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「満珠 (練習艦)」の版間の差分

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2021年9月18日 (土) 07:21時点における版

満珠
1889年から1893年ころ、練習航海時の「満珠」[1]
1889年から1893年ころ、練習航海時の「満珠」[1]
基本情報
建造所 小野浜造船所[2][3]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 風帆練習艦[4][2](航海練習船[5])
建造費 予算 95,000円[6]
母港 竣工(1888年)時 横須賀[5]
1890年時 佐世保[7]
艦歴
発注 1886年7月24日製造訓令[3]
起工 1886年8月31日[2][8]
進水 1887年8月18日[4][8]
竣工 1888年6月13日[8][9][注釈 1]
除籍 1896年9月26日[8]
その後 第5種船として佐世保海兵団所属[2]
1909年9月17日廃船[10]
1910年1月20日文部省移管[10]
要目(竣工時)
排水量 876トン[4] または877トン[2]
長さ 134 ftin (41.00 m)[4][注釈 2]
34 ft 6 in (10.52 m)[4][注釈 2]
深さ 18 ft 6 in (5.64 m)[4]
吃水 平均 13 ft 0 in (3.96 m)[4][注釈 2]
推進 帆走、帆面積1,900平方フィート[11]
乗員 竣工時定員 229名(うち練習兵140名)[12]
兵装 竣工時[4][注釈 3]
30斤アームストロング砲2門
12斤アームストロング砲2門
1894年7月時[13]
旧式後装20ポンド安砲 2門
旧式後装12ポンド安砲 2門
短4ポンド山砲 1門
1インチ4連諾砲 2基
その他 信号符字:GQDM[14]
トンは英トン
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満珠(まんじゅ)は日本海軍の帆走練習艦。艦名は関門海峡東口にある満珠島にちなむ。島名は日本書紀の記述に由来する。

艦歴

建造経緯

帆走練習艦としては従来「富士山」「肇敏」を使ってきたが老朽化により代艦が必要となった[15]。ただ新造船には他の役務があり、帆走を備える艦船も少なくなった[15]。また鋼鉄製の艦船の登場により貯蓄していた木材の需要も少なくなったため、木造の帆走練習船として「満珠」「干珠」の2艦が建造された[15]

建造

艦型は三檣バーク[4][11]、明治19年度計画(1886年)で、小野浜造船所で建造された[16]。起工日は異なるが、進水、竣工とすべて同型艦の「干珠」と同一日である[10]

竣工後

竣工後は練習艦として使用され[16]、1890年(明治23年)8月23日に第三種に定める[7][16]日清戦争では軍港警備艦とされた[17]。その2年後の1896年(明治29年)9月26日に「干珠」とともに除籍された[8][10]。船体は佐世保海兵団付属とされ、1909年(明治42年)9月17日に廃船、翌1910年(明治43年)1月20日に文部省に移管[10]、佐賀県立商船工業学校の実習船となった[16]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 野村清 少佐:1887年12月24日 - 1889年5月15日
  • 飯田信臣 少佐:1889年5月15日 - 1890年5月13日
  • 三善克己 少佐:1890年5月13日 - 1891年7月23日
  • 河村弘貞 少佐:1891年7月23日 - 1892年8月27日
  • 世良田亮 少佐:1892年8月27日 - 1893年5月20日
  • 東郷正路 少佐:1893年5月20日 - 1894年6月8日
  • 酒井忠利 少佐:1896年4月1日 - 1896年8月13日

同型艦

参考文献

  • 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 『官報』
  • アジア歴史資料センター(公式)防衛省防衛研究所
    • 『明治21年 達 完』。Ref.C12070024700。 
    • 『明治27・8年 戦史編纂準備書類 3/A 軍艦及巡洋艦代船及水雷艇の出師準備 B 常備、予備、臨時備付の兵器 C 常備、予備、臨時備付の弾薬(3)』。Ref.C08040465800。 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 武蔵 鳥海 小鷹 満珠 干珠 明治15~21/18年7月24日 横須賀鎮守府へ訓令 854噸の練習艦2艘小野浜製造所に於て製造の件』。Ref.C11081441500。 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 武蔵 鳥海 小鷹 満珠 干珠 明治15~21/20年9月7日 小野浜造船所上申 満珠干珠両艦命名の節大臣に呈出したる明細並費目書』。Ref.C11081442500。 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 武蔵 鳥海 小鷹 満珠 干珠 明治15~21/21年6月16日 艦政局届 満珠干珠両艦を本船長に引渡済』。Ref.C11081442800。 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 武蔵 鳥海 小鷹 満珠 干珠 明治15~21/21年6月26日 横須賀鎮守府へ伝達 満珠干珠両艦横須賀鎮守府所属航海練習船と定めらる』。Ref.C11081442900。 

