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カレン民族同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カレン民族同盟
ကညီ ဒီကလုာ် စၢဖှိၣ်ကရၢ
Karen National Union
略称 KNU
議長 パドー・ソー・クウェートゥーウィン
書記長 Padoh Saw Thadaw Moo(総書記)
P'doh Saw Thaw Thi Bweh(第一共同書記)
Padoh Saw Hla Tun(第二共同書記)
報道官 Padoh Saw Taw Nee
副議長 P'doh Saw Hser Gay
スローガン 自由を、さもなくば死を英語版[1]
党歌 "Dear Our People"
創立 1947年2月5日 (1947-02-05)
本部所在地 ラキーラ(レイワ)
マナプロウ英語版(1995年に喪失)
軍事部門 カレン民族解放軍カレン民族防衛機構英語版
政治的思想
宗教 キリスト教
仏教
国内連携 国民統一諮問評議会英語版
党旗
公式サイト
www.knuhq.org
ミャンマーの政治
ミャンマーの政党一覧
ミャンマーの選挙

カレン民族同盟(カレンみんぞくどうめい、英語: Karen National Unionビルマ語: ကရင် အမျိုးသား အစည်းအရုံးスゴー・カレン語: ကညီ ဒီကလုာ် စၢဖှိၣ်ကရၢ 、略称:KNU)は、カレン族によるミャンマーの政治組織。独自の統治機構により、カレン州の一部などを支配している。カレン民族解放軍などの大規模な軍事部門を保有し、1949年以降中央政府に対する戦いを続けてきた。現在では独立の目標を取り下げ、同民族の自治を求めている。

1990年代以降は弱体化し、2015年には全国停戦協定に署名した。しかし、2021年ミャンマークーデター発生後、軍事部門の一部はミャンマー軍との戦闘を再開した。

概要

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ミャンマーの反政府武装組織としては最大の規模を誇り、ミャンマーとタイ国境地域に解放区・コートレイ英語版を持つ。1948年のミャンマー独立以降、ミャンマー政府と軍事衝突を含む敵対関係を続けており、その過程で軍事部門としてカレン民族解放軍(KNLA)を結成している。

歴史

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1947 – 1959

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KNUは1947年2月5日、バプティスト・スゴーのソー・バウジーによりカレン民族の権益を保護するために設立された[2][3]。KNUはカレン中央機構(Karen Central Organisation: KCO)の後継組織であった[4]。同年7月16日、KNUは私設民兵組織として、カレン民族防衛機構(Karen National Defence Organisation: KNDO)を設立した[2]

1948年8月30日、KNDOはモーラミャインを占領し、翌31日にはタトンを占領した[4][2]。カレン側の武装勢力は首都ヤンゴンに迫る勢いであったが、インセインの戦いにおける撤退を経て勢いを失い、その後はゲリラ戦に転じた[5][6]

1950年8月12日、KNU創設者のソー・バウジーがミャンマー軍に射殺された。ソー・バウジーの死後、KNUは運動の方向を失い、共産主義勢力がKNUの戦略に影響を及ぼすようになった[7]。1953年11月、第1回KNU大会においてマン・バザンはKNU左派勢力を糾合し、カレン民族統一党(Karen National United Party: KNUP) を前衛党として設立した[8]。同大会ではパプンにコートレイ政府(Kawthoolei Government Body: KGB)を置くことが決定された。

1953年のKNUは内部的には左傾化する一方で、国内の広範な同盟構築により、その対外的な姿勢は複雑化した。中国はKNUのライバルであったビルマ共産党に対して支援を行っていたため、国共内戦敗北後にビルマ北部に追放された国民党軍から支持を得ることができた[9]。しかし、この協力関係は結果として失敗に終わった[10]

1954年にはKGB議長であったハンター・タムウェにより、KGBが解体された。そして、イラワディ・デルタと東部のKNUのすべての軍区から選出された代表者で構成される新しい行政機関、カレン革命評議会(Karen Revolutionary Council: KRC)が設立された[11]。1956年の第2回KNU大会では軍事部門が毛沢東主義の方針に沿って再編され、KNUが統治する村では村落協同組合が設立された[12]

