り住んだ{{sfn|Harris|2003}}。その結果、1865年には市内の黒人人口は1万人を下回り、1820年以来の低水準となった{{sfn|Harris|2003}}。白人労働者階級による暴動は人口構成を変え、白人たちが職場での支配的勢力となり、黒人層と「明確に分断」されることとなった{{sfn|Harris|2003}}(その後、マンハッタンに黒人が戻ってくるのは20世紀初頭の[[アフリカ系アメリカ人の大移動]]の時であり、現在において黒人街として知られる[[ハーレム (ニューヨーク市)|ハーレム]]が形成されることになる)。

一方でニューヨークのエリート層の白人らは、黒人の暴動被害者を救済し、新しい仕事や家を見つけるための組織だった活動を行った。{{仮リンク|ユニオン・リーグ・クラブ|en|Union League Club}}と、 黒人救済のための商業者委員会(Committee of Merchants for the Relief of Colored People)は、暴動の被害者2,500人に計40,000ドルあまりを提供した{{sfn|Harris|2003}}。また、ユニオン・リーグ・クラブは、1863年12月に黒人志願兵2000人以上を集め、装備や訓練を施した。1864年3月、彼らを称え、ハドソン川の埠頭まで送り出す市内パレードが行われ、ユニオン・リーグ・クラブと警察が先導するパレードに10万人の観衆が集まった{{sfn|Harris|2003}}<ref>{{cite journal |first=Thomas L. |last=Jones |title=The Union League Club and New York's First Black Regiments in the Civil War |journal=New York History |date=2006 |volume=87 |issue=3 |pages=313–343 |jstor=23183494}}</ref><ref>For the context see {{cite book |first=William |last=Seraile |title=New York's Black Regiments During the Civil War |location=New York |publisher=Routledge |date=2001 |isbn=9780815340287}}</ref>。もっとも黒人との融和を目指す主催者たちとの意図とは裏腹に、黒人に対する偏見を完全に払拭することはできなかった。結局、ニューヨークが人種差別の問題を克服し、黒人の自由のために団結することは一度もなかった{{sfn|Harris|2003}}。

=== 徴兵業務と戦争への影響 ===
[[Image:New York Draft Riots - Project Gutenberg eText 16960.jpg|thumb|300px|迫り来る暴徒に連邦軍が攻撃する様子のイラスト]]
[[Image:New York Draft Riots - Project Gutenberg eText 16960.jpg|thumb|300px|迫り来る暴徒に連邦軍が攻撃する様子のイラスト]]
[[Image:New York Draft Riots - fighting.jpg|thumb|300px|連邦軍を攻撃する暴徒]]
'''ニューヨーク徴兵暴動'''(ニューヨークちょうへいぼうどう、{{lang-en-short|'''New York City Draft Riots'''}})は、[[南北戦争]]最中の[[1863年]][[7月13日]]に[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]で発生した、[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系市民]]を中心とする下層労働者らによる[[暴動]]<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=徳田勝一 |title=アイルランド系移民にとっての南北戦争 : 回想録から読み解く「アイルランド人旅団」の記憶 |journal=アメリカ太平洋研究 |issn=13462989 |publisher=東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター |year=2010 |month=mar |volume=10 |pages=81-95 |naid=120002692409 |doi=10.15083/00037147 |url=https://doi.org/10.15083/00037147}}</ref>。


歴史家の[[サミュエル・モリソン]]は、この暴動は「南軍の勝利に相当するもの」と記した<ref name="Oxford"/>。
== 概要 ==
この暴動を鎮圧するために北軍は4000人規模の部隊をゲティスバーグから引き上げねばならなくなり、これは敗北で疲弊した[[北バージニア軍]](南軍の主力軍)を追撃できたかもしれないものであった<ref name=History.com />。
徴兵事務所でのトラブルがきっかけで、数千人の市民が暴徒化した。
当時の新聞には、暴動は南軍の指示を受けたスパイが引き起こしたという報道もあった{{sfn|徳田勝一|2010|pp=86-89}}。


一方、発端となった徴兵業務について政府は8月19日に再開した。これは特に大過なく10日以内に完了した。実際のところ、徴兵された数は白人労働者が恐れていたよりは少なく、全国で徴兵対象者75万人のうち、現役勤務は4万5000人ほどに過ぎなかった<ref name="donald">{{cite book |first=David |last=Donald |title=Civil War and Reconstruction |publisher=Pickle Partners Publishing |date=2002 |page=229 |isbn=0393974278}}</ref>。この暴動は主に白人労働者階級を巻き込んだものであったが、徴兵制やそれを実施するにあたっての連邦政府の権限や戒厳令の行使については、ニューヨーク市民の中流階級と上流階級で意見が分かれるところであった。民主党に所属する裕福な実業家の多くは徴兵制を違憲とするように求めていた。タマニー協会の民主党員は違憲とすることまでは求めていなかったが、徴兵者に対する恩給の支給に貢献した<ref>Bernstein, Iver (1990), pp. 43–44</ref>。
[[イングランド]]系アメリカ人によるアイルランド系の新移民差別が背景にあり、イギリス系の富豪や新聞社が襲撃されたほか、この年1月に[[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって[[奴隷解放宣言|奴隷解放]]を宣言された[[黒人]]が、[[私刑|リンチ]]で多数殺害された。市民は武装して[[略奪]]を繰り広げ、警察の手に余る事態に発展した。その後[[アメリカ軍]]が到着し交戦の末鎮圧した。


