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「黄金の三角地帯」の版間の差分

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このようにミャンマーのケシ農家が栽培した330米ドル相当の生アヘンが、オーストラリアやアメリカでは途方もない額で売られているということで、麻薬取引で本当に儲けているのは、ケシ農家でもなく、時に「麻薬王」とも言われる「商人」でも「KKY」でも「少数民族武装勢力・国民党」でもなく、西側諸国の輸入業者、小売業者だった{{Sfn|Bertil Lintner|2021|pp=146-147}}。
このようにミャンマーのケシ農家が栽培した330米ドル相当の生アヘンが、オーストラリアやアメリカでは途方もない額で売られているということで、麻薬取引で本当に儲けているのは、ケシ農家でもなく、時に「麻薬王」とも言われる「商人」でも「KKY」でも「少数民族武装勢力・国民党」でもなく、西側諸国の輸入業者、小売業者だった{{Sfn|Bertil Lintner|2021|pp=146-147}}。

=== 麻薬戦争と「麻薬王」 ===
{{Main|麻薬戦争}}
[[ファイル:Richard_Nixon_presidential_portrait_(1).jpg|サムネイル|200x200ピクセル|リチャード・ニクソン]]
既述のとおり、アメリカでは退役軍人や当時のヒッピー文化の流行により、麻薬問題が深刻化しており、当時の[[リチャード・ニクソン]]米大統領は、1971年6月17日、「麻薬戦争」を宣言して麻薬と全面対決することを誓い、1973年5月28日、[[麻薬取締局]](DEA)を設置した。

しかし少なくともミャンマーにおいては、アメリカの麻薬政策は、「麻薬王(キングピン)理論」という、特定の「麻薬王」が麻薬生産・取引全体を一手に牛耳っているという誤った認識に基づくものだった。実際にはそれは、既に見たようにさまざざまな利害関係者による緩やかなネットワークにより成り立つものであり、ジャーナリストのコー・リン・チンとシェルドン・チャンは、そのネットワークを「水平構造で流動的で日和見主義的である」と表現し、非公式には「現場のアメリカの麻薬取締官でさえ、麻薬王は存在しない、あるいは少なくとも中国や東南アジアには麻薬王はいないと認めている」と述べている{{Sfn|Bertil Lintner|2021|pp=146-147}}。

しかし「麻薬王理論」は耳目を集めやすく、最初の標的になったのはロー・シンハンで、1972年、彼はアメリカ政府の麻薬問題顧問から「東南アジアのヘロイン密売の首謀者..国際的な盗賊」と名指しで批判された。しかし、ローはアヘンを輸送していただけで、ヘロインの精製も販売もしていなかった。しかもローは[[ラーショー]]に拠点を置いており、アヘン、翡翠その他の禁制品を、黄金の三角地帯の拠点・タチレクまで運ぶ隊商を年に3、4回しか組織できなかったが、他に10回くらい組織する人物はざらにいた{{Sfn|Bertil Lintner|1999|p=405}}。次に標的となったのはクン・サで、1987年1月、タイ当局はクン・サの首に5万バーツ(当時2000米ドル)の賞金をかけ、1ヶ月後に50万バーツに引き上げたが、何も起こらなかった{{Sfn|Bertil Lintner|1999|loc=468}}。1973年のロー・シンハン逮捕をきっかけに開始されたミャンマー「麻薬撲滅キャンペーン」をアメリカも支援し、1974年6月29日に両国は麻薬問題の協定に署名、「麻薬王掃討」のために[[UH-1 (航空機)|UH-1]]ベル205ヘリコプター6機と480万米ドルの資金を提供した。しかし、そのヘリコプターは麻薬に関与していない[[カレン民族同盟]](KNU)の掃討作戦に使用され、アメリカ議会でも問題視された。1983年からは国連薬物乱用統制基金(UNFDAC)<ref group="注釈">1991年に廃止。現在、その業務は[[国連薬物犯罪事務所]](UNDOC)に引き継がれている。</ref>によるアヘンの代替作物の栽培も行われ、500万米ドルの費用が費やされたが、その[[五カ年計画|5か年計画]]に国連職員は管理面でしか関与できず、実際にケシ栽培されている場所では実施されなかったので計画は失敗に終わり、1983年に350トンだったミャンマーのアヘン生産量は5か年計画が終了した1988年には1,280 トンまで増加していた{{Sfn|Bertil Lintner|1999|pp=459-461}}。
[[ファイル:Bhumibol_Adulyadej_2010-9-29_2_cropped.jpg|サムネイル|198x198ピクセル|ラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート)]]
一方、タイではこの代替作物の栽培は成果を上げた。この取り組みが導入される前のタイの年間アヘン生産量は50~100トンだったが、コーヒー、インゲン豆、ジャガイモ、キャベツ、ハッカ、[[マジョラム]]、イチゴ、ランを新しい換金作物として導入したことにより、10年足らずで年間アヘン生産量は約20トンまで減少し、1999年にはケシ栽培面積は1,000 ヘクタールを下回った{{Sfn|Bertil Lintner|2000|p=13}}。

その理由は、ミャンマーと比べて近代的なインフラ、洗練されたマーケティング、海外からの巨額援助、政治的安定などがあったが、なんといっても当時の国王・[[ラーマ9世|ラーマ9世]](プーミポン・アドゥンヤデート)のリーダーシップがあった。彼はケシ栽培をする農民が生活をケシに全面的に依存していることをよく認識しており、代替作物が換金可能になるまでケシ栽培を禁止しないという方針を貫き、根気よく代替作物への転換を進めていった。