1959年1月の第1回KNUP大会後、KNUPはマルクス・レーニン主義的な手腕を以てKNUに対する支配を確立した。KRC議長のハンター・タムウェは多くの決定において出し抜かれていった[13]。また、同年5月、KNUP、ビルマ共産党新モン州党により民族民主統一戦線(National Democratic United Front: NDUF)が発足した[14]。これはビルマ共産党との協力を巡る問題をKNU内に引き起こした[14]

1960 - 1976

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1960年代初頭、KNUは政治的・軍事的な攻勢をかけた。1960年の選挙において、コートレイ武装隊(Kawthoolei Armed Forces: KAF)は投票所の襲撃などを行った[15]。この時期には国民党軍を指導する李彌将軍の政治顧問がハンター・タムウェを訪問している。この接触はハンター・タムウェがマン・バザンらKNUPに幻滅し、西側から援助を得ようとする試みであった[16]。1960年4月29日にハンター・タムウェはビルマ共産党を意図的に排除した同盟、諸民族解放同盟(Nationalities Liberation Alliance: NLA)を結成し、1963年初頭まで少数民族反乱指導者のネットワークを形成した[17]

1961年、東西管区の間で対立が発生した。東側は「カレン共和国の建国」「ビルマ連邦からの分離」を唱えたが、西側は「カレン共和国」の建国に反対し、「ビルマ連邦からの分離」に異議を唱えた[18]

1963年4月、パプン近郊で行われた第3回コートレイ大会において、ハンター・タムウェ議長とマン・バザン副議長がイデオロギーおよび戦略的意見の相違により対立した。この結果、カレン勢力はKNUPとKRCに二分されることとなった[19] [20]。1964年3月、KRCはネ・ウィン政権と和平協定を結んだが[21]、武装解除したのは一握りの兵士だけであった[22]

1966年、当時東部管区の司令官だったボー・ミャドーナ山脈英語版とタイ国境地域の大部分を掌握し、KNUP将校と幹部に支配地域から立ち去るよう命じた[23]

1967年、マン・バザン(右派)とKNUP中央委員会(左派)との間に対立が発生し、マン・バザンは党議長を辞職して戦線離脱した。そしてマン・バザンと他の4人のKNUP幹部はボー・ミャと和解し、1968年9月カレン民族統一戦線(Karen National United Front: KNUF)を結成した。また、ボー・ミャは統治組織としてカレン民族解放評議会(Karen National Liberation Council: KNLC)を設立し、正規軍をカレン民族解放軍(Karen National Liberation Army: KNLA)の名の下に一元化した。1970年にはKNUFの名称は全てKNUとなり、68年から70年の改革により行政区も7つに再編された[24][25]

マン・バザン離脱後の1968年からは、KNUPの軍事部門であるコートレイ人民解放軍(Kawthoolei People’s Liberation Army: KPLA)をコートゥーが指導していた。KPLAはKNUPやビルマ共産党が支配するイラワディ・デルタ英語版を縦横無尽に移動し、強大な勢力を誇ったが、1968年元旦に始まるミャンマー軍第88歩兵師団による四断作戦を前にして壊滅的な被害を受けた[26]。1972年にイラワディ・デルタのKNUPはバコーヨマ英語版地域に逃れたものの、バゴーヨマ地域も掃討を受け、1975年4月には最後に撤退したグループがボー・ミャらの集団に合流した[27]

1962年のネ・ウィンによる軍事クーデターによって失脚したウー・ヌCIAや西側企業の財政的支援のもと議会制民主主義党(PDP)英語版を結成し、KNUFとの連携を模索した[28]ウー・ヌはKNUにとってかつての敵であったが、両者はネ・ウィン政権を前にして手を取り合い、1947年憲法では取り除かれた「フェデラル」な連邦制の構築に向けて協力した。そして1970年5月25日、バンコクにてPDP代表ウー・ヌ 、KNU代表マン・バザン、新モン州党代表ナイ・シュエチンの三者により民族統一解放戦線(National United Liberation Front: NULF)が結成された[29]。しかし、PDPの軍事部門である愛国解放軍(Patriotic Liberation Army: PLA)は軍事的にほぼ無力であった。また、州の分離独立権を巡ってウー・ヌと民族指導者が対立し、1972年4月にウー・ヌがPDPを離脱した[30]。ウー・ヌ離脱後、PDPは瓦解した。軍事的な敗北が続いたのち、1974年にKNUは第9回大会でNULFからの離脱を宣言した[31]

