コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ミャンマー軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミャンマー軍
တပ်မတော်
派生組織 ミャンマー陸軍
ミャンマー海軍
ミャンマー空軍
ミャンマー警察軍
指揮官
総司令官 上級大将 ミン・アウン・フライン
国防大臣 中将 セイン・ウィン英語版[1]
参謀長 次級大将 Soe Win
総人員
兵役適齢 16歳~49歳
徴兵制度 あり
適用年齢 18歳~35歳
現総人員 406,000
財政
予算 21億ドル(2017年推定)[2]
軍費/GDP 3.15%(IMF推定の2017-2018年の名目GDPに対する比率)[2]
テンプレートを表示

ミャンマー軍(ミャンマーぐん、ビルマ語: တပ်မတော်、慣用ラテン文字表記: Tatmadaw、ALA-LC翻字法: tapʻ ma toʻ、IPA: [taʔmədɔ̀] タッマドー)は、ミャンマー(ビルマ)の国軍

国防省英語版の統括の下、ミャンマー陸軍ミャンマー海軍英語版ミャンマー空軍英語版からなり、総兵力は陸軍(37.5万人)、海軍(1.6万人)、空軍(1.5万人)合わせて40.6万人と言われている[2]。有事の際にはミャンマー警察軍や種々の民兵組織(ピューソーティー民兵)、国境警備隊を含めることもある。ASEANの国々の中では、ベトナム人民軍に次ぐ兵力を誇る。陸軍中心で海軍・空軍の地位が低いというのが、国軍の特徴である。

国内に民族紛争を抱える事情から、対ゲリラ戦及び山岳戦を主任務とした軽歩兵部隊を主力としている。また、旧東西両陣営と距離を置き、1962年の軍事クーデター以降はいかなる軍事同盟も結ばなかったため、外国から大規模な軍事援助も行われておらず(わずかに米国から対麻薬作戦用として限定量の装備が供与された)、長年、軍備は貧相なものだった。しかし、1990年代以降は、中華人民共和国や旧東側諸国ウクライナセルビアなど)、インドイスラエル北朝鮮等から主力戦車歩兵戦闘車自走砲地対空ミサイルなどを新旧問わず大量購入し、機甲部隊機械化歩兵部隊を新設して増強している。

同国では独立直後から少数民族の独立闘争やビルマ共産党(CPB)の反乱、さらに国共内戦に敗れた中華民国軍の侵入があり、一時は国家崩壊の危機に陥ったが、国軍の反転攻勢によって平野部では1960年代に支配権を回復した。以降、少数民族武装勢力や共産党の武装組織は山岳地帯を根拠地として闘争を継続、国軍も各少数民族地域に完全な支配権を確立するほどの決定力を持っておらず、膠着状態が続いた。しかし1990年代に入り、諸事情により少数民族武装勢力が弱体化。1990年代から2010年代にかけて国軍と各少数民族武装勢力との停戦合意が相次いだ。しかし2021年クーデター後は再び戦闘が活発化している。

後述するように、1988年以降、国軍は近代化・増強を進めてきた。しかし、それに留まらず、国軍は基地、防衛施設、商業企業、教育機関、医療センター、研究施設などの広大な人的・物的ネットワークを構築して、「国家内国家」の様相を呈しており、国民から独立した存在となっている。現在、軍人とその家族、強い支持者を含めた国軍関係者の人口は、約200万人、人口の4%を占めていると言われている。国軍幹部やクローニーと呼ばれる取り巻きの企業家たちは、自分たちが特別な責任と特別な権利を持つ特権階級だと考える傾向があるが、その一方で、末端の兵士たちの待遇は恵まれておらず、慢性的に士気が低く、脱走兵が多いと伝えられている[3]

名称

[編集]
2021年3月27日国軍記念日のパレード。

「タッマドー(Tatmadaw)」という名称は、ミャンマー語で「王立軍」を意味する。現在、ミャンマーには王室はないため、「栄光」という意味と解されている。2021年のクーデター以降、この名称は国民の間では使用を控えられており、一般には単に「軍」を意味する「シッタ(Sit-Tat)」という言葉が使われている[4]。日本の報道では「ミャンマー軍」「ミャンマー国軍」あるいは単に「国軍」と呼ばれることが多い。

国民の評判

[編集]
アウンサン

ミャンマー人の大半が仏教徒であるため、軍人という職業は一般にあまり人気がない。しかし独立当初はイギリスや日本から独立を勝ち取ったということで、国軍は国民の尊敬の念を集めていた。国軍の前身・ビルマ独立義勇軍(BIA)を率いていたアウンサン(アウンサンスーチーの父)以下、30人の同志たちは、現在でも国民の英雄である[3]

独立後は、ビルマ共産党(CPB)や少数民族武装勢力などの反乱から国土を守ったということで、国民の支持はいっそう高まった。当時、ネウィンは戦力不足を補うために、国内の有力者の協力の下、兵士を募ったのだが、国軍への支持が高かったので、比較的円滑に行われたのだという。1958年~1960年のネウィン選挙管理内閣の評判も上々で、1962年にネウィンがクーデターを起こして政権を奪取した時も、政党政治の混乱を収めてくれると歓迎する声が多かったのだという[3]

しかし、ビルマ式社会主義の下、経済状況・生活環境が悪化すると、国軍の評価は徐々に低下していき、国軍の呵責のない攻撃・弾圧を受けた、国境地帯に住む少数民族の人々は、国軍に対して憎悪さえたぎらせるようになった。それでも8888民主化運動までは、国民は無能な軍事政権と国軍を区別しており、国軍は庶民にも出世の機会を与えてくれる貴重な存在で、国軍士官学校(DSA)への志願者は引きも切らず、専門性があり、汚職が少なく、団結心が強いという評価だった[3]

しかし、8888民主化運動の際の国軍による激しい弾圧は、国民の幻滅を生み、その後のスーチーや政治犯に対して繰り返された人権侵害、2007年のサフラン革命時の僧侶に対する暴力、2008年のサイクロン・ナルギスの際の救助の遅れは、さらに国軍の評価を低下させた。ミャンマー政治の専門家・中西嘉宏によると、「そもそも民族解放のために戦った軍隊として尊敬を集めていた国軍が、民衆の抑圧者と認識されるようになったことに対する問題意識は軍内でも広がっていた[5]」のだという[3]

これに対して国軍は歴史教育において愛国心を強調したり、連邦団結発展協会(USDA)などさまざまな国軍派の社会団体を結成したり、全国規模のプロパガンダキャンペーンを展開したりして、国軍の評価回復に努めたが、国民民主連盟(NLD)が参加しなかった2010年総選挙を除いた、1990年総選挙2015年総選挙2020年総選挙で国軍派政党が惨敗したことに鑑みるに、その効果は疑わしい。2021年のクーデター以降は、国軍の評価は最底辺にまで落ちこみ、国軍士官学校の志願者も激減[6]している[3]

歴史

[編集]

ビルマ王朝時代

[編集]

9世紀から19世紀までのビルマ王朝の軍隊を王立軍という。王立軍とは、時系列順にパガン王朝アヴァ王朝タウングー王朝コンバウン王朝の軍隊を指す。19世紀にイギリスに60年かけて敗れるまでの間、王立軍は東南アジアでも有数の軍隊であった。

