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「李斌 (宋)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
晋王[[太宗 (宋)|趙光義]](のちの太宗)が李斌の容貌が魁偉であると聞いて、召しだして側近に置いた。太宗が即位すると、御龍直副指揮使に任じられた。[[太平興国]]年間、天武軍指揮使となり、[[鄭州]][[刺史]]を兼ねた。7年([[982年]])、秦王[[趙廷美]]の事件に連座して、[[曹州]]都校に左遷された。[[雍熙]]3年([[986年]])、[[営州]]刺史に転じた。4年([[987年]])、[[渓州]]団練使となり、[[貝州]]駐泊都監・[[冀州]]駐泊都監を歴任した。[[淳化]]年間、[[州]]団練使・[[洺州]]団練使をつとめた。[[至道]]元年([[995年]])、[[桂州]]観察使・判洺州となった。[[咸平]]3年([[1000年]])、死去した。享年は61。
晋王[[太宗 (宋)|趙光義]](のちの太宗)が李斌の容貌が魁偉であると聞いて、召しだして側近に置いた。太宗が即位すると、御龍直副指揮使に任じられた。[[太平興国]]年間、天武軍指揮使となり、[[鄭州]][[刺史]]を兼ねた。7年([[982年]])、秦王[[趙廷美]]の事件に連座して、[[曹州]]都校に左遷された。[[雍熙]]3年([[986年]])、[[営州]]刺史に転じた。4年([[987年]])、[[渓州]]団練使となり、[[貝州]]駐泊都監・[[冀州]]駐泊都監を歴任した。[[淳化]]年間、[[州]]団練使・[[洺州]]団練使をつとめた。[[至道]]元年([[995年]])、[[桂州]]観察使・判洺州となった。[[咸平]]3年([[1000年]])、死去した。享年は61。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2021年12月14日 (火) 09:10時点における版

李斌(り ひん、940年 - 1000年)は、中国北宋の人物。本貫青州

経歴

晋王趙光義(のちの太宗)が李斌の容貌が魁偉であると聞いて、召しだして側近に置いた。太宗が即位すると、御龍直副指揮使に任じられた。太平興国年間、天武軍指揮使となり、鄭州刺史を兼ねた。7年(982年)、秦王趙廷美の事件に連座して、曹州都校に左遷された。雍熙3年(986年)、営州刺史に転じた。4年(987年)、渓州団練使となり、貝州駐泊都監・冀州駐泊都監を歴任した。淳化年間、萊州団練使・洺州団練使をつとめた。至道元年(995年)、桂州観察使・判洺州となった。咸平3年(1000年)、死去した。享年は61。

伝記資料

  • 宋史』巻275 列伝第34