コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ツタンカーメン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m HTMLの<b>タグの使用
1965年の展示された都市名を追記
 
(39人の利用者による、間の103版が非表示)
1行目: 1行目:
{{言葉を濁さない|date=2021年9月}}
{{Pharaoh Infobox
{{Pharaoh Infobox
|名前=ツタンカーメン
|名前=ツタンカーメン
|Alt='''Tut ankh Amun'''{{Efn|Tutankhamen, Tutankhamonとも呼ばれる。なお、英語圏ではTutankhamunが一般的である。}},<br/> Tut ankh Aten(生名){{Efn|Tutankhatonとも。}}
|Alt=
|Image=Tutanchamun Maske.jpg
|Image=Tutanchamun Maske.jpg
|Caption=ツタンカーメンの黄金のマスク
|Caption=ツタンカーメンの黄金のマスク
|統治期間=[[紀元前]]1335年–1327年{{Efn|[[ピーター・クレイトン]]はB.C.1334-B.C.1325{{Sfn|Clayton|2006|p=128}}, B.C.1361頃-B.C.1352{{Sfn|ブリタニカ|2016}}, 酒井傳六はB.C.1363-B.C.1354{{Sfn|ニッポニカ|2014}}, {{仮リンク|ユルゲン・フォン・ベッケラート|en|Jürgen von Beckerath}}はB.C.1335-B.C.1325{{Sfnp|Lundström|2011}}, [[屋形禎亮]]はB.C.1347-B.C.1338{{Sfn|屋形|1969|p=222}}{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}, マーチャントはB.C.1321-B.C.1312{{Sfnp|マーチャント|2014|p=9}}など諸説あり。}}
|統治期間=紀元前1333年–1324年
|王朝=第18王朝
|王朝=第18王朝
|共同統治者=ネフェルティティ([[ネフェルネフェルウアトン]])?<ref name="Ridley276" >Ridley(2019) p.276</ref>
|共同統治者=
|前王=[[スメンクカーラー]]?
|前王=[[スメンクカーラー]]
|次王=[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]
|次王=[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]
|即位名=Neb kheperu Ra
|即位名ヒエログリフ=<hiero>N5-L1-Z2:nb</hiero>
|即位名翻字=nb-ḫprw-rꜤ
|即位名翻訳=Lord of the forms of [[ラー|Ra]]
|即位名注=(発音)ネブ ケペルゥ ラー

|誕生名=Tut ankh Amun
|誕生名ヒエログリフ=<hiero>i-mn:n-t-G43-t-S34</hiero>
|誕生名翻字=twt-Ꜥnḫ-imn
|誕生名翻訳=The living image of [[アメン|Amun]]
|誕生名注=(発音)トゥト アンク アメン
|誕生名備考=<hr />誕生名(2):'''Tut ankh Aten'''<br/><hiero>zA*ra-<-i-t:n:ra-t-w-t-anx-n:x-></hiero>
翻字:''twt-Ꜥnḫ-itn''<br/>
翻訳:The living image of [[アテン|Aten]]
<small>注:(発音)トゥト アンク アテン<br/>誕生時の名前</small><hr />


|ホルス名=Ka nakht tut mesut
|ホルス名=Ka nakht tut mesut{{Sfnp|Lundström|2011}}
|ホルス名ヒエログリフ=<hiero>E1:D40-t-G43-t-ms-s-w-t:Z2</hiero>
|ホルス名ヒエログリフ=<hiero>E1:D40-t-G43-t-ms-s-w-t:Z2</hiero>
|HorusPrefix=
|HorusPrefix=
|ホルス名翻字=kꜢ-nḫt twt-mswt
|ホルス名翻字=kꜣ-nḫt twt-mswt
|ホルス名翻訳=The strong bull, pleasing of birth
|ホルス名翻訳=The strong bull, pleasing of birth
|ホルス名注=(発音)カア ナクト トゥト メス
|ホルス名注=発音カア ナクト トゥト メス


|ネブティ名=Nefer hepu segereh tawy
|ネブティ名=Nefer hepu segereh tawy{{Sfnp|Lundström|2011}}
|ネブティ名ヒエログリフ=<hiero> nfr-h:p-w-iz-Z3-s-g:r-H-a:N17:N17-N21:N21 </hiero>
|ネブティ名ヒエログリフ=<hiero> nfr-h:p-w-iz-Z3-s-g:r-H-a:N17:N17-N21:N21 </hiero>
|ネブティ名翻字=nfr-hpw sgrḥ-tꜢwi
|ネブティ名翻字=nfr-hp.w s.grḥ-tꜣ.wï
|ネブティ名翻訳=One of perfect laws, who pacifies the Two Lands
|ネブティ名翻訳=One of perfect laws, who pacifies the Two Lands
|ネブティ名注=(発音)ネフェル へプ セゲレフ タアウィ
|ネブティ名注=発音ネフェル へプ セゲレフ タアウィ


|黄金のホルス名=Wetjes khau sehotep netjeru
|黄金のホルス名=Wetjes khau sehotep netjeru{{Sfnp|Lundström|2011}}
|黄金のホルス名ヒエログリフ=<hiero> U39-xa:Z2-s-Htp:t*p-nTrw </hiero><!--(編集者の方へ;)モバイル版ではヒエログリフが縦に三つ重なって表示されますが、これはTemplate:Infobox Pharaohの技術的な制限によるもので、Infobox外では正常な状態で表示されます。この問題を修正可能な方はTemplateの修正をお願い致します(2022年1月)。-->
|黄金のホルス名ヒエログリフ=<hiero> U39-xa:Z2-s-Htp:t*p-nTrw </hiero>
|黄金のホルス名翻字=wṯs-ḫꜤw sḥtp-nṯrw
|黄金のホルス名翻字=wṯs-ḫꜥ.w s.ḥtp-nṯr.w
|黄金のホルス名翻訳=Elevated of appearances who satisfied the gods
|黄金のホルス名翻訳=Elevated of appearances who satisfied the gods
|黄金のホルス名注=(発音)ウェチェス カウ セホテプ ネチェル
|黄金のホルス名注=発音ウェチェス カウ セホテプ ネチェル

|即位名=Neb kheperu Ra{{Sfnp|Lundström|2011}}
|即位名ヒエログリフ=<hiero>N5-L1-Z2:nb</hiero>
|即位名翻字=nb-ḫpr.w-rꜥ
|即位名翻訳=Lord is the manifestations of [[ラー|Ra]]
|即位名注=(発音)ネブ ケペルウ ラー

|誕生名=Tut ankh Amun{{Sfnp|Lundström|2011}}{{Efn|ツタンカーメンの名前は、音節の句切れはTut ankh amenであるが、これをtu tan kha menと最初期の訳者が誤って区切り音写してしまったものが定着した可能性がある{{要出典|date=2022年1月}}。}}
|誕生名ヒエログリフ=<hiero>i-mn:n-t-G43-t-S34</hiero>
|誕生名翻字=twt-ꜥnḫ-ı͗mn
|誕生名翻訳=The living image of [[アメン|Amun]]
|誕生名注=(発音)トゥト アンク アメン

|誕生名2=Tut ankh Aten{{Sfnp|Lundström|2011}}
|誕生名ヒエログリフ2=<hiero>i-t:n:ra-t-w-t-anx-n:x</hiero>
|誕生名翻字2=twt-ꜥnḫ-ı͗tn
|誕生名翻訳2=The living image of [[アテン|Aten]]{{Efn|"twt-anx-itn"の訳については異説があり、例えばBattiscombe Gunn([[:en:Battiscombe Gunn|en]])はよりアクエンアテンの神学に沿った訳を考案した。彼は"twt"を名詞ではなく動詞だとみなし、"The life of Aten is pleasing"と訳した。また、Gerhard Fecht教授も同じく"twt"を動詞と考えており、"One perfect of life is Aten"と訳した。教授はアクエンアテンは別の単語である"tit([[wikt:en:tjt|wik]]{{Efn|現状、英語版ウィクショナリーは"i"の音を"j"と翻字する方式を採用しているため、jが用いられている。}})"を"image"の意味として用いたと考え、"twt([[wikt:en:twt|wik]])"は"To be perfect/complete"という意味なのではないかと解釈した{{sfn|Eaton-Krauss|2015|pages=28–29}}。}}
|誕生名注2=(発音)トゥト アンク アテン
|誕生名備考2=誕生時の名前


|配偶者=[[アンケセナーメン]]
|配偶者=[[アンケセナーメン]]
|子女=[[317aと317b|2人(胎児)]]
|子女=2人(胎児),[[317aと317b]]
|父=[[アメンホテプ4世|アクエンアテン(アメンホテプ4世)]]
|父=[[アクエンアテン]]
|母=第35号墓(KV35)の[[若い方の淑女]](アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
|母=第35号墓(KV35)の[[若い方の淑女]]アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
|生年=1341 BC
|生年=1341 B.C.
|没年=1323 B.C.([[享年]]18 / 19歳ほど){{Efn|生没年に関しては不詳であるとしたり<ref name="pedia_n">ニッポニカ(2014)</ref>、B.C.1345-B.C.1327とも、B.C.1370頃-B.C.1352{{Sfn|ブリタニカ|2016}}ともされる}}
|没年=1323 BC (享年18~19歳)
|埋葬地=KV62
|埋葬地={{仮リンク|KV62|en|KV62}}
|記念物=[[ツタンカーメン王の喇叭]],[[ツタンカーメンのマスク]]
|記念物=[[ツタンカーメン王の喇叭]],[[ツタンカーメンのマスク]]
|Others=生前の身長は、解剖学者のダグラス・デリーによると、168cmと見積もられる{{Sfnp|マーチャント|2014|p=114}}}}
}}
'''ツタンカーメン'''(翻字: ''twt-ꜥnḫ-ı͗mn'', [[エジプト語]][[英語]]化: Tutankhamun{{Sfn|屋形|1969|p=222}}<ref name="大英百科355">ショー,ニコルソン(1997) p.355</ref>, Tutankhamen, King Tut, ? - 紀元前1327年頃{{Sfn|河合|2021|p=190}})は、[[古代エジプト]][[エジプト第18王朝|第18王朝]]の[[ファラオ]](在位: 紀元前1336年頃 - 紀元前1327年頃{{Sfn|河合|2021|p=279}})。より厳密な表記では、'''トゥト[[アンク]][[アメン]]'''{{Sfn|ブリタニカ|2016}}{{Sfn|屋形|1969|p=222}}{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}。[[エジプト新王国]]時代、第18王朝末期の最後の直系王族である<ref name="Reeves24">Reeves(1990) p.24</ref>。若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれている{{Sfn|ニッポニカ|2014}}。


ツタンカーメンは8歳か9歳の時に即位した{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}。このため実権は、内政は親戚関係にある大臣であり、最終的に後継者となる宰相([[摂政]])[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]、外政においては将軍[[ホルエムヘブ]]に握られていた{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}。王妃は異母姉の[[アンケセナーメン]]であった。彼は9年 (10年){{Sfn|河合|2021|p=190}}の治世、16 - 19歳 (18歳){{Sfn|河合|2021|p=190}}の若さで亡くなった{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}。
[[Image:Tutankhamun_Valley_of_the_Kings_Luxor.jpg|thumb|right|ツタンカーメンの王墓=KV62]]

'''ツタンカーメン'''(Tutankhamun<ref name="大英博物館古代エジプト百科事典355">[[#大英博物館古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、355頁]]</ref>、Tutenkh-、-amen、-amonとも。[[紀元前14世紀]]、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、[[古代エジプト]][[エジプト第18王朝|第18王朝]]の[[ファラオ]](在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記では'''トゥト・[[アンク]]・[[アメン]]''' (Tut-ankh-amen)。
ツタンカーメンは在位期間の短さ、および後世の王名表などから名前が削除されていたことにより人々にほとんど知られていなかった{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}。しかし、[[1922年]]に[[ハワード・カーター]]が、彼のパトロンである[[ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)|カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート]]による資金援助で行われた[[発掘調査]]にて、ほぼ無傷なツタンカーメンの墓を発見し、世界中の注目を浴びたことでツタンカーメンは非常に有名になった{{Sfn|ニッポニカ|2014}}<ref name="Hawass73" >ハワス(2004) p.73</ref>。5,000点以上の遺物{{Sfnp|ハワス|2010}}{{Efn|カーターによる発掘番号の最後は620番<ref>{{Cite web |url=http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/carter/600-620.html#itop|title=Anatomy of an Excavation|publisher=
The Griffith Institute|accessdate=2021-12-20}}</ref>であるが、遺物の正確な数については不明である。[[ザヒ・ハワス]]博士は5000点と言及している{{Sfnp|ハワス|2010}}。}}が出土したことで古代エジプトへの関心が再び高まり、現在[[エジプト考古学博物館|カイロ博物館]]に所蔵されている[[ツタンカーメンのマスク]]は、今でも同館のシンボルの一つとなっている。また、ツタンカーメンのミイラの発見に関わった数人の人物の突然の死は、[[王家の呪い|ファラオの呪い]]のせいだとする噂がまことしやかにささやかれた{{Sfn|河合|2012|pp=83-87}}。ツタンカーメンの副葬品は、1961年以降、ヨーロッパや[[北米]]、[[オーストラリア]]などの美術館に貸し出し展示されている{{Sfn|ハワス|2012|p=18}}。[[日本]]では1965年に[[東京国立博物館]]のほか[[京都市]]、[[福岡市]]で<ref>{{Cite book |和書 |author=世相風俗観察会 |title=現代世相風俗史年表:1945-2008|publisher=河出書房新社 |year=2009-03 |page=135 |isbn=9784309225043}}</ref>、2012年には[[上野の森美術館]]などで展示された{{Sfn|衣奈ほか|1965}}<ref>{{Cite web|和書|title=東京文化財研究所 美術界年史(彙報)ツタンカーメン展|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/ny/1965/page/2|accessdate=2022-01-18}}</ref>{{Sfn|ハワス|2012|p=5}}。


== 人物 ==
== 人物 ==
=== 家族 ===
父[[アメンホテプ4世]](アクエンアテン)の生存中(在位中)および即位後しばらく、唯一神[[アテン]]信仰が説かれていたために、'''トゥトアンクアテン'''(Tutankhaten、「アテン神の生ける似姿」の意)<ref name="大英博物館古代エジプト百科事典356">[[#大英博物館古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、356頁]]</ref> と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神である[[アメン|アメン=ラー]]<ref name="大英博物館古代エジプト百科事典42">[[#大英博物館古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、42頁]]</ref> の信仰を復活させ、'''トゥトアンクアメン'''(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、[[首都]]を[[アマルナ]]から[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]、[[テーベ]]に戻した。在位中、王妃[[アンケセナーメン]]との夫婦仲は良かったと言われている <sup>[[wikipedia:言葉を濁さない|[誰?]]]</sup> 。その後、若くして死に、[[王家の谷]]に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]は王族の1人)。
{{see also|エジプト第18王朝の家系図}}ツタンカーメンの家族については、彼の生きた[[アマルナ時代]]の記録が異端として、ほとんど後世に抹消されてしまった{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}ため、正確な事実は不明であり、諸説ある。ここでは、最も有力である説を主体に、他の説もできる限り記す。


==== 両親 ====
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。[[1978年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]の研究チームが調べた骨のサンプルから、[[ABO式血液型|血液型]]はA2型のMN型であることが分かっている。[[2005年]][[1月]]にはエジプトの研究チームによって[[ミイラ]]の調査が行われた。さらに[[2009年]]のエジプトチームの再調査では、骨の[[DNA]]サンプルから[[ケーラー病]]([[:en:Köhler disease|Köhler disease]])を患っていたことが判明している。
ツタンカーメンの父は[[アクエンアテン]]<ref name="Dodson&Hilton2010">Dodson&Hilton(2010) p.149</ref>、母は父親の実妹である[[若い方の淑女]]<ref name="Hawass642" >Hawass, et al.(2010) pp.642-645</ref>。[[乳母]]は[[サッカラ]]に墓がある[[:en:Maia (nurse)|マイア]]と呼ばれる女性であった<ref name="Zivie(1998)" >Zivie(1998) pp.33–54.</ref><ref name="Gundlach&Taylor2009" >Gundlach&Taylor(2009) p.160</ref>。
ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、[[骨折]]に[[マラリア]](熱帯熱型)が重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト[[考古学]]チームによるDNA鑑定や[[コンピュータ断層撮影]]装置 (CT) の調査で分かったと、[[2010年]][[2月]]に米医学誌『ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション』が発表した。腐骨や[[先天性内反足|内反足]]を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになったという。また歩くのに[[杖]]をついていた虚弱な王だったとしている。埋葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡がある。虚弱な身ではあったが、[[ヌビア]]の反乱を収めたり[[ヒッタイト]]との戦いに勝利したりするなど、王としての職務はこなしていた。


2008年から10年にかけて、[[ザヒ・ハワス]]を含めた[[カイロ大学]]の研究チームにより、ツタンカーメンをはじめとする、新王国時代の王族と考えられる人々の[[ミイラ#古代エジプト|ミイラ]]の遺伝子解析が行われた<ref name="Hawass642">Hawass, et al.(2010) pp.642-645</ref>。なお、ハワスなど多くの[[エジプト学|エジプト学者]]は、様々な証拠から、[[デオキシリボ核酸|DNA]]鑑定の以前より、ツタンカーメンの父はアクエンアテンである可能性が非常に高いと見ていた{{Sfnp|ハワス|2010}}。
アクエンアテンと[[ネフェルティティ]]の娘であるアンケセナーメンとツタンカーメンの婚姻は異母[[兄弟姉妹婚]]と推測されている<ref>{{cite web|url=http://ngm.nationalgeographic.com/2010/09/tut-dna/hawass-text/9|title=King Tut’s Family Secrets|language=英語|first=Zahi|last=Hawass|page=9|date=2010年9月|work=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]|publisher=[[ナショナルジオグラフィック協会]]|accessdate=2011-09-16}}</ref>。年齢差は不明だが、アンケセナーメンは父親との子供を生んだ経験があるということで、7歳くらいツタンカーメンより年上だったと推測されている<ref>[[大城道則]]『ツタンカーメン 「悲劇の少年王」の知られざる実像』([[中央公論新社]]、2013年) 150ページ ISBN 978-4-12-102235-6</ref>。ツタンカーメンには姉が6人いる。


