「バハラーム4世」の版間の差分
Lin Xiangru (会話 | 投稿記録) en:Bahram IV(GA記事)の1254176210版より。 記事を全面改稿。 タグ: サイズの大幅な増減 モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
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{{基礎情報 君主 |
{{基礎情報 君主 |
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| 人名 = バハラーム4世 |
| 人名 = バハラーム4世 |
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| 各国語表記 = |
| 各国語表記 = {{lang|pal|𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭}} |
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| 君主号 = [[サーサーン朝の王の一覧|イランと非イランの諸王の王]]{{efn|イラン人と非イラン人の諸王の王とも{{sfn|Yücel|2017|pp=332–333}}。}} |
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| 君主号 = ペルシア君主 |
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| 画像 = |
| 画像 = Coin of Bahram IV (cropped), Herat mint.jpg |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = バハラーム4世の{{仮リンク|ドラクマ (古代)|label=ドラクマ硬貨|en|Ancient drachma}}。 |
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| 画像説明 = |
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[[ヘラート]]で鋳造された。 |
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| 在位 = [[388年]] - [[399年]] |
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| 在位 = [[388年]]–[[399年]] |
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| 戴冠日 = |
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| 就任式 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = |
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| 埋葬日 = |
| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
| 埋葬地 = |
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| 継承者 = [[ヤズデギルド1世]] |
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| 継承形式 = 次代 |
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| 配偶者1 = |
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| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 = |
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| 子女 = [[ホスロー (バハラーム4世の皇子)|ホスロー]] |
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| 家名 = [[サーサーン家]] |
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| 王朝 = [[サーサーン朝]] |
| 王朝 = [[サーサーン朝]] |
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| 父親 = [[シャープール3世]] |
| 王室歌 = |
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| 父親 = [[シャープール3世]] |
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| 母親 = |
| 母親 = |
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| 宗教 = [[ゾロアスター教]] |
| 宗教 = [[ゾロアスター教]] |
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| サイン = |
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'''バハラーム4世'''('''Bahram IV''', ? - [[399年]])は、[[サーサーン朝]][[ペルシア帝国]]の第12代君主([[シャー|シャーハーン・シャー]]、在位:[[388年]] - 399年)。登極する前は[[ケルマーン州|ケルマーン]]の王であった。 |
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'''バハラーム4世'''([[パフラヴィー語]]:{{lang|pal|𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭}}、生年不詳〜399年)は[[サーサーン朝]]の13代皇帝([[シャー|シャーハンシャー]]、在位:[[388年]]〜[[399年]])。[[シャープール3世]]の息子で、その後を継ぎ即位した。 |