王立軍は首都と宮殿を守る数千人規模の独立部隊と、より大規模な徴兵による戦時軍に分かれて組織される。徴兵は、戦時には地域の首長に管轄区域内の人口に基づき予め決められた数の兵を提供させる「ahmudan制」を基盤としていた。また戦時郡には戦象兵騎兵砲兵水軍の部隊も含まれた。

火器は14世紀に中国から初めて導入され、何百年もかけて徐々に戦略へ取り入れられるようになっていった。ポルトガル製の火縄銃と大砲を装備した最初の特別部隊は16世紀に編成された。この特別火器部隊を除けば、通常の徴募兵に対する正式な訓練はなく、彼ら徴募兵は自衛のための基礎知識と、自前の火縄銃の操作習熟を期待されているだけであった。18世紀になって欧州列強との技術の差が大きくなるにつれ、軍は欧州から売り込まれる、より洗練された武器に依存するようになっていった。

王立軍は隣国の軍隊に対する防衛力は保っていたが、より技術的に進んだ欧州の軍隊への対抗力は劣化していった。 王立軍は、17世紀と18世紀にそれぞれ侵入したポルトガルとフランスを撃退したものの、19世紀に侵入した大英帝国の軍事力には及ばず、第1次第2第3次英緬戦争に敗れた。1886年1月1日、ビルマ王立軍はイギリス政府によって正式に解散された。

英領ビルマ(1885~1942)

[編集]

イギリス統治下のビルマでは、ビルマ植民地政府は、ビルマ人兵士を東インド会社の軍隊(そして後の英領インド陸軍)に採用することは避け、代わりに既存のインド人のセポイとネパール人のグルカ兵に新たな植民地へ駐屯させた。 ビルマ人に対する不信感から、植民地政府はこの禁令を何十年も維持し、代わりに先住民のカレン族カチン族チン族によりに新しい植民地軍を編成することを模索した。 1937年、植民地政府は禁令を取りやめ、ビルマ兵も英領インド陸軍に少数で入隊させるようになった[7]

第一次世界大戦の勃発時、英領インド陸軍で唯一のビルマ連隊である第70ビルマライフル連隊は、カレン族、カチン族、チン族より成る3個大隊で構成されていた。戦争中、戦時の要請により、植民地政府は禁令を緩和し、第70ビルマライフル連隊にビルマ大隊を、第85ビルマライフルにビルマ中隊を、および7個ビルマ機械化輜重中隊を編成した。更に、ビルマ人を中心とした「ビルマ工兵(Burma Sappers and Miners)」(戦闘工兵)3個中隊と、チン族とビルマ人による労働兵団(Royal Pioneer Corps)1個中隊も編成された。これらの部隊はすべて1917年に海外任務を開始した。第70ビルマライフルが警備任務のためにエジプトで勤務する一方、ビルマ労働兵団はフランスで勤務した。ビルマ工兵の1個中隊は、メソポタミアのティグリス川の渡河で際立った働きを見せた[8] [9]

第一次世界大戦が終わると、植民地政府はビルマ人兵士を雇うのをやめ、1個中隊だけ残して他は全て解散させ、残した中隊も1925年までで廃止された。ビルマ工兵の最後のビルマ中隊も1929年に解散した[8]

代わりに、インドの兵士やその他の少数民族がビルマにおける植民地軍の主力として用いられ、その植民地軍が1930年から1931年にかけてサヤー・サンが率いたようなビルマ民族の反乱を鎮圧するために用いられた。1937年4月1日、ビルマは分離された植民地(イギリス連邦内の自治領)となり 、ビルマ人にも軍隊に加わる資格が与えられたが、ビルマ人はほとんど入隊しなかった。 第二次世界大戦が始まる前、イギリス統治下のビルマ軍は、イギリス人の将校団を除くと、カレン族(27.8%)、チン族(22.6%)、カチン族(22.9%)、ビルマ人12.3%で構成されていた[10]

日本占領期

[編集]

1941年12月、大日本帝国の助力を得て、 30人の同志ビルマ独立義勇軍 (BIA)を創設した。ビルマ独立義勇軍はアウンサンが率い、大日本帝国陸軍側に立ってビルマの戦いに参戦した。多くの若者がその部隊に加わり、信頼できる推定によればその数は15,000人から23,000人の範囲とされている。新兵の大部分はビルマ人であったが、少数民族はほとんどいなかった。新兵の多くは規律に欠けていた。エーヤワディー川デルタ地域のミャウンミャではBIAのビルマ人兵とカレン族の間で民族紛争が勃発し、双方が虐殺行為に及んだ。BIAはすぐにビルマ防衛軍に置き換えられ、1942年8月26日に3千人のBIA古参兵により設立された。ビルマが名目上の独立を達成した1943年8月1日、軍はネウィンを指揮官とするビルマ国民軍となった。1944年後半には、約15,000人の兵力があった[11]。その後、ビルマ国民軍は、形勢が不利となった日本との関係を断ち切るために、1945年3月27日に連合軍側に加わった。なお3月27日は対日蜂起を記念して国軍記念日となっている。

独立後(1948年~1958年)

[編集]

1945年9月のアウンサンと連合軍との間で結ばれたキャンディ協定に従い、英領ビルマ軍とビルマ愛国軍を統合してミャンマー軍(以下、国軍)が編成された。その将校団は、ビルマ愛国軍の将校、英領ビルマ軍の将校、およびビルマ予備軍(ABRO)の将校たちであった。また、植民地政府は、民族的背景に基づいた「クラス大隊」というものの創設を決めた。独立当時は合計15個ライフル大隊があり、そのうち4個はビルマ愛国軍出身者で構成されていた。しかし、元ビルマ愛国軍の将校は、軍務局(War Office)や司令部内の影響力のある役職には全く任命されず、工兵、補給、輸送、兵器、衛生、海軍、空軍を含む全ての兵科は、ビルマ予備軍と英領ビルマ軍の元将校によって指揮されていた[要出典]。1948年のミャンマー独立時、国軍は弱小で結束も弱く、民族的背景、政治的背景、組織の由来、兵科の違いによって亀裂が生じていた。中でも最も深刻な問題は、英領ビルマ軍からのカレン族将校とビルマ愛国軍(PBF)から来たビルマ族将校の間の緊張であった。[要出典]

