「菅原秀雄 (俳優)」の版間の差分
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2021年12月14日 (火) 08:29時点における版
すがわら ひでお 菅原 秀雄 | |
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本名 | 同 |
生年月日 | 1924年1月3日 |
没年月日 | 2005年 |
出生地 | 日本 北海道函館市蓬萊町(現在の同市宝来町) |
職業 | 俳優、元子役 |
ジャンル | 劇映画(現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1930年 - 1940年 |
事務所 |
松竹蒲田撮影所 新興キネマ東京撮影所 |
主な作品 | |
『東京の合唱』 『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』 |
菅原 秀雄(すがわら ひでお、1924年[1]1月3日 - 2005年[2])は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8]。本名同じ。青木富夫、葉山正雄、横山準、末松孝行、加藤清一とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」と謳われた[9]。
人物・来歴
1924年[1](大正13年)1月3日、北海道函館市蓬萊町(現在の同市宝来町)に生まれる[3]。『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)は、誕生日を「1月13日」としている[4]。
数え年4歳のときに父が死去し、母とともに東京に移住した[3][4]。その後、一時期、函館に戻るが、再び東京に移って、満6歳を迎えた1930年(昭和5年)1月、松竹蒲田撮影所に子役俳優として入社した[3][4]。同年4月、蒲田尋常小学校(現在の大田区立蒲田小学校)に入学、同年5月15日に公開された岩田祐吉・高田稔主演による『父』(監督佐々木恒次郎)で映画界にデビューした[3][4][5][6]。同年9月5日に公開された『新篇 己が罪作兵衛』(監督佐々木恒次郎)に出演して、井上正夫と共演、菅原は「名子役」と謳われるようになる[3][4][5][6]。
当時の松竹蒲田には、すでに「名子役」が2人おり、それがいずれも前年の1929年(昭和4年)にデビューした高峰秀子と、「突貫小僧」こと青木富夫であり、彼らは菅原と同学年であった[3]。高峰は菅原と同じ函館出身であり、青木は悪ガキを演じていたのに対して、菅原は「優等生で品行方正、親孝行少年の見本」を演じて、好対照であった[3]。高峰とは1931年(昭和6年)8月15日に公開された小津安二郎監督の『東京の合唱』で、青木とは同年9月11日に公開された野村浩将監督の『危険信号』や、翌1932年(昭和7年)3月10日に公開された成瀬巳喜男監督の『青空に泣く』、同年6月3日に公開された小津安二郎監督の『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』で共演している[3]。同年12月1日に公開された衣笠貞之助監督のトーキー大作『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』および『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』は、京都の松竹下加茂撮影所が製作しており、同作には、菅原のほか、三井秀夫(三井弘次)や阿部正三郎、突貫小僧(青木富夫)ら蒲田のティーンや子役の俳優も出演している[3][5]。
満11歳となった1935年(昭和10年)、同年2月に東京府東京市板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉2-34-5)に新興キネマが新設した新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に移籍した[3][5][6]。記録に残る同社での最初の作品は、同年5月30日に公開された青山三郎監督によるサウンド版『自活する女』で、山路ふみ子が二役で演じ分けるところの「芸者お仙」と「早瀬恭子」のうち、後者の弟役を演じた[3][5]。満16歳になった1940年(昭和15年)2月14日に公開された小石栄一監督の『熱情の翼』が、確認できる最後の出演作品である[3][5][6][8]。やがて時代は第二次世界大戦に突入し、以後の消息は不明とされていた[3]が、ハノイへの出征を経て復員後は鉄工関係の会社に勤務し、2005年(平成17年)に83歳で死去していたことが中日新聞により明らかになった[2][10]。
フィルモグラフィ
すべてクレジットは「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][11]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6]。
- 『父』 : 監督佐々木恒次郎、1930年5月15日公開
- 『新篇 己が罪作兵衛』 : 監督佐々木恒次郎、1930年9月5日公開 - 役名不明、21分尺で現存(マツダ映画社所蔵[11])
- 『この母に罪ありや』 : 監督清水宏、1931年6月12日公開 - 哲夫の幼年時代