ニューヨークの北軍に対する支援は不本意ながらも継続されたが、ただそれも次第に南部への同情は薄れていった。市内の銀行は戦費を提供し、州の産業は南軍全体のそれよりも生産性が高かった。終戦までに、当時最も人口の多かったニューヨーク州から、45万人以上の兵士や水兵が戦争に参加した。このうち、4万6000人が戦争中に亡くなったが、ほとんどの戦闘員がそうであったように、この死因は戦闘による負傷よりも病死が多かった<ref name="Roberts">{{cite news|url=http://cityroom.blogs.nytimes.com/2010/12/26/new-york-doesnt-care-to-remember-the-civil-war/?ref=nyregion|work=The New York Times|first=Sam|last=Roberts|title=New York Doesn't Care to Remember the Civil War|date=December 26, 2010|access-date=April 26, 2014}}</ref>。
米国史上最も大規模で凄惨な都市暴動とされ<ref name=":0" />、最終的に数千の逮捕者と死者をだし莫大な経済的損失をもたらしただけでなく、鎮圧への兵力供出は対[[アメリカ連合国|南軍]]戦線にも影響を及ぼした。暴動においてはアイルランド系移民の存在が際立っていたため、アイルランド人コミュニティの世評が著しく貶められることとなった<ref name=":0" />。


=== アイルランド系移民への影響 ===
== ニューヨーク徴兵暴動をテーマにした作品 ==
トビー・ジョイスは「この暴動はアイルランド系アメリカ人の暴徒が、警察・兵士・主戦派の政治家と対立したものであり、その対峙者たちも相当数が地元のアイルランド系移民のコミュニティー出身者」であり、アイルランド系カトリック社会における「内戦」の様相を呈していたと評す<ref>Toby Joyce, "The New York Draft Riots of 1863: An Irish Civil War?" ''History Ireland'' (March 2003) 11#2, pp 22-27. </ref>。
[[2002年]]の米国映画『[[ギャング・オブ・ニューヨーク]]』は事件当時を舞台としており、暴動の発生理由は徴兵回避には富裕層でなければ用意できない大金を払わねばならず、当然ながらそうした制度が富裕層贔屓だと市民が激怒したのが理由として挙げられている。また、劇中では暴動発生より前、『[[アンクル・トムの小屋]]』の舞台劇を公演する一座に向けて、黒人解放を名目に北軍に徴兵されるのを嫌う観客が罵声を浴びせる場面もある。

アメリカ太平洋地域研究センター(東京大学院)の徳田勝一は、南北戦争においてアイルランド系移民がアメリカのために勇敢に戦ったにもかかわらず、一般にエスニック連隊として黒人連隊以外が挙げられず、学術的にはあまり注目されていない原因の1つとして、この徴兵暴動にアイルランド系コミュニティが主体的に関わったことを挙げている{{sfn|徳田勝一|2010|pp=81-83}}。先述のように当時、暴動は南軍が裏で糸を引いていたという情報もあって、アイルランド系の軍人たちは、自分らのコミュニティが連邦政府に反旗を翻したと勘違いされることを恐れたと徳田は推測している{{sfn|徳田勝一|2010|pp=86-89}}。「暴動の各局面におけるアイルランド系移民の存在感が際立っていたため、アイルランド人コミュニティの世評は著しく貶められた」が、[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|翌1864年の大統領選挙]]では、コミュニティとしては民主党候補の[[ジョージ・マクレラン]]を熱狂的に支持した{{sfn|徳田勝一|2010|pp=84-86}}(結果としてニューヨーク州は共和党が勝利するものの得票差1%以下の接戦であった)。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{cite book|last=Harris |first=Leslie M.|title=In the Shadow of Slavery: African Americans in New York City, 1626–1863|year=2003|publisher=University of Chicago Press|pages=279–88|url=http://www.press.uchicago.edu/Misc/Chicago/317749.html|isbn=0226317757| ref = {{SfnRef|Harris|2003}}}}
* {{Cite journal|和書|author=徳田勝一 |title=アイルランド系移民にとっての南北戦争 : 回想録から読み解く「アイルランド人旅団」の記憶 |journal=アメリカ太平洋研究 |issn=13462989 |publisher=東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター |year=2010 |month=mar |volume=10 |pages=81-95 |naid=120002692409 |doi=10.15083/00037147 |url=https://doi.org/10.15083/00037147| ref = {{SfnRef|徳田勝一|2010}}}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ギャング・オブ・ニューヨーク]]
* [[合同法 (1800年)]]
* [[ダニエル・オコンネル]]の{{仮リンク|カトリック教徒解放令<!-- リダイレクト先の「[[カトリック解放]]」は、[[:en:Catholic emancipation]] とリンク -->|en|Roman Catholic Relief Act 1829|FIXME=1}}
* [[ジャガイモ飢饉]]と[[:en:Irish diaspora|Irish diaspora]]
* [[ゲティスバーグの戦い]]
* [[ニューヨーク市警察]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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{{commons|Draft Riots}}
* [http://www.press.uchicago.edu/Misc/Chicago/317749.html The New York City Draft Riots of 1863]
* [http://www.civilwarhome.com/draftriots.htm New York Draft Riots]
* [http://www.civilwarhome.com/draftriots.htm New York Draft Riots]
* [http://lcweb2.loc.gov/ammem/amlaw/ The Library of Congress]
* [http://lcweb2.loc.gov/ammem/amlaw/ The Library of Congress]
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* [http://www.mrlincolnandnewyork.org/inside.asp?ID=91&subjectID=4 Draft Riots] 1863 New York City Draft Riots
* [http://www.mrlincolnandnewyork.org/inside.asp?ID=91&subjectID=4 Draft Riots] 1863 New York City Draft Riots


