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「ジェフリー・チュアン・チュー」の版間の差分

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'''ジェフリー・チュアン・チュー'''(''Jeffrey Chuan Chu''、{{Zh2|c=朱傳榘}}、[[1919年]][[7月14日]] - [[2011年]][[6月6日]])は、[[中華人民共和国|中国]][[天津]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学]]者。世界初の汎用電子デジタルコンピュータ・[[ENIAC]]の開発チームの一員であった<ref>スコット・マッカートニー著、日暮雅通訳『エニアック 世界最初のコンピュータ開発秘話』第4章、パーソナルメディア、2001年8月 ISBN 4-89362-183-1</ref>。
'''ジェフリー・チュアン・チュー'''(''Jeffrey Chuan Chu''、{{Lang-zh|c=朱傳榘}}、[[1919年]][[7月14日]] - [[2011年]][[6月6日]])は、[[中華人民共和国|中国]][[天津]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学]]者。世界初の汎用電子デジタルコンピュータ・[[ENIAC]]の開発チームの一員であった<ref>スコット・マッカートニー著、日暮雅通訳『エニアック 世界最初のコンピュータ開発秘話』第4章、パーソナルメディア、2001年8月 ISBN 4-89362-183-1</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2021年9月28日 (火) 09:36時点における版

ジェフリー・チュアン・チューJeffrey Chuan Chu中国語: 朱傳榘1919年7月14日 - 2011年6月6日)は、中国天津出身のアメリカ合衆国計算機科学者。世界初の汎用電子デジタルコンピュータ・ENIACの開発チームの一員であった[1]

経歴

1919年に天津で生まれる。

1939年に渡米し、1943年ペンシルバニア大学のENIACプロジェクトに参加した。ENIACの完成後もアルゴンヌ国立研究所の上級科学者としてAVIDAC英語版ORACLE英語版の設計に携わり、ENIACの設計者だったジョン・プレスパー・エッカートに招かれたレミントンランドLARCの主任設計者となった[2][3][4]

1962年からハネウェルに入社してHoneywell 200シリーズの開発に貢献して副社長に昇進し、ハネウェルの顧客だった日本電気(NEC)や東芝を度々訪れ、日本の友人とは終生親交を深めることになった[4]。その後はワング・ラボラトリーズの上級副社長、SRIインターナショナルの上級顧問も務めた[4]

1978年、故郷がある中華人民共和国を訪問して中国の政府要人の鄧小平王震江沢民李瑞環朱鎔基と交流を重ね、中国の様々な大学と研究機関などで名誉顧問客員教授に任じられ[4]上海交通大学に奨学金を設立して米中の交流に貢献した[5][3]

1981年IEEE Computer Societyコンピュータパイオニア賞の最初の受賞者となった[6]

脚注

  1. ^ スコット・マッカートニー著、日暮雅通訳『エニアック 世界最初のコンピュータ開発秘話』第4章、パーソナルメディア、2001年8月 ISBN 4-89362-183-1
  2. ^ Encyclopedia of computer science and technology: Volume 2 - AN/FSQ-7 Computer to Bivalent Programming by Implicit Enumeration. By Jack Belzer, Albert Holzman and Allen Kent. CRC Press, 1975.
  3. ^ a b Jeffrey Chuan Chu”. 2019年8月25日閲覧。
  4. ^ a b c d Jeffrey Chuan Chu 朱傳榘”. 2019年9月17日閲覧。
  5. ^ 朱傳榘”. 2019年8月25日閲覧。
  6. ^ IEEE Computer Society Computer Pioneer Citation

外部リンク