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→補足: 確たる証拠も無く様々な異論があるのに、日目庵こそが荼毘所として一方的に記載されていてこの項目に無関係な行き方が書かれていて、中立性に欠けた記載のため削除。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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|寺院 = [[要法寺]]・[[伊豆実成寺]]・[[保田妙本寺]]・[[小泉久遠寺]]・[[大石寺]]{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}・{{要出典範囲|[[妙教寺 (栗原市)]]<ref name="日蓮の寺">{{cite book|和書|page=156|year=1987|title=日蓮の寺|author=中尾堯|isbn=4-487-75087-3|publisher=東京書籍}}</ref>・[[上行寺 (登米市)]]<ref name="日蓮の寺"/>|date=2022年1月4日 (火) 07:21 (UTC)}} |
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'''日目'''(にちもく |
'''日目'''(にちもく)は、[[富士門流|日興門流]]の[[僧]]{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632b | ps = -ただし、生年・没年月日のみ。 }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 220a | ps = -ただし、日目が日興門流の僧であることのみ}}。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[久遠寺|身延山]]にて[[日蓮]]に常随給仕していた{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}。日蓮門下の草創期において日興門流を率いた[[日興]]の高弟[[日興#本六人|本六人]]の一人{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 220b }}。蓮蔵房{{Sfn | 日潮 | 1730 | ps =- |
[[久遠寺|身延山]]にて[[日蓮]]に常随給仕していた{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}。日蓮門下の草創期において日興門流を率いた[[日興]]の高弟[[日興#本六人|本六人]]の一人{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 220b }}。蓮蔵房{{Sfn | 日潮 | 1730 | ps =-ただし、[https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100160461/487?ln=ja 外部リンク]では、コマ番号487。 }}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}のちに新田郷阿闍梨{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}もしくは新田卿阿闍梨{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188 }}・郷公日目{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}・卿公{{Sfn | 日興他 | 1983 | p = 4 | ps =-ただし、本書にはページ数が複数存する。出典部分は3つ目のP.4。[{{NDLDC|953049/7}} 外部リンク]では、コマ番号7。 }}と称す。現代の[[日蓮正宗]][[大石寺]]では第三祖に列せられている{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 1262 }}{{Sfn | 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | 1981 | p = 1141 }}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 334 }}{{Sfn | 日蓮正宗宗務院 | 2008 | p = 121 }}が、18世紀の書物には第二代との記述もある<ref group="注釈">{{Harv | 日潮 | 1730 }}の [https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100160461/27?ln=ja 目次](右ページの右から2行目)や[https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100160461/487?ln=ja 題・本文](左ページの右から4行目および最左行)には、「第二代」とある。</ref>。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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* [[文応]]元年([[1260年]])4月28日、[[伊豆国|伊豆]]仁田郡畠郷([[静岡県]][[函南町]]畑毛)にて出生{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188a | ps = - |
* [[文応]]元年([[1260年]])4月28日、[[伊豆国|伊豆]][[仁田郡]]畠郷(現在の[[静岡県]][[函南町]]畑毛)にて出生{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188a | ps = -ただし、月日を除く。 }}。大石寺開基檀那、[[藤原南家]][[工藤氏]]流[[南条氏|伊豆南条氏]]出身で、[[南条時光]]の甥にあたる。 |
