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サンボー・プレイ・クック遺跡群の報告は、1894年<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、211頁</ref>、カンボジアの[[フランス植民地帝国|フランス植民地]]([[フランス保護領カンボジア]])官僚{{仮リンク|アデマール・ルクレール|fr|Adhémard Leclère|label=A・ルクレール}}<ref>{{Cite journal |和書 |author=傘谷祐之 |date=2019-12 |title=植民地期カンボジアにおける法典編纂 ⑴ |journal=ICD NEWS |issue=81 |pages=29-39 |publisher=[[法務省]][[法務総合研究所]]国際協力部 |issn=13473662 |url=https://www.moj.go.jp/content/001311758.pdf |format=PDF |accessdate=2022-12-11}}</ref>による北・中央寺院群の祠堂に関するものが初見であり、後に{{仮リンク|エティエンヌ・エイモニエ|fr|Étienne Aymonier|label=E・エイモニエ}}がその概要を記している。1900年には、{{仮リンク|エティエンヌ・リュネ・ド・ラジョンキエール|fr|Étienne Lunet de Lajonquière|label=ラジョンキエール}}が北寺院群や周辺を調査して祠堂16基を報告した。1904年、G・モーラン (George Morand) が新たな調査を行なった<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、211-212頁</ref>。 |
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サンボー・プレイ・クックの考古遺跡を「プレ・アンコール期美術」の重要遺跡群に位置づけたのは、{{仮リンク|アンリ・パルマンティエ|fr|Henri Parmentier|label=H・パルマンティエ}}であった。パルマンティエは1911年・1925年に大規模調査を実施し、1911年、南寺院群(プラサット・イェイ・ポアン)を7世紀初頭のものとする碑文が発見された。さらに1925年の調査では新たな祠堂を発見した。そしてパルマンティエは、1927年の著作『原初 (Primirif) クメール建築』 (“''L'art Khmér Primitif''”) に、72基の祠堂を整理・収録した<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、212・218頁</ref>。また、1927年に{{仮リンク|ヴィクトール・ゴルベウ|fr|Victor Goloubew|label=V・ゴルベウ}}(ゴルベフ〈Goloubev〉)により南寺院群が発掘調査され<ref>[[#Ishizawa&Miwa|石澤 (2014)]]、110頁</ref>、扉枠の碑文を含む遺構や[[陶磁器]]などの遺物のほか、アンコール期の[[ガルダ|ガルーダ]]に跨がる男像や[[テラコッタ]]で作られた[[ガネーシャ]]など新たな発見が加えられた<ref name=Shimoda&Nakagawa2008_1365 />。1953年の[[カンボジア王国 ( |
サンボー・プレイ・クックの考古遺跡を「プレ・アンコール期美術」の重要遺跡群に位置づけたのは、{{仮リンク|アンリ・パルマンティエ|fr|Henri Parmentier|label=H・パルマンティエ}}であった。パルマンティエは1911年・1925年に大規模調査を実施し、1911年、南寺院群(プラサット・イェイ・ポアン)を7世紀初頭のものとする碑文が発見された。さらに1925年の調査では新たな祠堂を発見した。そしてパルマンティエは、1927年の著作『原初 (Primirif) クメール建築』 (“''L'art Khmér Primitif''”) に、72基の祠堂を整理・収録した<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、212・218頁</ref>。また、1927年に{{仮リンク|ヴィクトール・ゴルベウ|fr|Victor Goloubew|label=V・ゴルベウ}}(ゴルベフ〈Goloubev〉)により南寺院群が発掘調査され<ref>[[#Ishizawa&Miwa|石澤 (2014)]]、110頁</ref>、扉枠の碑文を含む遺構や[[陶磁器]]などの遺物のほか、アンコール期の[[ガルダ|ガルーダ]]に跨がる男像や[[テラコッタ]]で作られた[[ガネーシャ]]など新たな発見が加えられた<ref name=Shimoda&Nakagawa2008_1365 />。