1948年のミャンマー軍の民族系統と部隊構成[12]
大隊 民族 / 軍隊構成
第1ビルマライフル ビルマ族 (軍事警察 +アウンサンのビルマ愛国軍と連携したタウングーゲリラ集団の構成員)
第2ビルマライフル 2個カレン族中隊+1個チン族中隊+1個カチン族中隊
第3ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官チョーゾー(Kyaw Zaw )少佐BC-3504
第4ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ネウィン(Ne Win)中佐 BC-3502
第5ビルマライフル ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 指揮官ゼヤ(Zeya)中佐BC-3503
第6ビルマライフル 1947年後半にアウンサンが暗殺された後に編成された。ビルマ族 / 元ビルマ愛国軍 – 初代指揮官はゼヤ(Zeya)中佐
第1カレンライフル カレン族 / 元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第3カレンライフル カレン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1カチンライフル チンポー族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2カチンライフル カチン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第1チンライフル チン族 /元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第2チンライフル チン族/元英領ビルマ軍と元ビルマ予備軍
第4ビルマ連隊 ビルマグルカ
チン丘陵大隊 チン族
軍務局の参謀と指揮官の配置(1948)[13]
官職 氏名と階級 民族
総参謀長 中将スミス・ドン( Smith Dun) BC 5106 カレン族
陸軍参謀長 准将Saw Kyar Doe BC 5107 カレン族
空軍参謀長 中佐 Saw Shi Sho BAF-1020 カレン族
海軍参謀長 中佐 Khin Maung Bo ビルマ族
北ビルマ地区司令官 准将ネウィン( Ne Win) BC 3502 ビルマ族
南ビルマ地区司令官 准将Aung Thin BC 5015 ビルマ族
第1歩兵師団長 准将Saw Chit Khin カレン族
軍政総監 中佐 Kyaw Win ビルマ族
法務総監 大佐 Maung Maung BC 4034 ビルマ族
主計総監 中佐Saw Donny カレン族

独立の英雄として名高いアウンサン以下いわゆる”30人の同志”が、現在の国軍の礎を築いたと思われがちだが、新生国軍に残ったのはネウィン、チョーゾー(Kyaw Zaw)、ボー・バラ(Bo Bala)の3人だけで、そのチョーゾーにしても1957年に失脚後、ビルマ共産党(CPB)に参加しており、残りのメンバーも多くがその後反政府運動に転じている。ボー・ラ・ヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)はPVOの反乱に参加、ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥット(Bo Ye Htut)、ボー・ヤン・アウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加、ボー・レット・ヤー(Bo Let Ya)、ボー・ヤン・ナイン、ボー・ムー・アウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セキャ(Bo Setkya)はウー・ヌがタイ国境で結成した反政府武装組織・議会制民主主義党(PDP)に参加した。1988年民主化運動の際には30人の同志の生き残り11人のうち9人がネウィンを糾弾し、デモへの参加を呼びかけた。このようにアウンサンスーチーが「父の軍隊」と呼んだ国軍は、アウンサンが率いた国軍とはまったく異質なものだった[14]

1948年1月4日の独立直後からCPB、カレン族、国軍内のカレン族兵士やCPBに同調した勢力などが反乱を起こし、ミャンマーは内戦状態となった。この状況でウー・ヌ首相は。国軍内のカレン族将校・兵士を全員解雇し、代わりにネウィンを陸軍参謀総長に任命。これにて国軍から英植民地軍の影響が一掃された。

ネウィンが率いていた第4ビルマ・ライフル部隊には社会主義者が多く、”社会主義部隊”と呼ばれていたが、1948年から1950年にかけての反乱・離反鎮圧の際にもほぼ唯一無傷で残った部隊となり、国軍の中核となっただけでなく、1962年にクーデターで成立したネウィン軍事独裁政権でも件の部隊出身者が要職を占め、ミャンマーの歴史に大きな影響を及ぼした。軍事独裁政権の最高権力機関・革命評議会は”第4ビルマ・ライフル部隊政権”と呼ばれたほどである。革命評議会No.2だったアウンジー、ネウィンの片腕だったティンペ(Tin Pe)、チャウソー(Kyaw Soe)、1988年民主化運動の最中17日間だけ大統領を務めたセインルイン(Sein Lwin)、1976年から1985年まで陸軍参謀総長、1976年から1988年まで国防相を務めたチョーティン(Kyaw Htin)、1988年にビルマ社会主義計画党(BSPP)から改名した国民統一党(NUP)初代党首・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネウィンの専用コックで、強大な権力を有したラジュー(Raju)というインド人、皆、第4ビルマ・ライフル部隊出身である[14]

選挙管理内閣(1958年~1960年)

[編集]
ネウィン

独立後のミャンマーの政治は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が圧倒的多数与党だったが、腐敗と権力闘争がひどく、1957年にはウー・ヌの清廉派AFPFLとバー・スエらビルマ社会党のメンバーからなる安定派AFPFLに分裂。数的に劣っていたウー・ヌの清廉派は最大野党の左派勢力・民族党一戦線(NUF)を取り込むために左傾化し、反政府武装勢力に恩赦令を出したり、AFPFLの民兵組織・人民義勇軍(PVO)を合法化したりした。ウー・ヌのこうした態度に国軍の一部が反発、北部軍管区司令部がクーデターを計画した。南部軍管区司令部はクーデターに反対していたので、これは国軍分裂の危機でもあった。計画を事前に察知したマウンマウンやアウンジーなどの国軍幹部は両者の間を取り持つために奔走。最終的に1959年4月末までに総選挙を行うことを条件にネウィン国軍総司令官にに政権移譲することで両者の合意を取りつけ、1958年10月、ネウィン選挙管理内閣が成立した。件の内閣は、武装勢力鎮圧と治安回復、物価の引き下げ、行政機構の刷新、ヤンゴンの美化、シャン州・カレンニー州の土侯の伝統的世襲特権の廃止、中国との国境画定などそれなりの実績を出しつつ、約束どおり1960年2月の総選挙に勝利した清廉派に政権を返還した。この功績によりネウィンはアジアにおける社会貢献など傑出した功績を果たした個人・団体に贈られるマグサイサイ賞の候補に上がった[15]

しかし、この清廉派内閣も安定せず、結局、1962年3月2日、ネウィンはクーデターを決行、ウー・ヌ以下各閣僚、ヤンゴンで開催されていた連邦セミナーに出席していたシャン州とカレンニー州の議員たちを拘束した。ネウィンがクーデターを起こした理由については、シャン州の土侯たちが中心になって展開していた「真の連邦制」を求める運動が、連邦分裂をもたらしかねないと危機感を抱いていたためとも言われるが(ミャンマー内戦#政界の混乱と連邦分裂の危機)、中西嘉宏は、件の運動は自治権拡大を主張する穏健なものであり、連邦分裂の危機が迫っていたわけではないとこの説に否定的である[16]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代(1962年~1988年)

[編集]
初代革命評議会議員の階級とポスト[17]
役職 名前 階級(軍種) ポスト
議長 ネウィン 将軍(陸軍) 国軍総司令官
議員 アウンジー 准将(陸軍) 陸軍参謀次長
議員 タンペ 准将(海軍) 海軍参謀次長
議員 T.クリフ 准将(空軍) 空軍参謀次長
議員 ティンペ 准将(陸軍) 国軍司令部兵站局長
議員 タンセイン 大佐(陸軍) 国軍司令部陸軍高級参謀
議員 チョーソー 大佐(陸軍) 国軍司令部人事局長
議員 チッミャイン 大佐(陸軍) 国軍司令部副兵站局長
議員 キンニョー 大佐(陸軍) 国軍司令部訓練局長
議員 フラハン 大佐(陸軍) 国軍司令部医務局長
議員 サンユ 准将(陸軍) 西北軍管区司令官
議員 セインウィン 准将(陸軍) 中央軍管区司令官
議員 タウンチー 大佐(陸軍) 東南軍管区司令官
議員 チマウン 大佐(陸軍) 西南軍管区司令官
議員 マウンシュエ 大佐(陸軍) 東部軍管区司令官
議員 ソーミン 大佐(陸軍) 国境地域行政官
議員 タンユサイン 大佐(陸軍) 人民警察副長官

