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「フランツ (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)」の版間の差分

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*男子(死産、1782年)
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*[[エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エルンスト・アントン・カール・フリードリヒ]](1784年 - 1844年) - ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公、後に[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]]エルンスト1世。[[ヴィクトリア (イギリス女王)]]の夫([[王配]])[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]の父。
*[[エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エルンスト・アントン・カール・フリードリヒ]](1784年 - 1844年) - ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公、後に[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]]エルンスト1世。[[ヴィクトリア (イギリス女王)]]の夫([[王配]])[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]の父。
*[[フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ|フェルディナント・ゲオルク・アウグスト]](1785年 - 1851年) - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王配[[フェルナンド2世 (ポルトガル王)|フェルナンド2世]]の父、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]王[[フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド1世]]の祖父。
*[[フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ|フェルディナント・ゲオルク・アウグスト]](1785年 - 1851年) - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王配[[フェルナンド2世 (ポルトガル王)|フェルナンド2世]]の父、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]王[[フェルディナン (ブルガリア王)|フェルディナン]]の祖父。
*[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|マリー・ルイーゼ・ヴィクトリア]](1786年 - 1861年) - ライニンゲン侯カールと結婚、後にイギリス王子[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公エドワード]]と結婚。イギリス女王ヴィクトリアの母。
*[[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|マリー・ルイーゼ・ヴィクトリア]](1786年 - 1861年) - ライニンゲン侯カールと結婚、後にイギリス王子[[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント公エドワード]]と結婚。イギリス女王ヴィクトリアの母。
*マリアンネ・シャルロッテ(1788年 - 1794年)
*マリアンネ・シャルロッテ(1788年 - 1794年)

2021年9月17日 (金) 22:33時点における版

フランツ
Franz
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
在位 1800年 - 1806年

出生 (1750-07-15) 1750年7月15日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公領、コーブルク
死去 (1806-12-09) 1806年12月9日(56歳没)
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、コーブルク
埋葬 ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、コーブルク、ホーフガルテン
配偶者 ゾフィー・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン
  アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ
子女 一覧参照
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト・フリードリヒ
母親 ゾフィー・アントイネッテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
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フランツ・フリードリヒ・アントン(Franz Friedrich Anton, 1750年7月15日 - 1806年12月9日)は、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公(在位:1800年 - 1806年)。ベルギーイギリスブルガリアの王家となったザクセン=コーブルク=ゴータ家の共通の祖である。

ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト・フリードリヒと妃ゾフィー・アントイネッテ(父はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナント・アルブレヒト2世)の長男として生まれた。父の死により1800年に公位を継承し、6年後の1806年に死去した。

結婚と子女

1776年3月6日ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公エルンスト・フリードリヒ3世カールの娘ゾフィーとヒルトブルクハウゼンで結婚したが、同年10月28日に死別した。

1777年ロイス=エーベルスドルフ伯ハインリヒ24世の娘アウグステエーベルスドルフで結婚した。2人の間には9子(死産を除く)が生まれた。

系譜

フランツ 父:
エルンスト・フリードリヒ
祖父:
フランツ・ヨシアス
曽祖父:
ヨハン・エルンスト (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公)
曽祖母:
シャルロッテ・ヨハンナ(ヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯女)
祖母:
アンナ・ゾフィア
曽祖父:
ルートヴィヒ・フリードリヒ1世 (シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯)
曽祖母:
アンナ・ゾフィア
母:
ゾフィー・アントイネッテ[1]
祖父:
フェルディナント・アルブレヒト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)
曽祖父:
フェルディナント・アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)
曽祖母:
クリスティーネ・ヴィルヘルミーネ(ヘッセン・エシュヴェーゲ方伯女)
祖母:
アントイネッテ・アマーリエ[2]
曽祖父:
ルートヴィヒ・ルドルフ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)
曽祖母:
クリスティーネ・ルイーゼ(エッティンゲン候女)

[1]の次兄アントン・ウルリヒは、ロシア女帝の後継者と見なされていたアンナ・レオポルドヴナと結婚。ロシア皇帝イヴァン6世の父。長姉エリーザベト・クリスティーネは、プロイセン王フリードリヒ2世妃であり、次姉ルイーゼ・アマーリエはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の母となった。末妹ユリアーネ・マリーデンマークノルウェーフレデリク5世妃。

[2]の長姉エリーザベト・クリスティーネは、神聖ローマ皇帝カール6世の皇后であり、マリア・テレジアの母である。

先代
エルンスト・フリードリヒ
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公
1800年 - 1806年
次代
エルンスト1世