1953年の[[カンボジア王国 (1954年-1970年)|カンボジア王国]]独立の後<ref name=MOFA>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cambodia/kankei.html |title=カンボジア王国: カンボジア情勢と日・カンボジア関係 |date=2016-06-03 |publisher=[[外務省]] |accessdate=2022-12-11}}</ref>、1961年1-2月に{{仮リンク|ベルナール・フィリップ・グロリエ|fr|Bernard-Philippe Groslier|label=B・P・グロリエ}}による調査が行なわれ、8世紀後半(推定)から14世紀後半に至る中国産の陶磁器が発掘された<ref name=Shimoda&Nakagawa2008_1365 />。また、美術・建築様式の研究が、M・ベニシィティ (Mireille Bénisti<ref>{{Cite web |url=https://angkordatabase.asia/authors/mireille-b%C3%A9nisti |title=Mireille Bénisti |website=Angkor Database |accessdate=2022-12-11}}</ref>) 、{{仮リンク|ジャック・デュマルセイ|fr|Jacques Dumarçay|label=J・デュマルセイ}}によりなされている<ref>[[#Ishizawa&Miwa|石澤 (2014)]]、112頁</ref>。 |
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都市地区の発見は、1937年、ゴルベウらが上空から、四方を囲むような堀の痕跡を確認したことに始まる。翌1938年には[[空中写真]]の撮影を実施し、その地区をイーシャナヴァルマン1世の城都と見なしたが、調査には至らなかった。当初、イーシャナヴァルマン1世の年代を示す碑文を解読した{{仮リンク|ルイ・フィノ|fr|Louis Finot (orientaliste)|label=L・フィノ}}は、イーシャーナプラを碑文が発見された寺院地区としたが、碑文を再び精査した[[ジョルジュ・セデス|G・セデス]]は、ゴルベウが比定した地区であったとも考えられるとした<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、212頁</ref>。 |
都市地区の発見は、1937年、ゴルベウらが上空から、四方を囲むような堀の痕跡を確認したことに始まる。翌1938年には[[空中写真]]の撮影を実施し、その地区をイーシャナヴァルマン1世の城都と見なしたが、調査には至らなかった。当初、イーシャナヴァルマン1世の年代を示す碑文を解読した{{仮リンク|ルイ・フィノ|fr|Louis Finot (orientaliste)|label=L・フィノ}}は、イーシャーナプラを碑文が発見された寺院地区としたが、碑文を再び精査した[[ジョルジュ・セデス|G・セデス]]は、ゴルベウが比定した地区であったとも考えられるとした<ref>[[#Shimoda&Nakagawa2006|下田、中川 (2006)]]、212頁</ref>。 |
2023年2月12日 (日) 12:10時点における版
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サンボー・プレイ・クック遺跡群の概略図 中央: 寺院地区(左〈西〉: 都市地区) | |||
英名 | Temple Zone of Sambor Prei Kuk, Archaeological Site of Ancient Ishanapura | ||
仏名 | Zone des temples de Sambor Prei Kuk, site archéologique de l'ancienne Ishanapura[1] | ||
面積 |
寺院地区 840.03ヘクタール (8.4 km2) 緩衝地帯 2,523.6ヘクタール (25.2 km2) | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (2), (3), (6) | ||
登録年 | 2017年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
サンボー・プレイ・クック (Sambor Prei Kuk[注 1]、クメール語: សំបូរព្រៃគុហ៍〈Saṃbór Prey Kŭk[6]〉) は、カンボジアの中部、コンポントム州プラサット・サンボー郡[7]の都市コンポントム (Kampong Thom) の北 25キロメートル (16 mi) [8]から 30キロメートル (19 mi)[9][10]、アンコール遺跡群の東南およそ 140キロメートル (87 mi) に位置し[11][12]、シュムリアップからの経路 180キロメートル (110 mi) にある考古遺跡群である[13]。
