コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「小橋賢児」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
102行目: 102行目:


現在「Dîner en Blanc」「ULTRA JAPAN」など海外のイベントを日本上陸の牽引役の一人として活躍し、それぞれのCreative Directorを務める。また、初年度から各界で大きな話題となった伝統を未来へ紡ぐプロジェクト、未来型花火エンターテイメント「STAR ISLAND」の総合プロデュースも務めた。国内のみならず、[[サウジアラビア]]の[[建国記念日]]での開催や、80万人が訪れた[[シンガポール]]を代表する[[カウントダウン]][[イベント]]を開催した。その他、企画アドバイザーとして[[日の出桟橋]]の施設「Hi-NODE」を立ち上げるなど、様々な[[都市開発]]や[[地方創生]]に携わり多岐に渡り活動している。
現在「Dîner en Blanc」「ULTRA JAPAN」など海外のイベントを日本上陸の牽引役の一人として活躍し、それぞれのCreative Directorを務める。また、初年度から各界で大きな話題となった伝統を未来へ紡ぐプロジェクト、未来型花火エンターテイメント「STAR ISLAND」の総合プロデュースも務めた。国内のみならず、[[サウジアラビア]]の[[建国記念日]]での開催や、80万人が訪れた[[シンガポール]]を代表する[[カウントダウン]][[イベント]]を開催した。その他、企画アドバイザーとして[[日の出桟橋]]の施設「Hi-NODE」を立ち上げるなど、様々な[[都市開発]]や[[地方創生]]に携わり多岐に渡り活動している。
<gallery>
File:小橋賢児workpicture1.jpg|ドローンを使用した夜空のスペクタルショー「DANCER」
File:小橋賢児workpicture2.jpg|ドローンを使用した夜空のスペクタルショー「BIRD」
File:小橋賢児workpicture3.jpg|総合プロデュースイベント
</gallery>


== 受賞 ==
== 受賞 ==

2021年12月11日 (土) 02:06時点における版

こはし けんじ

小橋 賢児
生誕 (1979-08-19) 1979年8月19日(45歳)
日本の旗 日本 東京都大田区[1]
職業 クリエイティブディレクター
音楽イベントプロデューサー
活動期間 1988年 - 現在
団体 The Human Miracle 株式会社 代表取締役[2]
著名な実績 「Dîner en Blanc」「ULTRA JAPAN」Creative Director
「STAR ISLAND」総合プロデュース
東京パラリンピック閉会式」総合演出
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 53 kg (117 lb)
テレビ番組人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』『若葉のころ』『青の時代』『ちゅらさん』ほか
受賞 内閣府主催「クールジャパン・マッチングフォーラム2017」審査員特別賞
「第6回JACEイベントアワード」最優秀賞・経済産業大臣賞(日本イベント大賞
公式サイト 小橋賢児webサイト
自身が代表取締役をするThe Human Miracle 株式会社
補足
テンプレートを表示
総合演出を担当した東京パラリンピック閉会式
映像外部リンク
NHK Official YouTube Channel
【NHK】東京パラリンピック閉会式~多様性への讃歌高らかに そして祝祭はパリへ - YouTube
映像外部リンク
NewsPicks Official YouTube Channel
隈研吾と小橋賢児が語る未来『NEXT VISION』 - YouTube
映像外部リンク
ONE MEDIA Official YouTube Channel
ULTRAの仕掛け人 小橋賢児はなぜイベントを作るのか? - YouTube

小橋 賢児(こはし けんじ、1979年8月19日 - )は、日本のクリエイティブディレクター音楽イベントプロデューサーThe Human Miracle株式会社代表取締役。元俳優映画監督である。東京都大田区出身。血液型はA型

経歴

芸能界

東京都大田区生まれ。家は裕福ではなく住んでいた家は戦時中から残るオンボロ。畳も床もところどころ抜けてゴキブリもネズミも出る。両親は共働きでいつも家にいなかった。学校から帰ると「これ温めて食べなさい」と置き手紙があって兄と2人で食事をしていた。いつも親がいなくて携帯電話もメールもない。なんでも自分の思ったことを実行する、創意工夫をして遊ぶクセがついた[3]

小学校3年生 8才だった1988年昭和63年)、テレビ朝日パオパオチャンネル』のオーディションに合格、同番組への出演で芸能界デビューした。その後『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』で岩井俊二監督と出会ったことで芝居が楽しくなり俳優に対する意識が変わった。翌年の1994年(平成6年)『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』が社会現象になる人気ドラマになったことで環境がガラリと変わる。全国的に一挙に顔を知られることとなり、ある日を境に段ボール二箱分のファンレターが届くようになった[3]

