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「高田大岳」の版間の差分

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2022年11月23日 (水) 11:07時点における版

高田大岳
田代岱分岐より望む高田大岳
標高 1,559 m
所在地 日本の旗 日本
青森県青森市十和田市
位置 北緯40度39分11.18秒 東経140度54分25.57秒 / 北緯40.6531056度 東経140.9071028度 / 40.6531056; 140.9071028座標: 北緯40度39分11.18秒 東経140度54分25.57秒 / 北緯40.6531056度 東経140.9071028度 / 40.6531056; 140.9071028
山系 八甲田山系
種類 火山
高田大岳の位置(日本内)
高田大岳
高田大岳の位置
プロジェクト 山
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高田大岳(たかだおおたけ)は、青森県八甲田山系にある火山である。

概要

高田大岳山頂
背後に一番高く見えている山は八甲田大岳
遠く見えるのが岩木山

高田大岳は1684年(貞享元年)の茂屋村書上図にはコバ嵩(コガの誤りか?)と記載されている。また、菅江真澄の「ふでのまにまに」(1811年、文化8年)には小河嶺と記載されている。これは双方とも津軽藩側の記録である。1859年(安政6年)の七戸通御絵図では高田大嶽と記載されている。以降「コガノ大岳」(津軽藩側、南部境山絵図、安政末期)、「八高田大嶽」[1]、「かうた嶽」[2]、「大嶽」[3](以上南部藩側)という名が見られる。南部側での八甲田山を代表する山で、カウダに高田の文字をあてたのがもとで、現在の山名となったのであろう[4]。明治期になると測量により、北八甲田に関しては津軽藩側の名前が残された。しかし、高田大岳に関してはコウダからタカダとして南部藩側の名前がのこされた[5]

1878年(明治11年)の『法量村地誌』では「小岳山と相提携して双尖谷地温泉の西に突起する。麓より頂に至る行程凡そ三里余、山の東胸を以て津軽郡を界し(東西八分通り界と定む)更に左右の翼を張りて東南に鳶形山(小岳)をいだき…」という文章で表されている。この山は裾野が最も美しく、どこから見てもそれと知れる山容で、谷地温泉のほんとうの源泉地となっている[6]

春に高田大岳には種蒔き爺の形の残雪が残る。この残雪の雪形により八十八夜の遅延を占った。その姿の濃いか薄いか、どこが足らぬかなどで、長い間のためしから大抵占いは違わないとされている[7]

高田大岳の登山道は不安になるほどの急な登りが続く。高田大岳の登山道建設を指導したのは青森市の元県職員の今牧人である。高田大岳の登山道整備は、十和田湖・八甲田が国立公園に指定された当初からの課題だった。しかし、戦時中は手がつけられず、着工したのは1949年(昭和24年)のことだった。谷地温泉の経営者の一人で八甲田の生き字引と言われた小笠原松次郎が「高田大岳はいい山だから、登山道を整備しよう」と県に働き掛けたのも着工の引き金になった。当時、県土木課公園係だった今は同年6月、土木業者と前線基地の谷地温泉に入った。ところが連日の雨。作業員は、1カ月も待機を余儀なくされた。予算は3万円。作業員の滞在費でどんどん予算が無くなっていく。結局登山道建設は、晴れ間を見て行われ、正味1週間で完成させた。普通、高田大岳ぐらい急な山だと登山道はジグザグに付けられる。しかしジグザグに造ると予算をはるかにオーバーする。必然的に、最も短い直線急登ルートがひらかれた。予算の都合もあったが「ジグザグの道だと山に登ったという達成感が得られない」という今の信念も反映されていた。工事完了の検査のとき、上司に「こんな直線的な道をつけるやつがいるものか」とこっぴどくしかられた。が、今は「あれが高田大岳の最高の道だと思っている。本当に山に登ったという実感ができるからだ」と信念は変わらない[8]