鑑定の結果、{{仮リンク|KV55|en|KV55}}に埋葬されている人物は35歳から45歳ほどで死亡したことがわかり、碑文の内容とも合わせて、確かにアクエンアテンであり、ツタンカーメンの父親であることがほぼ確定した{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=282-294}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。アクエンアテンがツタンカーメンの父親である可能性は、99.99999981%であったという{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=282-294}}。今まではKV55のミイラは死亡年齢が25歳だと思われていたため、即位前に2人の娘がおり、さらに即位17年を数えたアクエンアテンではなく、謎の人物である[[スメンクカーラー]]ではないかとされていた{{Sfnp|ハワス|2010}}。しかし、改めて[[コンピュータ断層撮影|CTスキャン]]を実行したところ、膝と腰に関節炎を患っていたことが判明したので、40歳前後に死去しただろうと分かり、年齢の面での問題が解決したという{{Sfnp|ハワス|2010}}{{Efn|このDNA検証の流れは複雑である。流れとして、まずKV55のミイラがツタンカーメンの父で、かつ[[アメンホテプ3世]]の息子であることが判明した。そこで、KV55のミイラが、候補であるアクエンアテンとスメンクカーラーのどちらであるかが分かればツタンカーメンの父が特定できる、という方法を用いた。KV55のミイラにはアクエンアテンだけに関係のある言葉が刻まれていた[[考古学]]的証拠に加え、通称「年配の淑女」と呼ばれているKV35ELのミイラである、アメンホテプ3世の妃[[ティイ]]とKV55のミイラに血縁関係が見つかったのである。よって、アメンホテプ3世とティイの息子で、ツタンカーメンの父親であるKV55号墓のミイラは、ほぼ確実にアクエンアテンだと結論づけられるとされている{{Sfnp|ハワス|2010}}。}}。また、[[KV35]]から発見された名前不明{{Efn|アクエンアテンの両親であるアメンホテプ3世とティイの娘の名前はほとんど判明しているが、この若い方の淑女の名前だけは現在不明である{{Sfnp|ハワス|2010}}。}}の女性のミイラKV35YL(若い方の淑女)は、ツタンカーメンの母親であるだけでなく、KV55のミイラの妹であることも判明した{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=282-294}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。
2011年、[[スイス]]の研究機関iGENEAによりツタンカーメンの属する[[Y染色体ハプログループ]]が判明したと発表され、[[ハプログループR1b (Y染色体)#系統樹|R1b1a2-M269]]という現在の[[西ヨーロッパ]]の住民に見られる父系血統で、現在のエジプト人にはほとんど見られないハプロタイプであることが分かった。


しかし異説もあり、マーク・ガボルデ([[:en:Marc Gabolde|en]])やエイダン・ドドソン([[:en:Aidan Dodson|en]])などの一部の研究者は、ツタンカーメンの母親は若い方の淑女ではなく、[[ネフェルティティ]]であると主張している。彼らはサンプルの古さや汚染の可能性を考えてDNA鑑定の正確性を疑問視し、鑑定結果に不確実性が含まれているのではないかと別の解釈を行った。彼らの解釈では、遺伝子に関係があるのは、彼らが兄妹であることが理由なのではなく、3世代以上にわたる[[近親交配]]の結果であり、ネフェルティティはアクエンアテンの従兄妹であるというようにも取れるとしている。また、ツタンカーメンの父はアメンホテプ3世やスメンクカーラーである<ref name="Tawfik,Thomas&Hegenbarth-Reichardt" >Tawfik,Thomas&Hegenbarth-Reichardt(2018) p.180</ref>という異説も過去にあった{{Sfnp|マーチャント|2014|p=9}}。
生まれつき[[爪先]]が変形しており、左[[足]]の[[人差し指]]の一部がなく左足の骨の一部にも[[壊死]]が見られ、足が不自由だった。


さらに他の異説として、ツタンカーメンの母はアクエンアテン妃[[ネフェルティティ]]や、その次女[[メリトアテン]]、あるいはアクエンアテンの第2の王妃であった[[キヤ (エジプト)|キヤ]]などではないかともされているが{{refnest|group="注釈"|キヤがツタンカーメン(およびスメンクカーラー)の母であったという説の強力な状況証拠は王家の墓の壁面に描かれた出産の場面である。これは恐らく彼女が難産のため出産時に死亡したことを示す<ref name="クレイトン1993p168">[[#クレイトン 1999|クレイトン(1999)]] p.168</ref><ref name="ティルディスレイ2008p176">[[#ティルディスレイ 2008|ティルディスレイ(2008)]] p.176</ref>。またウィルキンソンは2007年の著作で、[[ヘルモポリス]]で発見された石材の銘文が、キヤがツタンカーメンの母であるということを強く示唆するとしている<ref name="ウィルキンソン2015p271">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン(2015)]] p. 271</ref>。ただしこれはハワスらによるDNA鑑定前の見解である<ref name="ウィルキンソン2015p271訳注">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン(2015)]] p.271、訳注</ref>。}}、メリトアテンは死亡時10歳ほどであったことが判明しているため可能性は低いと考えられている。ハワスは2010年に、この説を明確に否定している{{Sfnp|ハワス|2010}}。
[[ギーザ]]に狩猟用の[[別荘]]を建てた。


ハワスは、ツタンカーメンの両親を特定するために、DNA鑑定以前にもヘルモポリスから出土した石碑の断片を探すなどの調査を行っていた。この石碑は、[[ドイツ]]の調査団のギュンター・ローダー([[:de:Günther Roeder|de]])らによる発掘(1929年 - 1939年)の際に既に発見され、1969年に内容が発表されていた。この碑文では、ツタンカーメン(ここではまだトゥトアンクアテン)は名称不明の王の息子であるとされており、「王の体から来たりし王子、彼に愛された、トゥトアンクアテン{{efn-lr|翻訳元原文([[ドイツ語]])は"Sohn des Königs von seinem Leibe, von ihm geliebt, Tut-anchu-Aton."別の出典では"the king's son of his body Tutankhaton"<ref name="Hawassweb">{{Cite web|url=https://www.guardians.net/hawass/articles/tut_akhenaten.htm|title=
== ツタンカーメンの墓 ==
King Tut is the Son of Akhenaton|author=Zahi Hawass|accessdate=2022-01-04}}</ref>となっている。なお、"The king's son of his body"の原文は、"zA-nswt.n Xt.f"<ref>{{Cite journal |author=McAvoy, Shawn |year=2007 |url=https://repositorio.uca.edu.ar/handle/123456789/11907 |title=Mummy 61074: a strange case of mistaken identity |publisher=Pontificia Universidad Católica Argentina. Facultad de Ciencias Sociales. Departamento de Historia. Centro de Estudios de Historia del Antiguo Oriente |accessdate=2024-04-18}}</ref>}}」との記述が読み取れた<ref>Günther Roeder: ''Königssohn Tut-anchu-Aton.'' In: Rainer Hanke: ''Amarna-Reliefs aus Hermopolis (Ausgrabungen der Deutschen Hermopolis-Expedition in Hermopolis 1929–1939).'' Band 2, Gerstenberg, Hildesheim 1969, S.&nbsp;40.(翻訳元参考文献表示なし)</ref>。この碑文からは、ひどく破損していたものの「王の体より来たりし王女,二つの土地の支配者たる王の{{訳語疑問点範囲|願望|date=2022年1月}}、アンクエスエンパーアテン{{Efn|のち改名して[[アンケセナーメン]](正確にはアンクエスエンアメン)となった。}}{{efn-lr|原文は"the daughter of the king, of his body, his great desire of the king of Two Lands, Ankhesenpaaton"<ref name="Hawassweb" />}}」との記述も読み取れた<ref name="Hawassweb" />。
{{see also|en:KV62}}
この碑文は、ツタンカーメンがアクエンアテンの娘である[[アンケセナーメン]]とともに、息子として言及されているので、アクエンアテンがツタンカーメンの父親であることも示しているとされる<ref name="Hawassweb" />{{Sfnp|ハワス|2010}}。また、ツタンカーメンがアケトアテン(テル・エル・アマルナ)出身であることを示す数少ない証拠の一つでもある<ref name="Hawassweb" />。
[[Image:Egypt.KV62.01.jpg|thumb|left|230px|ツタンカーメンの墓]]
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、[[1922年]][[11月4日]]に[[イギリス]]の[[ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)|カーナヴォン卿]]の支援を受けた考古学者[[ハワード・カーター]]により発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としては極めて珍しいことに、3000年以上の歴史を経てほとんど[[盗掘]]を受けず<ref group="注">実際には[[宝石]]の一部などが抜き取られていたが、[[副葬品]]自体は無事だった。</ref>、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。


==== 兄弟姉妹 ====
その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたという流言が世に広まり、それをきっかけとして「[[ファラオの呪い]]」という伝説が高まった。またそれに関する謎解きも盛んに行われるようになった。<!--だが、死亡した発掘関係者の多くは高齢者で、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであった。呪いの話は『ロンドン・タイムズ』に報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いた{{要出典|date=2010年10月}}とも、人々の好奇心をあおりたかった[[マスメディア|マスコミ]]の喧伝に過ぎない{{要出典|date=2010年10月}}ともされている。-->
彼には少なくとも6人の姉妹がいたとされる。メリトアテン、{{仮リンク|メケトアテン|en|Meketaten}}、[[ネフェルネフェルウアテン・タシェリト]]、{{仮リンク|ネフェルネフェルウラー|en|Neferneferure}}、{{仮リンク|セテプエンラー|en|Setepenre (princess)}}、そしてアンケセンパーテン(アンケセナーメン)である<ref name="world">{{Cite web|url=https://worldhistory.us/ancient-history/ancient-egypt/akhenaten-and-nefertitis-children.php|title=Akhenaten and Nefertiti's Children|website=Worldhistory.us|date=2019-09-20|accessdate=2022-01-19}}</ref>{{Sfn|河合|2021|pp=186-187}}<!--この女性の多さは、王となる男性の不足を招き、第18王朝が断絶する原因ともなった-->。


なお、アクエンアテンの共同統治者であり、アクエンアテンの長女であるメリトアテンと結婚したスメンクカーラーが、ツタンカーメンとどのような血縁関係を持つかどうかは不明であり、アクエンアテンの息子か、ネフェルティティの別名かといった説がある{{Sfn|ハワス|2012|p=76}}。松本(1994)は、ツタンカーメンはアクエンアテンの弟であり、スメンクカーラーの弟でもある説を紹介する{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから、ツタンカーメンが[[暗殺]]されたとする説を裏付けるものかと注目された。だが、いくつかの傷はミイラを[[文化財]]として大事にしない[[20世紀]]前半当時の風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。


==== 妻・子女 ====
ツタンカーメンのミイラと、[[ツタンカーメンのマスク|黄金のマスク]]をはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型[[棺]]をはじめとする副葬品の大半は、現在は[[カイロ]]にある[[エジプト考古学博物館]]に収蔵されて観光客に公開されている。
[[File:Tutankhamun chair, 18th dynasty, Cairo museum.jpg|thumb|ツタンカーメンとアンケセナーメン(カイロ博物館蔵)]]
またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる2体の子供、[[317aと317b]]のミイラも一緒に葬られており、大きい方はツタンカーメンの娘であるとDNA鑑定された。小さい方は防腐剤の影響により鑑定不能。ハワード・カーターが発見時は保存状態は良好だったが、かなり悪くなっている。
[[File:胎児317aと317b, ツタンカーメンの子供.jpg|thumb|ツタンカーメンの子供である胎児[[317aと317b]]のミイラ]]
ツタンカーメンは王になると、異母姉{{Efn|アクエンアテンとネフェルティティの三女<ref name="Hawassweb" />。}}のアンケセナーメンと結婚した{{Efn|王即位以前、アケトアテン(テル・エル・アマルナ)にて結婚したと、ハワスはみなす<ref name="Hawassweb" />}}。吉村(1984)などが提唱する一説によると、彼女との夫婦仲は良かったとされる{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfn|ハワス|2012|p=123}}。ツタンカーメンとアンケセナーメンに子供がいたことを示す直接的な資料はないが、ツタンカーメンの墓から発見された2体のミイラ化した胎児[[317aと317b]]は、2010年2月に行われたDNA鑑定の結果、ほぼ間違いなくツタンカーメンの娘であることが判明した。2011年に発表されたコンピューター断層撮影による研究では、一人は妊娠5か月で、もう一人は妊娠7月であった{{Sfn|ハワス|2012|p=150}}<!-- この二人はツタンカーメンの娘である可能性が非常に高いが、ツタンカーメンの墓やKV55からはアマルナ時代の遺物が多数発見されており、胎児もアマルナ時代の墓から持ち出されたものである可能性があるため、この推測が誤っているとする異説も存在する<sup>[翻訳元出典なし]</sup>。しかし、発見された状況だけを見ても親子関係にあるのは明白であるとされる。ツタンカーメンは他に子供がいなかったため、彼の死をもって第18王朝の直系系統は断絶した-->。なお、彼の妻であるアンケセナーメンは[[KV21]]の女性ミイラKV21Aであると考えられている{{Sfn|ハワス|2012|pp=186-187}}。


==== その他====
その他、ツタンカーメンの墓からは[[エンドウ豆]]も発見されている。ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていた{{要出典|date=2013年4月|ニコラス・リーヴス『図説黄金のツタンカーメン』に「王墓出土の豆類には、ヒヨコ豆(Cicer arietinum)やレンズ豆(Lens culinaris = Lensesculenta)と、偶然にまかれたエンドウ豆(pisum sp.)などがある。」との記述があるようなので(未確認)、「穀物の入った壷にエンドウ豆が入っていた」というのは間違いではないか。}}{{refnest|group="注"|日本において「ツタンカーメンのエンドウ豆」として栽培されているエンドウ豆が、本当にツタンカーメンの墓から出土した豆を起源としているかについては確かな証拠がない。日本におけるエジプト考古学の第一人者である[[吉村作治]]は、この件に関して否定的である<ref>[http://www.gijyutu.com/ooki/tutan/otayori/otayori.htm#2002-11-20 出典記事不明]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20040204215120/http://www.egypt.co.jp/EGYPTPIA/1sakuji's/messege/messege/honbun11.htm 世界考古学発掘アカデミー開校3周年!] 週刊吉村作治11号のウェブアーカイブ(2020年4月29日閲覧)</ref><ref>[http://www2u.biglobe.ne.jp/~gen-yu/tutpea.html ツタンカーメンのエンドウ?](2003年3月30日)2020年4月29日閲覧</ref>。}}。
[[File:狩猟をするツタンカーメンの像.jpg|thumb|狩猟をするツタンカーメンの像]]
ツタンカーメン王墓の副葬品に描かれている絵画などの諸資料から、ツタンカーメンとアンケセナーメン夫妻は比較的自由な生活をしていたとされる。ツタンカーメンは優しい性格で、さらに知的で活発であり、特に狩りを好み、しばしばアンケセナーメンを伴って鳥狩りなどをしたとされる{{Sfn|吉村|1983|p=106}}。


== 治世 ==
[[チャリオット]](二輪戦車)6台、[[弓]]50本以上、[[矢]]数百本、[[ヌビア]]が献上した[[盾]]、使った形跡のある杖130本以上、パンツ160枚、頭巾、足袋型の靴下、熱を下げる[[コリアンダー]]など数十種類の種も発見された。
=== 業績 ===
ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなった{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}{{refnest|group="注釈"|この即位時推定年齢はザヒ・ハワスらによるミイラのCTスキャン結果からも支持される。この検査ではツタンカーメンの死亡年齢が18歳前後と分析された。確認されているツタンカーメンの最後の治世年は治世第10年のため、逆算によって即位時年齢が導き出せる{{Sfn|河合|2021|p=190}}。}}。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響されたと考えられており、治世3年か4年の時、両者の助言によって[[アメン]]信仰の再興に踏み切った{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}。


==== 古き信仰への回帰 ====
棺内には[[鉄]][[剣]]もあった。当時のエジプトに製鉄技術はまだなかったと考えられており、[[千葉工業大学]]の研究グループは、[[鉄隕石]]を1000[[セルシウス度|度]]以下で加熱して製作したと推測している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO58183420X10C20A4MY1000/ 「ツタンカーメンの鉄剣 隕石加熱して製作か 千葉工大」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2020年4月19日(サイエンス面)2020年4月29日閲覧</ref>。
ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神[[アテン]]信仰が説かれていたため「トゥトアンク{{ruby|ア|・}}{{ruby|テ|・}}{{ruby|ン|・}}」と名乗っていたが、[[テーベ]]の守護神である[[アメン]] の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンク{{ruby|ア|・}}{{ruby|メ|・}}{{ruby|ン|・}}」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した{{Sfn|屋形|1969|p=222}}{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}<ref name="大英百科42">ショー,ニコルソン(1997) p.42</ref><ref name="大英百科356">ショー,ニコルソン(1997) p.356</ref>{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}{{refnest|group="注釈"|ただし、トゥトアンクアテンとトゥトアンクアメンの両方の名前が記された玉座や戦車が発見されており、両方の名前を併用していた時期が存在した可能性がある{{Sfn|河合|2021|p=190}}。}}。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)」へと改名した{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}{{Efn|ツタンカーメンの王妃の元の名は
Ankhesenpaaten(anx-s-n-pA-itn)で、アンクエスエンパーアテン・アンケセンパーテン・アンケスエンパーテンなどと様々に呼ばれる。なお変更後はAnkhesenamen(anx-s-n-imn)}}。さらに、首都をアケトアテン(テル・エル・アマルナ)から[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に移した{{Sfn|屋形|1998|pp=497-501}}{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。彼は主神をアテンからアメンに変え、これまでの一神教から多神教に戻した。この信仰復興により、混乱していた世の中は静まりを見せた{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}。


彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから[[王家の谷]]に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるという慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級の[[レバノンスギ]]を使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる<ref name="DarnellManassa2007">{{cite book|author1=John Coleman Darnell|author2=Colleen Manassa |title=Tutankhamun's Armies: Battle and Conquest During Ancient Egypt's Late Eighteenth Dynasty|url=https://books.google.com/books?id=7MvtJ2LbKgwC&pg=PA49|date=3 August 2007|publisher=John Wiley & Sons|isbn=978-0-471-74358-3 |page=49}}</ref>。
=== ツタンカーメン王墓や副葬品の本来の所有者 ===
2001年以降の研究によれば、ツタンカーメンが埋葬されていた王墓は、本来別の人物のために用意されていたもので、ツタンカーメン王墓で見つかった様々な副葬品も、別の人物のために準備されていたものを、転用したことが示唆されている。この人物は、長く男性か女性か不明であった人物で、現在は、女性であったと考える根拠が存在する人物である。[[ネフェルネフェルウアトン]]がその人物で、ツタンカーメンの黄金のマスクに刻まれていたが、部分的に削られて読み取れなくなっていた[[カルトゥーシュ]]内の名前が解読され、マスクは本来、この王族女性の副葬品であったことが判明した<ref name="newscorp">{{cite news|author=James Seidel|url=http://www.news.com.au/technology/science/archaeology/tutankhamuns-mask-evidence-of-an-erased-name-points-to-the-fate-of-heretic-queen-nefertiti/news-story/41c5e678fdbc4dc5fcd5b38de1687b7e|title=Tutankhamun's mask: Evidence of an erased name points to the fate of heretic Queen Nefertiti|date=26 November 2015|website=News.com.au|publisher=News Corp Australia|accessdate=28 November 2015}}</ref><ref>[[:en:Mask of Tutankhamun]] 11:50, 23 May 2020</ref>。


ツタンカーメンの下で行われた政策を示している最も大きな実証は、後にホルエムヘブに奪われ、カルナックで発見された「復古の碑(Stele of restoration)」である。{{quotation|(ツタンカーメン)王が即位したとき、(中略)神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となっていた。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかった。王位に即いたツタンカーメンは、純金のアメン神像を作り、他の神々の像も純金で作り、その聖所を新築し、供物を絶やさないようにした。町ごとに役人の子どもたちを神官に任命し、神殿の施設と職員両方の充実をはかった。その結果、神々は喜び、王に生命と支配権が与えられた。|カルナックのアメン神殿で発見された信仰復興碑|吉成(2012)による{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}}}
ツタンカーメンの他の副葬品も、この王族女性のものであり、マスクについて言えば、マスクの耳にはイアリングを付けるためのピアス穴があり、このようなピアス穴のあるマスクは、現存する[[古代エジプト]]の工芸品において確認できる限りでは、王妃や子供のために準備されたものであり、このこともマスクがネフェルネフェルウアトンのための副葬品であったことを示唆する<ref name="newscorp" />。ただ、この女性が実際は誰であったのか、[[アメンホテプ4世|アクエンアトン]]と極めて近しい関係にあった人物であることは分かっているが、諸説があり、いまだ確定した結論は出ていない。
そこには、アテンの下でのエジプトの衰退が記されており、ツタンカーメンはアメンをはじめとした古い神々への回帰を宣言している。若きファラオは、カルナックのステラや祠堂、建物をはじめとした前のアマルナ時代に破損した古いモニュメントの修復を行った。ルクソール神殿では列柱の装飾が完成し、カルナックにはツタンカーメンの姿をかたどったアメン神像および、2つの新しい礼拝堂が設けられた{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。おそらくスメンクカーラーのものであったであろう死者の神殿の建設をも引き継いでいる。ツタンカーメンの建築活動の証拠は、[[ギーザ|ギザ]]から[[ヌビア]]にかけて確認することができる。しかし、これらの建造物のいくつかは、後にホルエムヘブによって、ツタンカーメンの名前を自分の名前に書き換えることによって簒奪されている{{Sfn|Dodson|2009|pp=66-68}}。


== ツタンカーメンミイラ ==
==== アマルナ時代影響 ====
多信教信仰の復活に伴い、アテンは神の一柱に戻った。ツタンカーメンの棺[[厨子]]と黄金の[[玉座]]にはアテンが描写されているが、これは彼が多神教信仰に戻す宣言以前の制作だと推定される{{Sfn|近藤|1994|p=394}}{{Sfn|ティアドリッティ|2000b|p=218}}。他に、多神教復活後も、ツタンカーメンはアテン信仰を捨てられなかったとの説もある{{Sfn|吉村|1983|p=109}}。
[[File:Sarcophagus Container of Tutankhamun, Egyptian Museum, al-Qāhirah, CG, EGY (46992821595).jpg|thumb|ツタンカーメンの厨子。頭上に日輪としてのアテンが描かれている。なお、「[[ツタンカーメン#妻・子女|妻・子女]]」節での画像の椅子にもアテンが描かれている。]]
<!--美術においても、アマルナ時代の影響は消え去ったわけではなく、特に静力学{{訳語疑問点|date=2022年1月}}と遠近法の要素に見られる。{{疑問点範囲|加えて、墓の構造は、アメンホテプ3世までは内部で通路が数回屈折していたが、アクエンアテンの治世以降は通路をまっすぐに造るようになる変化があった。この変化は第19王朝になっても踏襲されている。|date=2022年1月}}
[[File:KV34.jpg|thumb|アクエンアテン以前、[[トトメス3世]]の墓の構造。折れ曲がっている構造をしている。]]
[[File:KV17 - Seti I Schematic.jpg|thumb|アクエンアテン以降の第19王朝、[[セティ1世]]の墓の構造。直線的である。共に王家の谷。]]-->

==== マネトの王名記載 ====
プトレマイオス朝の神官[[マネト]]は、彼が書いた『エジプト史』{{Efn|マネトの著作(題:Aegyptiaca)は散逸しており、完全には現存していない。しかし、[[ヨセフス]]、[[アフリカヌス]]、[[ヒエロニムス]]、[[エウセビオス]]などの歴史家たちが引用した部分から彼の記述をある程度推定できている。}}の中で、Orus, Amenophis, Rathotis, Harmaisという王について言及している。マネトの記述と考古学的推定との対応は以下の表のとおりである。
{| class="wikitable"
|+マネトの記述と推定される統治期間との対照表<ref>{{Cite web|author=Gary Greenberg
|url=https://ggreenberg.tripod.com/articles/manetho18d/arce99-dyn18.pdf|title=Manetho's Eighteenth Dynasty:
Putting the Pieces Back Together
|publisher=ARCE(American Research Center in Egypt)|date=1999-04-23|accessdate=2022-01-19}}</ref>
!名前(マネト)
!名前(推定)
!治世(マネト)
!治世(考古学的推定)
|-
|Orus
|アメンホテプ3世
|36年5か月
|37年
|-
|Amenophis
|アクエンアテン+スメンクカーラー
|19年
|17年+3年
|-
|Rathotis
|ツタンカーメン
|9年
|9年
|-
|Harmais
|アイ
|4年1か月
|4年
|}
以上の通りの対応があることが確認できるが、アマルナ時代のファラオはマネトの記述の中心的存在であるにもかかわらず、マネトが指しているどの名前がどのファラオと一致するかは研究者の間でも意見が分かれている。なお、アクエンアテン治世末期からツタンカーメンまでの間に、スメンクカーラー及び、アクエンアテンの王妃ネフェルティティであると推測されている[[ネフェルネフェルウアトン|ネフェルネフェルウアテン]]という王位名を持つ支配者がいたとされる{{Sfn|ハワス|2012|pp=75-76}}。

== 遺伝分析 ==
=== 疾患群 ===
ツタンカーメンは多くの疾患に苦しんでいた可能性が示唆されている<ref>{{cite journal |last1=Cavka |first1=Mislav |last2=Kelava |first2=Tomislav |title=Comment on: Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty |journal=Epilepsy & Behavior |date=April 2013 |volume=27 |issue=1 |page=278 |doi=10.1016/j.yebeh.2012.11.044|pmid=23291226 |s2cid=43043052 }}</ref>。彼の大きな前歯は、彼が属していた第18王朝の特徴である{{仮リンク|被蓋咬合|en|Overbite}}を起こしていた<ref name="Pausch et al 2015">{{cite journal |last1=Pausch |first1=Niels Christian |last2=Naether |first2=Franziska |last3=Krey |first3=Karl Friedrich |title=Tutankhamun's Dentition: The Pharaoh and his Teeth |journal=Brazilian Dental Journal |date=December 2015 |volume=26 |issue=6 |pages=701–704 |doi=10.1590/0103-6440201300431 |pmid=26963220 |url=https://www.researchgate.net/publication/289585304 |access-date=8 January 2020|doi-access=free }}</ref>。彼の墓から発見された衣服、特に下着とベルトの寸法から考えると、彼はウエストが狭く、腰が丸かったことがわかる。美術品に描かれた彼の姿と早逝の両方を説明しようと、様々な説が唱えられている{{Efn|具体的には、[[女性化乳房]]、[[マルファン症候群]]、[[:en:Wilson–Turner syndrome|ウィルソン・ターナーX鎖知的障害症候群]]、[[:en:Adiposogenital dystrophy|脂肪性器性異栄養症]]、[[クラインフェルター症候群]]、[[アンドロゲン不応症]]、[[:en:Aromatase excess syndrome|アロマターゼ過剰症候群]]、[[頭蓋骨縫合早期癒合症]]、[[:en:Antley–Bixler syndrome|アントレー・ビクスラー症候群]]、またはその亜種のいずれかに苦しんでいた可能性があるとされる{{要出典|date=2022年1月}}。}}

また、曾祖父の[[トトメス4世]]と父のアクエンアテンが宗教にのめり込み、そして早逝した{{Efn|ともに生没年未詳だが、トトメス4世は在位10年、アクエンアテンは在位17年とアメンホテプ3世の38年よりかは短い。}}ことを説明するために、彼が遺伝性の[[側頭葉]][[てんかん]]を患っていた可能性も指摘されている<ref name="Ashrafian epilepsy">{{cite journal |last1=Ashrafian |first1=Hutan |title=Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty |journal=Epilepsy & Behavior |date=September 2012 |volume=25 |issue=1 |pages=23–31 |doi=10.1016/j.yebeh.2012.06.014 |pmid=22980077 |s2cid=20771815}}</ref>。さらに、2005年1月のミイラのCTスキャンによると、ツタンカーメンには軽度の脊柱管狭窄症および脊柱側弯症を持っていたことがわかった{{sfn|Hawass et al.|2010|page=642}}{{sfn|Hawass|Saleem|2016|p=95}}。さらに、2010年の調査では、ツタンカーメンと父アクエンアテンや、曾祖母[[ムテムウィヤ]]などの近親者にさらなる骨疾患が発見された{{要出典|date=2022年1月}}。また、スキャンの結果、彼の右足は{{仮リンク|label=第2ケーラー病|ケーラー病|en|Köhler disease}}を起こしていたことがわかった<ref name=Hussein2013>{{cite journal |last1=Hussein |first1=Kais |last2=Matin |first2=Ekatrina |last3=Nerlich |first3=Andreas G. |title=Paleopathology of the juvenile Pharaoh Tutankhamun—90th anniversary of discovery |journal=Virchows Archiv |date=2013 |volume=463 |issue=3 |pages=475–479 |doi=10.1007/s00428-013-1441-1 |pmid=23812343 |s2cid=1481224 }}</ref>。このために、ツタンカーメンは[[杖]]を使って歩くことを余儀なくされたと考えられており、実際に、副葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡が確認される{{sfn|Hawass et al.|2010|pages=642–645}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。
[[File:Spaziergang im Garten Amarna Berlin.jpg|thumb|通称「庭園での散策([[ドイツ語|独]]:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。[[石灰岩]]製、[[新博物館 (ベルリン)|ベルリン新博物館]]蔵。]]

=== その他 ===
2005年にエジプト[[考古最高評議会]]と『[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]]』によって、ツタンカーメンの顔の復元が試みられた。エジプトと[[フランス]]のチームは復元対象がツタンカーメンであることを知っていたが、[[アメリカ合衆国]]のチームは知らされなかった。しかし驚くべきことに、どちらも非常に似通った結果を出したという{{Sfn|Hawass&Saleem|2016|p=252}}。

== 墓 ==
{{see also|{{仮リンク|ツタンカーメンの墓|en|Tomb of Tutankhamun|preserve=1}}}}
[[File:The unbroken seal on Tutankhamun’s tomb, 1922.jpg|thumb|破られていない状態の墓の封印(1922年撮影)]]
現在の[[ルクソール]]近郊に位置する、王家の谷にあるツタンカーメンの墓(エジプト学では「KV62」)は、[[ラムセス6世]]の墓建設のための作業小屋跡の下という、非常に見つけにくいような場所にあったため、[[盗掘]]や墓の整理を受けずに済んだ。盗掘を受けなかった他の理由として、ツタンカーメンの前の王であるアクエンアテンからアイまでの王が「異端」として歴史から抹消されたので、人々の記憶から消えていたことも影響している{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。

1922年11月4日に墓へつながる階段が発見された<ref>{{Cite web |title=Tutankhamun: Anatomy of an Excavation {{!}} The Griffith Institute |url=http://www.griffith.ox.ac.uk/discoveringTut/journals-and-diaries/season-1/diary.html#entry-of-4-11-1922 |website=www.griffith.ox.ac.uk |access-date=2022-09-04}}</ref>。発掘作業員の取りまとめ役だった祖父とともに現場へ通っていたエジプト人少年フセイン・アブドルラスール(当時12歳)が、水甕を載せていた[[ロバ]]がつまづいてしまって甕が壊れて水がこぼれ、地下墓地への階段が露わになった<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20221104-OYT1T50012/ ツタンカーメン墓発見100年 手柄の少年 子孫「誇り」地元住民らと祝宴]『[[読売新聞]]』朝刊2022年11月4日(国際面)同日閲覧</ref>。

11月26日にカーターは[[ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)|カーナヴォン伯ジョージ・ハーバート]]とその子女イヴリン、および多くの人々の前で墓を開封した<ref name="発掘上170" />。{{quotation|はじめ、わたしには何も見えなかった。室の中から逃げてくる熱い空気が蝋燭の火をゆらゆらさせた。しかし、いま、目が光になれてゆくにつれて、室の中の細部が、ゆっくりと、霧の中から浮かび上がってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった。しばらくの間、わたしは驚きに打たれて沈黙していた。そのしばらくのあいだは、わきに立っている他の人たちにとっては、永遠の時間のように感じられたに違いない。<br/>カーナヴォン伯が、もうこれ以上は耐えることができなくなって、心配そうに「何か見えるかね」とたずねたとき、わたしには、「はい、すばらしいものが」という言葉を発するのが精一杯だった。|ハワード・カーター|ツタンカーメン発掘記(上)による<ref name="発掘上170">カーター(1923) pp.170-171</ref>}}

なお、墓はツタンカーメンが埋葬されてから数年のうちに2度の盗掘を受け、その度に封印されているが、被害は軽微であった<ref name="発掘上166">カーター(1923) p.166</ref>{{Sfn|ニッポニカ|2014}}。カーターはアブドルラスール少年を讃えて、埋葬品のネックレスをかけた写真も記録に残されている<ref>{{Cite web |author=蜘手美鶴 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/197762 |title=ツタンカーメン王の墓、発見から100年…きっかけは12歳少年とロバ |publisher=[[東京新聞]] |language=ja |date=2022-08-24 |accessdate=2023-11-17}}</ref>。

[[Image:GD-EG-Caire-Musée127.JPG|thumb|王の棺を囲んでいた一番外側の厨子(カイロ博物館蔵)]]
[[Image:Shrinesandsarcophagos.png|thumb|ツタンカーメンの厨子の構造(上の写真は1に当たる)]]
二度の盗掘では、王の入れ子になった一番外側にある棺を囲む厨子に通じる封印は解かれていたが、内側の2つの厨子はそのまま封印されたままだった。その後は再封印され、2000年以上もの悠久の時の間、ツタンカーメンは眠っていた。墓はその小ささや完成後に2度の盗掘を受けたことに加え、大変急いで完成させたことから非常に副葬品が密集していた。そのため、出土品に一つずつ番号をつけていくようなカーターの緻密な記録方式もあり、空になるまでに10年{{Sfn|ニッポニカ|2014}}を要した。墓の副葬品は全てカイロ博物館に運ばれた{{Sfn|ティアドリッティ|2000a|p=23}}。

=== 王墓の本来の所有者 ===
[[吉成薫]]は、ツタンカーメン王墓が、本来は宰相アイのために用意されていたもので、副葬品の中にも、アイのために準備されたものがある示唆する{{Sfn|吉成|2012|p=114}}。河合望は、ツタンカーメン墓が第18王朝の典型形でない点から、死亡時点で王墓が完成していなかったため、貴族の墓を転用したと述べる{{Sfn|吉成|2012|pp=214-215}}。

== ミイラ ==
{{see also|en:Tutankhamun's mummy}}
{{see also|en:Tutankhamun's mummy}}
[[File:Mummy of Tutankhamun.jpg|thumb|ツタンカーメンのミイラ]]
[[File:Mummy of Tutankhamun.jpg|thumb|ツタンカーメンのミイラ]]
ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の[[樹脂]]が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの[[包帯]]が解かれてしまったことも保存状態悪化拍車かけることとなった。包帯を解く際にも多く外傷がミイラに付けられ、さらは[[脊椎]]が切断され[[性器]]でもが消失した。
ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の[[樹脂]]が化学反応によって変質してしまったため保存状態はかなり劣悪であった。ミイラ樹脂や軟膏の過度な使用は、ツタンカーメンの遺体悪影響及ぼし結局そのミイラ化は失敗近い形終わってしのである{{sfn|Gilbert|Holt|Hudson|1976|p=18}}