クーデターを起こしたネウィンは、国会の解散、1947年憲法の停止、ウー・ヌ以下主要閣僚の逮捕・拘束を断行して、『ビルマ式社会主義への道[18]を発表し、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成して一党独裁と国有化を特徴とする社会主義国家の建設を目指した。しかし、BSPPが本格始動するのは1971年からであり、それまでは革命評議会という組織に全権力が集中した。その構成は、1962年時点の陸軍12万人、海軍3000人、空軍2500人という兵力を反映して、陸軍の圧倒的優位だった。

国軍はネウィンの権力の源泉であるとともに脅威でもあった。ゆえに革命評議会には側近とともに、実際に戦場で反乱軍鎮圧に当たっている地方司令官を採用し、他にもBSPPや国家評議会、大臣、副大臣、人民評議会などの行政の要職に国軍将校を配置して、その懐柔を図った[19]。ネウィンはBSPPを真の人民政党にすべく、党と国軍の分離を図ったが、結局、軍務組の巻き返しにあって失敗した(ビルマ社会主義計画党#1974年の民政移管)。また行政の要職に国軍将校を配置したことにより、英植民地時代から連綿と続いてきた官僚機構の伝統と能力は失われ、現在に至る官僚の人材不足に繋がっていると言われる[20]

また国軍は、後述する人民戦争理論にもとづく軍事ドクトリンの下、人民軍としてのイメージが強調され、プロパガンダでは、軍人と農民、労働者、少数民族、女性との協調が強調されていた[21]。この人民軍のイメージの下、党による国軍の統制が試みられ、国防省に党中央委員からなる国軍党委員会が設置された他、参謀本部、軍管区司令部、師団司令部、軍地区、駐屯基地、基地司令部、大隊、部隊レベルで党組織化委員会が設置された。しかしこれらの委員会は現役将校だけから構成され、党から派遣された政治将校が部隊レベルの意思決定に関与するコミッサール制は採られず、党による国軍の統制は限定的なものに留まった。むしろ既に退役してBSPP議長と大統領の職にあったネウィンが、件の制度を利用して国軍を統制するものとして機能した[22]。ただただネウィンは個人崇拝を嫌い、親族を優遇することもなかった。この姿勢はその後のSLORC/SPDC、SACにも引き継がれている。ミャンマーの軍事独裁は、個人独裁と制度独裁が組み合わされたものであり、総じて、ネウィン時代のミャンマーは、現在にも通じる国家が国軍に従属する関係が深化した時代だった。

1985年11月、ソウマウンが国軍総司令官に、タンシュエが陸軍参謀長に就任した。2人とも士官訓練学校(OTS)出身の比較的若い世代であり、世代交代が進まないBSPP幹部とは対照的な人事だった。そして1988年9月、8888民主化運動による混乱を機に、国軍はクーデターを起こし、憲法も議会も停止して、国軍幹部19人からなる国家秩序回復評議会(SLORC)が設置され、ソウマウンが議長の座に就いた。中西嘉宏は、このクーデターを現役将校による退役将校の追い落としという側面があったと指摘しているが[23]、キンニュンの回顧録によれば、ソウマウンとキンニュンは事前にネウィンに相談していたとのことである[24]

SLORC/SPDC時代(1988年~2010年)

[編集]
タンシュエ

比較的若い現役将校ばかりからなるSLORCは、①連邦分裂阻止②諸民族分裂阻止③国家主権堅持という3つの国家的大義を掲げ、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」から「ビルマ連邦」、そして「ミャンマー連邦」に変更し、経済の自由化、少数民族武装勢力との停戦合意、アウンサンスーチー率いる民主派に対する弾圧と意欲的に国家体制の立て直しを図った[25]。1998年にはSLORCは国家平和発展評議会(SPDC)に改組し、タンシュエが議長となった。

SLORCもSPDCもメンバーは全員国軍幹部で、SLORC/SPDCの他に設けられた内閣のメンバーもほとんどが現役将校で、退役将校の影が薄いのはBSPPとの違いだった[25]。また兼任も多く、ソウマウンは国軍総司令官、SLORC議長、首相を兼任し、タンシュエも国軍総司令官、SPCD議長、首相を引き継いでいた。意思決定の透明性が低く、スピードが遅いのが特徴で、通常、軍人がクーデターを起こした政権を獲った後は、徐々に文民が政権入りするケースが多いところ、SLORC/SPDCは軍人中心の体制が20年以上も続くという世界的にも稀有な例だった[26]

SLORC/SPDCは「現代的条件下での人民戦争理論」という新しい軍事ドクトリンの下、国軍改革にも乗り出した。国防予算を拡大して、兵力を40万人まで増強、将校も1期2000人ほどに大幅増強、軍の特別作戦部が2から6へ、軍管区が9から13へ、歩兵師団が8から10へ、大隊は165個大隊から606個大隊まで増加した。また兵器も増強し、中国やロシアなどから最新兵器を導入、これまで軽視してきた海軍・空軍の軍備も強化した。中西嘉宏は、この動きを「叩き上げの軍人たちによる、1988年までの国軍軽視に対する反動」と評している[27]。その甲斐あって、この時期は独立後のミャンマーでもっとも平和な時期となった[25]。ただ2008年憲法第338条「兵器を保持するすべてのミャンマー国内の武装組織は、国軍の指揮下に置かなければならない」にもとづいて行われた、少数民族武装勢力の国境警備隊(BFG)への編入は、カチン新民主軍(NDA-K)、カレンニー民族人民解放戦線(KNPLF)、民主カレン仏教徒軍(DKBA)を除いて失敗した[25]。国軍将校の天下り先としては、BSPPはなくなってしまったが、行政機関やミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)英語版ミャンマー経済公社(MEC)英語版[28]などの国軍系企業の主要ポストや、民政移管時には上下院議員や地方議会の軍人枠、USDPの議席を将校に充てがい、人事を円滑に進めた[25]

こうした中でも民政移管への準備は進められ、2008年には新憲法[29]の国民信任投票が行われ、92.45%の賛成票を得て採択された。2010年11月7日、新憲法にもとづく総選挙が実施され、スーチー率いる国民民主連盟(NLD)の不参加もあって、国軍の中堅将校が主要メンバーの連邦団結発展党(USDP)が圧勝し、テインセインが大統領に選出された(総選挙前に退役)。また新国軍総司令官にはミンアウンフラインが任命された。これはタンシュエが一手に握っていた権力を二分割して、ネウィン時代に目指されていた党軍分離ないし政軍分離が実現した格好だった。

民政移管後(2010年~2020年)

[編集]
ミャンマーの国家機構図(2011年)