2019年に高田大岳は、高田大岳の登山道を整備する十和田山岳振興協議会の活動によって、日本山岳遺産基金により「日本山岳遺産」として認定された。十和田山岳振興協議会は全国的に悪路として有名であった十和田市の谷地温泉登山口から髙田大岳などの登山道を、安心して楽しく登れるように整備し、多くの登山者、観光客の来訪と、地域の活性化を目指して2014年12月設立されたものである。該当の登山道は継続的な整備が必要で、地域振興と自然保護の両立が成されている点を評価され認定となった[9]2020年2月15日に、東京都千代田区一橋大学一橋講堂で「第10回 日本山岳遺産サミット」が開催された。ここで、2019年度の日本山岳遺産認定地として十和田山岳振興協議会に日本山岳遺産認定証が授与された[10]

八甲田山神社

高田大岳山頂(東峰)にある十和田山神社

青森市の廣田神社の宮司田川伊吹が2015年に神社の物置で偶然古い屏風を見つけた。ここには「八甲田山神社」の文字があり田川の祖父が八甲田山神社の宮司を兼務していたことがわかった。2018年田川は高田大岳山頂にある八甲田山神社のほこらを訪ねた。そこで見たのは屋根がなく柱だけの状態になった無残な姿だった。「朽ち果てたほこらをなんとかしたい」田川は再建を決意した。田川は「八甲田山神社再建プロジェクト」を立ち上げクラウドファンディングを行ってきた。2022年10月9日社に心霊をまつる鎮座祭の日を迎えた[11]

青森市の広田神社は10月9日八甲田山系の高田大岳に再建した八甲田山神社のほこらに神霊の魂を宿す鎮座祭を開いた。参加した神社の関係者や建築業者ら約60人は新たな装いとなったほこらを見て喜んだ。広田神社によると、ほこらは縦横、高さがいずれも1.2メートル。屋根は銅製で、外壁や床には青森県産のヒバを使用した。青森市の建築会社の社員らが13回に渡って材料を山頂に運び、組み立てたという。支援はクラウドファンディングなどで呼びかけ、約1000万円を集めた。維持管理などに400万円ほどが必要で、広田神社は現在も協賛金を募っている。田川宮司は「全国各地からの支援に感謝したい。ほこらがいつまでも皆さんの心のよりどころとなるように守っていく」と話した[12]

山頂の移動

2020年1月、地元の山岳団体の十和田山岳振興協議会の指摘を受け国土地理院は、山頂の位置を従来の山頂としていた位置より西に約115m移動、標高も1552mから1559mと7m高くしたと発表した[13]。元の山頂があった場所は八甲田山神社の東峰の場所である。

脚注

  1. ^ 中島家境廻り文書、藩政末期、七戸町史収録
  2. ^ 七戸代官所管内図、天間林村史収録
  3. ^ 法量村地引絵図面写、明治中頃、青森営林局所蔵
  4. ^ 岩淵功『八甲田の変遷 : 史料で探る山と人の歴史』、『八甲田の変遷』出版実行委員会、1999年、p.36-37
  5. ^ 岩淵功『八甲田の変遷 : 史料で探る山と人の歴史』、『八甲田の変遷』出版実行委員会、1999年、p.56
  6. ^ 中道等十和田村史. 上巻』、1955年、p.28
  7. ^ 中道等『十和田村史. 下巻』、1955年、p.649
  8. ^ Web東奥/とうおう写真館・あおもり110山/高田大岳、村上義千代『あおもり110山』、東奥日報社、1999年
  9. ^ 全国5カ所を2019年度の日本山岳遺産として決定
  10. ^ 「第10回 日本山岳遺産サミット」を開催。当基金10年の活動実績を環境省が表彰
  11. ^ 高田大岳 山頂のほこら再建 八甲田山神社
  12. ^ 八甲田山神社のほこら再建 青森 高田大岳で鎮座祭
  13. ^ 高田大岳 (たかだおおだけ):1,559m / ヤマケイオンライン