ツタンカーメンの体は包帯が巻かれていたが、その中に大量の護符が織り込まれていた。首は、多数の[[真珠]]の首飾りと20個もの黄金の護符で守られるとともに、翼を広げた[[ホルス]]を表した大きな喉当てがついていた。胸の上には5個の胸飾り、これとは別に首飾りと、調査したミイラの専門家が「ツタンカーメンの宝石類をすべて数え上げて説明するにはとても紙幅が足りない」と評しているほど、きわめて多くの装飾品がミイラの中に織り込まれていた。そのなかには、新王国以前では極めて珍しい{{Sfn|スペンサー|2009|p=235}}、[[錆]]の見られない鉄剣も含まれる{{Sfn|カーター|1971|pp=252-253}}{{Sfnp|ルカ|1978|pp=132-133}}{{Efn|[[千葉工業大学]]の研究グループは、[[鉄隕石]]を1000℃以下で加熱して製作したと推測する{{Cite web|和書|url=https://www.it-chiba.ac.jp/topics/pr20200226/|title=世界初 ツタンカーメンの鉄剣の元素分布分析を実施|accessdate=2022-01-31}}}}。
2005年1月、[[コンピュータ断層撮影|CTスキャン]]撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出された。この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目され、調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165[[センチメートル|cm]](古代エジプトの成人男性の平均とほぼ同じ)で、体格はかなり華奢であることがわかった。死につながる傷が特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつけることまではできなかった。なお、この調査の際に、前述の消失していた性器が無事に再発見されている。


の調査、ミイラの保存状態極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持出来ないと結論付けられた。その結果、[[2007年]][[11月]]、初めてミイラが一般公開され。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できる[[プレクシグラス]](軽く透明な合成樹脂)の展示ケースの中に移され保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている。
ミイラは現在、王家の谷のツタンカーメン王墓内でプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中で展示・保存されている。以前は王墓内の石棺及び第一人型棺内にて保存されていたが、2005年1月に[[コンピュータ断層撮影|CTスキャン]]撮影などによってミイラの調査が行われた際、ミイラの保存状態極めて劣悪になっており、棺内での保存ではミイラの状態維持出来ないと結論付けられたため、棺からプレクシグラス製ケースの中に移された。保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された状態で展示されている。


== 死因 ==
2010年2月、DNA鑑定により[[アメンホテプ4世]]のミイラが特定され、アメンホテプ4世がツタンカーメンの父であることがほぼ断定された。また[[アメンホテプ3世]]の王妃[[ティイ]]とツタンカーメンの母のミイラ(ともに[[アメンホテプ2世]]王墓〈KV35〉で発見)も身元が判明、ツタンカーメンの母はアメンホテプ4世の同父同母の姉妹であることも明らかになった<ref name="ress">{{Cite news|url=http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/|title=ツタンカーメン解き明かされた系譜(記事全文)|work=ナショナルジオグラフィック公式日本語サイト|date=2010-09|accessdate=2011-09}}</ref>。
ツタンカーメンの死因は現存する記録がなく{{Sfnp|吉成|2012|pp=112-115}}{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}、また彼の有名性もあり、死因は長らく論争の的となっている。20世紀までは、ミイラの頭部についていた傷やいくつかの骨の裂傷などを根拠に、暗殺説が有力であった。しかし、ハワスを含む多くのエジプト学者は、死因は先天的な虚弱性疾患に加え、何らかの原因で落下したことによる脚の骨折、および重度の[[マラリア]]感染症を含む、複数の病気の併発による体の弱体化が重なった結果である可能性が高いと結論付けており、2010年以降の定説となっている{{Sfnp|ハワス|2010}}。実際に、悪性のマラリアを引き起こす寄生虫である、熱帯熱[[マラリア原虫]]の痕跡が、ミイラより発見されている{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=282-294}}。以下に歴史的な説から、2020年代に至るまで挙げられている説を可能な限り記す。


=== マラリア感染 ===
== ツタンカーメンの死因 ==
ミイラからは、マラリア原虫の痕跡が検出されている。マラリアは熱帯・亜熱帯気候ではよくみられる病気であり、ツタンカーメンもある程度[[免疫]]を持っていた可能性があるため、感染はしなかったのではないかという説があったが{{Sfnp|ハワス|2010}}、ハワスは、アクエンアテンと「若い方の淑女」の婚姻を含む第18王朝に多くみられる近親婚が、ツタンカーメンに生存の上で不利な障害を持った遺伝子が多く受け継がれ、その結果、マラリアに感染する可能性はあると述べる{{Sfnp|ハワス|2010}}。
{{出典の明記|date=2017年3月|section=1}}
{{独自研究|date=2020年7月|section=1}}
ツタンカーメンの死因が特定されていなかった当時、[[大腿骨]]の骨折から数日で死亡したことだけが確認されていたことから、他殺説が最も有力な説とされていた。


=== 暗殺説 ===
2010年のエジプト考古学研究グループによるCTスキャンを初めとしたDNAや[[放射線]]調査により、ツタンカーメンは[[近親交配]]で生まれたことによる遺伝による先天的な疾患を多数患っていた可能性が非常に高いことが確認されている。具体的には変形した背骨、欠損した足の指、臓器疾患の跡等が確認されており、特に直接の死因は足および大腿骨の骨折と、脳性マラリアの合併症による体調不良の悪化が原因であるという証拠が多数見つかった。
ツタンカーメンの死因として、暗殺説がしばしばあげられる。


1968年の[[X線撮影|X線調査]]にて、頭蓋骨内部に2つの骨片が見つかり、頭蓋下部が非常に薄くなっていることから、後頭部に強い打撃を受けたのではないかとされた<ref>{{cite journal |last1=Harrison |first1=R. G. |last2=Abdalla |first2=A. B. |title=The remains of Tutankhamun |journal=Antiquity |date=March 1972 |volume=46 |issue=181 |page=11 |doi=10.1017/S0003598X00053072 }}</ref>。しかし、2005年のCT調査にて、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられ、頭部打撃による暗殺説は否定された<ref name="rib" />。同時に、左足の大腿骨や右膝頭と右下腿の骨折も見つかったが、後に骨が癒合した様子が見られ、生命に及ぼす程の怪我ではないと判明した{{Sfn|河合|2012|pp=222}}。<!--殺人の証拠とはならなかった。-->
少なくともツタンカーメンの直接的な死因は病死であることはほぼ間違いない状況ではあるが、他殺説そのものは未だ可能性としては捨てきれないのもまた事実である。例えば足の骨折が体調不良を引き起こす引き金になったという話も、自ら転倒したのか、それとも何者かに突き飛ばされたのかも現状では分かっていない。


心理学者でエジプト学者のボブ・ブライアーは、どうしても王になりたかったアイが、将軍ホルエムヘブの力を借りてツタンカーメンを殺害したという説を唱えた。同じく頭蓋のX線写真に着目し、上記の説とは別に、頭蓋骨内部の脳出血の痕跡があると考えた。X線に写った影は出血による影響で硬化した筋組織で、その出血原因が頭部に受けた打撃によるものだと考えるならば、王は襲撃の後数週間は生きていただろうと推測した{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=219-227}}。
=== 他殺説の容疑者 ===
<!--
*[[アンケセナーメン]](ツタンカーメンの王妃。[[アクエンアテン]]と[[ネフェルティティ]]との間の娘。後、アイの即位のときにその妻となる)
'''毒殺説'''
*[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]](ツタンカーメンの死後、即位)
*[[ホルエムヘブ]](アイの死後、即位。古代エジプト第18王朝最後のファラオ)


吉村作治は、ある女性(後述)が「この方は毒殺じゃなかろうか」と言った際に隣で「僕もそう思っている」と言い、撲殺説での頭の傷跡は新しく、発掘時の間違いで傷付いたものだと自論を展開している。毒殺方法だが、後にエジプト考古学博物館を一緒に訪れた時にその女性が、ツタンカーメンの遺品の中から毒が入れられたワイン壺を特定している。そこに刻まれた文字を解読すると「王の治世10年イアティ産の上質なワイン」であった。その女性とは宜保愛子である。宜保はツタンカーメンは大変目が悪く、黄金マスク等の眼は来世では眼が良くなるようにとの願いで大きく描かれたと言っている。近年ナイル川デルタ地帯で実施された集団調査では,成人の6.5%がエジプト眼炎(トラコーマ)に罹患しており、そのうち13%が視覚障害を有し、8%が失明していた。-->
=== 頭部打撃説 ===
かつては後頭部に強い打撃を受けて命を落としたとされていたが、根拠となっていたのは[[1962年]]の[[X線]]写真のみであった。頭蓋骨の中に骨片が写っていたことからこの説が生まれたのである。ファラオの呪いの噂の流布、また政治的な問題などから長らくミイラを再検査する機会が来なかった。2005年にCTスキャンによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられた。頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。


=== 骨折からの感染症説 ===
頭部打撃による死亡を否定したのと同じCTスキャンによって浮上した新たな説が、左足の大腿骨骨折による[[敗血症]]である。ミイラ作りの際に出来たとは考えにくい、骨を縦に割る骨折跡があり、わずかな治癒痕から骨折後数日は生存していたと分かるため、死ぬ数日前に皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をしていたと推測される。またCTスキャンから、左足の足首には[[ギプス]]を思わせる硬い物質がはめ込まれたままミイラにされており、何らかの事故に巻き込まれたとする可能性が考えられている。太い大腿骨を縦に割るには強い力が必要であり、同様の骨折痕は現代ではバイク事故などで多く見られるため、チャリオットから落ちたのではないかとする説が有力視されている。また、チャリオットから落ちた理由としては、元々、足が弱いながらも精力的に活動を続けていたため、足が酷使に耐えられなくなったのではという説もある。


=== 毒殺説 ===
=== 事故説 ===
若い王は、胸壁の前部と肋骨が欠損していることなどから、圧迫された傷のパターンから、事故が主な原因として死亡したのではないかとも言われている<ref>{{cite web |last1=Knapp |first1=Alex |title=Forensic Experts Claim That King Tut Died In A Chariot Accident |website=Forbes |url=https://www.forbes.com/sites/alexknapp/2013/11/04/forensic-experts-claim-that-king-tut-died-in-a-chariot-accident/#604e79c93f0e |access-date=2 September 2019}}</ref><ref name="Harer 2017">{{cite journal |last1=Harer |first1=W. Benson |title=New evidence for King Tutankhamen's death: his bizarre embalming |journal=The Journal of Egyptian Archaeology |date=2011 |volume=97 |issue=1 |pages=228–233 |doi=10.1177/030751331109700120 |jstor=23269903 |s2cid=194860857 }}</ref>。
[[ワイン]]による毒殺説も唱えられていた。ワインは当時、王や貴族といった地位のある層しか飲むことの出来ない貴重なものであり、実際にツタンカーメンの墓にもワイン壷が収められていた。ただしこの説は一般的なものではなく、明確な根拠もなかった。


慈善家でアマチュアエジプト学者のベンソン・ハラーは、科学的なアプローチではなく、王族の中ではツタンカーメンのミイラにのみみられる、胸の上ではなく下腹部で腕を組んでいる特徴的な納棺の仕方に注目し、死因を類推した。彼によると、ツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いという{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=317-330}}。
=== 鎌状赤血球貧血症説 ===
#心臓がない。心臓はその持ち主の治世と人格の要であると考えられており、また、楽園([[アアル]])に行くための死後の審判を受けるために重要な臓器であるため、普通はミイラの中に必ず残されるものである。それがないということは生前に事故などによって失ったのであると主張する。
2010年、[[ドイツ]]のベルンハルト・ノッホ熱帯医学研究所チームは、足の骨等に詳細に調べ上げ、[[鎌状赤血球症|鎌状赤血球貧血症]]の痕跡が見つかったと発表した。
#臓器を取りだすために下腹部に開けた傷跡が不自然。普通は、体の左側に腰から下腹部まで伸びるかなり長い傷をつけるが、ツタンカーメンの場合、他の例より傷が短く、[[へそ]]から尻までである。
#横隔膜には傷がついていないように見える。肺を除去する際、横隔膜を切開するので傷がついているはずである。
#胸部の欠損の程度が異常である。折れた骨はカーターらによるものだとしても、きれいに切断されたものは古代につけられたものだろうとする。
以上により、胸部の傷が命取りであったと結論づけている{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=317-330}}。


傷を負った原因として、[[チャリオット|戦車]]事故と、[[カバ]]に襲われたという二つの説が存在する。
=== 歩行障害説 ===
2014年、放射線技師アシュラム・セリーム([[カイロ大学]]元教授)などがツタンカーメンのミイラをCTスキャンで撮影した2000枚の画像をもとに立体画像化し、骨などの硬い組織だけでなく他の柔らかい組織も、まるで解剖するように画像で確認できるようになった。セリーム技師の分析に拠れば、頭蓋骨の内側にめりこんだようにレントゲン写真などに写っている小さな骨には、ミイラ作成時の防腐剤がしみ込んでいないため、死亡前に頭蓋骨が殴られて陥没したわけではない、とされる<ref name="nhk_dramatic">KING TUT'S FINA MYSTERY(イギリス/[[カナダ]] 2014年 制作)NHK[[地球ドラマチック]]「ツタンカーメンの謎~死の真相に迫る~」として2015年3月23日放送{{出典無効|date=2020年7月}}。</ref>。


==== 戦車事故説 ====
また、ツタンカーメンは埋葬より前に左の大腿骨を骨折していたということが判明した<ref name="nhk_dramatic" />。[[病理学|病理学者]]などが分析したところ、ツタンカーメンの左足(足首の先)は内側に傾いており、また、左足の指の付け根あたりの骨が腐っており[[ケーラー病]]([[足舟状骨]]という、足指の付け根の骨への血行が障害されて生じる、骨が壊死する病気)を発症していたと判断された。故に骨が体重を支えられる状態ではなく、ひどい痛みを伴ったはずであるため、生前の王は脚が不自由で、まともに歩行できる状態ではなかった、すなわち脚をひきずっていた、と推定された<ref name="nhk_dramatic" />。また、以上を傍証するような品も、ツタンカーメンの墓の副葬品からも見つかっている。王の墓の副葬品には実に130本もの[[杖]]が含まれていた。それらの杖の中には先がかなりすり減っているものもあったため<ref name="nhk_dramatic" />、これらの杖はただのシンボルとしてではなく実際に王が体重を支えるために使っていた、と推定され、王は生前に脚に不自由があったのだと推定された。
解剖学者ロバート・コノリーは、独自に1968年に行われたX線写真を調べなおし、事故死だと結論づけた。彼もまた、心臓が欠けているのは事故による損傷と、死後に納棺師が、ツタンカーメンの心臓を取り出しやすいようにつけたものとみた。心臓がなくなっている原因として、ツタンカーメンは故郷から遠く離れたところで何らかの事故によって死亡したため、炎天下に置かれた遺体は数日ですぐに腐り始めたことより、悪臭を放つ心臓を取り除きたいと考えたからではないかと推測している{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=317-330}}。


しかし、もし落下したツタンカーメンが戦車から落下、あるいは衝突したとすれば、胸や骨盤だけでなく腕、足、首、背中なども折れた可能性があるが、そのようなものは見つかっていないという反論がある。たとえ馬に胸を蹴られたとしても、もっと傷は局所的になる可能性があるとする<ref>{{cite journal |last1=Harrison |first1=R. G. |last2=Abdalla |first2=A. B. |title=The remains of Tutankhamun |journal=Antiquity |date=March 1972 |volume=46 |issue=181 |page=9 |doi=10.1017/S0003598X00053072 }}</ref>。
外科医のフタン・アシュラフィアンは、これらの症状は、ツタンカーメンは生まれつき[[側頭葉てんかん]]を患っていたとすると説明がつく、とする見解を発表した。この見解に拠れば、ツタンカーメンは側頭葉てんかんによって発作をともなった人生を送っていて、しばしば発作によって転倒していたと推測され、故に転倒事故によって大怪我をした可能性が高く、その結果、大腿骨を骨折しそれで死去した可能性があるとされる<ref name="nhk_dramatic" />。

==== カバによる襲撃説 ====
[[アフリカ]]ではワニに次ぐ危険な動物であるカバに襲撃されたとする説もある{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=317-330}}。新王国時代には、ファラオがカバ狩りをした事実が確認されている。マネトによると、[[メネス|メネス王]]はカバによって殺されたと伝わっているほど、これは古くから知られている事実であった。カバ狩りでなくても、普通に沼地で狩りをしている時に、舟上から襲われた可能性もある。しかし、他のエジプト学者や、他分野の専門家はこの説に対し慎重な立場を取っている。ケニアの野生動物の専門家、エルスタス・カンガは、カバ説はありえないことではないとした上で、「もしカバに踏まれたとしたら人間の胸は確実につぶれる上に、かみつかれたら被害者のはらわたは抉り出されるであろう」と述べている{{Sfnp|マーチャント|2014|pp=317-330}}。

==== 事故説に対する反論 ====
しかし、肋骨の欠損は、死亡時の傷によるものとは考えにくいとする説もある。1926年のカーターの発掘終了時に撮影された写真を見ると、王の胸壁は無傷で、鷹の頭の端子が付いた[[ビーズ]]の首輪をつけていた。しかし、1968年のX線写真では首輪と胸壁の両方がないことが確認できた。フォーベスらの研究によると、ミイラの胸骨や鎖骨の欠損や目の傷は、1926年から1968年の間に非公式かつ秘密裡にミイラの"解体"が行われたことを強く示しているという。この出来事はさらに、1939年から1945年にかけての第二次世界大戦中で、王家の谷の警備が厳しくない時に行われたとされる。このようなミイラの"解体"は、ハワード・カーターが意図的にミイラに残したいくらかの宝石目当てであった可能性がある。そのような宝石はミイラの体からは容易には切り離せないので、犯人は[[のこぎり]]を持参した可能性があり、その時にミイラに傷を負わせた可能性があるとする。フォーベスらは、もしこのシナリオが正しければ、ミイラに肋骨がないことはツタンカーメンの死因とは全く関係がないと結論付けている<ref name="rib">{{Cite web|author=Dennis Forbes Salima Ikram & Janice Kamrin|url=https://www.academia.edu/27388394/Tutankhamuns_Missing_Ribs_KMT_18_1_pdf|title=Tutankhamun's Missing Ribs|accessdate=2022-01-19}}</ref>。