1970年代初頭、KNUはPDP、CPBBSPPに対する不信感から、少数民族勢力との対外的な協調を重視するようになった。1973年5月、NDUFを離脱していたKNU、シャン州進歩党(SSPP)中国語版カヤン新領土党(KNLP)、カレンニー民族進歩党(KNPP)はコウムラ陣地にて革命的民族同盟(Revolutionary National Alliance: RNA)を結成した。1975年5月、KNU、SSPP、KNPP、NMSP、アラカン解放党(ALP)英語版の指導者による会議で、RNAは連邦民族民主戦線(Federal National Democratic Front: FNDF)に取って代わった。そして1976年5月10日に13の少数民族武装組織が民族民主戦線(National Democratic Front: NDF)の設立会議に参加した[32]

1974年の第9回KNU大会では、KNUPを前衛党とする綱領が削除され、大きく右傾化した方針転換が確認された。また、KNUP幹部はカレン民族の闘争が「民族民主主義」革命の段階にあるという見解を一にすることに満足し、KNUPの解散に同意した[33]

1975年ベトナム戦争が終結したのち、タイは国境「緩衝」地帯として、すなわち反共の防波堤として少数民族勢力を利用するという方針をとった。1976年2月、タイ当局は左派的であったマン・バザンを入国禁止とした。1976年8月10日までマナプロウのボー・ミャ邸にて続いたボー・ミャとマン・バザンの論争は、マン・バザンの敗北に終わった。マン・バザンはKNU議長辞任を余儀なくされ、代わりにボー・ミャがKNU議長に就任した[34]

1976 - 2004

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ボー・ミャ1976年から2000年までKNU議長として恐怖政治を敷き、まとまりに欠いていたカレン族の武装勢力を彼のもとに結集させた[35]。1974年から1991年までKNU大会は開かれることがなく、政治上の決定は33人の委員からなる中央委員会か、ボー・ミャの側近5人からなる常任委員会によって下された[36]。また、ボー・ミャ体制下の「コートレイ」では高い水準の医療や教育などの行政サービスが提供されていた[37]

ボー・ミャ体制は反共的な姿勢によってタイ政府の暗黙の支持を得ることが出来たため、1990年代までKNUはタイ国境の密貿易から莫大な税収入を得て、武器の闇市場にアクセスすることが出来た[38][35]。しかしながらKNLAの各旅団の資金調達は独自の手段で行われており、交易拠点を持つ第6旅団や第7旅団は交易収入で潤う一方、第2旅団(タウングー)や第3旅団(ニャウンレビン)は少ない独自の資源で賄わねばならなかった[39]

1975年にミャンマー軍はシュエジン丘陵でKNUに対して初めて四断作戦を行ったのち、1977年と1980年にはドーナ山脈北部とスリー・パゴダ・パスのKNU拠点に対して更なる攻勢をかけた[40]。また1984年、マナプロウに本部を置くNDFに対して攻勢をかけるため、ミャンマー軍はドーナ山脈北部でKNUに対し、大規模な四断作戦を行った[41]。同年1月のミャンマー軍の攻勢により、KNUはモエイ川北部のメタワの拠点を失陥した[42]。この結果、KNUの密貿易から得ていた収入は激減し、KNUに大きな損害を与えた。しかしながらビルマ式社会主義の失敗で混乱状態にあった国内に密輸を行う業者は絶えず、KNUは新たに国境ゲートを設けることで凌いだ[43]

1983年にカチン独立機構がNDFに加入したのち、NDFはCPBを凌ぐ勢力を誇ったが、KIOやSSPPなどのNDFメンバーがCPBに接近したことにより、KNUとNDFの関係は悪くなっていった。しかし、1988年の民主化運動とCPBの崩壊を経てこれらの対立は過去のものとなった[44]