2008年憲法は、ミャンマーの憲法史上初めて「国軍の章」(第7章)が設けられ、第6条6項で「国家が国民政治の実現を目指していく際に、国軍の国民政治への参画を可能とすること」を国家目標の1つに掲げられ、第17条2項で国軍将校の行政機関への出向を認めるなど、大敗した挙句、選挙結果を反故にして国際的信用を著しく落とした1990年総選挙の反省を踏まえ、国軍の政治的関与を大幅に認めたものだった。

他にも①連邦議会の両院議員、14の地方議会の25%は軍人議員と定められていたり(第109条、第110条)、②大統領の要件として軍事に精通していることが求められたり(第59条4項)、③国防相、治安・内務相、国境相の任命権が国軍総司令官にあるとされたり(第232条2項《ハ》)、④憲法改正の際には連邦議会の両院議員の75%を超える賛成が必要、つまり軍人議員の賛成が必ず必要とされたり(第436条2項)、⑤非常事態時に強大な権限を有する国防治安評議会の定員11人のうち、6人は国軍関係者だったり(第201条)、国軍優位の規定があった[30]。とはいえ、国軍総司令官の兼務がなくなったことにより、その人事権はかなりの程度縮小しており、国軍と歩調を合わせる与党が存在しなければ、大統領の選出についても立法についても国軍のできることは限定的ではあった。

テインセイン

また政治の担い手たちに目を転じると、連邦政府の閣僚のほとんどが退役軍人だったが、USDPの議員のうち退役軍人は、人民院で31人、民族院で15人とさほど多くなく、ビジネス関係者や元公務員が多数派だった。一方、軍人議員は非主流派の中堅将校が中心という構成で、両者は若干色合いが違った。そして大統領に選出されれば、議員も党も辞めなければならないと憲法に規定されていたことからも分かるとおり、この2008年憲法体制は、大統領、与党、国軍のパワーバランスが図られた政治制度だった。

とはいえ、国軍関係者中心の構成には変わりなく、実質軍政と変わらないとして、当初、テインセイン政権に対する期待は高くなかった。しかし、予想されたほど、連邦政府、USDP、軍人議員が一枚岩にならなかったこともあり、にわかに議会活動は活性化していき、2011年7月19日、ネピドーのアウンサンの肖像画の掛かる部屋でテインセインとスーチーの会談が実現すると、一気に改革が加速し始めた。政治犯の釈放、表現・報道の自由拡大、国民民主連盟の政党再登録、住民の反対の声が強かった中国との共同事業・ミッソンダム建設計画の凍結、各種経済改革など矢継ぎ早に改革が進められ、最重要課題だった少数民族武装勢力との和平交渉でも進展があり、2011年から2012年の間に多くの少数民族武装勢力と停戦合意を結び、2015年10月15日には8つの武装組織と全国停戦合意を締結した[26]

しかし、2015年総選挙でNLDが圧勝したことにより、このパワーバランスが崩れた。スーチーは、外国籍の子供がいるせいで憲法の規定により大統領にはなれなかったはずだったが、国家顧問というポストを創設してその地位に就き、「大統領の上に立つ」と宣言したのである。USDPの議員や軍人議員はもちろんこの案に反対したが、NLDが圧倒的多数を占める議会で賛成多数で可決した。さらに国軍総司令官・ミンアウンフラインは国防治安評議会の開催を再三要求したが、国軍派が過半を占める会議の構成を嫌ってか、スーチーは1度もこれに応じず、国軍との関係は冷えきっていった。

そして2017年のロヒンギャ危機で西側諸国の支持を失ったスーチーは、徐々に中国に接近していった。またスーチーは、国軍の利権構造を破壊しにかかっており、まずGADという地域住民の監視、土地の管理や徴税、住民登録、地域の苦情処理という業務を担当する行政組織を内務省管轄下から大統領直轄下に移動させた。これは国の隅々に張り巡らした、言わば国軍の血脈を奪う行為に等しく、国軍には絶対に受け入れられないことだった。またスーチーは宝石法という法律を改正して取引の透明化を図り、国軍の利権に直接メスを入れ始めた。そして2020年には否決覚悟とはいえ、国軍の政治関与を大幅に削減する憲法改正案を議会に提出したのだった[31]

2010年3月27日、軍政支配下最後の国軍の日の記念式典で、タンシュエはこう述べていた。

「われわれ(軍)は必要とあればいつでも国政に関わる」

「選挙に参加する政党は、民主主義が成熟するまで自制、節度を示すべきだ」

「民主化の誤ったやり方は無秩序を招く」

「失敗すると、国と国民を危険にさらしてしまう」

「外国からの影響力に頼ることは絶対に避けねばならない」[32]

2021年クーデター後

[編集]
ミンアウンフライン

2020年11月8日に実施された総選挙で、NLDは前回を上回る、改選議席の8割以上に当たる396議席を獲得し圧勝、対するUSDPはまたしても惨敗を喫した[33]。国軍とUSDPは、総選挙に不正があったとして抗議を行ったが、NLDは取り合わず、両者の間には緊張が走った[34]

そして2021年2月1日、国軍はウィンミン大統領、スーチー国家顧問、NLD幹部、NLD出身の地方政府トップら45人以上の身柄を拘束して、クーデターを起こした。国軍出身のミンスエ第一副大統領が大統領代行(暫定大統領)に就任し、憲法417条の規定に基づいて期限を1年間とする非常事態宣言の発出を命じる大統領令に署名し、国軍が政権を掌握。国軍総司令官のミンアウンフラインに立法、行政、司法の三権が委譲され、国家行政評議会(SAC)が設立され、ミンアウンフラインは、SAC議長と、8月1日に組閣された内閣の首相に就任した。

革命評議会、SLORC/SPDCの過去の軍政と比較すると、SACのメンバーは現役将校が 9人,文民が10人と文民が過半数を占めているのが特徴だった。文民のうち2人は,2010年総選挙への参加を機にNLDを離党した国民民主勢力(NDF)の関係者で、残りの8人はカレン族、ラカイン族、モン族など異なる少数民族の出身だった。件の人事からはさまざまなさまざまな政治勢力や民族に配慮するという国軍の意思が見て取れたが、彼らは国民の反発を完全に見誤っていた。クーデター抗議デモは激化し、国軍は武力をもってこれを弾圧。激しい国際的非難を浴びた。さらに弾圧を逃れたNLD議員が中心となって国民統一政府(NUG)を設立、9月7日には、国軍に対して宣戦布告を宣言し、各国民防衛隊(PDF)・少数民族武装勢力に一斉蜂起を呼びかけ、以降、内戦に突入した。

2023年10月27日、三兄弟同盟アラカン軍ミャンマー民族民主同盟軍タアン民族解放軍)が1027作戦を発動し、2024年1月5日にはコーカン自治区のラウカイを攻略。8月3日にはシャン州のラーショーを攻略し(ラーショーの戦い英語版)、同地にある国軍北東軍管区司令部が占拠された[35]。国軍の地方司令部が反政府勢力に占拠されたのは、ミャンマーの内戦史上初のことだった。2024年10月現在、国軍は各地で空爆を行って失地回復を図っているが、劣勢が伝えられている。

軍事ドクトリン

[編集]

独立初期の内戦時代(1948年~1958年)

[編集]