タイへ代替作物の栽培の様子を見学しにいったミャンマーアヘン農家フォーラム(Myanmar Opium Farmers' Forum:MOFF)のメンバーの1人は、次のように語っている。<blockquote>タイの兵士や警察が村人を扱う様子を見て、本当に涙があふれました。彼らは村人を同じ市民、親戚のように扱っていました。村人を脅すことはなく、食料を持ってきて村人と分かち合うことさえありました。私たちの村に来てアヘン畑を破壊したミャンマーの警察とはまったく違いました。彼らを警察署から村に連れて行くために、私たちは四輪駆動車をレンタルしなければならず、食べ物とビールでもてなさなければなりませんでした。彼らはまた、私たちに賄賂を要求し、支払わなければ村のアヘン畑をすべて破壊すると脅迫しました{{Sfn|TNI|2021|pp=62-62}}。</blockquote>しかし、そのタイも、黄金の三角地帯の一角をなす「タイの警察・軍隊」「中国系シンジケート」には、その政治的影響力・資金力の大きさから手を出せず、その整備されたインフラと銀行システムによりバンコクは、黄金の三角地帯における国際麻薬市場への中継基点として、現在でも重要な役割を果たしている{{Sfn|Bertil Lintner|2000|p=13}}。


== ミャンマー ==
== ミャンマー ==
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[[2002年]]、ケシ栽培禁止令が出て、サトウキビ畑などへの転換が大きく進んだ。しかし[[国連薬物犯罪事務所]]の調査によれば、その後代替作物の価格下落とアヘンの価格上昇が重なり、2007年ごろから麻薬製造が再び活発化しているという<ref>[http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200902041707363 東南アジアのケシ栽培増加の兆し 国連が警告]</ref>。
[[2002年]]、ケシ栽培禁止令が出て、サトウキビ畑などへの転換が大きく進んだ。しかし[[国連薬物犯罪事務所]]の調査によれば、その後代替作物の価格下落とアヘンの価格上昇が重なり、2007年ごろから麻薬製造が再び活発化しているという<ref>[http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200902041707363 東南アジアのケシ栽培増加の兆し 国連が警告]</ref>。

== タイ王国 ==
[[タイ王国]]では麻薬の取締が厳しく、ミャンマー・ラオス両国に対してケシ畑の撲滅を求めているが、両国では貧しい農家にとっての大きな収入源となっていることから、依然として違法なケシ栽培が後を絶たない。その一方、各国政府及び国連機関はケシに代わる換金作物として、茶やコーヒーの栽培を奨励し、高価な品種の烏龍茶の栽培で成功している地域がある([[ドイトンコーヒー]]など)。
取締強化や経済成長によって、タイ北部では麻薬生産はほぼ消滅したといわれる。

最近では治安もよくなり、観光客も立ち入れるようになっている。


==解決支援==
==解決支援==

2024年12月18日 (水) 04:01時点における版

黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)の位置
世界の麻薬密造地帯。三角:本項。三日月:黄金の三日月地帯

黄金の三角地帯(おうごんのさんかくちたい、タイ語: สามเหลี่ยมทองคำ)とは、東南アジアタイミャンマーラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、ミャンマー東部シャン州に属する。世界最大の麻薬密造地帯であった。別名ゴールデン・トライアングル英語: Golden Triangle)と呼ばれ、アフガニスタンパキスタンイラン国境付近の「黄金の三日月地帯」と並ぶ密造地帯である。現在では経済成長や取締強化により、タイやラオスでの生産は減少傾向にあるが、逆にミャンマーのシャン州ではいくつかの軍閥が麻薬生産のみならず覚醒剤の製造も行い、さらには合法ビジネスを行うなど、二極化の傾向にある。

名称

「黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)」の名称が生まれたのは、ごく最近のことである。

1971年7月24日に発売されたファー・イースタン・エコノミック・レビュー英語版で、TD・オールマン英語版というアメリカの作家、歴史家、ジャーナリストが、当時の米国国務次官補マーシャル・グリーンの言葉を引用した。冷戦時代、アメリカは東南アジアのヘロイン・ブームを中国のせいにしていたが、グリーンはこれを否定して、「ミャンマー北東部からタイ北部、ラオス北西部に広がる『ゴールデン・トライアングル』で栽培されていると語った。当時、アメリカは中国との関係改善を目論んでおり、同月、リチャード・ニクソンの訪中が発表された。この地域では、アヘンが取引される際、純金の延べ棒と交換されることがあったので、「ゴールデン・トライアングル」という名称は、人々にまさにそのアヘン取引を想起させてすぐに広まり、中国語の「金三角」とタイ語の「Samliam Thongkham」も同様に広まった[1]

前史

アヘン戦争

アヘン戦争

中国では10世紀頃からアヘンが医薬品として使用されていたが、やがて嗜好品として嗜まれるようになり、喫煙の習慣も始まった[2]。黄金の三角地帯にアヘンが伝わったのは意外に遅く、18世紀半ばと言われており、当時既にケシ栽培が一般的だった雲南省からミャンマーのシャン州、特に現在の地域とコーカン地域[注釈 1]で、換金作物として広まった[3]。この地域は両国の重要な貿易ルート上にあり、その交易は当時雲南省に住んでいたムスリムパンゼー族が担っていた[注釈 2]。1837年にはカチン州を訪れた西洋人宣教師が同地でケシ栽培が行われているのを観測している。これらの地域ではアヘンは貨幣の代替品、もしくは医薬品としても使用されていたが、いずれにしろ極小規模だった[3]

この状況が激変したのは、19世紀半ば、中国との茶貿易で、イギリスが輸出品を銀からインド産のアヘンに切り替えた時だった[注釈 3]。これにより中国には大量のアヘンが流入し、逆にその対価として銀が流出するようになり、何百万人もの人々がアヘン中毒になった。そして1840年~1842年と1856年~1860年のニ度にわたるアヘン戦争で、中国がイギリスに敗れると、ますます中国に流入するアヘンの量は増加していき[4]、1860年代には中国の雲南省や四川省でも大規模にケシ栽培が行われるようになって、1880年以降、輸入アヘンの量は減少し、1905年までに1880年の約半分になった。20世紀初頭までに、中国の年間アヘン生産量は2万2,000トン、消費量は年間3万9千トン、中毒者は1,350 万人に達した[5]