1984年から1989年にかけて、ミャンマー軍は民間人の処刑などを含む四断作戦により、KNUを追い詰めることに成功したが、KNUは何とか持ち堪えた[45]。1988年、学生らによる8888民主化運動によりネ・ウィン政権が崩壊した。同年8月にはNDFが学生と連携し、支援ゲリラを送り込むと表明している[46]。民主化運動により、ミャンマー軍の兵士数千人が前線から撤退し、同年10月にKNLAはメタワの拠点を奪還した。しかし、この頃にはミャンマー軍はカレン族の反乱を制圧できると確信していた[47]

1988年、民主化運動がミャンマー軍によって暴力的に鎮圧されると、約5,000人の学生がKNU支配地域に逃げ込んだ[48]。同年11月5日、KNUのコウムラ陣地では全ビルマ学生民主戦線英語版が結成された[49]。同年11月14日、マナプロウのKNU-NDF本部ではビルマ民主化同盟(Democratic Alliance of Burma: DAB)の結成大会が行われ、ビルマ共産党も招待された。大会では新しく結成された全ビルマ学生民主戦線英語版などが加入することが決定された[50]。DABの議長は学生らを匿うボー・ミャが務めることとなった[49]

1989年以降、KNUはミャンマー軍による激しい攻撃に晒され、タイ軍の暗黙の支持のもと行われる作戦により、次々と重要な拠点を失陥した[49]。18ヶ月に及ぶ激しい戦闘の結果、タイ側へと逃れた難民の数は4万人にのぼった。コウムラ陣地の対岸に位置するワンカーに攻撃が加えられるまでタイはこれに反対しなかった[51]

8888民主化運動後、ミャンマー軍事政権は中国に接近し援助を得たことで軍事力を強化した。これに先立つ1992年から軍事政権は少数民族武装勢力へ停戦か戦闘継続かを選択させ、多くの少数民族と停戦に合意していった[52]

1992年1月、ミャンマー軍は2万人以上の兵力を投入し、マナプロウのKNU-DAB-NDF本部に突撃した。この戦闘により、1,000人以上の死者と2,000人以上の負傷者が報告された。ティパウィチョ(眠る犬)山の高地が制圧されたものの[53]、同年4月には軍事政権が一方的な攻撃の停止を発表し、マナプロウは持ち堪えることができた[54]

1994年1月、KNUは和平交渉に応じる旨を表明したが、戦闘は継続された[55]。同年12月11日、マナプロウ守備隊からKNLA仏教徒のジョーサン曹長以下400人が離脱した。同年同月21日、ジョーサンらはサルウィン川のほとりに位置するミャインジーグー英語版にて民主カレン仏教徒機構(Democratic Karen Buddhist Organisation: DKBO)を結成した[56][57]。しかし、兵士らがDKBOがミャンマー軍と同盟関係にあることを知ったのはさらに遅く、同年同月26日のことであった[56]。1995年1月1日、ウ・トゥザナらは民主カレン仏教徒軍(Democratic Karen Buddhist Army: DKBA)を結成した[56]。この離反の原因として挙げられるのは、KNLA下士官の多くが仏教徒ポーカレンであり、KNU上層部がクリスチャンのスゴーカレンによって占められていたことに対して不満を抱いていたことである[58]。仏教徒カレンの精神的な指導者であったウ・トゥザナがマナプロウを追放されたことで両者の亀裂は決定的なものとなっていた[57]

DKBAの離反後間もない1995年1月26日にはマナプロウが、同年2月21日にはコウムラ陣地が陥落した[59]。タイ国内のカレン難民の数は公式統計で10万人にのぼったが、1995年1月にDKBAはKNUが後方基地として利用しているとの口実を以てタイ側の難民キャンプを攻撃した[60][56]