最初の軍事ドクトリンは1950年代前半に策定された。当時は国内の少数民族武装勢力の反乱が喫緊の課題だったのに関わらず、意外にもそれは、建国されたばかりの中華人民共和国を仮想敵とした外国勢力対策重視のものだった。策定者は、後に8888民主化運動の際にBSP議長となるマウンマウンだったが、彼の強烈な反共主義と向上心が反映された格好である。

そしてその内容は、大規模師団、装甲旅団、戦車、機動戦による正規戦にもとづく防衛計画で、朝鮮戦争時に行われた国連軍の警察活動を想定して、国連軍の到着を待つ間、侵略勢力を国境地帯に2、3ヶ月封じこめるというものだった。しかしこれを実現するためには、適切な後方支援・訓練体制、豊富な経済的・技術的資源、効率的な民間防衛組織が不可欠で、当時の国軍にはそのすべが欠けていた。1953年2月、シャン州に居座った中国国民党軍に対するナーガー・ナイン(勝利の龍)作戦で、初めてこのドクトリンが試されたが、結果は、不利な地形と資源不足が相まり、国軍にとって屈辱的な完敗に終わった。しかしその後、1950年代後半の反国民党作戦で一定の成功を収めたとされている。

この最初の軍事ドクトリンは、各反乱軍を国境地帯に追いやり、戦闘形態が正規戦からゲリラ戦へ移行するにつれ、次第に不適当なものになっていった[36]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代(1962年~1988年)

[編集]

1950年代後半、国軍は、カレン民族防衛機構(KNDO)が中国国民党に兵器の提供を要請したり、CPBが中国共産党の指示を受けているという情報を入手しており、国内の反乱を鎮圧しない限り、外国の侵略を受けるという危機感を抱いていた。そのため新しい軍事ドクトリンの中核は、国内の反乱対策となった。そのために国軍は、国民の総力を結集したゲリラ戦略を取る「人民戦争理論」の採用した。

1964年7月、後に首相を務めたトゥンティン(Tun Tin英語版)率いる調査団が、スイス、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、東ドイツに派遣され、人民戦争に関する調査を行い、同様に近隣諸国に調査団が派遣された。この頃、毛沢東の一連の著作や林彪の『人民戦争』、チェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』が将校たちの間で広く読まれたのだという。結果、人民戦争を遂行するためには、平時に約100万人の正規軍、非常時にさらに約500万人の民兵を動員する能力が必要とされ、そのための人材育成機関の設立や2年間の兵役義務化が提言された。しかし国内の反乱を鎮圧する前に大量の民兵動員を行うことは、むしろ有害という認識が国軍内で広まり、結局、この大量動員は実現しなかった。

それでも1965年までに人民戦争理論は国軍の正式ドクトリンとして受け入れられ、各種国軍系出版物を通して人口に膾炙し、1971年のBSPP第1回党大会で正式に承認された。また人民戦争理論は国内反乱対策においても有効とされ、各地で民兵グループ(ピューソーティー民兵)が結成された。1974年までに212郡1831村落、6万7736人に及び、ライフル、自動小銃など1万5227丁が配布されたのだという。ただ人員に比して兵器の数が少なく、実際の戦闘への寄与度は低かったものと思われる[37]

一方、人民戦争を成功させるための国内の反政府武装勢力対策としては、山岳部に追いやられた各武装勢力がゲリラ戦に転じたことにより、国軍も偵察、待ち伏せ、夜間戦などの対ゲリラ戦術が導入し、武装勢力の幹部の逮捕・拘束、正確な情報、敵軍の殲滅(占領ではなく)、小隊レベルの戦術的独立性が重要視された。そしてこれを遂行するためには、人民戦争理論と同様に、政治、社会、経済、軍事、公共管理という”5つの柱”を総動員することが不可欠とされ、そのためには国民との支持と協力が重要ということで、兵士の規律の改善が強調された。1968年には、後に首相を務めたトゥンテインがイギリス留学から持ち帰った戦略を元に四断作戦(four cuts)が策定された[38]。これは、反政府勢力の食糧・資金・情報・徴兵を絶ったうえで、根拠地を攻撃するというものである[39]。国内反乱対策の優先順位は、まずエーヤワディーデルタ地帯を確保して強化した後、国境地帯に拠点を持つ武装勢力に攻撃を仕かけるというものだった[40]

SLORC/SPDC時代(1988年~2010年)

[編集]

8888民主化運動を経験した国軍は、民主派や少数民族武装勢力が外国勢力と結びつくのを恐れ、軍事ドクトリンを再び見直し、強大な外敵にも正規戦で対抗しうるよう、人民戦争理論を保持しつつ軍備の増強を進めた。この新しい軍事ドクトリンは、「現代的条件下での人民戦争理論」と定義づけられている。現代的条件下での人民戦争理論下では、マンパワー、時間、空間という従来の3つの要素に、「サイバー」という4つ目の要素が加わった。若い司令官たちは軍事革命(RMA)に熱心に学び、砂漠の嵐作戦コソボ紛争アフガニスタン紛争などを教材にして電子戦や情報戦を研究した。さらに国軍士官学校にはコンピューター科学の学位が導入され、数名の将校が電子戦と情報戦の訓練のために海外に派遣された[41]

民政移管後(2010年~)

[編集]

2016年1月に開催された第1回連邦和平会議において「標準的な軍隊(Standard Army)」という構想が示された。結局、軍事ドクトリンにまでは昇華せず、具体的内容は明らかにされなかったが、国軍総司令官・ミンアウンフラインの指揮の下、様々な改革が行われた。国軍の国際的イメージのアップを図る意図があったようだ[42]

2011年以降、国軍は人権、未成年者徴用、治安部門改革(SSR)、武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)などがテーマの国際会議やワークショップに参加したり、国際機関の仲介で国軍将校をヨーロッパや紛争後の国家への研修に派遣した[42]。2017年5月にはミンアウンフライン国軍総司令官とEU軍事委員会(EUMC)委員長・ミハイル・コスタラコスとの会談が実現[43]国際労働機関(ILO)と協力して、未成年者徴用の問題にも取り組み、2012年から2018年の間に924人の少年兵を解放した[44][45]

2013年2月、タイで行われる多国籍軍事演習・コブラ・ゴールドに2名のオブザーバーを派遣するよう招待され、以来、2020年まで毎年参加していた[46]

2013年3月、テインセイン大統領が訪豪した際、オーストラリア政府は、1979年に閉鎖されたヤンゴン国防駐在官を復活させると発表。 2014年以降、オーストラリア政府は、国軍に対して人道支援や災害救援、国際法に関するワークショップや訓練など数多くの支援を行った。2014年3月に開催されたオーストラリア・ミャンマー国防協力協議では、両国の軍隊間の連携を強化することで合意した[42]

2013年7月、テインセイン大統領が訪英した際、イギリス政府はヤンゴンに国防駐在官を派遣すると発表。また国軍に対して人権、武力紛争法、民主的軍隊の説明責任に関する研修を提供した。