=== 鎌状赤血球症説 ===
ドイツ・ハンブルグのベルンハルト・ノヒト熱帯医学研究所の科学者であるティムマンとマイヤーはマラリア説に対し疑問を持ち、ツタンカーメンは[[鎌状赤血球症]]による貧血で死亡したのではないかと考えている{{sfn|Timmann|Meyer|2010|p=1279}}。しかしながら、鎌状赤血球症の人物はマラリアにはかかりにくいので、もしツタンカーメンが鎌状赤血球症であった場合マラリアとの同時併発は起きにくいため、死因の決定要因にはならない{{Sfn|河合|2012|pp=223-224}}。

== 後継者 ==
ツタンカーメンとアンケセナーメンとの間に産まれた女子2人([[317aと317b]])は、共に死産だった{{Sfn|ハワス|2012|pp=223-224}}ため、アイがツタンカーメンの後を継ぎ、ファラオとして即位する{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。しかしアイも高齢であったため、在位わずか4年で没してしまう{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。ホルエムヘブが即位するが、彼もまた子がいなかったため王位はホルエムヘブの将軍であり、宰相でもあったパラムセスに移る{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。パラムセスは即位し名前をラメセス1世と改め、エジプト第19王朝となる{{Sfnp|松本|1994|pp=172-173}}。
そのためツタンカーメン死後、王妃アンケセナーメンが、長年戦闘を交えてきた[[ヒッタイト]]より、王を迎えようとした書簡が存在する{{Sfnp|ハワス|2010}}{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfn|河合|2012|pp=232-234}}。

=== 異国よりの王 ===
ヒッタイトの史料によると、<u>とある時</u>、エジプトで王が死に、未亡人となった王妃{{仮リンク|ダハムンズ|en|Dakhamunzu}}はヒッタイト王[[シュッピルリウマ1世]]に書簡を送り、王子の一人をエジプト王として迎え入れたいと申し出たとのことである。この書簡を送った人物がアンケセナーメンであると考える説があるが、ネフェルティティではないかと、ダハムンズは主張している。以下に、王妃ダハムンズをアンケセナーメンとする説に従って記述する{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。

{{quotation|私の夫は死に、私には息子がありません。噂では、あなたは多くの子息をもっているといいます。もしあなたが子息の一人を送って下さるなら、私は彼を夫にします。私は臣下の一人を夫に選びたくはないのです。|アンケセナーメン?の書簡|吉村(1984){{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}}}

これに対して、シュッピルリウマ1世の息子[[ムルシリ2世]]が以下のような記録を残している。

{{quotation|私の父は手紙を読んですぐに、高官会議を召集した。父は未だかつてこのようなことは起こったことがないと言い、侍従のハットゥ・ジッティシュに《エジプトへ行って信ずるに足る報告をもたらせ。 彼らは私を騙そうとしているのかも知れない。そして、もし彼らが王子を待っているようなら、それを信じられるだけの報告をするように》と命じた。ハットゥ・ジッティシュが派遣された後、エジプトの使者ハニス卿がエジプト王妃の手紙を持ってやってきた。王妃は父の疑惑に対して次のように答えていた。《なぜあなたは、私があなたを騙そうとしているなどと言うのですか。もし私に息子があるなら、私と私の国の恥をさらしてまで外国に手紙を送るでしょうか。あなたは私を信用していない。 私の夫だった人は死んだのです。私には息子がありません。私は召使いの一人を選んで夫にしなければならないのです。私は他のどんな国にも手紙を書かず、あなただけに書いたのです。あなたは多くの子息をもっていると聞きました。子息の一人を私に与えて下さい。彼は私の夫となり、エジプト国の王となるでしょう》私の父は寛大だったので、貴婦人の言葉に同意して息子を送ることを決意した|ムルシリ2世の記録|吉村(1984){{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}}}

シュッピルリウマ1世は、息子である王子[[ザンナンザ]]をエジプトに送ったが、王子はツタンカーメンの死後70日を過ぎてもエジプトに到着せず、このとき王子は、既に何者かによって暗殺されていた{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。暗殺を命じた人物は諸説あるが、王子には護衛が付いているため、盗賊に殺されるとは考えにくく、軍隊を動かすことのできる人物だろう点から、アイかホルエムヘブ説が出て来るが、吉村やハワスは、ホルエムヘブだとする{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}{{Sfnp|ハワス|2010}}。

アイは長期にわたり王家に使え続けた忠臣であるだけでなく、王家の遠縁{{Efn|ツタンカーメンの(父がアクエンアテンであるとすれば、)祖父であるアメンホテプ3世の妃、ティイの兄弟がアイである。これは、ツタンカーメンから見て大おじにあたる([[#系譜]])。}}にあたる人物である。吉村(1984)によると、彼は性格が穏やかであったと言われており、ツタンカーメン死後も葬儀を司るなどの権力と影響力を持っていた。王妃にすぎないアンケセナーメンがアイに知られずに密かに書簡を送るなどのことはできなかったはずであり、彼女は高い確率でアイにこのことを相談した可能性がある。さらにこの時、ホルエムヘブは王位を狙っていたともいわれ、そこに賢明だったアイが気付かないはずはなく、彼はエジプトの血筋を守りたかったと考えられるため、アンケセナーメンを助ける方向に動いた可能性が高い。よって、アイが暗殺するとはきわめて薄いと考えられる{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}。ホルエムヘブは非常に厳格であり、野心家で目的のためなら手段を選ばず、その過激な行動のためにアクエンアテンの怒りを買ったという記録も残っている。ここから、アイとホルエムヘブの性格を考察すると、王子ザンナンザを暗殺したのはホルエムヘブであろうと、吉村は推論する{{Sfnp|吉村|1983|pp=99-118}}。


== 系譜 ==
== 系譜 ==
{{Main|エジプト第18王朝の家系図}}
{{Main|エジプト第18王朝の家系図}}
{{ツタンカーメンの尊属家族歴}}
{{ツタンカーメンの尊属家族歴}}
{{競走馬血統表
|name = ツタンカーメン
|mlin = [[エジプト第18王朝]]
|inbr = <small>[[アメンホテプ4世]](全姉又は妹 第35号墓の[[若い方の淑女]]) 1×1=100%
|f = '''[[アメンホテプ4世]]'''
|ff = [[アメンホテプ3世]]
|fm = [[ティイ]]
|fff = [[トトメス4世]]
|ffm = [[ムテムウィヤ]]
|ffff = [[アメンホテプ2世]]
|fffm = [[ティアア]]([[:en:Tiaa|en]])
|ffmf = 不明([[アルタタマ1世]]説あり)
|ffmm = 不明
|fmf = [[イウヤ]]([[:en:Yuya|en]])
|fmff = 不明
|fmfm = 不明
|fmm = [[チュウヤ]]([[:en:Tjuyu|en]])
|fmmf = 不明
|fmmm = 不明
|m = 第35号墓の'''[[若い方の淑女]]'''
|mf = アメンホテプ3世
|mm = ティイ
|mff = トトメス4世
|mfm = ムテムウィヤ
|mfff = アメンホテプ2世
|mffm = ティアア
|mfmf = 不明(アルタタマ1世説あり)
|mfmm = 不明
|mmf = イウヤ
|mmff = 不明
|mmfm = 不明
|mmm = チュウヤ
|mmmf = 不明
|mmmm = 不明
}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
=== 注釈 ===
==== 注釈 ====
{{notelist2}}
{{Notelist|2}}
==== 訳注 ====
{{Notelist-lr}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{reflist}}
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
*[[ハワード・カーター]]『ツタンカーメン発掘記』
* {{Cite book|和書 |author=イアン・ショー&ポール・ニコルソン |translator=内田杉彦 |year=1997 |title=大英博物館 古代エジプト百科事典 |publisher=[[原書房]] |isbn=4-562-02922-6 |ref=大英博物館古代エジプト百科事典}}
* {{Cite book|和書|author=|date=2014|title=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)|publisher=[[小学館]]|ref={{sfnref|ニッポニカ|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=|date=2016|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]|publisher=ブリタニカ・ジャパン|ref={{sfnref|ブリタニカ|2016}}}}
* {{Cite book|和書|author=松本弥|date=1994|title=図説 古代エジプト文字手帳|publisher=株式会社 弥呂久|ISBN=4946482075|ref={{sfnref|松本|1994}}}}
* {{Cite book|和書|author=松本弥|date=1998|title=図説 古代エジプトのファラオ|publisher=株式会社 弥呂久|ISBN=4946482121|ref={{sfnref|松本|1998}}}}
* {{Cite book|和書|author=屋形禎亮, 大貫良夫 et al.|date=1998|title=世界の歴史I 人類の起源と古代オリエント|publisher=[[中央公論社]]|ref={{sfnref|松本|1998}}}}
* {{Cite book|和書|author=吉村作治|date=1984|title=古代エジプト女王伝|publisher=[[新潮社]]|ISBN=4106002523|ref={{SfnRef|吉村|1984}}}}
* {{Cite book|和書|author=屋形禎亮, 杉勇 et al.|date=1969|title=岩波講座 世界歴史1|publisher=[[岩波書店]]|ref={{sfnref|屋形|1969}}}}
* {{Cite book|和書|author=ハワード・カーター|translator=酒井傳六, 熊田亨|year=2001|title=ツタンカーメン発掘記(上)|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4-480-08593-1}}(原著はハワード・カーター(1923)で、翻訳が2001年である。)
* {{Cite book|和書|author=ハワード・カーター|translator=酒井傳六, 熊田亨|year=2001|title=ツタンカーメン発掘記(下)|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-08594-8}}
* {{Cite book|和書|author=イアン・ショー&ポール・ニコルソン|translator=内田杉彦|year=1997|title=大英博物館 古代エジプト百科事典|publisher=[[原書房]]|isbn=4-562-02922-6}}
* {{Cite book|和書|author=A.J.スペンサー|translator=近藤二郎, 小林朋則|year=2009|title=大英博物館 図説古代エジプト史|publisher=原書房|isbn=978-4-562-04289-0|ref={{SfnRef|スペンサー|2009}}}}
* {{Cite book|和書|author=ジョー・マーチャント|translator=木村博江|year=2014|title=ツタンカーメン 死後の奇妙な物語|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-16-390125-1|ref={{Sfnref|マーチャント|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=ピーター・クレイトン|others=吉村作治監修 |translator=藤沢邦子 |title=古代エジプトファラオ歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=1999-04 |isbn=978-4-422-21512-9 |ref=クレイトン 1999 }}
* {{Cite book|和書|author=ジョイス・ティルディスレイ|others=吉村作治監修|translator=月森左知|title=古代エジプト女王・王妃歴代誌 |publisher=創元社 |date=2008-06 |isbn=978-4-422-21519-8 |ref=ティルディスレイ 2008 }}
* {{Cite book|和書|author=トビー・ウィルキンソン |translator=内田杉彦|title=図説 古代エジプト人物列伝|publisher=悠書館|date=2015-1|isbn=978-4-903487-97-7|ref=ウィルキンソン 2015 }}
* {{Cite book|和書|author=アンジュ=ピエール・ルカ|translator=羽林 泰|year=1978|title=ミイラ―ミイラ考古学入門 |publisher=佑学社|ref={{Sfnref|ルカ|1978}}}}
*{{Cite book|和書|editor=衣奈多喜男ほか|editor-link=衣奈多喜男|date=1965-8-21|title=ツタンカーメン展|publisher=[[朝日新聞社]]東京本社|ref={{SfnRef|衣奈ほか|1965}}}}
*{{cite book|last1=Carter|first1=Howard|last2=Mace|first2=Arthur|title=The tomb of Tut Ankh Amen|year=1923-1927||publisher=Cassell|location=London|id=3vols.|ref={{SfnRef|=Carter・Mace|1923-27}}}}
**{{Cite book|和書|author1=ハワード・カーター||author2=酒井傳六|authorlink2=酒井傳六|translator=or=[[熊田亨]]|date=1971-12-20|title=ツタンカーメン発掘記|publisher=筑摩書房|ref={{SfnRef|カーター|1971}}}}
*{{Cite book|和書|editor=友部直|editor-link=友部直|date=1994-4-10|title=世界美術大全集2 エジプト美術|publisher=小学館|isbn=4-09-601002-2|ref={{SfnRef|友部|1994}}}}
**{{Cite book|和書|author=近藤二郎|authorlink=近藤二郎|editor=友部直|date=1994-4-10|title=世界美術大全集2 エジプト美術|chapter=黄金の玉座|pages=393-394|ref={{SfnRef|近藤|1994}}}}
*{{cite book|last1=Shaw|first1=Ian|last2=Nicholson|first2=Paul|title=The British Museum Dictionary of Ancient Egypt|year=1995|publisher=The British Museum company Ltd.|location=London|ref={{sfnref|Shaw&Nicholson|1995}}}}
**{{Cite book|和書|author1=イアン・ショー|authorlink1=イアン・ショー|author2=ポール・ニコルソン|authorlink2=ポール・ニコルソン|translator=[[内田杉彦]]|date=1997-5-10|title=大英博物館古代エジプト百科事典|publisher=原書房|isbn=4-562-02922-6|ref={{SfnRef|ショー&ニコルソン|1997}}}}
*{{cite book|last=Siliotti|first=Alberto|title=Guida alla Valle dei Re,ai templi e alle necropoli tebane|year=1996|publisher=Edizioni White Star|location=Vercelli,Italia|ref={{sfnref|Siliotti|1996}}}}
**{{Cite book|和書|author1=アルベルト・シリオッティ|authorlink1=アルベルト・シリオッティ|author2=矢島文夫監訳|authorlink2=矢島文夫|date=1998-1-20|title=王家の谷-テーベの神殿とネクロポリス|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=4-309-22316-8|ref={{SfnRef|シリオッティ|1998}}}}
*{{cite book|last=Marek|first=Jaromir|title=Egyptian Art|year=1999|publisher=Phaidon Press Limited|location=London|ref={{sfnref||1999}}}}
**{{Cite book|和書|author1=ヤロミール・マレク|authorlink1=ヤロミール・マレク|translator=近藤二郎|date=2004-4-26|title=岩波世界の美術 エジプト美術|publisher=岩波書店|isbn=4-00-008977-3|ref={{SfnRef|マレク|2004}}}}
*{{Cite book|和書|author1=吉村作治監修|translator=[[長谷川真美]]|date=2000-10-25|title=カイロ博物館 古代エジプトの秘宝|publisher=[[ニュートンプレス]]|isbn=4-315-51600-7|ref={{SfnRef|吉村|2000}}}}
**{{Cite book|和書|author=フランチェスコ・ティアドリッティ|authorlink=フランチェスコ・ティアドリッティ|date=2000-10-25|title=カイロ博物館 古代エジプトの秘宝|chapter=カイロ・エジプト博物館の歴史|pages=12-23|ref={{SfnRef|ティアドリッティ|2000a}}}}
**{{Cite book|和書|author=フランチェスコ・ティアドリッティ|authorlink=フランチェスコ・ティアドリッティ|date=2000-10-25|title=カイロ博物館 古代エジプトの秘宝|chapter=ツタンカーメン王の黄金の玉座|pages=218-219|ref={{SfnRef|ティアドリッティ|2000b}}}}
*{{Cite book|和書|author1=ザヒ・ハワス監修|authorlink1=ザヒ・ハワス|translator=[[杉亜希子]]ほか|date=2012-3-17|title=エジプト考古学博物館所蔵 ツタンカーメン展|publisher=[[フジテレビジョン]]|ref={{SfnRef|ハワス|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=吉成 薫|date=2012-6-26|title=古代エジプト三〇〇〇年史|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4-404-04210-1|ref={{SfnRef|吉成|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=河合望|authorlink=河合望|date=2012-7-18|title=ツタンカーメン 少年王の謎|publisher=[[集英社]]|series=[[集英社新書]]|isbn=978-4-08-720649-4|ref={{SfnRef|河合|2012}}}}
*{{Cite web|和書|author=ザヒ・ハワス|url=http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/1009/feature01/|title=ツタンカーメン 解き明かされた系譜(記事全文)|publisher=ナショナル・ジオグラフィック|date=2010年9月|accessdate=2022-01-06|ref={{Sfnref|ハワス|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=河合望|title=古代エジプト全史|publisher=[[雄山閣]]|date=2021-5|isbn=978-4-639-02763-8|ref={{SfnRef|河合|2021}}}}