1996年にはKNUと軍事政権の間で和平交渉が試みられたが、軍事政権側が武装解除にこだわったために交渉は決裂した[61]。同年11月、軍事政権はKNUに対し、6ヶ条の要求を突きつけた。同年12月31日にボー・ミャがこれを拒否すると、軍事政権は1997年2月にKNUの支配地域全域で大規模な攻勢をかけた[62]。DKBA離反後、ボー・ミャの恐怖政治によって抑制されていたKNUの団結力の弱さが露呈した[63]。1997年にはカレン和平軍(Karen Peace Force: KPF)とタンダウン特別公共軍、タンダウン北方グループ、神の軍隊が離反し、1998年にはパドー・アウンサンの集団が離反した[64][65]

2000年の第12回大会における選挙では1票差でバティンセインがボー・ミャを打ち破り、ボー・ミャは副議長となった。しかし、ボー・ミャは防衛局局長に留任し、ボー・ミャ体制はその後も持続した[66][67]

2003年12月12日、ボー・ミャは軍事政権との戦闘を停止する「紳士協定」を発表した。2004年以降複数回停戦交渉の試みが見られたがキン・ニュンの失脚により停戦交渉は白紙へと戻った[68][69]

2004年12月の第13回大会でボー・ミャは一線を退き、ここにボー・ミャ体制が終了した[70]。しかしながら、ボー・ミャの側近であったネダミャとティモシー・ラクレム牧師は大会で委員に指名されなかったことに不満を抱き、第7旅団司令官のティマウンと共にKNUからの分裂を画策した[70]

2005 - 2020

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2006年12月、ボー・ミャが死去した。2007年1月30日、第7旅団長ティマウンは独自に和平交渉を行った結果、KNUを追放された。同月31日、KNUを追放されたティマウン准将は部下80人を引き連れ、トココー村にてカレン民族同盟/カレン民族解放軍平和評議会(KPC)を設立した。なお、ネダミャはこの分裂には与しなかった[71][72]。KPCの離反はKNUの弱体化を印象付けた[73]

2008年2月14日、メーソットでマンシャ書記長が暗殺され、同年5月22日にはバティンセイン議長が死去した。2008年の第14回大会では強硬派のタムラボウが議長に就任し、和平交渉は停滞することとなった[71][74]

2011年10月8日、タイメーソットでKNUとミャンマー政府との和平交渉が行なわれ、その後も立て続けに和平交渉が行なわれた。2012年1月12日、KNUはテインセイン政権と州レベルの停戦合意に至った[75][76]。同年9月23日、ムートゥーセーポー、デイビッド・トー、ソー・ロジャー・キンらは執行委員会や中央委員会の許可を得ることなくパアンに連絡事務所を開設した。KNU執行委員会はこの行動を認めず、ムートゥーセーポーらとKNU執行委員会との対立が生じた。和平推進派の第1・3・4・6・7旅団はムートゥーセーポーらを支持し、和平慎重派の第2・5旅団は執行委員会を支持した。ムートゥーセーポー以下3人は規則違反で解任されたが、3週間後に復職した。ムートゥーセーポーら和平推進派は権力闘争には勝利したが、カレン族の草の根運動の反感を買うこととなった[77]。KNU内部では同年の第15回KNU大会の開催地を巡るさらなる対立が発生した。執行委員会はパプンでの、ムートゥーセーポーは第7旅団管区での開催を希望した。結局、第15回大会は第7旅団管区のレイワで開催され、和平推進派のムートゥーセーポーが議長に選出された。また、副議長には和平慎重派のジポラーセインが選出された[78][79]。同大会ではカレン武装勢力の統一が謳われ、「再合同委員会」が設立された[80]

2013年5月28日、カレン武装勢力委員会(Karen Armed Force United Committee: KAFUC)が設置された。委員会にはKNLAKPCDKBABGFなどカレン系武装勢力が参加し、武装勢力間の調整などが行われている[81]

2013年9月2日、ムートゥーセーポーはKNUが参加していたビルマ統一民族連邦評議会(UNFC)の会議中に退席した。これはUNFCが政府との和平に慎重な姿勢を見せていたためであった。この後も慎重派のジポラーセインはUNFCの会合に出席するなどKNU内部で足並みが揃ってないことが露呈する形となった[82][83]。同年10月、マンダレーヤンゴンで起きた一連の爆弾テロ事件について、容疑者は第5旅団管区で活動するカレン族であるとされたが、ムートゥーセーポーらKNUの指導者はテインセイン政権に対する全面協力を約束した。しかし、この行動はカレン族の草の根運動からは「裏切り」であるとみなされ、顰蹙を買った[84]