その後はテレビドラマ『若葉のころ』、『青の時代』、『ちゅらさん』などへも出演した。

20代半ばから30代を考え出したとき「このままは俳優を続けていけば、それなりに暮らせて自分のポジションを築ける。しかし俳優を『しなければいけない』という感覚があり苦しかった。ロボットのように生きて、これが自分の人生なのか」と思うと怖くなり、自分の心を動かす旅に出る決心をする[4]

起業

2007年平成19年)27才で俳優活動を突如休業してアメリカ合衆国に渡り、その後、世界中を旅しながら多様な文化に触れる事でインスパイアをうけ映画やイベント製作を始める。

2009年(平成21年)には日本に帰国し、イタリアスペインアイルランドとの合作映画『Imago Mortis』(監督、Stefano Bessoni)に出演した。2011年(平成23年)SKIPシティ国際Dシネマ映画祭にてSKIPシティアワードとSKIPシティDシネマプロジェクトをW受賞した[5]。2012年夏、作家・自由人の高橋歩の旅に同行し制作した映画「DON'T STOP!」で映画監督デビューとなる。

ファッションブランド「Soareak」のPV監督やDJを経て、イベントプロデュース会社の社長に転身した。

2016年(平成28年)7月、自身が代表取締役を務める「LeaR(リアル) 株式会社」を設立(2021年7月、The Human Miracle(ザ・ヒューマンミラクル)株式会社に社名変更)[2]

2021年令和3年)9月5日に実施された、2020年東京パラリンピックの閉会式にて総合演出を担当[6]。7月に未来型エンターテインメントに特化したスタジオ「Sky Studio」設立、人々の心をゼロにする新規事業プロジェクト「0%」を同時に発表[2]。10月には新しい才能をプロデュースするプロジェクト『ART BASE ZERO』をスタートする[1]

現在「Dîner en Blanc」「ULTRA JAPAN」など海外のイベントを日本上陸の牽引役の一人として活躍し、それぞれのCreative Directorを務める。また、初年度から各界で大きな話題となった伝統を未来へ紡ぐプロジェクト、未来型花火エンターテイメント「STAR ISLAND」の総合プロデュースも務めた。国内のみならず、サウジアラビア建国記念日での開催や、80万人が訪れたシンガポールを代表するカウントダウンイベントを開催した。その他、企画アドバイザーとして日の出桟橋の施設「Hi-NODE」を立ち上げるなど、様々な都市開発地方創生に携わり多岐に渡り活動している。

受賞

  • 内閣府主催「クールジャパン・マッチングフォーラム2017」審査員特別賞
※ 総合プロデュースした未来型花火エンターテインメント「STAR ISLAND」の実績が評価
※ 総合プロデュースした「東京モーターショー2019」で500機のドローンを使用した夜空のスペクタルショー「CONTACT」の実績が評価

人物

  • 趣味は、サーフィン、食べ歩き、旅行映像撮影など。また、幼少時からプロ野球選手岡崎郁の熱烈なファンであり、ジュニア用のモデルグラブを随時持ち歩くほどである。
  • 2016年平成28年)7月11日、4歳年下のファッションデザイナー荻原桃子と結婚。2017年(平成29年)1月に第1子が誕生した[7]
  • 1994年頃にジャニー喜多川から誘われ、ジャニーズJr.の研修生としてごく短期間ながらレッスンを受けていた」という噂があったが、小橋本人がTwitterなどで否定した。この噂は、当時テレビ朝日で行われていたジャニーズJr.のレッスンと同じ時刻にテレビ局を出入りする小橋の姿が、Jr.のおっかけファンたちによって度々目撃されていたために生じた話であった。
  • 2007年(平成19年)突然休業して渡米した頃、貯金が底をつき、実家に戻って鬱の状態だった。肝機能障害が判明し、ほぼ寝たきり生活を送った。現状打破するため30歳の誕生日を自らプロデュースした。これがきっかけとなり、クリエイターになった。音楽フェスなら「音楽」という共通言語を通して感情を交換するように気づきのきっかけになる場を作りたいと考え、イベント制作に携わるようになり、ULTRA JAPANのクリエイターに就任した。マイアミで見たULTRAに感銘を受けて日本に持ち込んだ[8][9]