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== 概要 == |
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この時代のサーサーン朝は[[ローマ帝国]]同様、[[フン族]]など[[遊牧民]]の侵入に苦しんだことは分かっているが、詳細な記録に乏しく、はっきりしていない。ケルマーン地方には、[[アルダシール1世]]が東方の[[スィースターン・バルーチェスターン州|スィスターン]]地方からの防衛拠点として築いた「ウェフ=アルダフシール」という要塞があった。バハラーム4世は遊牧民対策に功を挙げて推挙されたとも考えられるが、本来は君主位に近い人物ではなかった。少なくともあっさり君主となったとは考えにくい。 |
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即位する以前は、皇族王として帝国南東部の{{仮リンク|キルマーン (サーサーン朝の州)|label=キルマーン州|en|Kirman (Sasanian province)}}を統治した。バハラームはキルマーンシャー(ケルマーンシャー、キルマーン王の意)の称号を名乗り、即位後イラン西部に建設した都市[[ケルマーンシャー]]の由来となった。 |
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バハラーム4世は[[アルメニア王国|アルメニア]]への干渉を強め、[[クースロ]]王を幽閉、自分の兄弟であるバハラーム・シャープールを王位に就けた。ローマ皇帝[[テオドシウス1世]]は[[384年]]の平和条約を盾に援助要請を退け、干渉はしなかった。 |
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バハラーム4世の治世は、比較的平穏無事であったといえる。[[サーサーン朝領アルメニア|サーサーン朝の影響下]]にある[[アルメニア王国|東アルメニア王国]]では、反抗的な態度をとる王{{仮リンク|ホスロー4世 (アルメニア王)|label=ホスロー4世|en|Khosrov IV of Armenia}}を廃位して、その弟の{{仮リンク|ヴラムシャプー|en|Vramshapuh}}を西アルメニア王国の王位に就けた。[[395年]]には、[[フン族]]がティグリス・ユーフラテス川周辺地域に{{仮リンク|フン族のペルシア侵攻|label=侵攻|en|Hun Invasion of Persia}}してきたものの、これを撃退した。父シャープール3世と同様に、貴族との政争に敗れ暗殺されると、弟の[[ヤズデギルド1世]]が後を継いだ。 |
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[[399年]]、反逆者によってバハラーム4世は[[暗殺]]された。 |
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バハラーム4世の[[印章]]は、ケルマーンシャー時代のものと、サーサーン朝皇帝時代のものの2種類が見つかっている。また、バハラーム4世以降の皇帝は、自身の硬貨に鋳造した地名を刻印することが一般的となり、バハラーム4世の統治下でも新たな貨幣鋳造所が設立されている。 |
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== 外部リンク == |
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*{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1292/00000kings.html |title=諸王の王 |date=20061215151345}} |
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== 名前 == |
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{{先代次代|[[サーサーン朝]]の君主|第12代:388年 - 399年|[[シャープール3世]]|[[ヤズデギルド1世]]}} |
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「'''Bahram'''(バハラーム)」は{{仮リンク|テオフォリックネーム|en|Theophoric name}}{{refnest|group="注釈"|古代ギリシアや、メソポタミア等で見られる、神の加護を受けるために付けられた、神の名前に由来関連する名前である。}}の一種で、{{仮リンク|新ペルシア語|redirect=1|en|New Persian}}の表記である。[[アヴェスター語]]では、勝利の神'''[[ウルスラグナ]]'''({{Lang|en|''Vərəθraγna''}})を意味する。サーサーン朝時代に使われた[[パフラヴィー語|中期ペルシア語]]では、'''Warahrān'''(ワラフラーン)または'''Wahrām'''(ワフラーン)と表記し、[[イラン語群#古代ペルシア語|古代ペルシア語]]の「'''Vṛθragna'''」に由来する。 |
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また、[[アルメニア語]]で{{lang|hy|Vahagn/Vrām}}と読み{{sfn|Iranica: Bahrām}}、[[ギリシア語]]では{{lang|el|Baranes}}となる{{sfn|Wiesehöfer|2018|pages=193–194}}。さらに、[[グルジア語]]では''Baram''{{sfn|Rapp|2014|page=203}}、[[ラテン語]]では''Vararanes''とされる{{sfn|Martindale|Jones|Morris|1971|p=945}}。 |
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{{DEFAULTSORT:ははらむ4}} |
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== 即位以前 == |