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2022年6月26日 (日) 07:00時点における版

ニューヨーク徴兵暴動
武装した暴徒と北軍兵士が武力衝突した場面を描いたイラストレイテド・ロンドン・ニュース紙のイラスト
日時1863年7月13日 (1863-07-13) – 1863年7月16日 (1863-7-16)
場所アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン
原因
結果暴動の鎮圧
参加集団
白人の暴徒
ニューヨーク市警
ニューヨーク州民兵
連邦軍(北軍)
死傷者数
死者119ないし120人(諸説あり)
負傷者(最低)2,000人

ニューヨーク徴兵暴動(ニューヨークちょうへいぼうどう、New York City draft riots)、別名にマンハッタン徴兵暴動(Manhattan draft riots)とは、南北戦争中の1863年7月13日から16日に掛けてニューヨークロウアー・マンハッタン(ダウンタウン)で起こった暴動事件。当時は徴兵週間(ドラフト・ウィーク、Draft Week)と呼ばれていた[1]。発端は、その年の3月に連邦議会で可決された徴兵法(Enrollment Act)英語版に対して白人労働者の不満が頂点に達して起きたものであるが、同時にかねてより存在していた奴隷制度廃止運動への反感および黒人に対する差別感情にも火がつき、人種暴動(race riot)の様相も呈した。また、暴徒の多くはアイルランド系の労働者階級の者たちだったという特徴もあった。

1863年は1月に共和党エイブラハム・リンカーン大統領によって正式に奴隷解放宣言がなされ、3月に連邦議会で初の徴兵法が可決された年であった。奴隷解放宣言はニューヨークに黒人労働者を呼び込むと既存の白人労働者に憂慮された。また徴兵法は多くの移民を市民権と引き換えに徴兵対象に含める一方で、黒人は市民とみなされないために対象外であり、白人の富裕層は大金を支払うことで徴兵を回避できた。また、市民の4分の1を占めるアイルランド系移民は伝統的にニューヨークに地盤のあった民主党を支持し、過去のノウ・ナッシングから共和党には不信感を持っていた。こうしてアイルランド系移民が多かったニューヨークの白人労働者の不満と怒りはゲティスバーグの戦い直後の7月半ばに始まった徴兵業務に際して頂点に達した。

当初、暴動は徴兵令に対する怒りを表すためのものであったが、抗議行動は人種憎悪に発展して白人の暴徒が黒人を襲い始め、街中で暴行事件が頻発した。これを受けてリンカーンは、ゲティスバーグの戦い直後の民兵と志願兵からなるいくつかの連隊を暴徒鎮圧のためにペンシルベニア州から引き上げさせ、ニューヨークに派遣することを決めた。しかし、それら主力が到着するには数日を要し、その間に暴徒は多くの公共施設、2つのプロテスタント教会、様々な奴隷廃止論者や賛同者の家、多くの黒人住宅、44丁目・5番街にあった黒人孤児院英語版を略奪や破壊し、焼き討ちした。暴動発生翌日に800人ほどの手勢を率いて現地にやってきた東部方面軍司令官ジョン・E・ウール英語版将軍が「戒厳令を宣言すべきだが、私にはそれを執行するに十分な部隊を持っていない」と述べたほどであった。

暴動発生から4日目の16日に連邦軍や州の民兵が到着し暴動は鎮圧された。正確な死者数は不明だが、一説に119人ないし120人であり、公式には少なくとも2000人が負傷、物的損害は最低でも約100万ドル(2020年現在で約1690万ドル相当)に上った。加えて、この地域の人口構成は変わり、多くの黒人住居者らはマンハッタンからブルックリンに移り住んだ。一方、暴徒たちの主力であったアイルランド人コミュニティの世評も著しく貶められることとなった。また、暴徒鎮圧のために多くの軍隊を戦場から引き上げねばならなかったことは、ゲティスバーグで敗北直後の南軍を大いに利すことにも繋がった。この暴動はアメリカ史上最大の市民運動であると同時に、最も人種差別的な都市騒乱であったとも評される。