サンボー・プレイ・クックの遺跡群は、プレ(前[14]・先[15])アンコール期(7世紀初頭-9世紀[16])の真臘(しんろう〈チェンラ、Chen-la[17]〉、6世紀中頃-9世紀初頭[18])にさかのぼり[19]、王イーシャーナヴァルマン1世[注 2](伊奢那先代[23]、在位616-635年[24]頃[25][26][注 3])により構築されたイーシャーナプラ[注 4](伊奢那城[注 5][23][34]、伊賞那補羅国[注 6][35][36])として知られる王都となる城市(プラ[37]、pura〈都市〉[38])とされる[9]。2017年、このサンボー・プレイ・クック遺跡群の一部[39]「寺院地区」が[40]、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産(文化遺産)に登録された[41][42]。
地理
クメール語で「豊かな森の寺院」の意であるサンボー・プレイ・クックは[43][44]、標高約 20メートル (66 ft) にあり[45]、トンレサップ湖の東岸部に流入するセン川(サエン川〈ストゥン・サエン[46]、Steung Saen〉)中流域の氾濫原に近い西岸のやや高い沖積平野に位置する。サンボー・プレイ・クックの中心部分は、南北軸に流れるオー・クル・ケー (O Krou Ke) という小河川によって寺院地区と都市(都城)地区に分割される[47][48]。
真臘の王イーシャナヴァルマンの都として造営されたイーシャーナプラ (Isanapura) は、「シヴァ神(イーシャーナ)の都」の意であり[49]、サンボー・プレイ・クックの寺院群の遺構は、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げらたものであった[25][50]。100以上の寺院など[44]170の構造物の遺構が残存し[50]、周囲のマウンドの数を含めると200の部分におよぶ[51]。
寺院地区
寺院地区 840ヘクタール (8.4 km2) が世界遺産に指定されており[44]、主要な複合寺院群として、北(N〈英: North, Northern〉、プラサット・サンボー)寺院群、中央(C〈英: Central〉、プラサット・タオ)寺院群、南(S〈英: South, Southern〉、プラサット・イェイ・ポアン)寺院群の3つに分かれる。北・中央・南の主要寺院群は、それぞれ周壁に囲まれた方形の配置となる[19]。そのほかにも複数の小規模な複合寺院・祠堂群がある[19][52]。
特徴的な遺構として、多数の正方形ないし長方形の祠堂(プラサット[55]、プラサート[56])や八角形の塔堂[57]、ヒンドゥー教の神シヴァを象徴するリンガを安置したヨニ台座、ライオン(シンハ)像[58]、それに周壁のほか池の痕跡も認められる[59]。また、構造物に見られる7世紀前半の独特な意匠として「空飛ぶ宮殿」(英: ‘Flying palace’)と呼ばれる浮き彫りの装飾が知られる[60]。
考古学的地区における構造物は、それぞれ相異なる時代に建設されている。北 (N) と南 (S) の寺院群は、7世紀前後に構築されたもので[61]、碑文や建築様式(サンボー・プレイ・クック様式)などにより、祠堂の大部分は、城市イーシャーナプラを造営したイーシャーナヴァルマン1世の治世にあたる7世紀初頭の創建とされる[62]。中央 (C) 寺院群は、8世紀後半から9世紀前半に築かれたもので[61]、建築様式(コンポン・プレア〈Kompong Preah〉様式)から、一般に、アンコールのクメール王朝を興したジャヤーヴァルマン2世(在位802-834[63]/850年[64][65])の治世のうちに構築されたといわれる[66]。ただし、その後の構造物の資材(煉瓦)の分析により、これら寺院群の遺構は、時代を経ながら複雑な増改築が施工されたことが認められる[67]。
サンボー・プレイ・クックの複合構造物の建築資材は主に煉瓦であるが[33]、装飾の資材のほか[44]、箱形の[68]古い祠堂 N17(アスラム・モハルセイ[69]、Ashram Maha Rosei〈Ashram[70]〉)には、砂岩が使用されている[71]。また、ラテライトによる構造物の痕跡も認められる[72]。
主要遺跡群の北方にあるスレイ・クルップ・リアク (Srei Krup Leak[24]) 寺院群は、隣接するローバン・ロミアス (Robang Romeas[24]) 寺院群とともに、大部分が10-11世紀のアンコール初期の時代のものと捉えられるが、古い装飾様式を呈するスレイ・クルップ・リアクの祠堂 L5 (L5M) からは[73]、初代の真臘王とされるバヴァヴァルマン1世(在位550-600年[24])[74]の治世にあたる598年を記すサンボー・プレイ・クック最古の碑文も発見されている[73][75]。
