「柿 (樅型駆逐艦)」の版間の差分
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|機関||主機:三菱パーソンズ式(高圧インパルス・低圧リアクション式一段減速)[[蒸気タービン|オールギアードタービン]](高低圧) 2基<ref name="帝国海軍機関史下巻pp589-590">[[#帝国海軍機関史]]下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)</ref><br />出力:21,500[[馬力|shp]]<br />ボイラー:[[艦本式ボイラー|ロ号艦本式缶]](重油専焼) 3基 |
2021年9月18日 (土) 07:24時点における版
艦歴 | |
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計画 | 1917年度[1] |
起工 | 1919年2月27日[1] |
進水 | 1919年10月20日[1] |
就役 | 1920年8月2日[1] |
除籍 | 1940年2月1日[1] |
その後 | 1940年11月15日雑役船編入、練習船指定、兵学校附属[1] 1945年2月23日「大須」と改名[1] 終戦直後、台風により江田島で座礁[1] 1947年または1948年に解体[1][2] |
性能諸元(計画) | |
排水量 | 基準:公表値 770トン 常備:850.00トン |
全長 | 全長:290 ft 0 in (88.39 m) 水線長:280 ft 0 in (85.34 m) 垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m) |
全幅 | 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m |
吃水 | 8 ft 0 in (2.44 m) |
深さ | 16 ft 3 in (4.95 m) |
推進 | 2軸 x 400rpm 直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m または直径2.565m、ピッチ3.353m |
機関 | 主機:三菱パーソンズ式(高圧インパルス・低圧リアクション式一段減速)オールギアードタービン(高低圧) 2基[3] 出力:21,500shp ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基 |
速力 | 36ノット |
燃料 | 重油250トン |
航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット |
乗員 | 計画乗員 107名[4] 竣工時定員 110名[5] |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 単装3門 三年式機砲 2挺 53cm連装発射管 2基4門 魚雷8本 |
搭載艇 | 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻 |
備考 | ※トンは英トン |
柹[6](柿、かき)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、樅型駆逐艦の7番艦である。同名艦に橘型駆逐艦の「柿」があるため、こちらは「柿 (初代)」や「柿I」などと表記される。
艦歴
1919年(大正8年)2月27日、浦賀船渠で起工[7]。同年10月20日午後2時30分進水[8]。1920年(大正9年)8月2日竣工[9]。
1932年(昭和7年)、第一次上海事変において揚子江水域の作戦に参加した[1]。
1940年(昭和15年)2月1日除籍。同年11月15日、雑役船に編入され、海軍兵学校付属の練習船となる。前部魚雷発射管を撤去し、その跡と艦尾に甲板室を新設した。その他の兵装は残されたが、1944年(昭和19年)に撤去された[10]。
1945年(昭和20年)2月23日、柿 (橘型駆逐艦)との区別のため、大須(おおす)に改称された。そのまま終戦を迎え、終戦直後に日本を通過した枕崎台風や阿久根台風といった台風で江田内の鷲部海岸に座礁した。10月に入っても座礁したままであることが、進駐したアメリカ軍に確認されている[10]。その後、解体された。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艤装員長
- 小山泰治 少佐:1919年11月1日[11] -
- 駆逐艦長
- 小山泰治 少佐:1920年8月1日[12] - 1920年12月1日[13]
- 原精太郎 少佐:1920年12月1日[13] - 1921年11月1日[14]
- (心得)中田操 大尉:1921年11月1日[14] - 1921年12月1日[15]
- 中田操 少佐:1921年12月1日[15] - 1922年2月1日[16]
- 佐野哲 少佐:1922年2月1日[16] - 1922年11月1日[17]
- (心得)伊藤長 大尉:1922年11月1日[17] - 1922年12月1日[18]
- 伊藤長 少佐:1922年12月1日[18] - 1924年5月10日[19]
- 難波正 少佐:1924年5月10日[19] - 1925年10月5日[20]
- 阿部弘毅 少佐:1925年12月1日 - 1926年12月1日
- 山口次平 少佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
- 松永貞市 少佐:1927年12月1日 - 1929年11月1日
- 則満宰次 大尉:1929年11月1日 - 1930年12月1日
- 瀬戸山安秀 少佐:1930年12月1日 - 1932年12月1日
- 天谷嘉重 少佐:1932年12月1日[21] - 1933年5月17日[22]
- (兼)西村祥治 中佐:1933年5月17日 - 1933年5月25日
- 河野康 少佐:1933年5月25日 - 1933年11月1日
- 久保田智 少佐:1933年11月1日 - 1934年9月29日
- 大迫東 少佐:1934年9月29日[23] - 1936年12月1日[24]
- 相馬正平 少佐:1936年12月1日[24] - 1937年12月1日[25]
- 神田武夫 少佐:1937年12月1日[25] - 1938年12月15日[26]
- (兼)高須賀修 少佐:1938年12月15日[26] - 1939年9月26日[27]
- (兼)江原晃 少佐:1939年9月26日[27] - 1939年11月1日[28]
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、300頁。
- ^ #日本海軍全艦艇史 資料編「主要艦艇艦歴表」12頁。
- ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
- ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
- ^ 「大正7年1月24日付 海軍大臣達 第7号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070073200 による命名時の艦名表記は柿ではなく柹であり、その後艦名変更の達号は存在しない。また船名を大須に変更する際に出された「昭和20年2月23日付 海軍大臣官房 官房軍第95号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070504000 での旧船名欄も柹のままである。
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲。
- ^ #T8公文備考20艦船3/進水画像15『大正八年十月二十日(中略)柹本日午後二時三十分無事進水セリ(了)』
- ^ #T9公文備考21艦船1/駆逐艦栂、柿製造一件画像14『大正九年八月二日 金丸監督官 艦政局長 柿八月二日引渡ヲ了ス(了)』
- ^ a b 「思い出の日本軍艦 二等駆逐艦「樅」型」 『世界の艦船』通巻544集(1998年11月号) 海人社 P.135
- ^ 『官報』第2174号、大正8年11月3日。
- ^ 『官報』第2401号、大正9年8月3日。
- ^ a b 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2776号、大正10年11月2日。
- ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2849号、大正11年2月2日。
- ^ a b 『官報』第3077号、大正11年11月2日。
- ^ a b 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ a b 『官報』第3513号、大正13年5月12日。
- ^ 『官報』第3936号、大正14年10月6日。
- ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ 『官報』第1912号、昭和8年5月19日。
- ^ 『官報』第2326号、昭和9年10月1日。
- ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第383号 昭和14年9月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600
参考文献
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 『日本駆逐艦史』 世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年。ISBN 4-905551-41-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正8年 公文備考 巻20 艦船3/進水』。Ref.C08021315200。
- 『大正9年 公文備考 巻21 艦船1/駆逐艦栂、柿製造一件』。Ref.C08021556600。