背景

1863年6月23日に掲示された徴兵登録を促すニューヨーク市のポスター

南北戦争直前のニューヨーク

当時のニューヨークは北部の中でも南部と経済的な結びつきが強かった都市であり、1822年に船積みされる輸出品の半分近くは綿花が占めるほどであった[2]。 また、州北部では南部の綿花を加工する織物工場があった。南部諸州の離脱が始まっていた1861年1月7日には、民主党のフェルナンド・ウッド英語版市長が、市会議員に対して「(州都の)オールバニと(連邦首都の)ワシントンから、市の独立を宣言する」ように要請し、「南部諸州の全面的かつ統一的な支持を得るだろう」と述べるほど[3]、ニューヨークと南部には強いビジネス上の結びつきが存在した。 同年4月に南北戦争が勃発した時、ニューヨークには南部諸州(アメリカ連合国)に共感する者も多かった[4]

また、ニューヨークは多くの移民が集まる街でもあり、1840年代以降、そのほとんどはアイルランドドイツからの移民であった。例えば1860年当時、市の人口の25パーセント近くが、その多くが英語を話せないドイツ出身者であり、戦争直前には市内人口80万人の25パーセントがアイルランド系移民になっていた[5]。こうした情勢にあって、ウッド市長の出身母体でもあった民主党系の政治団体タマニー協会では、地方選挙での票田とすべく移民をアメリカ市民に登録する活動を行っており、特にアイルランド系移民を勧誘していた[6]。一方で、1850年代に興隆し、60年代には瓦解していた移民排斥を訴えるノウ・ナッシング運動の残党が共和党に合流して、その躍進の一助になっていたために、アイルランド系移民は共和党に対する不信感があった[5]。もっとも、南北戦争の発端となるサムター要塞の戦いが起こるとアイルランド系コミュニティでも連邦支持が優位となり、彼らアイルランド系で構成される10以上の義勇連隊がすぐに充足した[5]

黒人差別と奴隷解放宣言

1840年代から80年代にかけてはジャーナリスト達が白人労働者階級を対象として、異人種間の付き合いや関係、結婚の「不道徳性(evils)」をセンセーショナルに煽る記事を掲載しており、改革運動家たちもこの流れに加わっていた[6]。 新聞は黒人を侮蔑的に扱い、「投票、教育、雇用における平等な権利に対する黒人の願望」を嘲笑した。骨相学を基にした疑似科学的な講義は、医師たちの批判を受けても人気を博した[要出典]。 こうした黒人の扱いは労働問題の分野にも存在し、1850年代からすでに黒人と白人労働者の間には緊張関係があった。特に港湾地域において自由民となった黒人と白人移民が低賃金労働を巡って対立関係にあった。

1861年のエイブラハム・リンカーンの大統領就任は、伝統的に民主党の地盤であったニューヨークにも影響を与え、1862年に新たな市長に当選したのは共和党のジョージ・オプダイクであった。そうした中で1863年1月に正式に行われた奴隷解放宣言は、解放された黒人奴隷がさらにニューヨークに流入してくるのではないかと白人の労働者階級を憂慮させた。同年3月には白人の港湾労働者が黒人労働者との労働を拒否して暴動を起こし、200人の黒人を襲撃する事件を引き起こした[6]

連邦徴兵法の可決と白人労働者層の不満

1863年3月、連邦議会は長引く戦争に対して、兵力補充のため、初の徴兵法(Enrollment Act)英語版を可決した。この法は移民からすれば市民権を得るためには徴兵登録を義務付けられるものであった。一方で、黒人は市民と見なされないがゆえに徴兵の対象から外され、裕福な白人は300ドル(2021年現在で6,600ドルに相当)の大金を支払うことで徴兵を回避することができた(300ドル条項)[5][6]。このため、白人移民の労働者層に不公正感が渦巻く中で、さらに共和党の市長として戦争に協力的であったオプダイクのスキャンダラスな収賄疑惑が持ち上がっていた。

6月に戦争に反対する新聞や、あるいは民主党は徴兵法にかこつけて白人労働者階級を扇動した。戦時体制における経済的苦境の中にあって白人労働者は黒人のために売られ、連邦政府は「ニガー戦争」を根拠に地方政治に介入すると批判した。白人労働者からすれば、戦争を通して自分たちの犠牲によって黒人が権利が獲得していくように見え、相対的に政治的影響力と経済的地位が急速に低下していくように錯覚した[6]。アイルランド系のコミュニティ内でも、かねてよりあった親南部的感情や共和党への不信感が主戦派と和平派の分裂を生み出し、黒人のためにアイルランド人の血が流れるのは許されないという意見も出てきていた[5]