植民地カルテルの時代

このように19世紀から20世紀初頭にかけて中国が政情不安定に陥ったことにより、中国南部に住んでいたモン族ヤオ族ラフ族リス族アカ族などの山岳少数民族が南方への移住し、19世紀後半には、ビルマ北東部、タイ北部の丘陵地帯、フランス領インドシナにまでケシ栽培が広がっていった。ただいずれの地でも現地の人々はあまりアヘンを吸わず、主に同地に移住した中国人がアヘンの消費者だった。[6]

独立を維持していたタイでは、以前よりアヘン密売人に死刑を課すなど厳しい態度で臨んでいたが、1852年、映画『王様と私』のモデルにもなったラーマ4世が、イギリスの圧力に屈してアヘンを合法化し、中国人実業家に専売権を与えた。ただし国内ではケシ栽培はあまり行われず、高級アヘンはインドや中東から輸入し、安物は中国から輸入して販売した。1907年からは政府が直接アヘン取引を管理するようになり、1913年にはインドから147トンのアヘンが輸入され、アヘン窟の数は1880年の1,200軒から1917年には3,000 軒に増加し、アヘン中毒者は1921年までに20万人に達した。当時、アヘン税は政府の税収の15~20%を占めていた[7]

フランス領インドシナ

フランス領インドシナでは、1858年から始まったインドシナ征服の軍事費を調達するために、中国からアヘンを輸入し、中国人実業家に専売権を与え、ハノイフエサイゴンなどで販売していた。1889年にインドシナ連邦が成立すると、植民地政府が直接アヘン取引を管理するようになり、、アフガニスタン、インド、中東から輸入したアヘンを販売した。1900年までに、アヘン税は政府の税収の半分以上を占め、1930年には全国に3,500のアヘン窟があり、アヘンの乱用は社会のあらゆる層に拡がった。

第二次世界対戦が始まると、フランス植民地政府はアヘンを輸入できなくなり、トンキンやラオスの山岳少数民族にケシ栽培を奨励し、中国人仲買人を介して年間約40トンのアヘンを購入した。この取引を通じて中国人仲買人は大金持ちになったが、山岳少数民族の人々は貧しいままだった。

唯一、カンボジアのみ、平坦な国土と暑く湿気の多い気候のせいで、このアヘン禍から逃れ、プノンペンに極小規模なアヘン窟があるのみであった[6]

ミャンマーは、1826年から1885年にかける三度の英緬戦争を経てイギリスの植民地となり、1910年のアヘン令と1938年のアヘン規則に基づき、イギリス植民地政府が独占的にアヘンを管理していた。しかしケシ栽培自体は合法だったものの、実際はワ地域とコーカン地域でしか栽培されておらず、あまり広まっていなかった。戦前の主要なシャン族の人類学的研究には、アヘンに関する記述が1つしかなく、「宗教的なシャン族はアヘンを摂取しないので、公然と薬として使用されることはないが、現地の医師は時々ハーブと混ぜて使用する」と記されているのみで年間アヘン生産量は30トンほどだった[8]

ただ第二次世界大戦で戦場となったミャンマーでは、連合国側に付いて日本と戦ったカチン族兵士に対して、アヘンで給与を支払い、同地では貨幣代わりにアヘンが使用された[9]

第二次世界大戦終結時、ミャンマー、ラオス、タイの黄金の三角地帯における年間アヘン生産量は、約80トンと推定されている[10]

中国国民党の侵入と黄金の三角地帯の誕生

終戦時のアヘン事情

戦前から国際社会では、アヘンの有毒性とアヘン貿易の非倫理性を問題視する機運が生まれており、1912年のハーグ阿片条約、1926年の第一・第二阿片会議条約、1928年の麻薬製造制限条約などでアヘン貿易は大きく規制にされるようになった。1917年にはインドから中国へのアヘンの輸出が全面禁止され[11]、戦後になってからも、1947年にはイラン、1949年には中国で国内のケシ栽培が全面禁止とされた[12]。フランス領インドシナでは、日本軍が撤退した後、1946年に同地に戻ってきたフランスが、政府によるアヘン管理制を廃止したが、秘密裏にラオスでアヘン栽培をしてサイゴンまで運び、ラオスとベトナムの反共民兵の軍資金としていた。しかし、1954年にディエンビエンフーの戦いで敗れると、フランスも東南アジアから去った。

しかし中国と東南アジアにはアヘン中毒者が何百万人もおり、世界中にはアヘンから精製されるヘロインの中毒者が数えきれないほどいた。その彼らの視線が一斉に黄金の三角地帯に向けられた。

中国国民党の侵入

ビルマの戦局図(1953年)。青色部分が国民党軍の勢力圏。

1948年1月に「ビルマ連邦」として独立したミャンマーだが、独立直後からビルマ共産党(CPB)やカレン族の反乱軍などが武装蜂起し、全土で内戦に突入した。1950年1月には、国共内戦に敗れた中国国民党軍の兵士約200人が、国境を越えてシャン州に侵入し、ケントン(現チャイントン)から北に約80㎞の小さな市場町・モンヤン英語版周辺の丘陵地帯に陣取った。その後、部隊はタチレクに進軍したが、そこで国軍の反撃に遭って西へ撤退し、モンサッ英語版という村にたどり着いた。何もない寒村だったが、大戦中に連合国軍が建設した小さな飛行場があり、そこにバンコク台北から飛行機が飛んできて、援助物資や兵器・弾薬を届けた[13]

彼らの目的は、雲南省に再侵入して中国共産党から中国を奪還することだった。折しも東アジアでは1950年6月に朝鮮戦争が始まり、中国が北朝鮮を、アメリカが韓国を支援していた。朝鮮半島と雲南省から中国を挟み撃ちにするという蒋介石のアイデアに、中国との全面衝突は避けたい当時のトルーマン米大統領は反対したが、CIA、大戦中蒋介石を支援していた退役軍人、右派政治家などのチャイナ・ロビー親台派は、密かにシャン州の国民党軍の支援を決定した。モンサッの空港には飛行機でアメリカからの援助物資や兵員が届けられ、1953年末までに国民党軍の兵力は 1万2,000人に達した[注釈 4][注釈 5][14]