2014年9月、ミンアウンフライン国軍総司令官が来日。年末から日本・ミャンマー将官級交換プログラムが開始され、日本財団から毎年10人の将校が奨学金を得て、日本の大学で国際関係の学位を取得することになった[47]。2015年からは日本の防衛大学校に毎年国軍将校が2人留学していた(2023年に中止[48])。

2014年12月、米議会で2015年度国防授権法が成立。これにより、これまで人権や法の支配のレクチャーに限られていた米軍の関与が、災害救助や医療発展に関する教育訓練に拡大された[47]

予算

[編集]

国防予算

[編集]

国防予算は、1962年から1970年代半ばまで予算規模が10億ksを超えることはなく、微増に留まっていた。海外援助の受け入れを開始して政府予算が拡大する1980年代以降も、政府支出全体の増加幅に比べれば国防予算のそれは小さく、政府予算に占める国防予算の割合はむしろ低下していた。1969年まで年に1回開催されていた国軍大会では、各軍区司令部からは兵器・弾薬の不足、通信機器、輸送用車両の不足、恩給制度の不備、給料の遅配が報告されていた[49]。1950年代半ばから1960年代半ばまでは、予算不足による兵器・弾薬不足、訓練不足、それに端を発する戦闘の危険性・困難の高まりが原因で、毎年2000人、多い時で5000人近くの脱走者を出しており、常に人員不足の状態にあった。戦死者も、最大の敵・ビルマ共産党(CPB)が弱体化して、国軍が攻勢に出始めた1980年代以降急増し、1982年から1986年の年平均戦死者数は888.6人に及び、これは1960年代後半における戦死者数の約2.5倍だった[49]予算制約にともなう物的・人的限界は、作戦遂行に支障をきたすほどだったのだという。1988年に国家法秩序回復評議会(SLORC)成立した後は、GDPに占める割合はやはり約4%程度に留まっていたものの1990年代と2000年代は国防予算の絶対額は着実に拡大し、特に国防予算に占める資本支出(設備投資など)の割合は、1980年代末10%代だったものが、1991年には30%代に達し、2009年、2010年には資本支出が経常支出を上回るまでになっている。絶対額も2003年には1988年の4倍になっている。これは国防予算増加分は主に資本支出が占めていることを示唆するもので、軍需産業施設を含む国防省関連施設の建設や兵器・弾薬の購入に充てられていたものと考えられる[25]

ただし、ミャンマーの国防予算を計算する際には、ミャンマー政府の公表されている数字は信用できないこと、国防省ではなく他の省庁からの補助金が多いこと(例えば国軍はエネルギー省から燃料の補助を受けている)、二重レートがあった時代は外貨建ての支出の一部が、実際の為替レートより200倍以上低い公式為替レートにもとづいて計算されていること、軍事企業からの支出もあったこと、海外のサプライヤーへの支払いなど、一部の支出は物々交換システムの下で現物支給されていることなど考慮事項がいくつかあることに注意が必要である[50]

経済活動

[編集]

独立初期

[編集]

1950年代初め、国軍は将校・兵士とその家族の福利厚生を図り、忠誠心を高めるためのビジネスにも乗り出した。1951年に幹部のほとんどを第4ビルマ・ライフル部隊出身者で占める非営利組織・国防サービス研究所(The Defence Service Institute:DSI)を設立。まずヤンゴンのスーレーパゴダ通りに、軍人とその家族に低価格の輸入品や地産品を供給する雑貨店を開業して成功を収め、数年のうちに全国18店舗に拡大した。次にアバハウス(Ava House)という文房具店兼出版社を設立。これは軍人だけではなく一般にも開放され、これも成功を収めた。自信を付けた国軍はビジネスを巨大化、高品質の外国製品を一般消費者に販売するデパート・ロウ・アンド・カンパニー(Rowe & Co)、民営のA・スコット銀行を買収して改組したアバ銀行、東アジア会社を買収して改組したビルマ・アジア会社、7隻の船を保有する貨物船サービス会社ビルマ・ファイブスター・シッピング・ライン(Burma Five Star Shipping Line)など多数の企業を設立し、他にも石炭の輸入ライセンス取得、ホテル、水産業、鶏肉流通業、建設業、ラングーンとマンダレーを結ぶバス路線、国内最大の百貨店チェーンなどを傘下に収めた[50]

ビルマ社会主義計画党(BSPP)時代

1960年代初め、DSI傘下の多くの企業は新たに設立されたビルマ経済開発公社(Burma Economic Development Corporation:BEDC)の傘下に置かれ、事実上国軍の管理下に置かれた。しかし、1962年にネウィンがクーデターを起こして、軍事独裁政権が成立し、ビルマ社会主義計画党(BSPP)が掲げる「ビルマ社会主義への道」の下、経済の国有化が進むと、DSI・BEDC傘下の企業も国有化された。

BSPP時代には、国軍は商業活動を行わないことが義務づけられていた。そのため営利目的の軍事企業は存在しなかったが、国軍は基本的な生活必需品の生産に携わっており、そのほとんどは軍人とその家族の福利のためであり、基本的には個々の部隊単位で、規模はかなり小さく、連隊基金(RF)からの財政支援を受けていた。例えば大隊は、米や野菜を栽培し、鶏や魚を飼育し、食堂、酒家、ビデオハウスを経営し、ろうそく工場のような家内工業を営んでいたが、これらはすべて連隊基金から資金援助を受けていた。

福利厚生の面では、軍人だけの特別な特権はなかった。上級将校は他の党幹部と同じように、ヤンゴンにある2つの国営商店で補助金を受けた日用品を買うことができ、上級幹部は国営企業で特定の日用品の購入許可を申請することができたが、それは決して権利ではなかった。しかし制服やその他の身の回り品、給与や配給(水・乾物)、住宅設備や手当、医療サービス(肉親の場合も)などを受ける権利はあった。一般に予算外の福祉補助金がないにもかかわらず、兵士は民間人よりも、また一般市民よりも多少恵まれていた[50]

SLORC/SPDC時代以降

さらに国軍は軍人の福利厚生を図り、忠誠心を高めるために本格的にビジネスに参入。1990年にはミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)英語版の前身・ミャンマー連邦経済持株会社(UMEHL)を、1997年にはミャンマー経済公社(MEC)英語版[28]という国軍系企業を設立し、傘下に鉄鋼、セメント、大理石、砂糖、メタノール、石炭、ビール、貿易、金融など多数の企業を置いて莫大な利益を上げ始めた。これに加えてクローニーと呼ばれる企業コングロマリットが10以上存在し、国軍幹部と姻戚関係を結んだりして緊密な関係を築き、軍から許認可や受発注の便宜を受け、急成長し始めた。

これらの企業群は国防予算とは国軍の貴重な収入源となると同時に退役軍人の出向先となり、国軍の重要な利権となった。すべての将校はMEHLやMECの株式から直接的・間接的に利益を得、家族を通じて非合法ビジネスからの利益も得ている。それより地位の低い軍人たちは主に汚職や麻薬などの闇市場から利益を得ている[50]

2000年代には新たに発見された天然ガスが国軍の貴重な資金源となった[51]。ただし、件の天然ガスの採掘量は2019年から激減しており、2021年クーデター以降は西側諸国からの技術提供を含めた投資も停止したままであり、枯渇寸前と言われている[52]