暴動の経過

ジョン・アレグザンダー・ケネディ英語版。ニューヨーク市警本部長(1860年-1870年)
酒の提供を断って暴徒たちの焼き討ちにあったホテル「ブルズ・ヘッド」(1830年に描かれた絵)
襲撃を受けるトリビューン紙の建物。
暴徒たちの襲撃を受けるレキシントン・アベニューの建物。

暴動直前

7月11日(土曜日)、徴兵対象者に対する最初の抽選が行われた。この日、バッファローや他の都市では暴動が起こったと報道されたが、マンハッタンでは平穏に終わった[6]

7月13日(月曜)、暴動発生

ゲティスバーグの戦いでの北軍の勝利から10日後の7月13日(月曜日)に2回目の抽選が行われた。午前10時、「ブラック・ジョーク(Black Joke)」として知られた第33機関団の志願消防士に率いられた約500人の群衆が、抽選が行われていた3番街・47丁目の第9区憲兵司令部を襲撃した[7]

群衆は大きな敷石を窓に投げつけたり、ドアを破り、そして建物に火をつけた[8]。 消防隊が駆けつけると暴徒たちは彼らの車を破壊した。馬車鉄道の馬を殺し、車両を破壊した者たちもいた。さらに暴徒たちは市内の他の地域に通報されるのを防ぐために、電信線を切断した[7]

ニューヨーク州の民兵隊(州兵)はゲティスバーグに派兵されていたため、暴動の鎮圧は地元のニューヨーク市警のみで行わなければならなかった[8]。 警察本部長のジョン・ケネディ英語版は状況確認のため現場を訪れた際に暴徒に襲われた。彼は制服を未着用であったが、暴徒の中に彼を識別した者がいた。ケネディはほとんど意識を失い、顔には痣と切り傷があり、目を負傷して唇は腫れ上がり、手はナイフで切られた状態だった。全身にも痣が残り、血まみれになるほど殴られた[1]

警察は警棒と拳銃で応対したが、逆に圧倒された[9]。 多勢に無勢であり、鎮圧することはできなかったが、暴徒たちをユニオンスクエアから南部のロウワー・マンハッタンより遠ざけることはできた[1]サウス・ストリート・シーポートファイブ・ポインツ周辺の「血塗れの第6地区(Bloody Sixth)」の住人たちは暴動には参加しなかった[10]。 憲兵隊の一部として配属されていた第1大隊所属第19中隊の傷痍軍人の隊は、銃声で暴徒を鎮圧しようとしたが逆襲を受け、14名以上の負傷者と1名の行方不明者(おそらく死亡)を出した。

44丁目にあったホテル「ブルズ・ヘッド(Bull's Head)」は、暴徒たちに酒を提供することを拒否して焼かれた。5番街にあった市長の邸宅も狙われたが、ジョージ・ガードナー・バーナード判事の説得によって破壊は免れ、その代わり約500人の暴徒たちは別の場所で略奪に勤しんだ[11]。 第8地区と第5地区の警察署や、その他の建物は襲撃された上に火をつけられた。ニューヨーク・タイムズ紙の事務所も狙われたが、タイムズの創設者ヘンリー・ジャーヴィス・レイモンド英語版を含めた職員たちはガトリング砲で武装して暴徒たちを待ち受け、彼らを追い返した[12]。 消防隊も出動していたが、彼らの一部にも徴兵が決まった消防士たちがいたために、暴徒らに同情的であった。ニューヨーク・トリビューン紙は、警察が到着して消火活動および暴徒らを追い払うまで、略奪に遭い燃えていた[11][9]。 午後遅く、2番街と21丁目にあった武器庫が襲撃された際に、当局は男を射殺した。暴徒たちは通りの敷石を剥がして投げつけ、すべての窓を割った[7]。 暴徒は多くの黒人市民にも襲いかかり、拷問や殺害を行った。その中には400人の暴徒の群れに棍棒や敷石で殴られた上に、木に首を吊られて火をつけられた男もいる[7]

43丁目・5番街にあった黒人孤児院英語版は「白人による黒人への施しと彼らの上昇志向の象徴」[6]として233人の子供たちを保護していたが、午後4時頃に暴徒たちの襲撃を受けた。暴徒たちの中には女性や子供も含まれており、彼らは食材や物資を略奪し、火を放った。しかし、警察が孤児院を確保したことで、建物が焼け落ちる前に孤児たちを救出することはできた[9]。 暴動が起こった地域全体で、暴徒たちは多数の黒人市民を襲い、殺害し、また、彼らが黒人が住んでいると知っていた住居も破壊した。さらにアメリカ国内で初めて黒人が経営者となったとされる、ウエスト・ブロードウェイ93番地にあったジェームズ・マキューン・スミス英語版の薬局も破壊された[6]