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中世の歴史家[[タバリー]]によると、バハラーム4世は[[シャープール2世]](在位:309年〜379年)の息子である。しかし、{{仮リンク|ハムザ・アル・イスファハニ|en|Hamza al-Isfahani}}を始め複数の歴史家は、バハラーム4世は[[シャープール3世]](在位:383年〜388年)の息子であると記述しており、後者の説の可能性が高いと考えられている{{sfn|Klíma|1988|pp=514–522}}。バハラーム4世は父シャープール3世の治世の中で、皇族王として帝国南東部の{{仮リンク|キルマーン (サーサーン朝の州)|label=キルマーン州|en|Kirman (Sasanian province)}}(ケルマーン州)を統治した<ref name="aoki">[[#青木 2020|青木 2020]] p,186,187</ref>。キルマーン統治中には、Shiragan(現在の{{仮リンク|シールジャーン|en|Sirjan}})を建設している可能性があり、帝国の滅亡まで、Shiraganはキルマーン州の首都として機能した{{sfn|Bosworth|1999|p=69}}{{sfn|Christensen|1993|p=182}}{{sfn|Brunner|1983|p=772}}。また、Shiraganは貨幣を鋳造する都市として、経済的にも重要な役割を果たすだけでなく、農業的にも重要な地域であった{{sfn|Brunner|1983|pp=771–772}}。中世の地理学者[[ヤークート・アル=ハマウィー]]によれば、バハラーム4世はヴェフ・アルダシール(現在の{{仮リンク|バルドシール|en|Bardsir}})に建物を建設している{{sfn|Badiyi|2020|p=213}}。キルマンの統治者として、キルマーンシャー(ケルマーンシャー、キルマーンの王の意)を名乗った。そのため、バハラームは即位後、イラン西部に新しい都市を建設し、[[ケルマーンシャー]]と名付けた{{sfn|Brunner|1983|p=767}}。現在のイランの[[ケルマーンシャー州]]の名前の由来かつ、その州都になっている<ref name="aoki"/>。[[388年]]、シャープール3世は貴族らとの政争に敗れ、暗殺された<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,185</ref>。バハラームは父の後を継ぎ、13代目のサーサーン朝皇帝(シャー)に即位した{{sfn|Klíma|1988|pp=514–522}}{{sfn|Kia|2016|p=236}}<ref name="aoki"/>。 |
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== 治世 == |
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[[Image:Roman-Persian Frontier, 5th century.png|thumb|ローマ帝国とサーサーン朝の国境]] |
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シャープール3世の治世中の、サーサーン朝とローマ帝国の間で、{{仮リンク|アキリセネの和約|en|Peace of Acilisene}}が結ばれ、[[アルメニア王国]]はサーサーン朝の衛星国家[[サーサーン朝領アルメニア|東アルメニア王国]]と、ローマ帝国の衛星国家西アルメニア王国に分割された{{sfn|Kia|2016|p=278}}{{sfn|Chaumont|1986|pp=418–438}}。両アルメニア王国の分割線は、北は[[エルズルム|テオドシオポリス]]から南は{{仮リンク|アミダ (メソポタミア)|label=アミダ|en|Amida (Mesopotamia)}}まで引かれていて、アルメニアの大部分はサーサーン朝の手中に入った{{sfn|Chaumont|1986|pp=418–438}}。なおアキリセネの和約がいつ締結されたかは正確には分からないが、ほとんどの歴史家は[[387年]]に締結されたと推測している{{sfn|Chaumont|1986|pp=418–438}}{{sfn|Hovannisian|1997|p=92}}。西アルメニア王国では、{{仮リンク|アルサケス朝 (アルメニア)|label=アルサケス朝|en|Arsacid dynasty of Armenia}}の王{{仮リンク|アルサケス3世|en|Arshak III}}(在位:378年〜387年)が死んだため、ローマ帝国はアルサケス朝を廃止して、{{仮リンク|東ローマ帝国領アルメニア|en|Byzantine Armenia}}として直接統治に乗り出した。ペルサルメニア(Persarmenia)とも呼ばれる{{sfn|Hovannisian|1997|p=92}}、サーサーン朝の影響下にあるアルメニアでは、アルサケス朝が存続し、{{仮リンク|ホスロー4世 (アルメニア王)|label=ホスロー4世|en|Khosrov IV of Armenia}}が王位に就いていた{{sfn|Chaumont|1986|pp=418–438}}{{sfn|Lenski|2002|p=185}}。バハラーム4世はホスロー4世に不信感を抱き始めた。結果、ホスロー4世を廃位して、その弟{{仮リンク|ヴラムシャプー|en|Vramshapuh}}が王位を継承した。ホスロー4世を廃位した直接の原因は、サーサーン朝に意見を伺わないまま、{{仮リンク|アルメニアのイサク|label=サハク|en|Isaac of Armenia}}を[[カトリコス]](総主教)に任命したことともされる{{sfn|Hovannisian|1997|p=92}}。 |
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395年、[[フン族]]がローマ帝国の{{仮リンク|ソフィーネ|en|Sophene}}州、西アルメニア、[[メソポタミア属州|メソポタミア]]、[[歴史的シリア|シリア]]、{{仮リンク|カッパドキア属州|label=カッパドキア|en|Cappadocia (Roman province)}}に侵攻した。多くの捕虜を引き連れて[[ガラティア]]まで到達した。今度はサーサーン朝領に{{仮リンク|フン族のペルシア侵攻|label=侵攻し|en|Hun Invasion of Persia}}、[[ティグリス川]]・[[ユーフラテス川]]沿いの田園地帯を破壊して回った。しかし、サーサーン朝軍はすぐに反撃し、フン族の軍は敗れ、フン族の戦利品を奪回した。バハラーム4世はローマ人の捕虜たちに{{仮リンク|ヴェフ・アルダシール|en|Veh-Ardashir}}と[[クテシフォン]]に留まることを許し、パンやワイン、油など食料を恵んでいる{{sfn|Greatrex|Lieu|2002|p=17}}。フン族から解放された捕虜のほとんどは、後に故郷に戻った。フン族の侵攻を受け、サーサーン朝は、地形的に見て防御に向いていないために、イラン地域をより厳重に防御する必要があることを指し示している{{sfn|Bonner|2020|p=95}}。 |