黄金の三角地帯誕生

これだけの兵士とその家族を養い、軍資金を調達するためには、当然、援助物資だけでは足りなかった。そこで国民党が目を付けたのがアヘンである。既述のとおり、戦前よりシャン州ではケシ栽培が盛んだったが、終戦後、中国とミャンマーで壊滅的な内戦が始まったことにより、タイ北部の山岳少数民族の人々が、チェンライチェンマイメーホンソンなどに移住してケシ栽培をするようになった[15]。国民党は、以前からコーカン地域の名門一族、オリーブ・ヤンこと楊金秀と手を組んでアヘン取引に手を染めていたが、彼らはこの山岳少数民族の人々にケシの栽培を増やすよう説得して高額のアヘン税を課し、さらに収集したアヘンを泰緬国境にまで輸送する商人のキャラバンの警備費も徴収した[注釈 6]。かくして1950年代半ばまでに黄金三角地帯のアヘン生産量は10~20倍に急増し、年間生産量は300~600トンに達した[16]

国民党第5軍の将軍・段希文中国語版は、1967年にイギリスの新聞のインタビューに応え、次のように述べている。

われわれは共産主義の悪と戦い続けなければならない。戦うには軍隊が必要であり、軍隊には銃が必要であり、銃を買うには金が必要だ。この山岳地帯では、金はアヘンだけだ[17]

パオ・シーヤーノン

CIAなどアメリカのチャイナ・ロビー親台派はこの状態を黙認したが、タイ当局はより積極的に支援した。当時、タイ警察長官だったパオ・シーヤーノン英語版の警察部隊は、泰緬国境に届いたアヘンをCIAから提供されたトラック、飛行機、ボートなどを使ってバンコクまで輸送し、それを厳重に警備した[18][注釈 7]。こうした経済的利益だけではなく、タイ当局にとって国民党は泰緬国境の国境警備隊として機能することも重要だった。

こうしてパオはアヘン取引と、その取引で得た利益を他の事業に投資することにより、莫大な資産を築き上げた。1956年までにパオの警察部隊は約4万8千人の警察官を擁し、バンコクだけで1万人以上もおり、警察独自の空軍と海軍まで擁し、サリット・タナラット将軍の約4万5千人の正規軍を圧倒するまでになった[19]。そして、ついに2人の権力闘争が頂点に達し、1957年9月17日、サリットはクーデターを起こしてパオを追放したのである。

その後、タイの軍政は18年続き、1958年にはアヘン禁止令を出した[20]が、その間も泰緬国境からバンコクまでアヘンは運ばれ続けた。サリットは第二次世界大戦中、大隊長としてシャン州に進攻して終戦まで駐屯した経験があって、同地に人脈があり、それを使ってパオのアヘン利権を引き継いだのだった[21]

結局、国民党は雲南省侵入を7回ほど試みたものの、いずれも失敗して中国奪還という目的を果たせず、その後、勢力を縮小していった。しかし彼らは黄金の三角地帯の構造を永遠に不可逆的に変えてしまったのである。

世界第2位の麻薬生産地へ

ヘロイン製造

1960年代半ばまで黄金の三角地帯ではアヘンが取引されているのみでヘロインの製造は行われていなかった。当初、黄金の三角地帯で採取されたアヘンは、タイの海岸から船に積まれて香港に密輸され、そこでヘロインに精製されていた。しかし、イギリス警察による取り締まりが厳しくなり、精製所をアヘンの産地の黄金の三角地帯に移されなければならなくなった。

黄金の三角地帯最初のヘロイン精製所は、1960年代半ばにラオスのバン・ファイ・サイ(Ban Huay Xai。現フアイサーイ郡 )近くの丘陵地帯に設立された。その後、泰緬国境地帯にもヘロイン精製所が設立され、香港や台湾から熟練した化学者が連れてこられた。同地で精製されたヘロインは「スマック(Smack)」と呼ばれ、タイの貧困層、ギャング、売春婦その他の間で広まり、バンコクから北米、欧州、オーストラリアなどへ輸出されるようになった[22]。ちなみに中国、タイ北部の販売・流通を担ったのは雲南系中国人、バンコク周辺の販売・流通および海外への輸出を担ったのは、潮州系中国人だった[23]

闇経済と麻薬

1962年3月2日、ネ・ウィンは軍事クーデターを決行して、現役の軍人からなる革命評議会英語版が権力を握り、ビルマ社会主義計画党 (BSPP)による一党独裁と、ビルマ式社会主義に基づく国有化を手段とした統制経済を特徴とする体制が出来上がった。

そしてこのネ・ウィンの経済政策が1960年代半ばから後半にかけての麻薬生産の増加の一因となった。ビルマ式社会主義の下、ほぼすべての商工業資本が国有化されたことにより、経済に著しい不効率が生じて深刻なモノ不足が生じ、その穴をインド人、中国人を主とする闇商人・密輸業者が埋めた。彼らはタイ、中国、インド、東パキスタン(バングラデシュ)の国境地帯に赴き、特に泰緬国境での密貿易は盛んで、タイからミャンマーへは消費財、繊維製品、機械類、医薬品、ミャンマーからタイへはチーク材、鉱物、ヒスイ、宝石、そしてアヘンが流れていった。政府としても即座にモノ不足を解消する手立てがなかったので、この密貿易を黙認するしかなかった[24][25]

シャン州軍(SSA)の理論的支柱だったサオ・ソーワイ(サオ・ツァン)は、その様子を以下のように語っている。

彼ら(アヘン密売人)はぼろぼろの農民からアヘンを非常に安く買い、武装したキャラバンで泰緬国境まで運び、ヘロインに精製した。そして、アヘンをもっと手に入れるための帰り道で、タイの商品や日用品を購入し、シャン州で非常に高い値段で売った。こうして、少なくとも年に3回は双方で儲けた。ビルマ式の社会主義は、社会主義を創るどころか、事実上、国家経済をアヘン密売人の手に委ねた[26]