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* [[文永]]9年([[1272年]])9月、走湯山円蔵坊に入る(13歳){{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632c | ps = - |
* [[文永]]9年([[1272年]])9月、走湯山円蔵坊に入る(13歳){{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632c | ps = -ただし、月は除く。}}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188b | ps = -ただし、年月を除く。 }}。 |
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* 文永11年([[1274年]])、円蔵坊において「〔日興と〕師弟の約束を結び蓮蔵坊と号し」、日興と共に[[久遠寺|身延山]]に登り日蓮に会う(15歳){{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632d | ps = -かぎ括弧内は、出典より引用。 }}。 |
* 文永11年([[1274年]])、円蔵坊において「〔日興と〕師弟の約束を結び蓮蔵坊と号し」、日興と共に[[久遠寺|身延山]]に登り日蓮に会う(15歳){{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632d | ps = -かぎ括弧内は、出典より引用。 }}。 |
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* [[建治]]2年([[1276年]])4月8日、円蔵坊に立ち寄った日興の弟子となる{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188c }}。 |
* [[建治]]2年([[1276年]])4月8日、円蔵坊に立ち寄った日興の弟子となる{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188c }}。 |
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: 11月、[[久遠寺|身延山]]に登り[[日蓮]]に常随給仕を尽くす{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632e | ps = - |
: 11月、[[久遠寺|身延山]]に登り[[日蓮]]に常随給仕を尽くす{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632e | ps = -ただし、常随給仕したことのみ。}}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 188c }}。 |
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* 建治3年([[1277年]])2月、身延において『五戒口決伝受』を書写す。 |
* 建治3年([[1277年]])2月、身延において『五戒口決伝受』を書写す。 |
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* [[弘安]]2年([[1279年]])2月、日蓮より本尊(桑名市伝馬町寿量寺蔵)を賜る{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}。 |
* [[弘安]]2年([[1279年]])2月、日蓮より本尊(桑名市伝馬町寿量寺蔵)を賜る{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 632a }}。 |
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* 弘安7年([[1284年]])5月12日、太夫阿[[日尊 (日興門流)|日尊]]を伴い身延に帰る。 |
* 弘安7年([[1284年]])5月12日、太夫阿[[日尊 (日興門流)|日尊]]を伴い身延に帰る。 |
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* 弘安10年([[1287年]])10月13日、陸前一ノ迫柳ノ目に法華堂〔[[妙教寺 (栗原市)|妙教寺]]〕を創す。 |
* 弘安10年([[1287年]])10月13日、陸前一ノ迫柳ノ目に法華堂〔[[妙教寺 (栗原市)|妙教寺]]〕を創す。 |
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* [[正応]]3年([[1290年]])10月13日、日興 |
* [[正応]]3年([[1290年]])10月13日、日興が北山へ転居と共に大石寺の管理を任され{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 189a }}、大石寺の本堂に祀る[[客殿 (大石寺)#御座替本尊|本尊]]を授与された。 |
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: 大石寺塔中[[蓮蔵坊]]を創す。 |
: 大石寺塔中[[蓮蔵坊]]を創す。 |
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: (蓮蔵坊:現在は学頭寮、次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊) |
: (蓮蔵坊:現在は学頭寮、次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊) |
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* [[嘉暦]]元年([[1326年]])4月、本尊を書写し日郷に授与。 |
* [[嘉暦]]元年([[1326年]])4月、本尊を書写し日郷に授与。 |
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* 嘉暦2年([[1327年]])11月10日、日道に土地〔陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条〕譲状を与う。日道に上新田坊を譲る。 |
* 嘉暦2年([[1327年]])11月10日、日道に土地〔陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条〕譲状を与う。日道に上新田坊を譲る。 |
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* [[元徳]]2年([[1330年]])11月10日、日蓮正宗では、『日興跡条々事』を基に、日興が日目を一閻浮提の座主と定めた、としている{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 189b | ps = - |
* [[元徳]]2年([[1330年]])11月10日、日蓮正宗では、『日興跡条々事』を基に、日興が日目を一閻浮提の座主と定めた、としている{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 189b | ps = -ただし、日付は除く。}}。その一方で、日蓮宗や大石寺以外の日興門下はこれを認めていない{{Sfn | 日蓮宗現代宗教研究所 | 2006 | pp = 48-59}}。 |
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* [[元弘]]元年([[1331年]])12月、日郷に本尊を授与。 |
* [[元弘]]元年([[1331年]])12月、日郷に本尊を授与。 |
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* 元弘2年([[1332年]])1月2日、本尊を書写。 |
* 元弘2年([[1332年]])1月2日、本尊を書写。 |
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: 2月彼岸、本尊を書写し陸前一迫河田美濃房に授与。 |
: 2月彼岸、本尊を書写し陸前一迫河田美濃房に授与。 |
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: 3月、本尊を書写し陸前新田太夫四郎母・新田十郎重道妻の姉に授与。 |
: 3月、本尊を書写し陸前新田太夫四郎母・新田十郎重道妻の姉に授与。 |
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: 11月15日、京の[[朝廷]]への申状提出('''天奏''')に向かう途中、美濃垂井の宿([[岐阜県]][[不破郡]][[垂井町]])で74歳で死去 |
: 10月、大石寺を出て東海道を京都へ向かう |
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: 11月15日、京の[[朝廷 (日本)|朝廷]]への申状提出('''天奏''')に向かう途中、中山道の宿場町美濃垂井の宿([[岐阜県]][[不破郡]][[垂井町]])で74歳で死去。 |
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尚、日蓮正宗大石寺では |
尚、日蓮正宗大石寺では日目が京都へ向かう直前に南条家出身の日道へ法を相承したと主張しているが確たる証拠がなく、また保田妙本寺では日目の死に際に日郷へ相承したと主張している。当時の文献を見ると北山本門寺や奉行所等の判断は日郷側を支持している{{要出典|date=2023年11月19日 (日) 06:06 (UTC)}}。 |
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日蓮本宗要法寺では日尊を4世としているが、日尊が血脈相承を受けたという |
日蓮本宗要法寺では日尊を4世としているが、日尊が血脈相承を受けたという主張をせず、あくまでも日目の直弟子であった日尊が京都に残って折伏功通を広めたという立場で4世として数えている{{要出典|date=2023年11月19日 (日) 06:06 (UTC)}}。 |
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== 本六人 == |
== 本六人 == |
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{{See2|本六人については[[日興#本六人]]を}} |
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== 補足 == |
== 補足 == |
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日目死去の地、伊吹山の東南麓の位置になる美濃垂井(岐阜県不破郡垂井町相川)に、[[日目庵]]という[[日蓮本宗]]寺院「日目上人茶毘所」が、相川の宿場南側「垂井の泉」の近くにある。茶毘の位置も相川土手の川沿いに位置する。 |
日目死去の地、伊吹山の東南麓の位置になる美濃垂井(岐阜県不破郡垂井町相川)に、[[日目庵]]という[[日蓮本宗]]寺院「日目上人茶毘所」が、相川の宿場南側「垂井の泉」の近くにある。茶毘の位置も相川土手の川沿いに位置する。 |
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なお、日目庵を日目上人荼毘所とすることに異論があり、荼毘所と断定できる根拠は全く無く、垂井町府中近辺こそが荼毘された正しい場所とされている。{{Sfn | 富士日興上人詳伝 | 1963 | p = 477 }} |