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399年、バハラーム4世は狩猟中に矢に当たり、死亡した。9世紀の歴史家[[アブー・ハニーファ・ディーナワリー]]はこの事件を単なる事故としているが{{sfn|Bonner|2020|p=102 (see note 37)}}、[[タバリー]]は「殺人集団による犯行」と記述している{{sfn|Bosworth|1999|p=69}}。現代の歴史家たちは、この事件の背後で貴族が暗躍していたという説を唱えている{{sfn|Daryaee|2014|p=157 (see note 106)}}{{sfn|McDonough|2013|p=604 (see note 3)}}。スコット・マクドナウ(Scott McDonough)によると、バハラーム4世は、サーサーン朝の軍事力の大半を掌握していた、パルティア系貴族({{仮リンク|ウズルガーン|en|wuzurgan}})の勢力を削減しようとしたために殺害された。パルティア系貴族は[[イラン高原]]を勢力基盤にして、自治権を持っているなど、サーサーン朝から半ば独立状態にあった{{sfn|McDonough|2013|p=604}}。当時のサーサーン朝皇帝は、パルティア系貴族の勢力を抑えようと試みては、皇帝自身が暗殺される結果に終わっていた{{sfn|McDonough|2013|p=604 (see also note 3)}}。スコット・マクドナウは、パルティア系貴族があくまでも個人的な利益や盟約のために行動しており、[[ペルシャ人]]であるサーサーン朝の皇帝に協力していたのは、おそらく同じ「アーリア人」(イラン人)であるという民族意識によるものと主張している{{sfn|McDonough|2013|p=604}}。バハラーム4世の没後、弟の[[ヤズデギルド1世]]が後を継いで皇帝に即位した。ヤズデギルド1世は貴族たち行動を警戒し抑制しようと努め、キリスト教徒を重用したが、彼もまた貴族から暗殺されている{{sfn|Shahbazi|2005}}。 |
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== 人柄 == |
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[[アラビア語]]資料における、バハラーム4世に対しての評価は賛否両論あるが、概ね好意的に描かれている{{sfn|Frye|1983|p=143}}。[[タバリー]]はバハラーム4世の統治に対して、「立派な方法で臣民を統治し、その統治は賞賛された」と記述している{{sfn|Bosworth|1999|p=69}}。9世紀の学者[[イブン・クタイバ]]はバハラーム4世の「正義と善政の追求」に言及している。対して{{仮リンク|ハムザ・アル=イスファハニ|en|Hamza al-Isfahani}}は「尊大だが、残酷で臣民を無視した統治者」と評価している{{sfn|Bosworth|1999|p=69 (see note 186)}}。12世紀の歴史家{{仮リンク|ファールス・ナーマ|label=イブン・アル=バルヒー|en|Fars-Nama}}も、「決して{{仮リンク|マザリム|en|mazalim}}(=裁判所)を置かなかった自己中心的な王」と否定的に評価している{{sfn|Pourshariati|2008|p=58}}。 |
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== 硬貨 == |
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[[Image:Coin of Bahram IV, minted at Spahan or Ctesiphon.jpg|thumb|バハラーム4世の{{仮リンク|ドラクマ (古代)|label=ドラクマ硬貨|en|Ancient drachma}}。{{仮リンク|スパーハーン|label=スパーハーン|en|Spahan (province)}}もしくは[[クテシフォン]]で鋳造された。]] |
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バハラーム4世の{{仮リンク|サーサーン朝の硬貨|label=硬貨|en|Sasanian coinage}}では、翼の装飾がついた王冠を被った姿で描かれており、[[ウルスラグナ]](バハラーム)をモチーフとしている。飾り翼はゾロアスター教の最高神である[[アフラ・マズダー]]の象徴である[[城壁冠]]に取り付けられている{{sfn|Schindel|2013|p=830}}。 |
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バハラーム4世は、サーサーン朝において初めて王冠に2人の神の要素を組み合わせた。このような複数の神の象徴を組み合わせた王冠は、以降の歴代皇帝にも引き継がれた{{sfn|Schindel|2013|pp=830–831}}。また、硬貨にその鋳造した場所を刻むことが一般的になったのもバハラーム4世の統治下であった{{sfn|Schindel|2013|p=818}}。鋳造場所を明記することで、硬貨の起源をより簡単に識別できるようになった。特に東部の州{{仮リンク|アバルシャフル|label=|en|Abarshahr}}では、サーサーン朝統治下で鋳造された硬貨のうちバハラーム4世時代のものが19パーセントを占めていて、統治者別にみると最大の割合を誇るである{{sfn|Howard-Johnston|2014|pp=164–165}}。アバルシャフルで大量に生産された硬貨は、主に同地に駐留する大規模な軍隊を維持するための資金として使われた{{sfn|Howard-Johnston|2014|p=164}}。 |