2014年10月、コートレイ武装隊英語版(KAF)名義でKNLA、KNDO、DKBAKPCが再合同するという声明がなされた。しかしKNUはこれについてジョーヘンKNLA副司令官とネダミャKNDO司令官の個人名義で出された声明であるとして、関与を否定し、KNLAとKNDOはKNUの政治的な指導下にあるとした[80][85]

2015年10月15日、KNUはDKBAおよびKPCとともに全国停戦合意(Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)に調印した[86]。これにより、カレン系武装勢力の間では協調関係が促進されることとなった[87]。しかしながら、和平慎重派のジポラーセイン副議長が調印式を欠席したり[88]、調印前にカレン族の市民社会団体が連名で拙速な和平を批判する声明を出すなど反対意見も見られた[89]

2016年9月、KNLAはタニンダーリ地方域新モン州党(NMSP)の軍事部門であるモン民族解放軍(MNLA)と衝突した。KNUとNMSPは戦闘発生当時、両者とも全国停戦合意に署名していた。2018年3月14日、両勢力の間で二者間の停戦が成立した[90]

2017年3月、レイワで第16回KNU大会が開催された。本大会から常任委員会の定員が45人から55人となった[91]

2018年1月31日、ムートゥーセーポー議長はNCAは武装解除を意味しないと演説し、KNUの和平慎重派に譲歩する姿勢を見せた[92]

2020年2月、KNUがNCA署名勢力であるにもかかわらず、第5旅団管区のムトロー地区においてミャンマー軍とKNLAの間で激しい戦闘が勃発した[93][94]

2021年以降

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2021年ミャンマークーデター後、国内に不安が広がる中、KNUとミャンマー軍の間の緊張が高まった。クーデター直後の2021年2月14日、KNUは市民的不服従運動(CDM)参加者を支援するという声明を出した[95]。3月27日、第5旅団がタイ国境近くのミャンマー軍基地を制圧し、副大隊長を含む兵士10名が死亡した。ミャンマー軍は報復としてカレン族の集落を複数回空爆した[96][97]。一連の衝突を受けてNCAへの批判が高まったが、同年5月10日、ムートゥーセーポー議長はNCAの枠組みに留まり、軍事政権との交渉を継続すると表明した[98]。KNUはこれを議長個人の声明であり、KNUを代表するものではないとした。

同年10月、KNUはNCA6周年式典を欠席し、クーデターがNCAを無効化させたとして軍事政権を非難した[99]。同年11月、国民統一諮問評議会(NUCC)のオンライン記者会見においてKNUの加盟が明らかになった[100]。同年11月25日、軍事政権メディアのミャワディテレビは、第1・2・3・5・6旅団が民主派に対して軍事訓練を施しているとしてKNUを公式に名指しした[101]。同年12月14日、民主派活動家を匿っているとしてミャンマー軍は第6旅団管区のレーケーコー村を襲撃し、30人以上を逮捕した[102]。その後、KNLAとPDFの合同部隊が見られるなど、KNUと民主派の連携が明らかになった[103]。第6旅団はクーデター直後、PDF要員を受け入れるための臨時措置として第27大隊を新設したとされる[104]。しかしながら、KNUにおいて訓練を受けたPDF要員の中からはKNLAに強制的に入隊させられたという声も上がっている[105]。和平推進派であったムートゥーセーポーも、レーケーコーでの戦闘後の同年12月31日には、軍事政権が和平構築の努力を無に帰したとして非難する声明を行った[106]

2022年1月、KNUは村落防衛を目的とする民兵組織カレン民族防衛機構 英語版(KNDO)の司令官ネダミャに対し、25人を超法規的に処刑した疑いで捜査を開始した[107]。ネダミャは捜査への協力を拒否し、同年7月16日、分派集団であるコートレイ軍を結成した[108][109]。これ以降、KNLA第6旅団の監督下にあった国民防衛隊のヴェノム・コマンドーとライオン大隊はコートレイ軍に移っている [108]