- 北 (N) 寺院群
- プラサット・サンボー (Prasat Sambor[76]) 群。
- 主要な3寺院群のうち最大の規模であり、3重の周壁が認められる。その外周壁は一辺 389メートル (1,276 ft)[44]のほぼ正方形となるが、様相や配置の変異から、中・内周壁より後の時代に拡張されたとも考えられる。また、5つの碑文が発見されており、そのうち3つの碑文はイーシャーナヴァルマン1世の7世紀初頭のものと捉えられ、残る2つの碑文は10世紀のものとされる。加えてプラサット・サンボー寺院群より発見された神像の様式もまた7世紀および10世紀のものとされている[77]。
- * ハリハラ (Harihara) 像
- N10 祠堂[78]。サンボー様式(プレ・アンコール期、7世紀前半)。N10 ほかより50余りの小片として発見。プノンペン国立博物館に収蔵[75][79]。N10 祠堂内にレプリカ安置[80]。
- * ドゥルガー (Durgā) 像
- N9 祠堂(推定〈不明〉)。サンボー様式[81](プレ・アンコール期)。N1・N9 付近より3つの断片として発見[82]。プノンペン国立博物館収蔵[83][84]。N9 祠堂内にレプリカ安置[85]。
- * ブラフマー (Brahmā) 像
- N22 祠堂。発見された N22 のリンテルの様式はプレイ・クメン様式(アンコール期)であるが、彫像はサンボー様式(プレ・アンコール期)[86]。プノンペン国立博物館収蔵[87]。N22 祠堂内にレプリカ安置[88]。
- * ヴァージムカ (Vajimukha〈ハヤグリーヴァ[89][90]〉) 像
- N7 祠堂。八角形の N7 祠堂はプレ・アンコール期の建築であるが、彫像は後のプレ・ループ様式(アンコール期、10世紀)[91]。ギメ東洋美術館(フランス、パリ)収蔵[92]。
-
八角形の祠堂 N7
- 中央 (C) 寺院群
- プラサット・タオ (Prasat Tao〈プラサット・ボラム、Prasat Boram[58]〉) 群。
- タオ (Tao) は「ライオン」の意で、獅子(シンハ)の彫像が寺院の入口を守護する[97]。2重の周壁があり、外周壁は東西 283メートル (928 ft) 、南北 274メートル (899 ft) となるが、高さ 22メートル (72 ft) におよぶ主祠堂 C1 以外は、ほとんど失われている。残存する主祠堂 C1 のまぐさ(リンテル)などの扉口の建築装飾は、プレ・アンコール後期のコンポン・プレア様式とされる[98]。
-
プラサット・タオ主祠堂 C1
-
主祠堂 C1 北面の扉口の装飾
(コンポン・プレア様式)[99]
- 南 (S) 寺院群
- プラサット・イェイ・ポアン (Prasat Yeai Poeun[100][101]〈Yeah Puon[102]、Yeay Peau[103]〉) 群。
- 2重の周壁に囲まれ、外周壁は東西 258メートル (846 ft) 、南北 244メートル (801 ft)[104]。高さ 22.5メートル (74 ft) の主祠堂 S1 のほか[102]、八角形の祠堂 (S7-[105]S11[69]) などが残存し、その外壁には「空飛ぶ宮殿」の浮き彫り装飾がある[106]。プラサット・イェイ・ポアンからは、627年のリンガ奉納を記す碑文のほか[102]、イーシャーナヴァルマン1世の治世年代の碑文が発見されている[77]。
-
プラサット・イェイ・ポアン
主祠堂 S1[107] -
八角形の祠堂 S11
「空飛ぶ宮殿」の浮き彫り
都市地区
西側の都市地区は、堀[108]と土塁により囲まれ、一辺およそ 2キロメートル (1.2 mi) のほぼ方形である[19]。残存する堀は深さ約 1.5メートル (4.9 ft) 、幅約 20メートル (66 ft) で、内側の低い土塁の高さは 1メートル (3.3 ft) 、基底部の幅は約 40メートル (130 ft) となる。土塁は、堀の掘削による排土を盛ったもので[109]、オー・クル・ケー川を利用した東側に土塁はない[48]。地下層には、プレ・アンコール期の文化層があると考えられるが、今日、地区内には居住地としてオー・クル・ケー(オー・クル・カエ[110])という村落が形成されている[111]。
歴史
真臘(チェンラ)は、6世紀後半のバヴァヴァルマン1世に始まり、その王都は、一説に、サンボー・プレイ・クックないしその周辺付近であったともされる[112][113]。次いで弟[114](従兄弟[115])のマヘーンドラヴァルマン(チトラセーナ[115]〈Citrasena[116], Sitrasena[26]〉、質多斯那[23]、在位600-616年頃[26]〈600-611年頃[117]〉)の後、その息子イーシャーナヴァルマン1世は、イーシャーナプラを王都として、30におよぶ地域を[118]衛星都市のように領有し[119]、およそ616年から635年にかけて真臘を統治した[25][26]。イーシャーナヴァルマンは、真臘王として初めて中国の隋(581-618年)に向けて、616年(617年〈大業13年〉[120])、使節を派遣したことでも知られる[23][121]。『隋書』によれば、イーシャーナヴァルマン(伊奢那先代)の居城イーシャーナプラ(伊奢那城)の都城内には2万余りの家があり、城内に大殿堂があって、ここで王は政治を執り、大城の総数は30におよび、数千の家があった。各部落には総帥がいて、官名は林邑(りんゆう〈チャンパ、Champa[122]〉)と同様であったとされる[123]。
