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「夾谷」の版間の差分

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== 地名 ==
== 地名 ==


紀元前500年に[[斉 (春秋)|斉]]の[[景公 (斉)|景公]]と[[魯]]の[[定公 (魯)|定公]]が会合を行った「夾谷の会」でその名が知られる。『[[春秋左氏伝]]』ではその地を「祝其」と書く。現在のどこにあたるかははっきりしないが、[[顧炎武]]によれば現在の[[山東省]]の[[蕪区|莱蕪]]または[[淄川区|淄川]]にあたる<ref>{{cite book|和書|author=[[顧炎武]]|title=日知録|volume=巻31・夾谷|url=https://archive.org/stream/06061672.cn#page/n122/mode/2up}}</ref>。
紀元前500年に[[斉 (春秋)|斉]]の[[景公 (斉)|景公]]と[[魯]]の[[定公 (魯)|定公]]が会合を行った「夾谷の会」でその名が知られる。『[[春秋左氏伝]]』ではその地を「祝其」と書く。現在のどこにあたるかははっきりしないが、[[顧炎武]]によれば現在の[[山東省]]の[[蕪区|莱蕪]]または[[淄川区|淄川]]にあたる<ref>{{cite book|和書|author=[[顧炎武]]|title=日知録|volume=巻31・夾谷|url=https://archive.org/stream/06061672.cn#page/n122/mode/2up}}</ref>。


『春秋左氏伝』定公十年、『[[史記]]』孔子世家、『[[孔子家語]]』相魯などに記すところによると、この会合において斉側は[[萊]]の夷狄に武器を持たせて魯を脅したが、定公側の代表である[[孔子]]がこれにひるまず、結局斉は魯に奪った土地を返したという。
『春秋左氏伝』定公十年、『[[史記]]』孔子世家、『[[孔子家語]]』相魯などに記すところによると、この会合において斉側は[[萊]]の夷狄に武器を持たせて魯を脅したが、定公側の代表である[[孔子]]がこれにひるまず、結局斉は魯に奪った土地を返したという。

2021年12月14日 (火) 09:13時点における版

夾谷
各種表記
繁体字 夾谷
簡体字 夹谷
拼音 Jiágǔ
注音符号 ㄐㄧㄚˊㄍㄨˇ
ラテン字 Chiagu
広東語発音: Gaap3guk1
上海語発音: Kah4koh4, Gah4koh4
台湾語白話字 Kiap-kok
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夾谷(きょうこく)は、中国の古い地名、または漢姓のひとつ。

地名

紀元前500年に景公定公が会合を行った「夾谷の会」でその名が知られる。『春秋左氏伝』ではその地を「祝其」と書く。現在のどこにあたるかははっきりしないが、顧炎武によれば現在の山東省莱蕪または淄川にあたる[1]

『春秋左氏伝』定公十年、『史記』孔子世家、『孔子家語』相魯などに記すところによると、この会合において斉側はの夷狄に武器を持たせて魯を脅したが、定公側の代表である孔子がこれにひるまず、結局斉は魯に奪った土地を返したという。

夾谷(きょうこく)は漢姓のひとつ。『百家姓』の455番目。

女真の姓であり、『金史』および『元史』に夾谷姓の多くの人名が見える。

現在ではきわめてまれな姓である。

脚注