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シャープール2世、アルダシール2世、シャープール3世のように、バハラーム4世もインドの[[シンド]](おそらく{{仮リンク|ヒンド (サーサーン朝の州)|label=ヒンド|en|Hind (Sasanian province)}}州に相当)で{{仮リンク|シンド製のサーサーン朝の硬貨|label=シンド独特の金貨|en|Sasanian coinage of Sindh}}を鋳造している{{sfn|Schindel|2016|p=127}}。バハラーム4世の治世下では、{{仮リンク|フージスタン (サーサーン朝の州)|label=フージスタン|en|Khuzistan (Sasanian province)}}州の[[ジュンディーシャープール]]や[[スーサ]]等の都市に貨幣鋳造所が設立された{{sfn|Jalalipour|2015|pp=12–13}}。また、北西部の{{仮リンク|アードゥルパーダガーン|en|Adurbadagan}}州でも貨幣鋳造所が設立された。そこで鋳造された貨幣は、たびたび[[フン族]]が侵入してくる[[コーカサス]]地方の国境に、侵入の対策として{{仮リンク|アレキサンダーの門|label=カスピ海の門|en|Gates of Alexander}}を建設する費用に投じられた{{sfn|Bonner|2020|p=95}}{{sfn|Howard-Johnston|2014|p=164}}。 |
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== 印章 == |
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[[File:Seal of Bahram IV.jpg|thumb|right|特徴的な王冠を被り、敵の死体(モチーフは不明)を踏み付けているバハラーム4世を描いた[[オニキス]]製の{{仮リンク|スタンプ・シール|label=印章|en|stamp seal}}。[[大英博物館]]所蔵。]] |
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キルマーンシャー(ケルマーンシャー)としてのバハラーム4世の印章が現存している。[[パフラヴィー語|中期ペルシア語]]で書かれた銘刻は「マズダ(アフラ・マズダ)を崇拝する王にしてイラン人と非イラン人の諸王の王、王たちの後継者、シャープール。その息子のワフラーン(=バハラーム)・ケルマーンシャー」と記されている{{sfn|Klíma|1988|pp=514–522}}。また、シャーハンシャーとしてのバハラーム4世の印章も発見されている。[[大英博物館]]に所蔵されているこの印章(右図)には、特徴的な王冠を被り、槍を持って、敵の死体を踏み付けてるバハラーム4世が描かれている{{sfn|Klíma|1988|pp=514–522}}{{sfn|Edwell|2020|p=234}}。この倒れた敵は、[[アルダシール2世]]が造影したレリーフに描かれた人物と似ている。そのレリーフに描かれた人物は、363年にサーサーン朝との戦いの最中、暗殺されたローマ帝国の皇帝[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]とされている{{sfn|Edwell|2020|p=234}}{{sfn|Shahbazi|1986|pp=380–381}}{{sfn|Canepa|2009|p=110}}。よって、バハラーム4世の印章に描かれている人物もユリアヌスであり、バハラーム4世もユリアヌスの敗北に関与したことを示唆することで、自身の正当性と強さを主張していると推論されている{{sfn|Edwell|2020|p=234}}{{sfn|Canepa|2009|p=110}}。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 引用 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=青木健|authorlink=青木健 (宗教学者)|title=ペルシア帝国|series=[[講談社現代新書]]|publisher=講談社|date=2020-8 |isbn=978-4-06-520661-4 |ref=青木 2020 }} |
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* {{cite journal |last1=Badiyi|first1=Bahram| title=Cities and Mint Centers Founded by the Sasanians |journal= Ancient Iranian Numismatics |date=2020|pages=203–233|doi=10.1163/9789004460720_012 |isbn=978-90-04-46072-0 |url=https://www.academia.edu/42852764|url-access=registration}} |
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* {{cite book | last = Bonner | first = Michael | title = The Last Empire of Iran | year = 2020 | publisher = Gorgias Press | location = New York | isbn = 978-1463206161 }} |
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* {{The History of al-Tabari | volume = 5}} |
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* {{Cambridge History of Iran|volume=3b | last = Brunner | first = Christopher | authorlink = | chapter = Geographical and Administrative divisions: Settlements and Economy| pages=747–778}} |
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* {{cite book |last1=Canepa |first1=Matthew P. |author-link=Matthew Canepa|title=The Two Eyes of the Earth: Art and Ritual of Kingship Between Rome and Sasanian Iran |date=2009 |publisher=University of California Press |isbn=978-0520257276}} |