居伊奢那城、郭下二萬餘家。城中有一大堂、是王聽政之所。總大城三十、城有數千家、各有部帥、官名與林邑同。—『隋書』[124]巻八十二
調査・研究
サンボー・プレイ・クック遺跡群の報告は、1894年[125]、カンボジアのフランス植民地(フランス保護領カンボジア)官僚A・ルクレール[126]による北・中央寺院群の祠堂に関するものが初見であり、後にE・エイモニエがその概要を記している。1900年には、ラジョンキエールが北寺院群や周辺を調査して祠堂16基を報告した。1904年、G・モーラン (George Morand) が新たな調査を行なった[127]。
サンボー・プレイ・クックの考古遺跡を「プレ・アンコール期美術」の重要遺跡群に位置づけたのは、H・パルマンティエであった。パルマンティエは1911年・1925年に大規模調査を実施し、1911年、南寺院群(プラサット・イェイ・ポアン)を7世紀初頭のものとする碑文が発見された。さらに1925年の調査では新たな祠堂を発見した。そしてパルマンティエは、1927年の著作『原初 (Primirif) クメール建築』 (“L'art Khmér Primitif”) に、72基の祠堂を整理・収録した[128]。また、1927年にV・ゴルベウ(ゴルベフ〈Goloubev〉)により南寺院群が発掘調査され[129]、扉枠の碑文を含む遺構や陶磁器などの遺物のほか、アンコール期のガルーダに跨がる男像やテラコッタで作られたガネーシャなど新たな発見が加えられた[86]。1953年のカンボジア王国独立の後[130]、1961年1-2月にB・P・グロリエによる調査が行なわれ、8世紀後半(推定)から14世紀後半に至る中国産の陶磁器が発掘された[86]。また、美術・建築様式の研究が、M・ベニシィティ (Mireille Bénisti[131]) 、J・デュマルセイによりなされている[132]。
都市地区の発見は、1937年、ゴルベウらが上空から、四方を囲むような堀の痕跡を確認したことに始まる。翌1938年には空中写真の撮影を実施し、その地区をイーシャナヴァルマン1世の城都と見なしたが、調査には至らなかった。当初、イーシャナヴァルマン1世の年代を示す碑文を解読したL・フィノは、イーシャーナプラを碑文が発見された寺院地区としたが、碑文を再び精査したG・セデスは、ゴルベウが比定した地区であったとも考えられるとした[133]。
保存・修復
1970年カンボジアクーデターに続くカンボジア内戦における20数年間の混乱により、遺跡群は放置されたまま崩壊の危機に瀕していたが[134]、1993年の新生カンボジア王国発足後[130]、1998年より[135]カンボジア文化芸術省と日本の団体らが共同でサンボー・プレイ・クック遺跡群の調査を開始し、2001年に保全事業が始められ、2008年より遺構の修復作業に着手した[39]。
サンボー・プレイ・クック寺院群は、2017年7月8日、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された[136][137]。そしてカンボジアによるサンボー・プレイ・クック国立機構(英: Sambor Prei Kuk National Authority〈SPKNA[138], SNA〉)の管理が開始されるとともに[40]、日本など国内外の機関・団体と連携して一帯の保存・修復が図られている[139]。
脚注
注釈
- ^ 日本語表記として、ソムボー・プレイ・コック、サムボール(サンボール[2][3]、ソンボール[4])・プレイ・クックなどとも記される[5]。
- ^ Isanavarman (Īçānavarman[20], Īśānavarman[21]〈Īśanavarman[22]〉) I 。
- ^ イーシャーナヴァルマン1世の統治年代は、611-628/635年[27]、615/616-628年[28]、616-637年頃[29]など諸説ある。
- ^ Isanapura (Īçānapura[30][31], Īśānapura[7][32]) 。
- ^ 『隋書』巻八十二 列伝四十七 南蛮 真臘(7世紀前半[33])。
- ^ 玄奘『大唐西域記』巻第十 十七国(646年)。
- ^ 北 (N) 寺院群の2重の周壁の外陣に、第3の外周壁が確認されている[31][44]。
出典
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