3月に黒人に対する暴動があったミッドタウンの港湾地域でも、同様の襲撃が行われた。暴徒たちは「すべての黒人港湾労働者(porters, cartmen and laborers)」を探しに通りになだれ込み、港付近一帯から黒人や彼らとの社会生活の痕跡を完全に消し去ろうとした。白人の港湾労働者たちは、黒人向けの売春宿、ダンスホール、寄宿舎、アパートを襲撃して破壊した。そして彼らを雇う白人事業主を襲い、彼らの衣服を剥ぎ取った[6]

7月14日(火曜)

月曜の夜に大雨が降ったことで火災は収まり、暴徒たちは一度は帰宅したが、再び集まり始めた。暴徒たちは刑務所改革者かつ奴隷廃止論者であったアイザック・ホッパー英語版の娘アビー・ギボンズ英語版の家を焼き払った。彼らはまた黒人と結婚していた2人の白人女性アン・デリクソンとアン・マーティン、また黒人男性を客にしていた白人娼婦のメアリー・バークといった白人を「混血主義者(amalgamationists)」として攻撃した[6][13]

現地に到着したホレイショ・シーモア知事は、市庁舎で徴兵法は違憲であると宣言する演説を行い、暴徒たちを宥めようとした。また、東部地区司令官ジョン・E・ウール英語版将軍は、ニューヨーク港の砦、陸軍士官学校(ウェストポイント)ブルックリン海軍工廠から約800人の兵士を率いて現地に到着し、またニューヨークから離れていた民兵隊に戻って来るよう命令を出した[9]。後にウールは「戒厳令を宣言すべきだが、私にはそれを執行するに十分な部隊を持っていない」と司令部に報告した[14]

7月15日(水曜)

徴兵の抽選業務を行っていた憲兵司令部のロバート・ヌージェント司令官が、上官にあたるジェームス・バーネット・フライ大佐から徴兵延期の通達を受けて状況は好転した。このニュースが新聞で報じられると一部の暴徒は自宅に留まった。一方で民兵隊の一部が帰還し、暴徒の残党らに苛烈な処置を取り始めていた[9]。 暴動はブルックリンスタテンアイランドにも広がった[15]

7月16日(木曜)、暴動鎮圧

暴動発生から4日目の16日、秩序が回復し始めた。ニューヨーク州の民兵隊と、その他一部の連邦軍(第152ニューヨーク義勇連隊、第26ミシガン義勇連隊、第27インディアナ義勇連隊、ニューヨーク州民兵第7連隊)が、メリーランド州フレデリックから強行軍の末にニューヨーク市内に到着した。さらに州知事は連邦軍には参加していなかった州民兵第74連隊と第65連隊、さらにスロッグス・ネックのシュイラー要塞に駐屯していた第20独立砲兵部隊(義勇兵)の一部も派遣した。最初にニューヨークの民兵部隊が到着した。市内には数千人の民兵と連邦軍がいた[14]

最後の戦闘は、夕方にグラマシー・パーク近くで発生した。エイドリアン・クックによれば、この暴動最後の日に、暴徒と警察・軍隊の小競り合いで12人が死亡したという[16]

被害状況と影響

ニューヨーク徴兵暴動における被害について、最も信頼できる推定では、最低でも2000人が負傷したとされている。死者数については正確な数は不明だが、歴史家のジェームズ・M・マクファーソン英語版によれば119人ないし120人が殺されたとしている[17][18]。本件を扱った1928年の小説『ザ・ギャング・オブ・ニューヨーク英語版』(2002年の同名映画の原作)の著者ハーバート・アズベリー英語版は、死者2,000人、負傷者8,000人という数を唱えたが[19]、これは異論もある[20]。 物的損害額は、約100万ドルから500万ドルと見積もられている(2020年現在の価値に換算して1690万ドルから8470万ドルに相当)[19][21]。後に市財政局は、その額の4分の1を補償した。

この暴動はアメリカ史上最大の市民運動であると同時に、最も人種差別的な都市騒乱であったとも評される[22]

黒人層の被害と救済

焼き討ちに遭った黒人孤児院英語版

上記の通り、きっかけは徴兵法であったが、この事件は黒人層への被害が大きかった。特に港湾地域において、港湾労働者による黒人男性への暴力が激しかった[6]。5日間で計11名の黒人が吊られた状態で殺され[23]、その一部の件について記した当時の記録がある。

ブロードウェイの西26丁目以下は昨夜の9時には静かなものだった。同時刻、7番街・27丁目の角に群衆が集まっていた。 この場所は朝に一人、また夕方6時にもう一人、黒人(ニグロ)が吊るされていた所だった。 朝方の方の死体は駅舎で衝撃的な姿を見せていた。その指とつま先は切り落とされ、一寸の余地もないほど、切り刻まれた痕だらけであった。 もう一方は、午後遅くに西27丁目の自宅から引きずり出された者であり、歩道で殴打や恐ろしいやり方で乱打され、そして木に吊るされた[24]