仕事術

  • 2020年東京パラリンピックの閉会式で「ハーモニアス・カコフォニー」を描いた。コンセプトは、すべての違いが輝く街を表現し新しい調和をイメージ。過去最多約4400人が出場し13日間の熱戦に幕を下ろした[8]
  • 東京パラリンピック閉会式のお仕事のお誘いを受けたとき「鳥肌がたった。いや嘘でしょ?このタイミングで?僕?」と思ったという。今回のショーで見せたかったことは「こんな素敵な世界をつくろうよ~」ではなく「見方を変えればすでに素敵な世界はあるんだよ、ってこと。どんな状況に置かれようとも今この瞬間を最大限に楽しみ生きる者として生き生きしてキラキラ輝いている姿です。それだけが残せたらあとは個々の解釈に委ねる」とショーに思いを込めた[10]
  • 社長になる前に東京ガールズコレクションの裏方を経験した。上から目線の芸能人もいたという。小橋は謙虚な気持ちを忘れずに1つ1つの実績を重ねていった[8]
  • 子供の誕生によって新たな感情や感覚に気づき、子供が生まれる前と後で行ける場所が分断されたようで違和感を覚えたという。その経験から観客は座って観るだけでなく、流れる曲に子供が立って踊りだし、大人も引っ張られるスタイルも大切にするようになった[8]

出演

★印は起業後のもの

バラエティ番組

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS系

フジテレビ系

テレビ朝日系

テレビ東京系

映画

ラジオ

  • INNOVATION WORLD ERA(2020年4月 - 、J-WAVE) - 毎月4週目ナビゲーター

Vシネマ

舞台

  • 王様と私(1990年8月、中日劇場
  • コシノジュンコ'96ファッションショー
  • 太陽が死んだ日(1996年) - 若いマルティン役
  • HO-BO(2001年)
  • オケピ!(2003年)
  • 若き日のゴッホ〜ヴィンセント、イン、プリクストン(2003年)
  • エデンの東(2005年)
  • エブリリトルシング'09(2009年)

CM

1989年
1990年
1991年
1992年
1993年
1994年
1998年
1999年
2000年
2002年
2005年
2012年

ミュージック・ビデオ

その他

  • ビデオでわかる空間図形 魔界からの挑戦状(進研ゼミ中学講座 1997年1月号)

ディスコグラフィ

シングル

  • B.B.B.(1996年8月21日) - アニメ『赤ちゃんと僕』オープニングテーマ
  • STILL(1996年12月4日)
  • Knocking on the door(1997年2月26日)
  • once again(1998年2月25日)
  • 遠ざかる道(1998年10月21日)
  • 君と時を越えたい(1999年5月12日) - フジテレビ系『これがキャイ〜ンだろ!?』エンディングテーマ

アルバム

  • Days(1997年4月23日)

書籍

著書

写真集

脚注

  1. ^ a b 小橋賢児プロデュースの新プロジェクト「ART BASE ZERO next」より、気鋭アーティストCHRISの作品展「CHRIS×Hi-NODE Exhibition“Love is a battlefield ”」が開催!
  2. ^ a b c 小橋賢児が代表を務めるリアル株式会社が全人類が自分自身の人生を創るクリエイターとなり、輝く星のように生きることを(VISION)理念に掲げる「The Human Miracle株式会社」に社名変更。
  3. ^ a b 【小橋賢児の半生②】芸能界デビューのきっかけは8歳の時に送った1枚のハガキ
  4. ^ 【YAHOO!ニュース】パラ閉会式ショー総合演出の小橋賢児氏、“休止中”俳優業の今後 明かしたどん底の過去
  5. ^ 小橋賢児『頭スパークして』監督に」 日刊スポーツ、2011年2月24日
  6. ^ 東京パラ閉会式で小橋賢児が大任 演出チームショーディレクター」 日刊スポーツ、2021年9月5日
  7. ^ “小橋賢児、4歳下のファッションデザイナーと結婚!来年1月にはパパに”. SANSPO.COM. (2016年7月20日). https://www.sanspo.com/article/20160720-TNV6G5OE6RLM3ASZMR7CGA5LPM/ 2016年7月20日閲覧。 
  8. ^ a b c d e f g h i 小橋賢児テレビ出演一覧
  9. ^ 【女性自身】小橋賢児氏の華麗なる転身!実家で寝たきり生活からパラ閉会式の総合演出に
  10. ^ 【スポーツニッポン】小橋賢児氏 東京パラ閉会式へ込めた思い オファーには本音も「このタイミングで?僕?」

外部リンク