こうして、泰緬国境地帯ではアヘンが唯一の有効な作物となり、交換手段となった。1963年以前はサルウィン川の東側に限られていたアヘンの栽培は、シャン州全域だけでなく、カチン州、カレンニー州チン州にも広がっていった[26]

カクウェーイェ(KKY)と麻薬

クン・サ

1963年、ネ・ウィンはシャン州の武装勢力を弱体化させることを目的として、カクウェーイェ(Ka Kwe Ye: KKY、「防衛」という意味)という制度を導入した。これは反乱軍と戦うことの見返りにシャン州内の政府が管理するすべての道路と町をアヘン輸送のために使用する権利が与えるというもので、麻薬取引でKKYが経済的に自立しつつ、反政府武装勢力と戦うことを政府は期待しており、兵力不足と財政難を解決する一石二鳥の策のはずだった。

KKYの司令官として地元の軍閥、非政治的な山賊や私兵の司令官、亡命した反政府勢力などがリクルートされ、その中にはのちに「麻薬王」として名を馳せるロー・シンハンクン・サがいた。彼らは麻薬生産・密売で巨万の富を築き、タイやラオスのブラックマーケットで高性能兵器を入手した。また同地に駐屯した国軍もアヘン商隊に対する通行税や警備費や賄賂などで巨額の利益を得た。

このようにしてKKY司令官、国軍ともに麻薬取引を拡大させるインセンティブが働き、しかも彼らは反乱軍と戦闘を交えず、交渉で問題解決を図ったので、反乱軍の弱体化という当初の目的は果たせず、また闇市場でアヘンと引き換えに泰緬国境で入手できる消費財、繊維製品、機械類、医薬品などが国内で高額で売れたことで、さらに麻薬取引のインセンティブが高まり、1974年頃には黄金の三角地帯は世界の麻薬生産の3分の1を占めるに至り、アフガニスタンに次ぐ世界第2位の麻薬生産地となった[27][28]。このようにKKY制度は、まったく役立たないことが判明したので、1973年に廃止された[29]

無論、ミャンマーで麻薬生産・取引が盛んになった理由には、闇経済やカクウェーイェ以外にもいくつかある。

まず独立直後から多くの武装勢力が全土で反乱を起こしたことにより、国土が荒廃し、平野部で農業を続けられなくなった農民が、丘陵地帯に逃げ込み、当地で唯一換金性が高いケシ栽培に手を染めることが多く、各武装勢力がアヘンやヘロインを資金源とした。

またミャンマーは1961年に麻薬に関する単一条約を締結していたが、カチン州とシャン州でのアヘン栽培を20年間黙認するという例外規定を設け、1970年代までシャン州のサルウィン川東側など国内の特定の地域では麻薬は合法のままだった。それどころかネ・ウィンは、国連にこれらの地域を合法的なケシ栽培地に指定するように要請し、ミャンマー産アヘンを国際医薬品市場に合法的に輸出しようと試みて、却下されたという経緯があった。その後、国際社会からの強い批判もあり、ネ・ウィンは1974年に違法薬物の栽培、販売、所持、使用を禁じる新しい麻薬・危険薬物法を制定し、アヘン栽培を全面的に禁止したが、時既に遅しだった[注釈 8]

世界の麻薬市場の変化もあった。1970年代から1980年代初頭にかけて、アヘンの主要生産国3カ国のイラン、パキスタン、トルコでケシ栽培が禁止され、俄然、黄金の三角地帯の存在感が増した。さらにベトナム戦争のためにベトナムに駐留し、時に余暇でバンコクにやって来る米軍兵士たちが、気晴らしにヘロインを求めるようになった。1973年のアメリカ政府のデータによれば、ベトナムに駐留する米軍兵士の34%がヘロインを日常的に使用していたとされ、帰国後もその習慣を止めることがなかった[30]