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* {{Encyclopaedia Iranica | volume=2 | fascicle=4 | title = Armenia and Iran ii. The pre-Islamic period | last = Chaumont | first = M. L. | url = http://www.iranicaonline.org/articles/armenia-ii | pages = 418–438 }} |
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* {{cite book|last=Christensen|first=Peter|title=The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environments in the History of the Middle East, 500 B.C. to A.D. 1500|publisher=Museum Tusculanum Press|year=1993|isbn=9788772892597|url=https://books.google.com/books?id=ebB_ac13v3UC }} |
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* {{cite book | title = Sasanian Persia: The Rise and Fall of an Empire | year = 2014 | publisher = I.B.Tauris | last = Daryaee| first = Touraj | author-link = Touraj Daryaee | isbn = 978-0857716668 | url = https://books.google.com/books?id=LU0BAwAAQBAJ }} |
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* {{cite book | last = Edwell | first = Peter | title = Rome and Persia at War: Imperial Competition and Contact, 193–363 CE | year = 2020 | publisher = Routledge | isbn = 978-1472418173 }} |
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* {{Cambridge History of Iran|volume=3a|last=Frye|first=R. N.|chapter=The political history of Iran under the Sasanians}} |
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* {{cite book|last1=Greatrex|first1=Geoffrey|last2=Lieu|first2=Samuel N. C.|title=The Roman Eastern Frontier and the Persian Wars (Part II, 363–630 AD)|location=New York and London|publisher=Routledge (Taylor & Francis)|year=2002|isbn=0-415-14687-9|url=https://books.google.com/books?id=zc8iAQAAIAAJ}} |
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* {{cite book | last = Hovannisian | first = Richard G. | title = The Armenian People from Ancient to Modern Times: Volume I: The Dynastic Periods: From Antiquity to the Fourteenth Century | year = 1997 | publisher = Palgrave Macmillan | location = | isbn = 978-1403964212 }} |
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* {{cite journal|last=Howard-Johnston|first=James|year=2014|title=The Sasanian state: the evidence of coinage and military construction|journal=Journal of Ancient History|publisher=De Gruyter|volume=2|issue=2|pages=144–181|doi=10.1515/jah-2014-0032|s2cid=164026820 }} |
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* {{cite journal|last=Jalalipour|first=Saeid|title=The Arab Conquest of Persia: The Khūzistān Province before and after the Muslims Triumph|url=https://sites.uci.edu/sasanika/files/2020/01/GradPaper-JalalipourStudyofSasanianKhuzestan.pdf|year=2015|journal=Sasanika}} |
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* {{Encyclopaedia Iranica | volume=3 | fascicle=5 | article = Bahrām IV | last = Klíma | first = O. | url = http://www.iranicaonline.org/articles/bahram-04 | pages = 514–522 }} |
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2024年12月14日 (土) 03:20時点における最新版