=== 外国語文献 ===
*{{Citation|first=Peter|last=Lundström|year=2011|title=Tutankhamun|url=https://pharaoh.se/pharaoh/Tutankhamun|ref={{Sfnref|Lundström||2011}}}}
* {{Cite book |last=Clayton |first=Peter A. |title=Chronicle of the pharaohs: the reign-by-reign record of the rulers and dynasties of ancient Egypt|date=2006 |publisher=Thames & Hudson |isbn=978-0-500-28628-9 |location=London |oclc=70764731|ref={{Sfnref|Clayton|2006}}}}
* {{cite book|first=Zahi|last=Hawass|title=The Golden Age of Tutankhamun|url=https://archive.org/details/goldenageoftutan0000hawa|url-access=registration|page=[https://archive.org/details/goldenageoftutan0000hawa/page/56 56]|year=2004|publisher=American Univ in Cairo Press|isbn=978-977-424-836-8|oclc=56358390}}
* {{cite book|first=Carl Nicholas|last=Reeves|title=The Complete Tutankhamun: The King, the Tomb, the Royal Treasure|year=1990|publisher=Thames and Hudson |isbn=978-0-500-27810-9|oclc=1104938097 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/completetutankha00reev}}
* {{cite book|first1=Aidan |last1=Dodson|first2=Dyan |last2=Hilton|title=The Complete Royal Families of Ancient Egypt|url=https://books.google.com/books?id=ONKiQAAACAAJ|year=2010|publisher=Thames & Hudson|isbn=978-0-500-28857-3}}
* {{cite journal |last1=Tawfik |first1=Tarek |last2=Thomas |first2=Susanna |last3=Hegenbarth-Reichardt |first3=Ina |title=New Evidence for Tutankhamun's Parents: Revelations from the Grand Egyptian Museum |journal=Mitteilungen des Deutschen Archäologischen Instituts, Abteilung Kairo |date=2018 |volume=74 |pages=179–195 |url=https://www.academia.edu/44790548 |access-date=20 March 2021}}
* {{cite journal |last=Zivie|first= A.|year=1998|title=La nourrice royale Maïa et ses voisins: cinq tombeaux du Nouvel Empire récemment découverts à Saqqara |journal=Comptes rendus des séances de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres |volume=142 |issue=1 |language=fr |url=https://www.persee.fr/doc/crai_0065-0536_1998_num_142_1_15830}}
* {{cite book|first1=Rolf|last1=Gundlach|first2=John H.|last2=Taylor|title=4. Symposium Zur Ägyptischen Königsideologie|url=https://books.google.com/books?id=onOdlJZZik0C&pg=PA160|year=2009|publisher=Otto Harrassowitz Verlag |isbn=978-3-447-05888-9|oclc=500749022}}
* {{cite journal|last=Hawass|first=Zahi|display-authors=etal|ref={{sfnref|Hawass et al.|2010}} |title=Ancestry and Pathology in King Tutankhamun's Family|journal=[[JAMA (journal)|The Journal of the American Medical Association]] |date=17 February 2010 |volume=303|issue=7|pages=638–647 |doi=10.1001/jama.2010.121|doi-access=free |pmid=20159872 |url=http://www.leben-in-luxor.de/docs/Hawass_Ancestry_and_Pathology_joc05008_638_647.pdf |access-date=27 August 2019}}
*{{cite book|author=Sarah Anne Hughes|title=Museum and Gallery Publishing: From Theory to Case Study|url=https://books.google.com/books?id=l0ueDwAAQBAJ&pg=PT36|date=20 June 2019|publisher=Taylor & Francis|isbn=978-1-317-09309-1|page=36}}
*{{cite book|author=Thomas R.H. Havens|title=Artist and Patron in Postwar Japan: Dance, Music, Theater, and the Visual Arts, 1955-1980|url=https://books.google.com/books?id=U8b_AwAAQBAJ&pg=PA134|date=14 July 2014|publisher=Princeton University Press|isbn=978-1-4008-5539-1|page=134}}
* {{cite book|first=Marianne|last=Eaton-Krauss|title=The Unknown Tutankhamun|url=https://books.google.com/books?id=7cuBCgAAQBAJ|date=2015|publisher=Bloomsbury Publishing|isbn=978-1-4725-7563-0|oclc=1049775714}}
*{{Cite web|url=http://weekly.ahram.org.eg/2009/929/he2.htm| wayback=20091124091730|title=Zahi Hawass: ''King Tut was the son of Akhenaten''|accessdate=xxxx年yy月|ref={{sfnref|Hawass|xxxx(リンク切れ)}}}}{{リンク切れ|date=2022年1月}}
**{{Cite web|url=https://www.guardians.net/hawass/articles/tut_akhenaten.htm|title=
King Tut is the Son of Akhenaton|author=Zahi Hawass|accessdate=2022-01-04}}(一つ上のリンク切れの文献と同一か?)
*{{cite book|author1=John Coleman Darnell|author2=Colleen Manassa |title=Tutankhamun's Armies: Battle and Conquest During Ancient Egypt's Late Eighteenth Dynasty|url=https://books.google.com/books?id=7MvtJ2LbKgwC&pg=PA49|date=3 August 2007|publisher=John Wiley & Sons|isbn=978-0-471-74358-3 |page=49}}
* {{cite book|title=Treasures of Tutankhamun|editor1-last=Gilbert|editor1-first=Katherine Stoddert|editor2-last=Holt|editor2-first=Joan K.|editor3-last=Hudson|editor3-first=Sara|year=1976|publisher=[[The Metropolitan Museum of Art]]|isbn=0-87099-156-6|url-access=registration|url=https://archive.org/details/treasuresoftutan00edwa}}
* {{cite journal |last1=Timmann |first1=Christian |last2=Meyer |first2=Christian G. |title=Malaria, mummies, mutations: Tutankhamun’s archaeological autopsy |journal=Tropical Medicine & International Health |date=2010 |volume=15 |issue=11 |pages=1278–1280 |doi=10.1111/j.1365-3156.2010.02614.x |url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1365-3156.2010.02614.x |access-date=2 July 2021 |language=en |issn=1365-3156}}
*{{Cite web|author=Gary Greenberg|url=https://ggreenberg.tripod.com/articles/manetho18d/arce99-dyn18.pdf|title=Manetho's Eighteenth Dynasty: Putting the Pieces Back Together|publisher=ARCE(American Research Center in Egypt)|date=1999-04-23|accessdate=2022-01-19}}
*{{Cite web|url=https://worldhistory.us/ancient-history/ancient-egypt/akhenaten-and-nefertitis-children.php|title=Akhenaten and Nefertiti's Children|website=Worldhistory.us|date=2019-09-20|accessdate=2022-01-19}}
*{{Cite web|author=Shawn McAvoy|url=https://repositorio.uca.edu.ar/bitstream/123456789/11907/2/mummy-61074-strange-case.pdf|title=Mummy 61074: a strange case of mistaken identity|date=2019-09-20|publisher=Arizona State University, USA|accessdate=2022-01-19}}
*{{Cite web|author=Dennis Forbes Salima Ikram & Janice Kamrin|url=https://www.academia.edu/27388394/Tutankhamuns_Missing_Ribs_KMT_18_1_pdf|title=Tutankhamun's Missing Ribs|accessdate=2022-01-19}}
== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Tutankhamun}}
{{CommonsCat|Tutankhamun}}
* [https://www.nazotoki.com/noroi.htmlァラオ呪い](ツタンカーメンの王墓発掘に関する呪い伝説の真相)
* http://www.griffith.ox.ac.uk/discoveringTut/ - グリィス研究所のツタンカーメンのページ(英語)。カーターの発掘日誌、写真付きの出土品解説など各種情報を閲覧することができる。
* [https://ci.nii.ac.jp/naid/110001225674 吉村作治 古代エジプト・ツタンカーメンの謎とミイラ作製など医学技術 日本臨床胞学会雑誌 38(Suppl.2), 331, 1999-09]
* https://jamanetwork.com/journals/jama/fullarticle/185393 - ザヒハワス博士らによるツタンカーメンの遺伝分析な報告(英語)

* [https://gigazine.net/news/20100217_tutankhamun_died_from_malaria/ 黄金のマスクで知られるファラオ・ツタンカーメンの死因は足を骨折し、ひどいマラリアにかかったこと]
{{エジプト新王国時代のファラオ}}
{{先代次代|[[ファラオ|古代エジプト王]]|133代<br>前1333年 - 前1324年|[[スメクカーラー]]|[[アイ (第18王朝のファラオ)|ケプルケプルゥラー (アイ)]]}}
{{先代次代|[[ファラオ|古代エジプト王]]|[[エジプト第18王朝]] 第13代<br>前1332 - 前1323|[[ネフェルネフェルウアトン]]|[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]}}
{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
{{History-stub}}


{{DEFAULTSORT:つたんかめん}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:つたんかめん}}
[[Category:ツタンカーメン|*]]
[[Category:ツタンカーメン|*]]
[[Category:ファラオ]]
[[Category:第18王朝のファラオ]]
[[Category:紀元前14世紀のファラオ]]
[[Category:エジプトの幼君]]
[[Category:エジプトの幼君]]
[[Category:エジプト第18王朝]]
[[Category:ルクソール]]
[[Category:アマルナ時代]]
[[Category:アマルナ時代]]
[[Category:アメンホテプ4世の子女]]
[[Category:墓を暴かれた人物]]
[[Category:墓を暴かれた人物]]
[[Category:マラリアで死亡した人物]]
[[Category:マラリアで死亡した人物]]

2024年12月12日 (木) 11:16時点における最新版

ツタンカーメン
Tut ankh Amun[注釈 1],
Tut ankh Aten(生名)[注釈 2]
ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの黄金のマスク
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前1335年–1327年[注釈 3],第18王朝
共同統治者 ネフェルティティ(ネフェルネフェルウアトン)?[8]
前王 スメンクカーラー
次王 アイ
配偶者 アンケセナーメン
子女 2人(胎児),317aと317b
アクエンアテン
第35号墓(KV35)の若い方の淑女(アメンホテプ4世の同父同母の姉妹)
出生 1341 B.C.
死去 1323 B.C.(享年18 / 19歳ほど)[注釈 7]
埋葬地 KV62英語版
記念物 ツタンカーメン王の喇叭,ツタンカーメンのマスク
その他 生前の身長は、解剖学者のダグラス・デリーによると、168cmと見積もられる[11]
テンプレートを表示

ツタンカーメン(翻字: twt-ꜥnḫ-ı͗mn, エジプト語英語化: Tutankhamun[5][12], Tutankhamen, King Tut, ? - 紀元前1327年頃[13])は、古代エジプト第18王朝ファラオ(在位: 紀元前1336年頃 - 紀元前1327年頃[14])。より厳密な表記では、トゥトアンクアメン[2][5][6]エジプト新王国時代、第18王朝末期の最後の直系王族である[15]。若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれている[3]

ツタンカーメンは8歳か9歳の時に即位した[6]。このため実権は、内政は親戚関係にある大臣であり、最終的に後継者となる宰相(摂政アイ、外政においては将軍ホルエムヘブに握られていた[6][16]。王妃は異母姉のアンケセナーメンであった。彼は9年 (10年)[13]の治世、16 - 19歳 (18歳)[13]の若さで亡くなった[6][17]

ツタンカーメンは在位期間の短さ、および後世の王名表などから名前が削除されていたことにより人々にほとんど知られていなかった[16]。しかし、1922年ハワード・カーターが、彼のパトロンであるカーナヴォン伯ジョージ・ハーバートによる資金援助で行われた発掘調査にて、ほぼ無傷なツタンカーメンの墓を発見し、世界中の注目を浴びたことでツタンカーメンは非常に有名になった[3][18]。5,000点以上の遺物[19][注釈 8]が出土したことで古代エジプトへの関心が再び高まり、現在カイロ博物館に所蔵されているツタンカーメンのマスクは、今でも同館のシンボルの一つとなっている。また、ツタンカーメンのミイラの発見に関わった数人の人物の突然の死は、ファラオの呪いのせいだとする噂がまことしやかにささやかれた[21]。ツタンカーメンの副葬品は、1961年以降、ヨーロッパや北米オーストラリアなどの美術館に貸し出し展示されている[22]日本では1965年に東京国立博物館のほか京都市福岡市[23]、2012年には上野の森美術館などで展示された[24][25][26]

人物

[編集]

家族

[編集]

ツタンカーメンの家族については、彼の生きたアマルナ時代の記録が異端として、ほとんど後世に抹消されてしまった[16]ため、正確な事実は不明であり、諸説ある。ここでは、最も有力である説を主体に、他の説もできる限り記す。

両親

[編集]

ツタンカーメンの父はアクエンアテン[27]、母は父親の実妹である若い方の淑女[28]乳母サッカラに墓があるマイアと呼ばれる女性であった[29][30]

2008年から10年にかけて、ザヒ・ハワスを含めたカイロ大学の研究チームにより、ツタンカーメンをはじめとする、新王国時代の王族と考えられる人々のミイラの遺伝子解析が行われた[28]。なお、ハワスなど多くのエジプト学者は、様々な証拠から、DNA鑑定の以前より、ツタンカーメンの父はアクエンアテンである可能性が非常に高いと見ていた[19]

鑑定の結果、KV55英語版に埋葬されている人物は35歳から45歳ほどで死亡したことがわかり、碑文の内容とも合わせて、確かにアクエンアテンであり、ツタンカーメンの父親であることがほぼ確定した[31][19]。アクエンアテンがツタンカーメンの父親である可能性は、99.99999981%であったという[31]。今まではKV55のミイラは死亡年齢が25歳だと思われていたため、即位前に2人の娘がおり、さらに即位17年を数えたアクエンアテンではなく、謎の人物であるスメンクカーラーではないかとされていた[19]。しかし、改めてCTスキャンを実行したところ、膝と腰に関節炎を患っていたことが判明したので、40歳前後に死去しただろうと分かり、年齢の面での問題が解決したという[19][注釈 9]。また、KV35から発見された名前不明[注釈 10]の女性のミイラKV35YL(若い方の淑女)は、ツタンカーメンの母親であるだけでなく、KV55のミイラの妹であることも判明した[31][19]

しかし異説もあり、マーク・ガボルデ(en)やエイダン・ドドソン(en)などの一部の研究者は、ツタンカーメンの母親は若い方の淑女ではなく、ネフェルティティであると主張している。彼らはサンプルの古さや汚染の可能性を考えてDNA鑑定の正確性を疑問視し、鑑定結果に不確実性が含まれているのではないかと別の解釈を行った。彼らの解釈では、遺伝子に関係があるのは、彼らが兄妹であることが理由なのではなく、3世代以上にわたる近親交配の結果であり、ネフェルティティはアクエンアテンの従兄妹であるというようにも取れるとしている。また、ツタンカーメンの父はアメンホテプ3世やスメンクカーラーである[32]という異説も過去にあった[7]

さらに他の異説として、ツタンカーメンの母はアクエンアテン妃ネフェルティティや、その次女メリトアテン、あるいはアクエンアテンの第2の王妃であったキヤなどではないかともされているが[注釈 11]、メリトアテンは死亡時10歳ほどであったことが判明しているため可能性は低いと考えられている。ハワスは2010年に、この説を明確に否定している[19]

ハワスは、ツタンカーメンの両親を特定するために、DNA鑑定以前にもヘルモポリスから出土した石碑の断片を探すなどの調査を行っていた。この石碑は、ドイツの調査団のギュンター・ローダー(de)らによる発掘(1929年 - 1939年)の際に既に発見され、1969年に内容が発表されていた。この碑文では、ツタンカーメン(ここではまだトゥトアンクアテン)は名称不明の王の息子であるとされており、「王の体から来たりし王子、彼に愛された、トゥトアンクアテン[i]」との記述が読み取れた[39]。この碑文からは、ひどく破損していたものの「王の体より来たりし王女,二つの土地の支配者たる王の願望[訳語疑問点]、アンクエスエンパーアテン[注釈 12][ii]」との記述も読み取れた[37]。 この碑文は、ツタンカーメンがアクエンアテンの娘であるアンケセナーメンとともに、息子として言及されているので、アクエンアテンがツタンカーメンの父親であることも示しているとされる[37][19]。また、ツタンカーメンがアケトアテン(テル・エル・アマルナ)出身であることを示す数少ない証拠の一つでもある[37]

兄弟姉妹

[編集]

彼には少なくとも6人の姉妹がいたとされる。メリトアテン、メケトアテン英語版ネフェルネフェルウアテン・タシェリトネフェルネフェルウラー英語版セテプエンラー英語版、そしてアンケセンパーテン(アンケセナーメン)である[40][41]

なお、アクエンアテンの共同統治者であり、アクエンアテンの長女であるメリトアテンと結婚したスメンクカーラーが、ツタンカーメンとどのような血縁関係を持つかどうかは不明であり、アクエンアテンの息子か、ネフェルティティの別名かといった説がある[42]。松本(1994)は、ツタンカーメンはアクエンアテンの弟であり、スメンクカーラーの弟でもある説を紹介する[43]

妻・子女

[編集]
ツタンカーメンとアンケセナーメン(カイロ博物館蔵)
ツタンカーメンの子供である胎児317aと317bのミイラ

ツタンカーメンは王になると、異母姉[注釈 13]のアンケセナーメンと結婚した[注釈 14]。吉村(1984)などが提唱する一説によると、彼女との夫婦仲は良かったとされる[16][17][44]。ツタンカーメンとアンケセナーメンに子供がいたことを示す直接的な資料はないが、ツタンカーメンの墓から発見された2体のミイラ化した胎児317aと317bは、2010年2月に行われたDNA鑑定の結果、ほぼ間違いなくツタンカーメンの娘であることが判明した。2011年に発表されたコンピューター断層撮影による研究では、一人は妊娠5か月で、もう一人は妊娠7月であった[45]。なお、彼の妻であるアンケセナーメンはKV21の女性ミイラKV21Aであると考えられている[46]

その他

[編集]
狩猟をするツタンカーメンの像

ツタンカーメン王墓の副葬品に描かれている絵画などの諸資料から、ツタンカーメンとアンケセナーメン夫妻は比較的自由な生活をしていたとされる。ツタンカーメンは優しい性格で、さらに知的で活発であり、特に狩りを好み、しばしばアンケセナーメンを伴って鳥狩りなどをしたとされる[47]

治世

[編集]

業績

[編集]

ツタンカーメンは8歳から9歳の時に、「神の父(it netjer)」の称号を持つ宰相アイと将軍ホルエムヘブの下で王位に就いてファラオとなった[16][注釈 15]。幼い王はその幼さゆえに、両者の圧力に強く影響されたと考えられており、治世3年か4年の時、両者の助言によってアメン信仰の再興に踏み切った[17]

古き信仰への回帰

[編集]

ツタンカーメンは、アクエンアテンの時代には、唯一神アテン信仰が説かれていたため「トゥトアンク」と名乗っていたが、テーベの守護神であるアメン の伝統的な信仰を復活させ、「トゥトアンク」(「アメン神の生ける似姿」の意)と改名した[5][17][48][49][6][注釈 16]。王妃アンクエスエンパーアテンもまた同様に「アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)」へと改名した[17][6][注釈 17]。さらに、首都をアケトアテン(テル・エル・アマルナ)からメンフィスに移した[6][16][43]。彼は主神をアテンからアメンに変え、これまでの一神教から多神教に戻した。この信仰復興により、混乱していた世の中は静まりを見せた[16]