- 『腰辨頑張れ』 : 監督成瀬巳喜男、1931年8月8日公開 - その子供、38分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『東京の合唱』 : 監督小津安二郎、1931年8月15日公開 - その長男、89分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『危険信号』 : 監督野村浩将、1931年9月11日公開 - 主演
- 『山村の光』 : 監督松井稔、1931年10月24日公開 - 役名不明、56分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『淑女倶楽部』 : 監督佐々木恒次郎、1931年11月28日公開
- 『青空に泣く』 : 監督成瀬巳喜男、1932年3月10日公開 - 英一(主演)
- 『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』 : 監督小津安二郎、1932年6月3日公開 - 長男、90分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『海の王者』 : 監督清水宏、1932年6月17日公開 - 芳雄
- 『村の凱歌』 : 監督柳井隆雄、1932年6月公開
- 『白夜は明くる』 : 監督清水宏、1932年9月9日公開 - その弟・真三郎
- 『聖なる乳房』 : 監督池田義信、1932年11月17日公開 [3]
- 『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、トーキー、1932年12月1日公開 - 大三郎、前後篇139分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、トーキー、1932年12月1日公開 - 大三郎、同上[8]
- 『兄貴』 : 監督秋山耕作、製作松竹下加茂撮影所、1933年4月1日公開
- 『蝙蝠の安さん』 : 監督秋山耕作、製作松竹下加茂撮影所、1933年8月31日公開 [3]
- 『恋愛一刀流』 : 監督清水宏、1933年7月20日公開 - その弟・一雄
- 『生きとし生けるもの』 : 監督五所平之助、1934年11月15日公開
新興キネマ東京撮影所
特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてトーキーである[5][6]。
- 『自活する女』 : 監督青山三郎、サウンド版、1935年5月30日公開 - 恭子の弟精一
- 『女人祭』 : 監督田中重雄、サウンド版、1935年9月19日公開 - 久美子の弟二郎
- 『喘ぐ白鳥』 : 監督田中重雄、サウンド版、1935年11月1日公開 - 賢次
- 『傷だらけのお秋』 : 監督勝浦仙太郎、サウンド版、1935年11月29日公開 - 恵一
- 『浮かれ桜』 : 監督曾根千晴、1936年4月15日公開 - お静の弟順一
- 『青葉の夢』 : 監督西鉄平、1936年8月21日公開 - 明子の弟健二
- 『掏摸の家』 : 監督牛原虚彦、製作高田プロダクション(高田稔)、配給新興キネマ、1936年9月1日公開 - 庄吉の弟金次
- 『新月抄』 : 監督村田実・鈴木重吉、1936年10月31日公開 - 怜子の弟
- 『軍国母の手紙』 : 監督久松静児、1937年10月21日公開 - 礼子の弟安雄
- 『白き手の人々』 : 監督西鉄平、1937年12月3日公開 - 芙美の弟
- 『”人生双六”より あわてた友情』 : 監督沼波功雄、1939年4月25日公開 - 小僧仙太郎
- 『男一匹』 : 監督久松静児、1939年7月12日公開
- 『暁の門出』 : 監督伊奈精一、1939年10月6日公開 - 次郎、56分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『街の花売娘』 : 監督高木孝一、1939年11月15日公開 - 森岩吉
- 『熱情の翼』[8](『情熱の翼』[5]) : 監督小石栄一、1940年2月14日公開 - 職工リス、72分尺で現存(NFC所蔵[8])
脚注
- ^ a b 長女によれば生年は1921年。「中日新聞」2020年7月11日 夕刊D版6頁
- ^ a b 「中日新聞」2020年7月11日 夕刊D版6頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p キネマ旬報社[1979], p.288.
- ^ a b c d e f 菅原秀雄、jlogos.com, エア、2013年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 菅原秀雄、日本映画データベース、2013年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 菅原秀雄、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月4日閲覧。
- ^ 菅原秀雄、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 菅原秀雄、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月4日閲覧。
- ^ キネマ旬報社[1979], p.472.
- ^ “小津映画の名子役、菅原秀雄さん亡くなっていた 娘が生涯語る:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2020年7月11日閲覧。
- ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年2月2日閲覧。
参考文献
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133