暴動の発生中には、暴徒たちが家屋を破壊することを恐れた家主によって、住居から追い出された黒人たちもいた。店を破壊されたジェームズ・マキューン・スミスは家族と共にニューヨーク(マンハッタン)を離れ、同様に何百人もの黒人たちが近辺のブルックリンウィリアムズバーグ[注釈 1]ニュージャージーに移り住んだ[6]。その結果、1865年には市内の黒人人口は1万人を下回り、1820年以来の低水準となった[6]。白人労働者階級による暴動は人口構成を変え、白人たちが職場での支配的勢力となり、黒人層と「明確に分断」されることとなった[6](その後、マンハッタンに黒人が戻ってくるのは20世紀初頭のアフリカ系アメリカ人の大移動の時であり、現在において黒人街として知られるハーレムが形成されることになる)。

一方でニューヨークのエリート層の白人らは、黒人の暴動被害者を救済し、新しい仕事や家を見つけるための組織だった活動を行った。ユニオン・リーグ・クラブ英語版と、 黒人救済のための商業者委員会(Committee of Merchants for the Relief of Colored People)は、暴動の被害者2,500人に計40,000ドルあまりを提供した[6]。また、ユニオン・リーグ・クラブは、1863年12月に黒人志願兵2000人以上を集め、装備や訓練を施した。1864年3月、彼らを称え、ハドソン川の埠頭まで送り出す市内パレードが行われ、ユニオン・リーグ・クラブと警察が先導するパレードに10万人の観衆が集まった[6][25][26]。もっとも黒人との融和を目指す主催者たちとの意図とは裏腹に、黒人に対する偏見を完全に払拭することはできなかった。結局、ニューヨークが人種差別の問題を克服し、黒人の自由のために団結することは一度もなかった[6]

徴兵業務と戦争への影響

迫り来る暴徒に連邦軍が攻撃する様子のイラスト

歴史家のサミュエル・モリソンは、この暴動は「南軍の勝利に相当するもの」と記した[21]。 この暴動を鎮圧するために北軍は4000人規模の部隊をゲティスバーグから引き上げねばならなくなり、これは敗北で疲弊した北バージニア軍(南軍の主力軍)を追撃できたかもしれないものであった[15]。 当時の新聞には、暴動は南軍の指示を受けたスパイが引き起こしたという報道もあった[27]

一方、発端となった徴兵業務について政府は8月19日に再開した。これは特に大過なく10日以内に完了した。実際のところ、徴兵された数は白人労働者が恐れていたよりは少なく、全国で徴兵対象者75万人のうち、現役勤務は4万5000人ほどに過ぎなかった[28]。この暴動は主に白人労働者階級を巻き込んだものであったが、徴兵制やそれを実施するにあたっての連邦政府の権限や戒厳令の行使については、ニューヨーク市民の中流階級と上流階級で意見が分かれるところであった。民主党に所属する裕福な実業家の多くは徴兵制を違憲とするように求めていた。タマニー協会の民主党員は違憲とすることまでは求めていなかったが、徴兵者に対する恩給の支給に貢献した[29]

ニューヨークの北軍に対する支援は不本意ながらも継続されたが、ただそれも次第に南部への同情は薄れていった。市内の銀行は戦費を提供し、州の産業は南軍全体のそれよりも生産性が高かった。終戦までに、当時最も人口の多かったニューヨーク州から、45万人以上の兵士や水兵が戦争に参加した。このうち、4万6000人が戦争中に亡くなったが、ほとんどの戦闘員がそうであったように、この死因は戦闘による負傷よりも病死が多かった[3]

アイルランド系移民への影響

トビー・ジョイスは「この暴動はアイルランド系アメリカ人の暴徒が、警察・兵士・主戦派の政治家と対立したものであり、その対峙者たちも相当数が地元のアイルランド系移民のコミュニティー出身者」であり、アイルランド系カトリック社会における「内戦」の様相を呈していたと評す[30]

アメリカ太平洋地域研究センター(東京大学院)の徳田勝一は、南北戦争においてアイルランド系移民がアメリカのために勇敢に戦ったにもかかわらず、一般にエスニック連隊として黒人連隊以外が挙げられず、学術的にはあまり注目されていない原因の1つとして、この徴兵暴動にアイルランド系コミュニティが主体的に関わったことを挙げている[31]。先述のように当時、暴動は南軍が裏で糸を引いていたという情報もあって、アイルランド系の軍人たちは、自分らのコミュニティが連邦政府に反旗を翻したと勘違いされることを恐れたと徳田は推測している[27]。「暴動の各局面におけるアイルランド系移民の存在感が際立っていたため、アイルランド人コミュニティの世評は著しく貶められた」が、翌1864年の大統領選挙では、コミュニティとしては民主党候補のジョージ・マクレランを熱狂的に支持した[5](結果としてニューヨーク州は共和党が勝利するものの得票差1%以下の接戦であった)。