彼のファラオとしての最初の行動は、アクエンアテンをアマルナから王家の谷に再埋葬することだった。エジプトでは葬儀を主催する者が次の統治者であるという慣習があるため、この行動によりツタンカーメンの王権は強化された。また、最高の金属や石を使って神々の新しい像を作り、最高級のレバノンスギを使って新しい行列用の車を作り、金や銀で装飾した。神官とそれに付き添う踊り子、歌い手、侍者たちはその地位を回復し、将来を保証するために王室による保護令が出されたとされる[50]

ツタンカーメンの下で行われた政策を示している最も大きな実証は、後にホルエムヘブに奪われ、カルナックで発見された「復古の碑(Stele of restoration)」である。

(ツタンカーメン)王が即位したとき、(中略)神々の神殿は荒廃し、草の生い茂る丘となっていた。神々はこの国を見捨て、祈りも聞き届けられなかった。王位に即いたツタンカーメンは、純金のアメン神像を作り、他の神々の像も純金で作り、その聖所を新築し、供物を絶やさないようにした。町ごとに役人の子どもたちを神官に任命し、神殿の施設と職員両方の充実をはかった。その結果、神々は喜び、王に生命と支配権が与えられた。 — カルナックのアメン神殿で発見された信仰復興碑、吉成(2012)による[16]

そこには、アテンの下でのエジプトの衰退が記されており、ツタンカーメンはアメンをはじめとした古い神々への回帰を宣言している。若きファラオは、カルナックのステラや祠堂、建物をはじめとした前のアマルナ時代に破損した古いモニュメントの修復を行った。ルクソール神殿では列柱の装飾が完成し、カルナックにはツタンカーメンの姿をかたどったアメン神像および、2つの新しい礼拝堂が設けられた[43]。おそらくスメンクカーラーのものであったであろう死者の神殿の建設をも引き継いでいる。ツタンカーメンの建築活動の証拠は、ギザからヌビアにかけて確認することができる。しかし、これらの建造物のいくつかは、後にホルエムヘブによって、ツタンカーメンの名前を自分の名前に書き換えることによって簒奪されている[51]

アマルナ時代の影響

[編集]

多信教信仰の復活に伴い、アテンは神の一柱に戻った。ツタンカーメンの棺厨子と黄金の玉座にはアテンが描写されているが、これは彼が多神教信仰に戻す宣言以前の制作だと推定される[52][53]。他に、多神教復活後も、ツタンカーメンはアテン信仰を捨てられなかったとの説もある[54]

ツタンカーメンの厨子。頭上に日輪としてのアテンが描かれている。なお、「妻・子女」節での画像の椅子にもアテンが描かれている。

マネトの王名記載

[編集]

プトレマイオス朝の神官マネトは、彼が書いた『エジプト史』[注釈 18]の中で、Orus, Amenophis, Rathotis, Harmaisという王について言及している。マネトの記述と考古学的推定との対応は以下の表のとおりである。

マネトの記述と推定される統治期間との対照表[55]
名前(マネト) 名前(推定) 治世(マネト) 治世(考古学的推定)
Orus アメンホテプ3世 36年5か月 37年
Amenophis アクエンアテン+スメンクカーラー 19年 17年+3年
Rathotis ツタンカーメン 9年 9年
Harmais アイ 4年1か月 4年

以上の通りの対応があることが確認できるが、アマルナ時代のファラオはマネトの記述の中心的存在であるにもかかわらず、マネトが指しているどの名前がどのファラオと一致するかは研究者の間でも意見が分かれている。なお、アクエンアテン治世末期からツタンカーメンまでの間に、スメンクカーラー及び、アクエンアテンの王妃ネフェルティティであると推測されているネフェルネフェルウアテンという王位名を持つ支配者がいたとされる[56]

遺伝分析

[編集]

疾患群

[編集]

ツタンカーメンは多くの疾患に苦しんでいた可能性が示唆されている[57]。彼の大きな前歯は、彼が属していた第18王朝の特徴である被蓋咬合英語版を起こしていた[58]。彼の墓から発見された衣服、特に下着とベルトの寸法から考えると、彼はウエストが狭く、腰が丸かったことがわかる。美術品に描かれた彼の姿と早逝の両方を説明しようと、様々な説が唱えられている[注釈 19]

また、曾祖父のトトメス4世と父のアクエンアテンが宗教にのめり込み、そして早逝した[注釈 20]ことを説明するために、彼が遺伝性の側頭葉てんかんを患っていた可能性も指摘されている[59]。さらに、2005年1月のミイラのCTスキャンによると、ツタンカーメンには軽度の脊柱管狭窄症および脊柱側弯症を持っていたことがわかった[60][61]。さらに、2010年の調査では、ツタンカーメンと父アクエンアテンや、曾祖母ムテムウィヤなどの近親者にさらなる骨疾患が発見された[要出典]。また、スキャンの結果、彼の右足は第2ケーラー病英語版を起こしていたことがわかった[62]。このために、ツタンカーメンはを使って歩くことを余儀なくされたと考えられており、実際に、副葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡が確認される[63][19]

通称「庭園での散策(:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。石灰岩製、ベルリン新博物館蔵。

その他

[編集]

2005年にエジプト考古最高評議会と『ナショナル・ジオグラフィック』によって、ツタンカーメンの顔の復元が試みられた。エジプトとフランスのチームは復元対象がツタンカーメンであることを知っていたが、アメリカ合衆国のチームは知らされなかった。しかし驚くべきことに、どちらも非常に似通った結果を出したという[64]

[編集]
破られていない状態の墓の封印(1922年撮影)

現在のルクソール近郊に位置する、王家の谷にあるツタンカーメンの墓(エジプト学では「KV62」)は、ラムセス6世の墓建設のための作業小屋跡の下という、非常に見つけにくいような場所にあったため、盗掘や墓の整理を受けずに済んだ。盗掘を受けなかった他の理由として、ツタンカーメンの前の王であるアクエンアテンからアイまでの王が「異端」として歴史から抹消されたので、人々の記憶から消えていたことも影響している[16][19]

1922年11月4日に墓へつながる階段が発見された[65]。発掘作業員の取りまとめ役だった祖父とともに現場へ通っていたエジプト人少年フセイン・アブドルラスール(当時12歳)が、水甕を載せていたロバがつまづいてしまって甕が壊れて水がこぼれ、地下墓地への階段が露わになった[66]

11月26日にカーターはカーナヴォン伯ジョージ・ハーバートとその子女イヴリン、および多くの人々の前で墓を開封した[67]

はじめ、わたしには何も見えなかった。室の中から逃げてくる熱い空気が蝋燭の火をゆらゆらさせた。しかし、いま、目が光になれてゆくにつれて、室の中の細部が、ゆっくりと、霧の中から浮かび上がってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった。しばらくの間、わたしは驚きに打たれて沈黙していた。そのしばらくのあいだは、わきに立っている他の人たちにとっては、永遠の時間のように感じられたに違いない。
カーナヴォン伯が、もうこれ以上は耐えることができなくなって、心配そうに「何か見えるかね」とたずねたとき、わたしには、「はい、すばらしいものが」という言葉を発するのが精一杯だった。 — ハワード・カーター、ツタンカーメン発掘記(上)による[67]

なお、墓はツタンカーメンが埋葬されてから数年のうちに2度の盗掘を受け、その度に封印されているが、被害は軽微であった[68][3]。カーターはアブドルラスール少年を讃えて、埋葬品のネックレスをかけた写真も記録に残されている[69]

王の棺を囲んでいた一番外側の厨子(カイロ博物館蔵)
ツタンカーメンの厨子の構造(上の写真は1に当たる)

二度の盗掘では、王の入れ子になった一番外側にある棺を囲む厨子に通じる封印は解かれていたが、内側の2つの厨子はそのまま封印されたままだった。その後は再封印され、2000年以上もの悠久の時の間、ツタンカーメンは眠っていた。墓はその小ささや完成後に2度の盗掘を受けたことに加え、大変急いで完成させたことから非常に副葬品が密集していた。そのため、出土品に一つずつ番号をつけていくようなカーターの緻密な記録方式もあり、空になるまでに10年[3]を要した。墓の副葬品は全てカイロ博物館に運ばれた[70]

王墓の本来の所有者

[編集]

吉成薫は、ツタンカーメン王墓が、本来は宰相アイのために用意されていたもので、副葬品の中にも、アイのために準備されたものがある示唆する[71]。河合望は、ツタンカーメン墓が第18王朝の典型形でない点から、死亡時点で王墓が完成していなかったため、貴族の墓を転用したと述べる[72]

ミイラ

[編集]
ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質してしまったため、保存状態はかなり劣悪であった。ミイラ化の時の樹脂や軟膏の過度な使用は、ツタンカーメンの遺体に悪影響を及ぼし、結局そのミイラ化は失敗に近い形に終わってしまったのである[73]

ツタンカーメンの体は包帯が巻かれていたが、その中に大量の護符が織り込まれていた。首は、多数の真珠の首飾りと20個もの黄金の護符で守られるとともに、翼を広げたホルスを表した大きな喉当てがついていた。胸の上には5個の胸飾り、これとは別に首飾りと、調査したミイラの専門家が「ツタンカーメンの宝石類をすべて数え上げて説明するにはとても紙幅が足りない」と評しているほど、きわめて多くの装飾品がミイラの中に織り込まれていた。そのなかには、新王国以前では極めて珍しい[74]の見られない鉄剣も含まれる[75][76][注釈 21]

ミイラは現在、王家の谷のツタンカーメン王墓内でプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中で展示・保存されている。以前は王墓内の石棺及び第一人型棺内にて保存されていたが、2005年1月にCTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われた際、ミイラの保存状態は極めて劣悪になっており、棺内での保存ではミイラの状態維持が出来ないと結論付けられたため、棺からプレクシグラス製ケースの中に移された。保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された状態で展示されている。

死因

[編集]

ツタンカーメンの死因は現存する記録がなく[16][17]、また彼の有名性もあり、死因は長らく論争の的となっている。20世紀までは、ミイラの頭部についていた傷やいくつかの骨の裂傷などを根拠に、暗殺説が有力であった。しかし、ハワスを含む多くのエジプト学者は、死因は先天的な虚弱性疾患に加え、何らかの原因で落下したことによる脚の骨折、および重度のマラリア感染症を含む、複数の病気の併発による体の弱体化が重なった結果である可能性が高いと結論付けており、2010年以降の定説となっている[19]。実際に、悪性のマラリアを引き起こす寄生虫である、熱帯熱マラリア原虫の痕跡が、ミイラより発見されている[31]。以下に歴史的な説から、2020年代に至るまで挙げられている説を可能な限り記す。

マラリア感染

[編集]

ミイラからは、マラリア原虫の痕跡が検出されている。マラリアは熱帯・亜熱帯気候ではよくみられる病気であり、ツタンカーメンもある程度免疫を持っていた可能性があるため、感染はしなかったのではないかという説があったが[19]、ハワスは、アクエンアテンと「若い方の淑女」の婚姻を含む第18王朝に多くみられる近親婚が、ツタンカーメンに生存の上で不利な障害を持った遺伝子が多く受け継がれ、その結果、マラリアに感染する可能性はあると述べる[19]

暗殺説

[編集]

ツタンカーメンの死因として、暗殺説がしばしばあげられる。

1968年のX線調査にて、頭蓋骨内部に2つの骨片が見つかり、頭蓋下部が非常に薄くなっていることから、後頭部に強い打撃を受けたのではないかとされた[77]。しかし、2005年のCT調査にて、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられ、頭部打撃による暗殺説は否定された[78]。同時に、左足の大腿骨や右膝頭と右下腿の骨折も見つかったが、後に骨が癒合した様子が見られ、生命に及ぼす程の怪我ではないと判明した[79]

心理学者でエジプト学者のボブ・ブライアーは、どうしても王になりたかったアイが、将軍ホルエムヘブの力を借りてツタンカーメンを殺害したという説を唱えた。同じく頭蓋のX線写真に着目し、上記の説とは別に、頭蓋骨内部の脳出血の痕跡があると考えた。X線に写った影は出血による影響で硬化した筋組織で、その出血原因が頭部に受けた打撃によるものだと考えるならば、王は襲撃の後数週間は生きていただろうと推測した[80]


事故説

[編集]

若い王は、胸壁の前部と肋骨が欠損していることなどから、圧迫された傷のパターンから、事故が主な原因として死亡したのではないかとも言われている[81][82]

慈善家でアマチュアエジプト学者のベンソン・ハラーは、科学的なアプローチではなく、王族の中ではツタンカーメンのミイラにのみみられる、胸の上ではなく下腹部で腕を組んでいる特徴的な納棺の仕方に注目し、死因を類推した。彼によると、ツタンカーメンのミイラには不自然な点が多いという[83]

  1. 心臓がない。心臓はその持ち主の治世と人格の要であると考えられており、また、楽園(アアル)に行くための死後の審判を受けるために重要な臓器であるため、普通はミイラの中に必ず残されるものである。それがないということは生前に事故などによって失ったのであると主張する。
  2. 臓器を取りだすために下腹部に開けた傷跡が不自然。普通は、体の左側に腰から下腹部まで伸びるかなり長い傷をつけるが、ツタンカーメンの場合、他の例より傷が短く、へそから尻までである。
  3. 横隔膜には傷がついていないように見える。肺を除去する際、横隔膜を切開するので傷がついているはずである。
  4. 胸部の欠損の程度が異常である。折れた骨はカーターらによるものだとしても、きれいに切断されたものは古代につけられたものだろうとする。

以上により、胸部の傷が命取りであったと結論づけている[83]

傷を負った原因として、戦車事故と、カバに襲われたという二つの説が存在する。

戦車事故説

[編集]

解剖学者ロバート・コノリーは、独自に1968年に行われたX線写真を調べなおし、事故死だと結論づけた。彼もまた、心臓が欠けているのは事故による損傷と、死後に納棺師が、ツタンカーメンの心臓を取り出しやすいようにつけたものとみた。心臓がなくなっている原因として、ツタンカーメンは故郷から遠く離れたところで何らかの事故によって死亡したため、炎天下に置かれた遺体は数日ですぐに腐り始めたことより、悪臭を放つ心臓を取り除きたいと考えたからではないかと推測している[83]

しかし、もし落下したツタンカーメンが戦車から落下、あるいは衝突したとすれば、胸や骨盤だけでなく腕、足、首、背中なども折れた可能性があるが、そのようなものは見つかっていないという反論がある。たとえ馬に胸を蹴られたとしても、もっと傷は局所的になる可能性があるとする[84]

カバによる襲撃説

[編集]

アフリカではワニに次ぐ危険な動物であるカバに襲撃されたとする説もある[83]。新王国時代には、ファラオがカバ狩りをした事実が確認されている。マネトによると、メネス王はカバによって殺されたと伝わっているほど、これは古くから知られている事実であった。カバ狩りでなくても、普通に沼地で狩りをしている時に、舟上から襲われた可能性もある。しかし、他のエジプト学者や、他分野の専門家はこの説に対し慎重な立場を取っている。ケニアの野生動物の専門家、エルスタス・カンガは、カバ説はありえないことではないとした上で、「もしカバに踏まれたとしたら人間の胸は確実につぶれる上に、かみつかれたら被害者のはらわたは抉り出されるであろう」と述べている[83]

事故説に対する反論

[編集]

しかし、肋骨の欠損は、死亡時の傷によるものとは考えにくいとする説もある。1926年のカーターの発掘終了時に撮影された写真を見ると、王の胸壁は無傷で、鷹の頭の端子が付いたビーズの首輪をつけていた。しかし、1968年のX線写真では首輪と胸壁の両方がないことが確認できた。フォーベスらの研究によると、ミイラの胸骨や鎖骨の欠損や目の傷は、1926年から1968年の間に非公式かつ秘密裡にミイラの"解体"が行われたことを強く示しているという。この出来事はさらに、1939年から1945年にかけての第二次世界大戦中で、王家の谷の警備が厳しくない時に行われたとされる。このようなミイラの"解体"は、ハワード・カーターが意図的にミイラに残したいくらかの宝石目当てであった可能性がある。そのような宝石はミイラの体からは容易には切り離せないので、犯人はのこぎりを持参した可能性があり、その時にミイラに傷を負わせた可能性があるとする。フォーベスらは、もしこのシナリオが正しければ、ミイラに肋骨がないことはツタンカーメンの死因とは全く関係がないと結論付けている[78]

鎌状赤血球症説

[編集]

ドイツ・ハンブルグのベルンハルト・ノヒト熱帯医学研究所の科学者であるティムマンとマイヤーはマラリア説に対し疑問を持ち、ツタンカーメンは鎌状赤血球症による貧血で死亡したのではないかと考えている[85]。しかしながら、鎌状赤血球症の人物はマラリアにはかかりにくいので、もしツタンカーメンが鎌状赤血球症であった場合マラリアとの同時併発は起きにくいため、死因の決定要因にはならない[86]

後継者

[編集]

ツタンカーメンとアンケセナーメンとの間に産まれた女子2人(317aと317b)は、共に死産だった[87]ため、アイがツタンカーメンの後を継ぎ、ファラオとして即位する[43]。しかしアイも高齢であったため、在位わずか4年で没してしまう[43]。ホルエムヘブが即位するが、彼もまた子がいなかったため王位はホルエムヘブの将軍であり、宰相でもあったパラムセスに移る[43]。パラムセスは即位し名前をラメセス1世と改め、エジプト第19王朝となる[43]。 そのためツタンカーメン死後、王妃アンケセナーメンが、長年戦闘を交えてきたヒッタイトより、王を迎えようとした書簡が存在する[19][17][88]

異国よりの王

[編集]