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日目は大石寺蓮蔵坊安置の本尊をはじめ曼荼羅本尊を数体しか書写していないが、これは日目が学頭職であり本尊は日興が書写していたためといわれている。 |
日目は大石寺蓮蔵坊安置の本尊をはじめ曼荼羅本尊を数体しか書写していないが、これは日目が学頭職であり本尊は日興が書写していたためといわれている。 |
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* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | title = 日蓮宗寺院大鑑 | edition = 初版 | date = 1981-01-01 | publisher = 大本山池上本門寺 | ncid = BN01669639 | oclc = 33874438 | asin = B000J80LMK | ref = harv }} |
* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 | title = 日蓮宗寺院大鑑 | edition = 初版 | date = 1981-01-01 | publisher = 大本山池上本門寺 | ncid = BN01669639 | oclc = 33874438 | asin = B000J80LMK | ref = harv }} |
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* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮正宗宗務院 | title = 法華講員の心得 | origdate = 1988-10-01 | edition = 改訂版第5刷 | date = 2008-02-16 | publisher = 大日蓮出版 | ocation = 富士宮 | isbn = 978-4904429150 | oclc = 676522972 | ref = harv }} |
* {{Cite book | 和書 | editor = 日蓮正宗宗務院 | title = 法華講員の心得 | origdate = 1988-10-01 | edition = 改訂版第5刷 | date = 2008-02-16 | publisher = 大日蓮出版 | ocation = 富士宮 | isbn = 978-4904429150 | oclc = 676522972 | ref = harv }} |
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* {{Cite book | 和書 | author |
* {{Cite book | 和書 | author=日興他|authorlink=日興 | editor = 立正大学日蓮教学研究所 | others = 浅地康平(発行者) | title = 興尊全集 ; 興門集 | origyear = 1921 | url = {{NDLDC|953049}} | accessdate = 2015-06-26 | edition = 第2版 | date = 1983-12-08 | publisher = 山喜房仏書林 | series = 日蓮宗宗学全書 第2巻 | ncid = BN13828831 | oclc = 834960056 | asin = B000J6LQH6 | ref = harv }}(OCLCは[[1959年]]に日蓮宗宗学全書刊行会より刊行されたもの。ASINは全書のもの。外部リンクは[[1921年]]([[大正]]10年)に日蓮宗宗学全書刊行会より発刊されたもの。)<!--本書は、ページ番号が複数振られている。ページ数が若い場合は注意を要するcf.[[日目#概要]]。--> |
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* {{Cite book | 和書 | editor = 日潮 | title = 本化別頭仏祖統記 | url = https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100160461 | accessdate = 2024-02-03 | year = 1730 | publisher = 平楽寺村上勘兵衛 | ncid = BB14282444 | ref = harv }} |
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* {{Cite book | 和書 | editor=宮崎英修|editor-link=宮崎英修 | year = 1978 | date = 1978-07-10 | title = 日蓮辞典 | publisher = [[東京堂出版]] | isbn = 978-4490101096 | ncid = BN00793610 | oclc = 5182140 | ref = harv }} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/nenpyou_niita.htm 新田小野寺氏年表] |
*[http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/nenpyou_niita.htm 新田小野寺氏年表] |
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{{日興本六僧}} |
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[[Category:13世紀日本の僧]] |
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[[Category:法華系仏教の人物]] |