バハラーム4世 𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭 | |
---|---|
イランと非イランの諸王の王[注釈 1] | |
在位 | 388年–399年 |
死去 |
399年 |
次代 | ヤズデギルド1世 |
子女 | ホスロー |
家名 | サーサーン家 |
王朝 | サーサーン朝 |
父親 | シャープール3世 |
宗教 | ゾロアスター教 |
バハラーム4世(パフラヴィー語:𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭、生年不詳〜399年)はサーサーン朝の13代皇帝(シャーハンシャー、在位:388年〜399年)。シャープール3世の息子で、その後を継ぎ即位した。
即位する以前は、皇族王として帝国南東部のキルマーン州を統治した。バハラームはキルマーンシャー(ケルマーンシャー、キルマーン王の意)の称号を名乗り、即位後イラン西部に建設した都市ケルマーンシャーの由来となった。
バハラーム4世の治世は、比較的平穏無事であったといえる。サーサーン朝の影響下にある東アルメニア王国では、反抗的な態度をとる王ホスロー4世を廃位して、その弟のヴラムシャプーを西アルメニア王国の王位に就けた。395年には、フン族がティグリス・ユーフラテス川周辺地域に侵攻してきたものの、これを撃退した。父シャープール3世と同様に、貴族との政争に敗れ暗殺されると、弟のヤズデギルド1世が後を継いだ。
バハラーム4世の印章は、ケルマーンシャー時代のものと、サーサーン朝皇帝時代のものの2種類が見つかっている。また、バハラーム4世以降の皇帝は、自身の硬貨に鋳造した地名を刻印することが一般的となり、バハラーム4世の統治下でも新たな貨幣鋳造所が設立されている。
名前
[編集]「Bahram(バハラーム)」はテオフォリックネーム[注釈 2]の一種で、新ペルシア語の表記である。アヴェスター語では、勝利の神ウルスラグナ(Vərəθraγna)を意味する。サーサーン朝時代に使われた中期ペルシア語では、Warahrān(ワラフラーン)またはWahrām(ワフラーン)と表記し、古代ペルシア語の「Vṛθragna」に由来する。
また、アルメニア語でVahagn/Vrāmと読み[2]、ギリシア語ではBaranesとなる[3]。さらに、グルジア語ではBaram[4]、ラテン語ではVararanesとされる[5]。
即位以前
[編集]中世の歴史家タバリーによると、バハラーム4世はシャープール2世(在位:309年〜379年)の息子である。しかし、ハムザ・アル・イスファハニを始め複数の歴史家は、バハラーム4世はシャープール3世(在位:383年〜388年)の息子であると記述しており、後者の説の可能性が高いと考えられている[6]。バハラーム4世は父シャープール3世の治世の中で、皇族王として帝国南東部のキルマーン州(ケルマーン州)を統治した[7]。キルマーン統治中には、Shiragan(現在のシールジャーン)を建設している可能性があり、帝国の滅亡まで、Shiraganはキルマーン州の首都として機能した[8][9][10]。また、Shiraganは貨幣を鋳造する都市として、経済的にも重要な役割を果たすだけでなく、農業的にも重要な地域であった[11]。中世の地理学者ヤークート・アル=ハマウィーによれば、バハラーム4世はヴェフ・アルダシール(現在のバルドシール)に建物を建設している[12]。キルマンの統治者として、キルマーンシャー(ケルマーンシャー、キルマーンの王の意)を名乗った。そのため、バハラームは即位後、イラン西部に新しい都市を建設し、ケルマーンシャーと名付けた[13]。現在のイランのケルマーンシャー州の名前の由来かつ、その州都になっている[7]。388年、シャープール3世は貴族らとの政争に敗れ、暗殺された[14]。バハラームは父の後を継ぎ、13代目のサーサーン朝皇帝(シャー)に即位した[6][15][7]。
治世
[編集]シャープール3世の治世中の、サーサーン朝とローマ帝国の間で、アキリセネの和約が結ばれ、アルメニア王国はサーサーン朝の衛星国家東アルメニア王国と、ローマ帝国の衛星国家西アルメニア王国に分割された[16][17]。両アルメニア王国の分割線は、北はテオドシオポリスから南はアミダまで引かれていて、アルメニアの大部分はサーサーン朝の手中に入った[17]。なおアキリセネの和約がいつ締結されたかは正確には分からないが、ほとんどの歴史家は387年に締結されたと推測している[17][18]。西アルメニア王国では、アルサケス朝の王アルサケス3世(在位:378年〜387年)が死んだため、ローマ帝国はアルサケス朝を廃止して、東ローマ帝国領アルメニアとして直接統治に乗り出した。ペルサルメニア(Persarmenia)とも呼ばれる[18]、サーサーン朝の影響下にあるアルメニアでは、アルサケス朝が存続し、ホスロー4世が王位に就いていた[17][19]。バハラーム4世はホスロー4世に不信感を抱き始めた。結果、ホスロー4世を廃位して、その弟ヴラムシャプーが王位を継承した。ホスロー4世を廃位した直接の原因は、サーサーン朝に意見を伺わないまま、サハクをカトリコス(総主教)に任命したことともされる[18]。
395年、フン族がローマ帝国のソフィーネ州、西アルメニア、メソポタミア、シリア、カッパドキアに侵攻した。多くの捕虜を引き連れてガラティアまで到達した。今度はサーサーン朝領に侵攻し、ティグリス川・ユーフラテス川沿いの田園地帯を破壊して回った。しかし、サーサーン朝軍はすぐに反撃し、フン族の軍は敗れ、フン族の戦利品を奪回した。バハラーム4世はローマ人の捕虜たちにヴェフ・アルダシールとクテシフォンに留まることを許し、パンやワイン、油など食料を恵んでいる[20]。フン族から解放された捕虜のほとんどは、後に故郷に戻った。フン族の侵攻を受け、サーサーン朝は、地形的に見て防御に向いていないために、イラン地域をより厳重に防御する必要があることを指し示している[21]。
399年、バハラーム4世は狩猟中に矢に当たり、死亡した。9世紀の歴史家アブー・ハニーファ・ディーナワリーはこの事件を単なる事故としているが[22]、タバリーは「殺人集団による犯行」と記述している[8]。現代の歴史家たちは、この事件の背後で貴族が暗躍していたという説を唱えている[23][24]。スコット・マクドナウ(Scott McDonough)によると、バハラーム4世は、サーサーン朝の軍事力の大半を掌握していた、パルティア系貴族(ウズルガーン)の勢力を削減しようとしたために殺害された。パルティア系貴族はイラン高原を勢力基盤にして、自治権を持っているなど、サーサーン朝から半ば独立状態にあった[25]。当時のサーサーン朝皇帝は、パルティア系貴族の勢力を抑えようと試みては、皇帝自身が暗殺される結果に終わっていた[26]。スコット・マクドナウは、パルティア系貴族があくまでも個人的な利益や盟約のために行動しており、ペルシャ人であるサーサーン朝の皇帝に協力していたのは、おそらく同じ「アーリア人」(イラン人)であるという民族意識によるものと主張している[25]。バハラーム4世の没後、弟のヤズデギルド1世が後を継いで皇帝に即位した。ヤズデギルド1世は貴族たち行動を警戒し抑制しようと努め、キリスト教徒を重用したが、彼もまた貴族から暗殺されている[27]。