脚注

注釈

  1. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.449では明治19年9月13日竣工としているが誤り。
  2. ^ a b c #日本近世造船史明治(1973)p.449によると、長さ134ft(40.84m)、幅27ft(8.23m)、吃水14ft(4.27m)。『日本海軍史』第7巻pp.226-227によると長さ47.5m、幅10.5m、吃水4.28m。
  3. ^ 『日本海軍史』第7巻p.226によると砲5門(時期不明)

出典

  1. ^ #日本海軍全艦艇史上巻p.492、写真No.1250の解説。
  2. ^ a b c d e #日本近世造船史明治(1973)p.449
  3. ^ a b #公文備考別輯-武蔵鳥海小鷹満珠干珠/満珠干珠製造訓令画像1-2、『普三五六五 七月廿四日(中略)發付七月廿四日(中略)風帆練習艦製造方?付鎮守府ヘ訓令案 風帆練習艦二艘製造?儀?付昨十八年九月鎮富第二四三号ヲ以テ其府上申??趣旨??????八百五十四噸??帆船式艘小野濱造船所ニ於テ製造セシムヘキ筈??条其????委細艦政局?怊議ヲ遂クヘシ 右訓令ス 明治十九年七月二十四日 海軍次?爵氏名 横須賀鎮守府司令長官宛 理由(以下略)』
  4. ^ a b c d e f g h i #公文備考別輯-武蔵鳥海小鷹満珠干珠/満珠干珠明細並費目書画像2-3
  5. ^ a b #公文備考別輯-武蔵鳥海小鷹満珠干珠/満珠干珠両艦横須賀鎮守府所属航海練習船と定めらる画像1『普四三〇五 満珠舩 千珠舩 右其府所属航海練習舩ト定メラル 右伝達ス 明治二十一年六月廿六日 海軍大臣 横須賀鎮守府司令長官宛』
  6. ^ #公文備考別輯-武蔵鳥海小鷹満珠干珠/満珠干珠明細並費目書画像4
  7. ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.59『軍艦種別ノ件 明治二十三年八月二十三日(達三〇四) (以下略)』
  8. ^ a b c d e #日本海軍艦船名考pp.57-58
  9. ^ #公文備考別輯-武蔵鳥海小鷹満珠干珠/満珠干珠引渡済画像1
  10. ^ a b c d e #聯合艦隊軍艦銘銘伝2014p.555
  11. ^ a b #日本近世造船史明治(1973)p.299
  12. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.175、明治20年9月28日附訓令第104号『満珠艦干珠艦定員左表ノ通定ム(定員表省略)』。練習兵は『練習二等若水兵』と記載。
  13. ^ #明治27・8年戦史編纂準備書類3/A出師準備B兵器C弾薬(3)画像23
  14. ^ #達明治21年 画像1『達第百二十八號 各艦船ニ萬國信號符字ヲ左ノ如ク點付シ明治十九年一月丙第三號達符字表中東、雷電、孟春、千代田形、肇敏、蒼龍、攝津、畝傍ノ八艦名及其砲數ヲ示ス數字ヲ刪除ス 明治二十一年十一月五日 海軍大臣伯爵西郷從道 信號符字 艦名 砲數 GQDL 館山 Tate-yama 〇 GQDM 滿珠 Man-ju 四 GQDN 干珠 Kan-ju 四 GQDP 小鷹 Ko-taka 〇 GQDR 第一震天 Dai-ichi-shin-ten 〇 GQDS 第二震天 Dai-ni-shin-ten 〇 GQDT 第三震天 Dai-san-shin-ten 〇 GQDV 第四震天 Dai-shi-shin-ten 〇』
  15. ^ a b c #海軍軍備沿革1921p.17
  16. ^ a b c d 『日本海軍史』第7巻p.466
  17. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝2014pp.528-529

関連項目