黄金の三角地帯の構造

黄金の三角地帯の登場人物[31]
名前 備考
農民 主にカチン族、ラフ族、ワ族、リス族、パラウン族、アカ族などの山岳少数民族で、コーカンその他の地域から来た貧しい中国人農民もいた。ケシ栽培は重労働だが、僅かな収入しか得られず、その中から自分たちを「庇護」してくれる武装勢力にアヘン税(現物払い)を払い、さらに法律を執行しにきた役人に賄賂を払わねばならなかった。
商人 代理人を使って農民からアヘンを購入し、武装勢力に金銭を支払って警護してもらいながら、その多くがムスリムのパンゼー族からなるラバの隊商を率いて泰緬国境やラオスにあるヘロイン精製所までアヘンを輸送した。彼らは政府支配下の商業都市に公然と暮らし、表向きはジャガイモ、豚肉、消費財の卸売業などの商社を経営し、慈善事業も行っていたので地元では尊敬されていた。
KKY アヘンの輸送のために商人に雇われることが多く、KKY司令官自身が商人であることも多かった。KKY司令官が隊商を率いて泰緬国境その他へ行く際には、自分たちのアヘンだけでなく、自前の軍隊を持たない他の商人のアヘンも運んで、警護費を徴収した。通常はタチレクまでアヘンを運び、そこで純金の延べ棒と交換した。その金でタイの商品や日用品を購入して持ち帰り、高い値段で売ってまた利益を上げた。彼らもまた他に通常の事業を行い、慈善事業を行っていたので地元では尊敬されていた。
少数民族武装勢力・国民党 彼らは支配地域内の農民にアヘン税を課し、アヘンを購入する商人にも税金を課し、支配地域内を通過する商人やKKYにも税金を課し、ヘロイン精製所の警備費を徴収した。いずれの組織も、その金で兵士の給与を支払い、タイやラオスの闇市場で兵器を購入したりした。またタイにとって泰緬国境の国境警備隊として機能し、台湾、アメリカ、タイの治安組織のために諜報活動に従事していた。
タイの警察・軍隊 少数民族武装勢力や国民党にタイ領土で活動することを許可し[注釈 9]、その対価として金銭を得たり、当時タイ政府に対して反乱を起こしていたタイ共産党の情報を入手した。またタ泰緬国境からバンコクへトラックでヘロインを輸送した。
各国の諜報機関 商人、KKY、少数民族武装勢力、国民党などが貴重な情報を有していたので、彼らとコネクションを築いて諜報活動を行っていた。国民党やKKYの一部が中国系だったので、特に台湾の諜報機関が活発に活動していた。ロー・シンハンはコーカン族で、クン・サも、父親は国民党軍兵士で、母親はシャン族だった。CIAは国民党の人脈を活用して、ラオスでの「秘密戦争」を戦うための傭兵として雇った。
中国系シンジケート その豊富なコネクションを生かして、泰緬国境地帯のヘロイン精製所に香港人や台湾人の化学者を送った。またヘロインの地域内および国際的な販売・流通を担当して莫大な利益を上げ、その金を政府関係者、タイの警察、軍隊、麻薬取締機関関係者に「上納」することで、大きな政治的影響力を持った。中国への販売・流通を担ったのは雲南系中国人、バンコクから地域内及び国際的な販売・流通を担ったのは潮州系中国人という棲み分けがあった。当然、彼らが国民党やKKYの一部とコネクションを築くのは容易だった。
運び屋 麻薬をある場所から別の場所に運ぶために、中国系シンジケートに雇われた人々。メディアでは「麻薬密売人」と呼ばれ、諸悪の根源のように思われているが、大抵の場合は端金で雇われた地元のチンピラで、時に軍隊や警察に逮捕されたり、射殺されたりする危険を伴った。
麻薬中毒者 ケシを栽培する貧しい農民に次いで、黄金の三角地帯で哀れな存在。黄金の三角地帯で製造されたヘロインのほとんどは北米、欧州、オーストラリアなどに輸出されたが、一部は東南アジアでも出回った。アヘンを栽培している村の男性の70~80%がアヘン中毒者だった。

麻薬は生産地から離れれば離れるほど、価格が上昇する。

やや時代は飛ぶが、1998年に行われた麻薬調査によると、ミャンマーの山岳少数民族のケシ農家は、生アヘン1ビス[注釈 10](1.6kg)あたり2万チャット(当時のレートで75米ドル)で売却する。そして精製所で10kgのアヘンを精製すると1kgのヘロインができるが、卸売価格は1ブロック(700g)あたり3,750~4,250米ドルになる。1ブロックのヘロインは、330米ドルの生アヘンに相当するので、この時点で既に価格は10倍以上になっているということになる。

そして泰緬国境で小売業者から1ブロックのヘロインを購入すると4,750〜5,000米ドル、チェンマイで購入すると5,625米ドル、バンコクで購入すると6,250〜7,500米ドル。さらに海外に輸出されると、輸入価格は香港では1ブロックあたり2万1,000米ドル、台湾では3万7,500米ドル、シドニーでは、アジア人からアジア人に売られた場合、4万6,000米$~5万2,000米$になる[注釈 11]。シドニーの輸入業者は、これを11万米ドルで小売業者に売り、小売業者はヘロインを0.02gのカプセルに分割して、1個18.5米ドルで路上で販売した。つまり1ブロックあたり64万7,500米ドルである。ニューヨークでは、当時の卸売価格は1ブロックあたり8万$で、これは混ぜ物にされ、25mgのヘロインと25gのラクトースが入った袋に詰められた。そして700gのヘロインから2万8,000個の袋が作られ、1袋10$で路上で販売された。1ブロックあたり28万米ドルである。

このようにミャンマーのケシ農家が栽培した330米ドル相当の生アヘンが、オーストラリアやアメリカでは途方もない額で売られているということで、麻薬取引で本当に儲けているのは、ケシ農家でもなく、時に「麻薬王」とも言われる「商人」でも「KKY」でも「少数民族武装勢力・国民党」でもなく、西側諸国の輸入業者、小売業者だった[32]

麻薬戦争と「麻薬王」

リチャード・ニクソン

既述のとおり、アメリカでは退役軍人や当時のヒッピー文化の流行により、麻薬問題が深刻化しており、当時のリチャード・ニクソン米大統領は、1971年6月17日、「麻薬戦争」を宣言して麻薬と全面対決することを誓い、1973年5月28日、麻薬取締局(DEA)を設置した。

しかし少なくともミャンマーにおいては、アメリカの麻薬政策は、「麻薬王(キングピン)理論」という、特定の「麻薬王」が麻薬生産・取引全体を一手に牛耳っているという誤った認識に基づくものだった。実際にはそれは、既に見たようにさまざざまな利害関係者による緩やかなネットワークにより成り立つものであり、ジャーナリストのコー・リン・チンとシェルドン・チャンは、そのネットワークを「水平構造で流動的で日和見主義的である」と表現し、非公式には「現場のアメリカの麻薬取締官でさえ、麻薬王は存在しない、あるいは少なくとも中国や東南アジアには麻薬王はいないと認めている」と述べている[32]