同年8月3日、KNUはDKBAと連携してコートレイ武装隊を結成することに合意した[110]。東京新聞報道によると、KNLAの一部とDKBAの兵士の間では同じワッペンを着用するなど連携の動きが現れているという[111]

2023年2月、68のカレン系市民組織はロジャー・キンなどのKNU幹部が違法カジノや詐欺行為に加担しているとして[112][113]、中央執行委員会の総辞職を要求した[114][115]。同年4月下旬にはロジャー・キンや元第7旅団長ポードーなどKNUの一部の幹部が違法な事業に関与していると第5旅団が訴えた内部文書がリークされた[116]。また、同年3月にはミャンマー軍の傘下にあり、シュエコッコなどの詐欺団地に関与している国境警備隊と会談したとして、ムートゥーセーポー議長がカレン族のコミュニティから非難された[117]

2023年4月、COVID-19や戦闘の影響で2020年初頭から延期されていた第17回KNU大会が開催された。しかしながら、KNU幹部の汚職疑惑をめぐって第2旅団と第5旅団は大会をボイコットした[118]。大会ではムートゥーセーポーに代わり、クウェートゥーウィンが新たに議長に選出された[118][119]

同年8月10日、クウェートゥーウィン議長は、軍事政権がNCA第1章に違反していることを理由としてNCAはもはや存在しないと発言した[120]

2024年4月5日、ミャワディに駐留するミャンマー軍兵士600人がKNUに降伏し、メーソットへと撤退した[121]。同月10日にはKNLAとPDFの合同部隊が第275軽歩兵大隊の基地を占領した[122]。同月12日、KNUはミャワディの占領を宣言した[123]。KNUはKNAKPCDKBAにミャワディの支配権を譲り渡した[124]。これを受けて、ミャンマー軍はアウンゼーヤ作戦を発動し、第55軽歩兵師団がミャワディの奪還へと向かった[125]。KNLAはコーカレイから撤退し、同月24日にはカレン系武装組織はミャワディから完全に撤退した[126]

2024年12月17日、KNUは1995年に失陥したかつての本部であるマナプロウを同月16日夜に奪還したと主張した[127]

組織構造

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現在の組織構造は1974年の第9回KNU大会の際に形成されたものである。行政組織はKNU憲法により規定されており、憲法は4年に1度見直される。KNUの最高議決機関は4年に1度開催されるKNU大会であり、7つの管区から代表が選出される。また、管区と郡区の大会は2年に1度開催される。KNUは書面上は中央集権的な構造となっているが、実際は7つの管区の連合体である。管区にはそれに対応する旅団があり、統治と財政管理に関してはかなりの裁量が各管区に与えられている[128]

KNUには以下の14の部局が存在している[129]

  • 外務局
  • 国防局
  • 森林局
  • 農業局
  • 畜産漁業局
  • 教育局
  • 法務局
  • 財務局
  • 鉱山局
  • 運輸局
  • 保健福祉局
  • 内務宗教局
  • 組織情報局
  • 同盟局

日本との関わり

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自由戦士之碑(2022年8月撮影)

KNLAには西山孝純高部正樹といった複数人の日本人義勇兵が所属していた[130]。2001年5月、KNLAに参加し、死亡した日本人義勇兵3人を祀る「自由戦士之碑」がタイ・ミャンマー国境に建立された[131]

KNU第6旅団管区のレーケーコー村は国内避難民や、難民、KNUの家族のためのモデル村であり、日本財団の支援により住宅が建設された[132]。なお、レーケーコー村の復興住宅は戦闘の舞台となったことにより、廃墟と化した[133]

2024年5月14日、KNU議長のソー・クウェートゥーウィンが訪日し、高村正大外務大臣政務官と会談した[134]。翌15日、KNU外務局書記ソー・ニムロドはNUGCNF英語版KNPP代表団とともに日本国内で記者会見を行い、「連邦制と民主化を実現する」と強調した。同会見において代表団は日本政府に対し、ミャンマー軍に圧力をかけることを要望した[135][136]

脚注

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関連項目

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参考文献

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日本語文献

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英語文献

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外部リンク

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