ヒッタイトの史料によると、とある時、エジプトで王が死に、未亡人となった王妃ダハムンズ英語版はヒッタイト王シュッピルリウマ1世に書簡を送り、王子の一人をエジプト王として迎え入れたいと申し出たとのことである。この書簡を送った人物がアンケセナーメンであると考える説があるが、ネフェルティティではないかと、ダハムンズは主張している。以下に、王妃ダハムンズをアンケセナーメンとする説に従って記述する[17][19]

私の夫は死に、私には息子がありません。噂では、あなたは多くの子息をもっているといいます。もしあなたが子息の一人を送って下さるなら、私は彼を夫にします。私は臣下の一人を夫に選びたくはないのです。 — アンケセナーメン?の書簡、吉村(1984)[17]

これに対して、シュッピルリウマ1世の息子ムルシリ2世が以下のような記録を残している。

私の父は手紙を読んですぐに、高官会議を召集した。父は未だかつてこのようなことは起こったことがないと言い、侍従のハットゥ・ジッティシュに《エジプトへ行って信ずるに足る報告をもたらせ。 彼らは私を騙そうとしているのかも知れない。そして、もし彼らが王子を待っているようなら、それを信じられるだけの報告をするように》と命じた。ハットゥ・ジッティシュが派遣された後、エジプトの使者ハニス卿がエジプト王妃の手紙を持ってやってきた。王妃は父の疑惑に対して次のように答えていた。《なぜあなたは、私があなたを騙そうとしているなどと言うのですか。もし私に息子があるなら、私と私の国の恥をさらしてまで外国に手紙を送るでしょうか。あなたは私を信用していない。 私の夫だった人は死んだのです。私には息子がありません。私は召使いの一人を選んで夫にしなければならないのです。私は他のどんな国にも手紙を書かず、あなただけに書いたのです。あなたは多くの子息をもっていると聞きました。子息の一人を私に与えて下さい。彼は私の夫となり、エジプト国の王となるでしょう》私の父は寛大だったので、貴婦人の言葉に同意して息子を送ることを決意した — ムルシリ2世の記録、吉村(1984)[17]

シュッピルリウマ1世は、息子である王子ザンナンザをエジプトに送ったが、王子はツタンカーメンの死後70日を過ぎてもエジプトに到着せず、このとき王子は、既に何者かによって暗殺されていた[17][19]。暗殺を命じた人物は諸説あるが、王子には護衛が付いているため、盗賊に殺されるとは考えにくく、軍隊を動かすことのできる人物だろう点から、アイかホルエムヘブ説が出て来るが、吉村やハワスは、ホルエムヘブだとする[17][19]

アイは長期にわたり王家に使え続けた忠臣であるだけでなく、王家の遠縁[注釈 22]にあたる人物である。吉村(1984)によると、彼は性格が穏やかであったと言われており、ツタンカーメン死後も葬儀を司るなどの権力と影響力を持っていた。王妃にすぎないアンケセナーメンがアイに知られずに密かに書簡を送るなどのことはできなかったはずであり、彼女は高い確率でアイにこのことを相談した可能性がある。さらにこの時、ホルエムヘブは王位を狙っていたともいわれ、そこに賢明だったアイが気付かないはずはなく、彼はエジプトの血筋を守りたかったと考えられるため、アンケセナーメンを助ける方向に動いた可能性が高い。よって、アイが暗殺するとはきわめて薄いと考えられる[17]。ホルエムヘブは非常に厳格であり、野心家で目的のためなら手段を選ばず、その過激な行動のためにアクエンアテンの怒りを買ったという記録も残っている。ここから、アイとホルエムヘブの性格を考察すると、王子ザンナンザを暗殺したのはホルエムヘブであろうと、吉村は推論する[17]

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ Tutankhamen, Tutankhamonとも呼ばれる。なお、英語圏ではTutankhamunが一般的である。
  2. ^ Tutankhatonとも。
  3. ^ ピーター・クレイトンはB.C.1334-B.C.1325[1], B.C.1361頃-B.C.1352[2], 酒井傳六はB.C.1363-B.C.1354[3], ユルゲン・フォン・ベッケラート英語版はB.C.1335-B.C.1325[4], 屋形禎亮はB.C.1347-B.C.1338[5][6], マーチャントはB.C.1321-B.C.1312[7]など諸説あり。
  4. ^ ツタンカーメンの名前は、音節の句切れはTut ankh amenであるが、これをtu tan kha menと最初期の訳者が誤って区切り音写してしまったものが定着した可能性がある[要出典]
  5. ^ 現状、英語版ウィクショナリーは"i"の音を"j"と翻字する方式を採用しているため、jが用いられている。
  6. ^ "twt-anx-itn"の訳については異説があり、例えばBattiscombe Gunn(en)はよりアクエンアテンの神学に沿った訳を考案した。彼は"twt"を名詞ではなく動詞だとみなし、"The life of Aten is pleasing"と訳した。また、Gerhard Fecht教授も同じく"twt"を動詞と考えており、"One perfect of life is Aten"と訳した。教授はアクエンアテンは別の単語である"tit(wik[注釈 5])"を"image"の意味として用いたと考え、"twt(wik)"は"To be perfect/complete"という意味なのではないかと解釈した[9]
  7. ^ 生没年に関しては不詳であるとしたり[10]、B.C.1345-B.C.1327とも、B.C.1370頃-B.C.1352[2]ともされる
  8. ^ カーターによる発掘番号の最後は620番[20]であるが、遺物の正確な数については不明である。ザヒ・ハワス博士は5000点と言及している[19]
  9. ^ このDNA検証の流れは複雑である。流れとして、まずKV55のミイラがツタンカーメンの父で、かつアメンホテプ3世の息子であることが判明した。そこで、KV55のミイラが、候補であるアクエンアテンとスメンクカーラーのどちらであるかが分かればツタンカーメンの父が特定できる、という方法を用いた。KV55のミイラにはアクエンアテンだけに関係のある言葉が刻まれていた考古学的証拠に加え、通称「年配の淑女」と呼ばれているKV35ELのミイラである、アメンホテプ3世の妃ティイとKV55のミイラに血縁関係が見つかったのである。よって、アメンホテプ3世とティイの息子で、ツタンカーメンの父親であるKV55号墓のミイラは、ほぼ確実にアクエンアテンだと結論づけられるとされている[19]
  10. ^ アクエンアテンの両親であるアメンホテプ3世とティイの娘の名前はほとんど判明しているが、この若い方の淑女の名前だけは現在不明である[19]
  11. ^ キヤがツタンカーメン(およびスメンクカーラー)の母であったという説の強力な状況証拠は王家の墓の壁面に描かれた出産の場面である。これは恐らく彼女が難産のため出産時に死亡したことを示す[33][34]。またウィルキンソンは2007年の著作で、ヘルモポリスで発見された石材の銘文が、キヤがツタンカーメンの母であるということを強く示唆するとしている[35]。ただしこれはハワスらによるDNA鑑定前の見解である[36]
  12. ^ のち改名してアンケセナーメン(正確にはアンクエスエンアメン)となった。
  13. ^ アクエンアテンとネフェルティティの三女[37]
  14. ^ 王即位以前、アケトアテン(テル・エル・アマルナ)にて結婚したと、ハワスはみなす[37]
  15. ^ この即位時推定年齢はザヒ・ハワスらによるミイラのCTスキャン結果からも支持される。この検査ではツタンカーメンの死亡年齢が18歳前後と分析された。確認されているツタンカーメンの最後の治世年は治世第10年のため、逆算によって即位時年齢が導き出せる[13]
  16. ^ ただし、トゥトアンクアテンとトゥトアンクアメンの両方の名前が記された玉座や戦車が発見されており、両方の名前を併用していた時期が存在した可能性がある[13]
  17. ^ ツタンカーメンの王妃の元の名は Ankhesenpaaten(anx-s-n-pA-itn)で、アンクエスエンパーアテン・アンケセンパーテン・アンケスエンパーテンなどと様々に呼ばれる。なお変更後はAnkhesenamen(anx-s-n-imn)
  18. ^ マネトの著作(題:Aegyptiaca)は散逸しており、完全には現存していない。しかし、ヨセフスアフリカヌスヒエロニムスエウセビオスなどの歴史家たちが引用した部分から彼の記述をある程度推定できている。
  19. ^ 具体的には、女性化乳房マルファン症候群ウィルソン・ターナーX鎖知的障害症候群脂肪性器性異栄養症クラインフェルター症候群アンドロゲン不応症アロマターゼ過剰症候群頭蓋骨縫合早期癒合症アントレー・ビクスラー症候群、またはその亜種のいずれかに苦しんでいた可能性があるとされる[要出典]
  20. ^ ともに生没年未詳だが、トトメス4世は在位10年、アクエンアテンは在位17年とアメンホテプ3世の38年よりかは短い。
  21. ^ 千葉工業大学の研究グループは、鉄隕石を1000℃以下で加熱して製作したと推測する世界初 ツタンカーメンの鉄剣の元素分布分析を実施”. 2022年1月31日閲覧。
  22. ^ ツタンカーメンの(父がアクエンアテンであるとすれば、)祖父であるアメンホテプ3世の妃、ティイの兄弟がアイである。これは、ツタンカーメンから見て大おじにあたる(#系譜)。

訳注

[編集]
  1. ^ 翻訳元原文(ドイツ語)は"Sohn des Königs von seinem Leibe, von ihm geliebt, Tut-anchu-Aton."別の出典では"the king's son of his body Tutankhaton"[37]となっている。なお、"The king's son of his body"の原文は、"zA-nswt.n Xt.f"[38]
  2. ^ 原文は"the daughter of the king, of his body, his great desire of the king of Two Lands, Ankhesenpaaton"[37]

出典

[編集]
  1. ^ Clayton 2006, p. 128.
  2. ^ a b c ブリタニカ 2016.
  3. ^ a b c d e ニッポニカ 2014.
  4. ^ a b c d e f g Lundström (2011).
  5. ^ a b c d 屋形 1969, p. 222.
  6. ^ a b c d e f g h 屋形 1998, pp. 497–501.
  7. ^ a b マーチャント (2014), p. 9.
  8. ^ Ridley(2019) p.276
  9. ^ Eaton-Krauss 2015, pp. 28–29.
  10. ^ ニッポニカ(2014)
  11. ^ マーチャント (2014), p. 114.
  12. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.355
  13. ^ a b c d e 河合 2021, p. 190.
  14. ^ 河合 2021, p. 279.
  15. ^ Reeves(1990) p.24
  16. ^ a b c d e f g h i j 吉成 (2012), pp. 112–115.
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n 吉村 (1983), pp. 99–118.
  18. ^ ハワス(2004) p.73
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t ハワス (2010).
  20. ^ Anatomy of an Excavation”. The Griffith Institute. 2021年12月20日閲覧。
  21. ^ 河合 2012, pp. 83–87.
  22. ^ ハワス 2012, p. 18.
  23. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、135頁。ISBN 9784309225043 
  24. ^ 衣奈ほか 1965.
  25. ^ 東京文化財研究所 美術界年史(彙報)ツタンカーメン展”. 2022年1月18日閲覧。
  26. ^ ハワス 2012, p. 5.
  27. ^ Dodson&Hilton(2010) p.149
  28. ^ a b Hawass, et al.(2010) pp.642-645
  29. ^ Zivie(1998) pp.33–54.
  30. ^ Gundlach&Taylor(2009) p.160
  31. ^ a b c d マーチャント (2014), pp. 282–294.
  32. ^ Tawfik,Thomas&Hegenbarth-Reichardt(2018) p.180
  33. ^ クレイトン(1999) p.168
  34. ^ ティルディスレイ(2008) p.176
  35. ^ ウィルキンソン(2015) p. 271
  36. ^ ウィルキンソン(2015) p.271、訳注
  37. ^ a b c d e f g Zahi Hawass. “King Tut is the Son of Akhenaton”. 2022年1月4日閲覧。
  38. ^ McAvoy, Shawn (2007). Mummy 61074: a strange case of mistaken identity. Pontificia Universidad Católica Argentina. Facultad de Ciencias Sociales. Departamento de Historia. Centro de Estudios de Historia del Antiguo Oriente. https://repositorio.uca.edu.ar/handle/123456789/11907 2024年4月18日閲覧。. 
  39. ^ Günther Roeder: Königssohn Tut-anchu-Aton. In: Rainer Hanke: Amarna-Reliefs aus Hermopolis (Ausgrabungen der Deutschen Hermopolis-Expedition in Hermopolis 1929–1939). Band 2, Gerstenberg, Hildesheim 1969, S. 40.(翻訳元参考文献表示なし)
  40. ^ Akhenaten and Nefertiti's Children”. Worldhistory.us (2019年9月20日). 2022年1月19日閲覧。
  41. ^ 河合 2021, pp. 186–187.
  42. ^ ハワス 2012, p. 76.
  43. ^ a b c d e f g 松本 (1994), pp. 172–173.
  44. ^ ハワス 2012, p. 123.
  45. ^ ハワス 2012, p. 150.
  46. ^ ハワス 2012, pp. 186–187.
  47. ^ 吉村 1983, p. 106.
  48. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.42
  49. ^ ショー,ニコルソン(1997) p.356
  50. ^ John Coleman Darnell; Colleen Manassa (3 August 2007). Tutankhamun's Armies: Battle and Conquest During Ancient Egypt's Late Eighteenth Dynasty. John Wiley & Sons. p. 49. ISBN 978-0-471-74358-3. https://books.google.com/books?id=7MvtJ2LbKgwC&pg=PA49 
  51. ^ Dodson 2009, pp. 66–68.
  52. ^ 近藤 1994, p. 394.
  53. ^ ティアドリッティ 2000b, p. 218.
  54. ^ 吉村 1983, p. 109.
  55. ^ Gary Greenberg (1999年4月23日). “[https://ggreenberg.tripod.com/articles/manetho18d/arce99-dyn18.pdf Manetho's Eighteenth Dynasty: Putting the Pieces Back Together]”. ARCE(American Research Center in Egypt). 2022年1月19日閲覧。
  56. ^ ハワス 2012, pp. 75–76.
  57. ^ Cavka, Mislav; Kelava, Tomislav (April 2013). “Comment on: Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty”. Epilepsy & Behavior 27 (1): 278. doi:10.1016/j.yebeh.2012.11.044. PMID 23291226. 
  58. ^ Pausch, Niels Christian; Naether, Franziska; Krey, Karl Friedrich (December 2015). “Tutankhamun's Dentition: The Pharaoh and his Teeth”. Brazilian Dental Journal 26 (6): 701–704. doi:10.1590/0103-6440201300431. PMID 26963220. https://www.researchgate.net/publication/289585304 8 January 2020閲覧。. 
  59. ^ Ashrafian, Hutan (September 2012). “Familial epilepsy in the pharaohs of ancient Egypt's eighteenth dynasty”. Epilepsy & Behavior 25 (1): 23–31. doi:10.1016/j.yebeh.2012.06.014. PMID 22980077. 
  60. ^ Hawass et al. 2010, p. 642.
  61. ^ Hawass & Saleem 2016, p. 95.
  62. ^ Hussein, Kais; Matin, Ekatrina; Nerlich, Andreas G. (2013). “Paleopathology of the juvenile Pharaoh Tutankhamun—90th anniversary of discovery”. Virchows Archiv 463 (3): 475–479. doi:10.1007/s00428-013-1441-1. PMID 23812343. 
  63. ^ Hawass et al. 2010, pp. 642–645.
  64. ^ Hawass&Saleem 2016, p. 252.
  65. ^ Tutankhamun: Anatomy of an Excavation | The Griffith Institute”. www.griffith.ox.ac.uk. 2022年9月4日閲覧。
  66. ^ ツタンカーメン墓発見100年 手柄の少年 子孫「誇り」地元住民らと祝宴読売新聞』朝刊2022年11月4日(国際面)同日閲覧
  67. ^ a b カーター(1923) pp.170-171
  68. ^ カーター(1923) p.166
  69. ^ 蜘手美鶴 (2022年8月24日). “ツタンカーメン王の墓、発見から100年…きっかけは12歳少年とロバ”. 東京新聞. 2023年11月17日閲覧。
  70. ^ ティアドリッティ 2000a, p. 23.
  71. ^ 吉成 2012, p. 114.
  72. ^ 吉成 2012, pp. 214–215.
  73. ^ Gilbert, Holt & Hudson 1976, p. 18.
  74. ^ スペンサー 2009, p. 235.
  75. ^ カーター 1971, pp. 252–253.
  76. ^ ルカ (1978), pp. 132–133.
  77. ^ Harrison, R. G.; Abdalla, A. B. (March 1972). “The remains of Tutankhamun”. Antiquity 46 (181): 11. doi:10.1017/S0003598X00053072. 
  78. ^ a b Dennis Forbes Salima Ikram & Janice Kamrin. “Tutankhamun's Missing Ribs”. 2022年1月19日閲覧。
  79. ^ 河合 2012, pp. 222.
  80. ^ マーチャント (2014), pp. 219–227.
  81. ^ Forensic Experts Claim That King Tut Died In A Chariot Accident”. Forbes. 2 September 2019閲覧。
  82. ^ Harer, W. Benson (2011). “New evidence for King Tutankhamen's death: his bizarre embalming”. The Journal of Egyptian Archaeology 97 (1): 228–233. doi:10.1177/030751331109700120. JSTOR 23269903. 
  83. ^ a b c d e マーチャント (2014), pp. 317–330.
  84. ^ Harrison, R. G.; Abdalla, A. B. (March 1972). “The remains of Tutankhamun”. Antiquity 46 (181): 9. doi:10.1017/S0003598X00053072. 
  85. ^ Timmann & Meyer 2010, p. 1279.
  86. ^ 河合 2012, pp. 223–224.
  87. ^ ハワス 2012, pp. 223–224.
  88. ^ 河合 2012, pp. 232–234.

参考文献

[編集]

日本語文献

[編集]

外国語文献

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
ネフェルネフェルウアトン
古代エジプト王
エジプト第18王朝 第13代
前1332年頃 - 前1323年頃
次代
アイ