しかし「麻薬王理論」は耳目を集めやすく、最初の標的になったのはロー・シンハンで、1972年、彼はアメリカ政府の麻薬問題顧問から「東南アジアのヘロイン密売の首謀者..国際的な盗賊」と名指しで批判された。しかし、ローはアヘンを輸送していただけで、ヘロインの精製も販売もしていなかった。しかもローはラーショーに拠点を置いており、アヘン、翡翠その他の禁制品を、黄金の三角地帯の拠点・タチレクまで運ぶ隊商を年に3、4回しか組織できなかったが、他に10回くらい組織する人物はざらにいた[33]。次に標的となったのはクン・サで、1987年1月、タイ当局はクン・サの首に5万バーツ(当時2000米ドル)の賞金をかけ、1ヶ月後に50万バーツに引き上げたが、何も起こらなかった[34]。1973年のロー・シンハン逮捕をきっかけに開始されたミャンマー「麻薬撲滅キャンペーン」をアメリカも支援し、1974年6月29日に両国は麻薬問題の協定に署名、「麻薬王掃討」のためにUH-1ベル205ヘリコプター6機と480万米ドルの資金を提供した。しかし、そのヘリコプターは麻薬に関与していないカレン民族同盟(KNU)の掃討作戦に使用され、アメリカ議会でも問題視された。1983年からは国連薬物乱用統制基金(UNFDAC)[注釈 12]によるアヘンの代替作物の栽培も行われ、500万米ドルの費用が費やされたが、その5か年計画に国連職員は管理面でしか関与できず、実際にケシ栽培されている場所では実施されなかったので計画は失敗に終わり、1983年に350トンだったミャンマーのアヘン生産量は5か年計画が終了した1988年には1,280 トンまで増加していた[35]

ラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート)

一方、タイではこの代替作物の栽培は成果を上げた。この取り組みが導入される前のタイの年間アヘン生産量は50~100トンだったが、コーヒー、インゲン豆、ジャガイモ、キャベツ、ハッカ、マジョラム、イチゴ、ランを新しい換金作物として導入したことにより、10年足らずで年間アヘン生産量は約20トンまで減少し、1999年にはケシ栽培面積は1,000 ヘクタールを下回った[36]

その理由は、ミャンマーと比べて近代的なインフラ、洗練されたマーケティング、海外からの巨額援助、政治的安定などがあったが、なんといっても当時の国王・ラーマ9世(プーミポン・アドゥンヤデート)のリーダーシップがあった。彼はケシ栽培をする農民が生活をケシに全面的に依存していることをよく認識しており、代替作物が換金可能になるまでケシ栽培を禁止しないという方針を貫き、根気よく代替作物への転換を進めていった。

タイへ代替作物の栽培の様子を見学しにいったミャンマーアヘン農家フォーラム(Myanmar Opium Farmers' Forum:MOFF)のメンバーの1人は、次のように語っている。

タイの兵士や警察が村人を扱う様子を見て、本当に涙があふれました。彼らは村人を同じ市民、親戚のように扱っていました。村人を脅すことはなく、食料を持ってきて村人と分かち合うことさえありました。私たちの村に来てアヘン畑を破壊したミャンマーの警察とはまったく違いました。彼らを警察署から村に連れて行くために、私たちは四輪駆動車をレンタルしなければならず、食べ物とビールでもてなさなければなりませんでした。彼らはまた、私たちに賄賂を要求し、支払わなければ村のアヘン畑をすべて破壊すると脅迫しました[37]

しかし、そのタイも、黄金の三角地帯の一角をなす「タイの警察・軍隊」「中国系シンジケート」には、その政治的影響力・資金力の大きさから手を出せず、その整備されたインフラと銀行システムによりバンコクは、黄金の三角地帯における国際麻薬市場への中継基点として、現在でも重要な役割を果たしている[36]

ミャンマー

1996年に、“シャン族の独立支援”を名目にモン・タイ軍の司令に長年君臨した「麻薬王」のクン・サがミャンマー軍事政権に本拠を明け渡した。しかし、この投降は軍事面に限られ、クン・サは身柄が拘束されることなくミャンマー国内でビジネスに従事した。また、ワ州連合軍やシャン州軍は麻薬生産を続行するなど、その後も麻薬の密造や密売が横行し続けており、覚醒剤の製造も増えつつある。タイ政府は2004年、この地帯での年間の麻薬原料生産量が推定で2,500-3,000トンに上ると発表した。いずれの組織もミャンマー政府と和平を結んだものの、武装解除はほとんど行われておらず、ミャンマー政府に反抗的態度を取らなくなっただけであった。

一方、こうした資金を得てミャンマー国内や隣国タイでホテル経営など合法的なビジネスに着手する組織も多い。ミャンマー政府は麻薬取締に注力しているものの、麻薬産業が同国の政治趨勢に起因していることや同政府軍に拮抗できる軍事力を備えていることから、強硬策よりも懐柔策を取らざるを得ない現状がある。

2002年、ケシ栽培禁止令が出て、サトウキビ畑などへの転換が大きく進んだ。しかし国連薬物犯罪事務所の調査によれば、その後代替作物の価格下落とアヘンの価格上昇が重なり、2007年ごろから麻薬製造が再び活発化しているという[38]

解決支援

国際協力機構は2014年からシャン州の北部においてケシ栽培から転向した農家に対し農業技術の支援を行う『シャン州北部地域における麻薬撲滅に向けた農村開発プロジェクト』を立ち上げている[39][40]

脚注

注釈

  1. ^ ワ地域やコーカン地域のような高地で、ケシ栽培が好まれるのには、他の作物の生育が困難であるのに対し、ケシ栽培には高度な技術や農機具が要らず、種を撒いてから100日以内に収穫でき、霜や干ばつに強く、持ち運びも保管も簡単で、遠方の市場に売りに行かなくても商人が村まで買いにきてくれ、それでいて他の作物よりも一般に価格が高いといった理由がある。(『Poppy Farmers Under Pressure』P26)
  2. ^ 1856年~1873年のパンゼーの乱清朝に敗北した後、その一部はワ地域に逃げ込んだ。彼らによってこの地にケシ栽培がもたらされたという説もある。
  3. ^ 中国にアヘンを輸出したのはイギリスだけではなく、アメリカもトルコ産や中東産のアヘンを中国に輸出した。イラン産のアヘンは誰でも中国に輸出できた。W.C.ハンターというアメリカ人承認は「われわれは等しく関与していた」というシンプルな言葉で、当時の状況を説明している。(『Burma in Revolt』P97)
  4. ^ 駐緬アメリカ大使デイビッド・M・キーは、CIAがシャン州や雲南省国境で秘密裏に活動していることを政府から知らされおらず、憤慨して1952年4月に辞職した。(『Burma in Revolt』P203)
  5. ^ この中国国民党に対する秘密作戦は、その後、冷戦下でアメリカ情報機関がキューバ、ラオス、ニカラグア、アンゴラ、アフガニスタンなどで行った秘密戦争の最初のものだった。(『Burma in Revolt』P184)
  6. ^ 国民党が組織的にケシ栽培をしたり、アヘン取引を行ったわけではない。
  7. ^ 当時タイではアヘン取引は違法ではなかった。
  8. ^ ただし、アヘン栽培で生計を立てている農民が別の収入源を見つけるための5年間の猶予期間が設けられた。
  9. ^ 国民党や少数民族武装勢力の幹部は、チェンマイなどに自宅を構え、住んでいることが多かった。
  10. ^ ビス(viss)。ミャンマーの庶民の間で使われる重さの単位で、1ビスは1.6kgに相当する。
  11. ^ 当然、実際には豪ドルで売られる。あくまで計算上である。
  12. ^ 1991年に廃止。現在、その業務は国連薬物犯罪事務所(UNDOC)に引き継がれている。