人柄
[編集]アラビア語資料における、バハラーム4世に対しての評価は賛否両論あるが、概ね好意的に描かれている[28]。タバリーはバハラーム4世の統治に対して、「立派な方法で臣民を統治し、その統治は賞賛された」と記述している[8]。9世紀の学者イブン・クタイバはバハラーム4世の「正義と善政の追求」に言及している。対してハムザ・アル=イスファハニは「尊大だが、残酷で臣民を無視した統治者」と評価している[29]。12世紀の歴史家イブン・アル=バルヒーも、「決してマザリム(=裁判所)を置かなかった自己中心的な王」と否定的に評価している[30]。
硬貨
[編集]バハラーム4世の硬貨では、翼の装飾がついた王冠を被った姿で描かれており、ウルスラグナ(バハラーム)をモチーフとしている。飾り翼はゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダーの象徴である城壁冠に取り付けられている[31]。 バハラーム4世は、サーサーン朝において初めて王冠に2人の神の要素を組み合わせた。このような複数の神の象徴を組み合わせた王冠は、以降の歴代皇帝にも引き継がれた[32]。また、硬貨にその鋳造した場所を刻むことが一般的になったのもバハラーム4世の統治下であった[33]。鋳造場所を明記することで、硬貨の起源をより簡単に識別できるようになった。特に東部の州アバルシャフルでは、サーサーン朝統治下で鋳造された硬貨のうちバハラーム4世時代のものが19パーセントを占めていて、統治者別にみると最大の割合を誇るである[34]。アバルシャフルで大量に生産された硬貨は、主に同地に駐留する大規模な軍隊を維持するための資金として使われた[35]。
シャープール2世、アルダシール2世、シャープール3世のように、バハラーム4世もインドのシンド(おそらくヒンド州に相当)でシンド独特の金貨を鋳造している[36]。バハラーム4世の治世下では、フージスタン州のジュンディーシャープールやスーサ等の都市に貨幣鋳造所が設立された[37]。また、北西部のアードゥルパーダガーン州でも貨幣鋳造所が設立された。そこで鋳造された貨幣は、たびたびフン族が侵入してくるコーカサス地方の国境に、侵入の対策としてカスピ海の門を建設する費用に投じられた[21][35]。
印章
[編集]キルマーンシャー(ケルマーンシャー)としてのバハラーム4世の印章が現存している。中期ペルシア語で書かれた銘刻は「マズダ(アフラ・マズダ)を崇拝する王にしてイラン人と非イラン人の諸王の王、王たちの後継者、シャープール。その息子のワフラーン(=バハラーム)・ケルマーンシャー」と記されている[6]。また、シャーハンシャーとしてのバハラーム4世の印章も発見されている。大英博物館に所蔵されているこの印章(右図)には、特徴的な王冠を被り、槍を持って、敵の死体を踏み付けてるバハラーム4世が描かれている[6][38]。この倒れた敵は、アルダシール2世が造影したレリーフに描かれた人物と似ている。そのレリーフに描かれた人物は、363年にサーサーン朝との戦いの最中、暗殺されたローマ帝国の皇帝ユリアヌスとされている[38][39][40]。よって、バハラーム4世の印章に描かれている人物もユリアヌスであり、バハラーム4世もユリアヌスの敗北に関与したことを示唆することで、自身の正当性と強さを主張していると推論されている[38][40]。
脚注
[編集]注釈
[編集]引用
[編集]- ^ Yücel 2017, pp. 332–333.
- ^ Iranica: Bahrām.
- ^ Wiesehöfer 2018, pp. 193–194.
- ^ Rapp 2014, p. 203.
- ^ Martindale, Jones & Morris 1971, p. 945.
- ^ a b c d Klíma 1988, pp. 514–522.
- ^ a b c 青木 2020 p,186,187
- ^ a b c Bosworth 1999, p. 69.
- ^ Christensen 1993, p. 182.
- ^ Brunner 1983, p. 772.
- ^ Brunner 1983, pp. 771–772.
- ^ Badiyi 2020, p. 213.
- ^ Brunner 1983, p. 767.
- ^ 青木 2020 p,185
- ^ Kia 2016, p. 236.
- ^ Kia 2016, p. 278.
- ^ a b c d Chaumont 1986, pp. 418–438.
- ^ a b c Hovannisian 1997, p. 92.
- ^ Lenski 2002, p. 185.
- ^ Greatrex & Lieu 2002, p. 17.
- ^ a b Bonner 2020, p. 95.
- ^ Bonner 2020, p. 102 (see note 37).
- ^ Daryaee 2014, p. 157 (see note 106).
- ^ McDonough 2013, p. 604 (see note 3).
- ^ a b McDonough 2013, p. 604.
- ^ McDonough 2013, p. 604 (see also note 3).
- ^ Shahbazi 2005.
- ^ Frye 1983, p. 143.
- ^ Bosworth 1999, p. 69 (see note 186).
- ^ Pourshariati 2008, p. 58.
- ^ Schindel 2013, p. 830.
- ^ Schindel 2013, pp. 830–831.
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- ^ Howard-Johnston 2014, pp. 164–165.
- ^ a b Howard-Johnston 2014, p. 164.
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バハラーム4世
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先代 シャープール3世 |
イランと非イランの諸王の王 388年〜399年 |
次代 ヤズデギルド1世 |