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[[Category:鎌倉時代の僧]] |
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[[Category:伊豆国の人物]] |
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2024年11月13日 (水) 07:00時点における最新版
日目 | |
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文応元年4月28日 - 元弘3年/正慶2年11月15日 (1260年6月8日 - 1333年12月22日)[1] | |
号 | 蓮蔵房[1] |
生地 | 伊豆国[1] |
没地 | 美濃国[1] |
宗派 | 日蓮正宗・日蓮本宗・日蓮宗 |
寺院 | 要法寺・伊豆実成寺・保田妙本寺・小泉久遠寺・大石寺[1]・妙教寺 (栗原市)[2]・上行寺 (登米市)[2][要出典] |
師 | 日興[1] |
弟子 | 日道 ・日尊・日郷[1] |
廟 | 日蓮正宗下之坊 (富士宮市)・日蓮本宗實報寺 |
概要
[編集]身延山にて日蓮に常随給仕していた[1]。日蓮門下の草創期において日興門流を率いた日興の高弟本六人の一人[1][5]。蓮蔵房[6][1]のちに新田郷阿闍梨[1]もしくは新田卿阿闍梨[7]・郷公日目[1]・卿公[8]と称す。現代の日蓮正宗大石寺では第三祖に列せられている[9][10][11][12]が、18世紀の書物には第二代との記述もある[注釈 1]。
略歴
[編集]- 文応元年(1260年)4月28日、伊豆仁田郡畠郷(現在の静岡県函南町畑毛)にて出生[13]。大石寺開基檀那、藤原南家工藤氏流伊豆南条氏出身で、南条時光の甥にあたる。
- 文永9年(1272年)9月、走湯山円蔵坊に入る(13歳)[14][15]。
- 文永11年(1274年)、円蔵坊において「〔日興と〕師弟の約束を結び蓮蔵坊と号し」、日興と共に身延山に登り日蓮に会う(15歳)[16]。
- 建治2年(1276年)4月8日、円蔵坊に立ち寄った日興の弟子となる[17]。
- 建治3年(1277年)2月、身延において『五戒口決伝受』を書写す。
- 弘安2年(1279年)2月、日蓮より本尊(桑名市伝馬町寿量寺蔵)を賜る[1]。
- 弘安5年(1282年)9月、池上において日蓮の命により、伊勢法印を論破す[17]。
- 弘安6年(1283年)1月、日蓮大聖人1周忌、諸直弟身延御廟輪番の制を定め百ケ日忌を修す。
- 弘安7年(1284年)5月12日、太夫阿日尊を伴い身延に帰る。
- 弘安10年(1287年)10月13日、陸前一ノ迫柳ノ目に法華堂〔妙教寺〕を創す。
- 正応3年(1290年)10月13日、日興が北山へ転居と共に大石寺の管理を任され[19]、大石寺の本堂に祀る本尊を授与された。
- 大石寺塔中蓮蔵坊を創す。
- (蓮蔵坊:現在は学頭寮、次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊)
- 7月1日、十宗房を論破す。日道及び妙教寺3代日運、日目により得度す。
- 正安2年(1300年)4月13日、蓮阿尼〔日目母〕亡夫新田重綱の供養碑〔日目筆〕を陸前新田柴垣に建つ。
- 正安3年(1301年)10月13日、日興、本尊を書写し、了性房日乗及び新田頼綱日善〔日目兄〕に授与。
- 乾元元年(1302年)、日目、駿河安居山に東漸寺を創す。
- 元亨元年(1321年)8月10日、日興へ伊豆の田1反の供養をする。
- 正中元年(1324年)12月29日、日興本尊を書写し日目に授与。
- 嘉暦元年(1326年)4月、本尊を書写し日郷に授与。
- 嘉暦2年(1327年)11月10日、日道に土地〔陸前三ノ迫加賀野・伊豆南条〕譲状を与う。日道に上新田坊を譲る。
- 元徳2年(1330年)11月10日、日蓮正宗では、『日興跡条々事』を基に、日興が日目を一閻浮提の座主と定めた、としている[20]。その一方で、日蓮宗や大石寺以外の日興門下はこれを認めていない[21]。
- 元弘元年(1331年)12月、日郷に本尊を授与。
- 元弘2年(1332年)1月2日、本尊を書写。
- 元弘3年(1333年)1月13日、本尊を書写し陸前三迫新田太夫四郎妻に授与。
- 2月13日、日目等、日興の遺誡により大聖人御影並びに園城寺御下文守護につき違背なきよう誡む。
- 2月彼岸、本尊を書写し陸前一迫河田美濃房に授与。
- 3月、本尊を書写し陸前新田太夫四郎母・新田十郎重道妻の姉に授与。
- 10月、大石寺を出て東海道を京都へ向かう
- 11月15日、京の朝廷への申状提出(天奏)に向かう途中、中山道の宿場町美濃垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)で74歳で死去。
尚、日蓮正宗大石寺では日目が京都へ向かう直前に南条家出身の日道へ法を相承したと主張しているが確たる証拠がなく、また保田妙本寺では日目の死に際に日郷へ相承したと主張している。当時の文献を見ると北山本門寺や奉行所等の判断は日郷側を支持している[要出典]。 日蓮本宗要法寺では日尊を4世としているが、日尊が血脈相承を受けたという主張をせず、あくまでも日目の直弟子であった日尊が京都に残って折伏功通を広めたという立場で4世として数えている[要出典]。
本六人
[編集]→本六人については日興#本六人を参照
補足
[編集]日目死去の地、伊吹山の東南麓の位置になる美濃垂井(岐阜県不破郡垂井町相川)に、日目庵という日蓮本宗寺院「日目上人茶毘所」が、相川の宿場南側「垂井の泉」の近くにある。茶毘の位置も相川土手の川沿いに位置する。
なお、日目庵を日目上人荼毘所とすることに異論があり、荼毘所と断定できる根拠は全く無く、垂井町府中近辺こそが荼毘された正しい場所とされている。[22]
日目は大石寺蓮蔵坊安置の本尊をはじめ曼荼羅本尊を数体しか書写していないが、これは日目が学頭職であり本尊は日興が書写していたためといわれている。
日目は逝去前に、もう一度人間に生まれ変わって京都での天奏を果たしたいという和歌がある。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 632a.