脚注

注釈

  1. ^ 当時のブルックリンは、ブルックリン橋建造前で、フェリーで行き来するニューヨーク市外の扱いだった。

出典

  1. ^ a b c Barnes, David M. (1863). The Draft Riots in New York, July 1863: The Metropolitan Police, Their Services During Riot. Baker & Godwin. pp. 5–6, 12. https://archive.org/details/draftriotsinnew01barngoog 
  2. ^ "King Cotton Cotton Trade" Archived March 30, 2013, at the Wayback Machine., New York Divided: Slavery and the Civil War, New-York Historical Society; accessed May 12, 2012.
  3. ^ a b Roberts, Sam (2010年12月26日). “New York Doesn't Care to Remember the Civil War”. The New York Times. http://cityroom.blogs.nytimes.com/2010/12/26/new-york-doesnt-care-to-remember-the-civil-war/?ref=nyregion 2014年4月26日閲覧。 
  4. ^ New York Divided: Slavery and the Civil War Online Exhibit, New York Historical Society (November 17, 2006 to September 3, 2007, physical exhibit); accessed May 10, 2012.
  5. ^ a b c d e f 徳田勝一 2010, pp. 84–86.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Harris 2003.
  7. ^ a b c d “The Mob in New York”. The New York Times. (1863年7月14日) 
  8. ^ a b Schouler, James (1899). History of the United States of America, Under the Constitution. Dodd, Mead & Company. p. 418. https://archive.org/details/historyunitedst03schogoog 
  9. ^ a b c d e Rhodes, James Ford (1902). History of the United States from the Compromise of 1850, Volume 4. New York: Macmillan. pp. 320–23. https://archive.org/details/historyofuniteds04rhod 
  10. ^ Bernstein, Iver (1990), pp. 24–25.
  11. ^ a b “The Mob in New York”. The New York Times. (1863年7月14日). https://static01.nyt.com/packages/pdf/archives/draftriots_07-14-1863.pdf 
  12. ^ "On This Day", New York Times; accessed March 17, 2016.
  13. ^ Bernstein, Iver (1990), pp. 25–26
  14. ^ a b Maj. Gen. John E. Wool Official Reports for the New York Draft Riots”. Shotgun's Home of the American Civil War blogsite. 2020年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月16日閲覧。
  15. ^ a b New York Draft Riots”. HISTORY. A&E Television Networks (2021年4月16日). 2022年1月13日閲覧。
  16. ^ Cook, Adrian (1974). The Armies of the Streets: The New York City Draft Riots of 1863, The University Press of Kentucky.[要ISBN][要ページ番号]
  17. ^ McPherson, James M. (1982), Ordeal By Fire: The Civil War and Reconstruction, New York: Alfred A. Knopf, p. 360, ISBN 978-0-394-52469-6, https://archive.org/details/ordealbyfirecivi0000mcph 
  18. ^ VNY: Draft Riots Aftermath”. Vny.cuny.edu. 2017年8月1日閲覧。
  19. ^ a b Asbury, Herbert (1928). The Gangs of New York. Alfred A. Knopf. p. 169 
  20. ^ Pete Hamill (2002年12月15日). “TRAMPLING CITY'S HISTORY 'Gangs' misses point of Five Points”. New York Daily News. http://knickerbockervillage.blogspot.com/2007/11/gangs-of-new-york-2.html 
  21. ^ a b Morison, Samuel Eliot (1972). The Oxford History of the American People: Volume Two: 1789 Through Reconstruction. Signet. pp. 451. ISBN 0-451-62254-5 
  22. ^ Foner, Eric (1988). Reconstruction: America's Unfinished Revolution, 1863–1877. The New American Nation. New York: Harper & Row. pp. 32–33. ISBN 0-06-093716-5. https://archive.org/details/isbn_9780060158514  (updated ed. 2014, ISBN 978-0062354518).
  23. ^ McPherson, James M. (2001). Ordeal by Fire: The Civil War and Reconstruction. McGraw-Hill Education. p. 399. ISBN 0077430352. https://books.google.com/books?isbn=0077430352 
  24. ^ “The New York Riot: The Killing of Negroes”. Buffalo Morning Express and Illustrated Buffalo Express (Buffalo, New York). (1863年7月18日) 
  25. ^ Jones, Thomas L. (2006). “The Union League Club and New York's First Black Regiments in the Civil War”. New York History 87 (3): 313–343. JSTOR 23183494. 
  26. ^ For the context see Seraile, William (2001). New York's Black Regiments During the Civil War. New York: Routledge. ISBN 9780815340287 
  27. ^ a b 徳田勝一 2010, pp. 86–89.
  28. ^ Donald, David (2002). Civil War and Reconstruction. Pickle Partners Publishing. p. 229. ISBN 0393974278 
  29. ^ Bernstein, Iver (1990), pp. 43–44
  30. ^ Toby Joyce, "The New York Draft Riots of 1863: An Irish Civil War?" History Ireland (March 2003) 11#2, pp 22-27.
  31. ^ 徳田勝一 2010, pp. 81–83.

参考文献

関連項目

外部リンク