出典

  1. ^ Guide to Investigating Organized Crime in the Golden Triangle — Introduction” (英語). gijn.org. 2024年12月14日閲覧。
  2. ^ Bertil Lintner 2000, p. 2.
  3. ^ a b TNI 2021, p. 8.
  4. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 97–98.
  5. ^ Bertil Lintner 2000, p. 3.
  6. ^ a b Bertil Lintner 2000, p. 4.
  7. ^ Bertil Lintner 2000, p. 1.
  8. ^ Bertil Lintner 2000, pp. 4–5.
  9. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 133–134.
  10. ^ TNI 2021, p. 9.
  11. ^ Bertil Lintner 1999, p. 113.
  12. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 285–286.
  13. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 173–178.
  14. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 195–204.
  15. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 219–220.
  16. ^ Bertil Lintner 2000, p. 8.
  17. ^ Bertil Lintner 1999, p. 348.
  18. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 215–216.
  19. ^ Bertil Lintner 1999, p. 285.
  20. ^ https://www.moj.go.jp/content/000051905.pdf”. 法務省. p. 257. 2024年12月17日閲覧。
  21. ^ Bertil Lintner 1999, p. 286.
  22. ^ Bertil Lintner 2009, 第3章P8.
  23. ^ Bertil Lintner 1999, p. 455.
  24. ^ 桐生稔『ビルマ式社会主義―自立発展へのひとつの実験』教育社、1979年9月、132-148頁。 
  25. ^ 桐生稔『ビルマ式社会主義 : 自立発展へのひとつの実験』教育社、1979年9月、75,76頁。 
  26. ^ a b Bertil Lintner 2000, p. 9.
  27. ^ Burma’s Path to Peace Lessons from the Past and Paths Forward”. Asia Pacific Media Services. 2024年8月20日閲覧。
  28. ^ Priamarizki, Adhi (2020). “Ka Kwe Ye to Border Guard Force : Proxy of Violence in Myanmar”. Ritsumeikan international affairs (立命館大学国際地域研究所) 17. doi:10.34382/00012955. https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/12963 2024年8月21日閲覧。. 
  29. ^ New Regime, Same Old Drug Myths in Myanmar”. The Irrawaddy. 2024年8月21日閲覧。
  30. ^ TNI 2021, pp. 11–12.
  31. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 348–351.
  32. ^ a b Bertil Lintner 2021, pp. 146–147.
  33. ^ Bertil Lintner 1999, p. 405.
  34. ^ Bertil Lintner 1999, 468.
  35. ^ Bertil Lintner 1999, pp. 459–461.
  36. ^ a b Bertil Lintner 2000, p. 13.
  37. ^ TNI 2021, pp. 62–62.
  38. ^ 東南アジアのケシ栽培増加の兆し 国連が警告
  39. ^ シャン州北部地域における麻薬撲滅に向けた農村開発プロジェクト - 国際協力機構
  40. ^ 「黄金の三角地帯」がなくなる日を夢見て - 国際協力機構


参考文献

  • Bertil Lintner『The rise and fall of the Communist Party of Burma (CPB)』Southeast Asia Program, Cornell Univ、Ithaca, NY、1990年。ISBN 9780877271239 
  • Bertil Lintner (1999). Burma in Revolt: Opium and Insurgency since 1948. Silkworm Books. ISBN 978-9747100785 
  • Merchants of Madness: The Methamphetamine Explosion in the Golden Triangle, Silkworm Books, (2009), ISBN 978-9749511596 
  • The Golden Triangle Opium Trade: An Overview. Asia Pacific Media Services. (2000). http://asiapacificms.com/papers/pdf/gt_opium_trade.pdf 
  • The United Wa State Army and Burma's Peace Process. アメリカ平和研究所. https://www.usip.org/publications/2019/04/united-wa-state-army-and-burmas-peace-process 
  • Bertil Lintner (2021), The Wa of Myanmar and China's Quest for Global Dominance, Silkworm Books, ISBN 978-6162151705 
  • Smith, Martin (1999). Burma: Insurgency and the Politics of Ethnicity. Dhaka: University Press. ISBN 9781856496605 
  • Ko-Lin Chin (2009). The Golden Triangle: Inside Southeast Asia's Drug Trade. Cornell Univ Pr. ISBN 978-0801475214 
  • Poppy Farmers Under Pressure. Transnational Institute. (2021). https://www.tni.org/en/publication/poppy-farmers-under-pressure 
  • Ong, Andrew (2023). Stalemate: Autonomy and Insurgency on the China-Myanmar Border. Ithaca, NY: Cornell University Press. ISBN 9781501769139 
  • 鄧賢 著、増田政広 訳『ゴールデン・トライアングル秘史 ~アヘン王国50年の興亡』NHK出版、2005年。ISBN 978-4140810217 

関連項目

座標: 北緯20度21分20秒 東経100度04分53秒 / 北緯20.35556度 東経100.08139度 / 20.35556; 100.08139