- ^ a b 中尾堯『日蓮の寺』東京書籍、1987年、156頁。ISBN 4-487-75087-3。
- ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 632b-ただし、生年・没年月日のみ。
- ^ 宮崎英修 1978, p. 220a-ただし、日目が日興門流の僧であることのみ
- ^ 宮崎英修 1978, p. 220b.
- ^ 日潮 1730-ただし、外部リンクでは、コマ番号487。
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 188.
- ^ 日興他 1983, p. 4-ただし、本書にはページ数が複数存する。出典部分は3つ目のP.4。外部リンクでは、コマ番号7。
- ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 1262.
- ^ 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 1981, p. 1141.
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 334.
- ^ 日蓮正宗宗務院 2008, p. 121.
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 188a-ただし、月日を除く。
- ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 632c-ただし、月は除く。
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 188b-ただし、年月を除く。
- ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 632d-かぎ括弧内は、出典より引用。
- ^ a b c 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 188c.
- ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 632e-ただし、常随給仕したことのみ。
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 189a.
- ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 189b-ただし、日付は除く。
- ^ 日蓮宗現代宗教研究所 2006, pp. 48–59.
- ^ 富士日興上人詳伝 1963, p. 477.
参考文献
[編集]- 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 編『日蓮正宗入門』阿部日顕(監修)(第2版)、大石寺、2002年10月12日。ISBN 978-4904429778。 NCID BA56841964。OCLC 675627893 。2014年12月5日閲覧。(ISBNは、改訂版のもの。)
- 日蓮宗現代宗教研究所 編『創価学会批判』(復刻版)日蓮宗宗務院、2006年10月13日(原著1955年7月28日)。 NCID BA78909030。OCLC 676415868。
- 日蓮宗事典刊行委員会 編『日蓮宗事典』日蓮宗宗務院、1981年10月13日。ASIN B000J7QTDQ。 NCID BA61075492。OCLC 17071163。
- 日蓮宗寺院大鑑編集委員会 編『日蓮宗寺院大鑑』(初版)大本山池上本門寺、1981年1月1日。ASIN B000J80LMK。 NCID BN01669639。OCLC 33874438。
- 日蓮正宗宗務院 編『法華講員の心得』(改訂版第5刷)大日蓮出版、2008年2月16日(原著1988年10月1日)。ISBN 978-4904429150。OCLC 676522972。
- 日興他 著、立正大学日蓮教学研究所 編『興尊全集 ; 興門集』浅地康平(発行者)(第2版)、山喜房仏書林〈日蓮宗宗学全書 第2巻〉、1983年12月8日(原著1921年)。ASIN B000J6LQH6。 NCID BN13828831。OCLC 834960056 。2015年6月26日閲覧。(OCLCは1959年に日蓮宗宗学全書刊行会より刊行されたもの。ASINは全書のもの。外部リンクは1921年(大正10年)に日蓮宗宗学全書刊行会より発刊されたもの。)
- 日潮 編『本化別頭仏祖統記』平楽寺村上勘兵衛、1730年。 NCID BB14282444 。2024年2月3日閲覧。
- 宮崎英修 編『日蓮辞典』東京堂出版、1978年7月10日。ISBN 978-4490101096。 NCID BN00793610。OCLC 5182140。
外部リンク
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