軍備

[編集]

ミャンマーには民間の兵器製造会社は存在せず、すべて国軍が管理運営する軍需工場で生産されている。この軍需工場は、ミャンマー語で「防衛産業局(Directorate of Defence Industries:DDI)」を意味する「Karkweye Pyitsee Setyone」に因み、「カパサ(Kapasa)」と呼ばれている。軍需工場を「防衛産業」施設と呼んでいる事実は、国軍の軍事ドクトリンである人民戦争理論と密接に関連しており、外敵や内敵から国家を守る国軍の役割を強調するものである。2024年10月現在、カパサの最高責任者は国防省産業局長のカンミンタン(Kan Myint Than[53])中将である[54]

独立時、国軍は主に日本軍やイギリス軍が残した兵器に依存し、他にインド、イギリス、イスラエル、ユーゴスラビア、スウェーデンなど様々な国から兵器を調達していたが、その軍備は貧弱なものだった。グリフィス・アジア研究所の研究員・アンドリュー・セルス(Andrew Selth)は以下のように述べている[55]

陸軍は基本的に対反乱作戦のために組織され、配備された軽装備の歩兵部隊であった。経験豊富で戦闘には慣れているが、重装備は時代遅れで、兵站と通信システムは非常に弱く、作戦は輸送、燃料、弾薬の不足によって常に妨げられていた。海軍と空軍はどちらも非常に小規模な部隊で、陸軍を支援する役割に委ねられていた。海軍は沿岸と河川のパトロールしかできず、空軍は地上支援にほぼ特化した構成だった。どちらも時代遅れの兵器プラットフォーム、貧弱な通信機器、予備部品の不足、熟練した人材の不足に苦しんでいた[55]

そこで国軍は、1957年頃から、西ドイツの国営兵器製造会社・フリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner)と提携して、自動小銃、機関銃、手榴弾、迫撃砲、小火器弾薬などを製造しるカパサを建設し始めた。さらにイタリアも加わり、最初に製造された小火器はBA-52または "Ne Win Sten "として知られる、イタリア製9mmTZ-45サブマシンガンのコピーだった。設計は粗く、性能もいまいちだったが、1980年代半ばまでは歩兵の、1990年代初めまでは支援大隊の標準的なサブマシンガンであり続けた。同時にアメリカ、イギリス、西ドイツ、ユーゴスラビア、イスラエルからの兵器の輸入も続けられた。国軍の主要な兵器調達のほとんどは、1950年代と1960年代初めに行われ、その後1990年代に入るまでほとんど更新されず、兵器の近代化は大幅に遅れていた[56]

2024年10月現在、カパサは全国に25あり、国軍の火力の半分を供給していると言われている[57]。1950年代から建設が始まった初期のカパサは、そのほとんどがヤンゴンとその周辺、エーヤワディー川の西岸、バゴー地方域ピイ周辺、マグウェ地方域にあったが、現在、大半はマグウェ地方域にあり、残りはバゴーにある(CDM参加軍人によると、2024年10月現在、マグウェ地方域に15、バゴー地方域に7、ヤンゴン地方域に1、ネピドーに2[57])。カパサがこの2つの地域に集中している理由は、(1)マグウェとバゴーは歴史的に国軍支配地域に位置していた(2)マグウェとバゴーは、辺鄙な場所にあり、人口もまばらで、ビルマ族仏教徒が多く、安全性が確保されている(3)工場の多くはエーヤワディー川の西岸沿いに建設され、兵器の生産に必要な原材料、部品、アイテム、機器、および弾薬などの既製品をさまざまな部隊に輸送するために交通の便の良い場所にあるなどである。カパサは、この2つの地域の中でも人里離れた谷間に建設されることが多く、自然の隠れ家になっているが、洪水の被害に見舞われることも多い。施設はフェンスで囲まれ、労働者のための住宅や高官が訪れる時のためのヘリポートが備わっており、これらの地域では珍しい舗装された幹線道路が通っている。1つの工場に3000人~5000人の労働者がいて、国防技術学校(DSTA)の職員が監督しているのだという[54]

8888民主化運動後、西側諸国からの兵器全面禁輸に直面した国軍は、中国に活路を求めた。1989年、当陸軍参謀次長だったタンシュエが中国を訪問して14億ドルの兵器取引契約を結び、1987年から1997年の間にミャンマーが輸入した13億8000万ドルの兵器のうち、実に80%が中国製だった[25]。1989年の天安門事件で国際的に孤立していた中国が、同じく国際的に孤立していたミャンマーに、経済協力と合わせて接近を図った格好だった[58]。他にもイスラエル、北朝鮮、パキスタン、ポーランド、ロシア、シンガポール、ユーゴスラビアから兵器を輸入し、その内容も弾薬、軽火器、重携行火器、輸送用装備などの戦力維持目的とするものに留まらず、装甲兵員輸送車、大砲、対空(AA)兵器、ヘリコプター、軽攻撃機などの正規戦を想定した戦力増強、高度化を意図するもの、コルベット、フリゲート、ミサイル装備の巡視艇、武装ヘリコプター、超音速戦闘機、多連装ロケット発射などの新兵器と多岐に渡り、これまで軽視されてきた海空軍の強化も図った。2001年と2009年にはロシアからミグ29を、それぞれ12、20機購入している[59]。また北朝鮮の支援を受けたトンネル建設や核兵器開発疑惑が持ち上がったこともある。

2000年代に入ると、国軍は主要な兵器輸入先を中国からロシアに切り替え、その後もインドや韓国など輸入先の多角化を図っている[60]。2017年から2021年の国軍の兵器輸入先は、中国が36%、ロシアが27%、インドが17%となっている。

2021年クーデター以降、ロシアとの関係はますます緊密になり、ユソフ・イサーク研究所(ISEAS)英語版のレポートによると、2021年から2022年の間にミャンマー軍に2億7600万$相当の物資を供給したのに対し、中国からは1億5600万$相当、国連の報告書によると、同じ期間にロシアの団体はミャンマーに4億600万$相当の防衛物資を移転し、中国は2億6700万$で2位だった。他にも、ロシアの軍事技術者が、ミャンマー空軍でロシア製航空機の整備を手伝っていたり、ラカイン州でのドローン戦争で国軍を支援している者がおり、他の戦闘地域でも同様のことが行われている可能性があると言われている[61]

ミャンマー内戦においては、反政府勢力が市販のドローンと3Dプリンターで作った部品を組み合わせた自家製ドローンを生産・使用して、戦果を上げていた。しかし、2023年10月から2024年1月にかけての1027作戦で手痛い敗北を喫した後は、国軍も無人航空機(ドローン)の重要性に気づき、ドローン専門の部隊を新たに編成し、徴集兵の基礎訓練にドローン戦術を導入し、数百機のドローンを兵器化した。ロシアや中国からドローンやドローンの部品を輸入し、非常に高品質のドローン用の弾薬を積んでいるのだという[62]

陸軍

[編集]

ミャンマー陸軍の装備品一覧」を参照

海軍

[編集]

ミャンマー海軍艦艇一覧」も参照

潜水艦(2隻)[63]

[編集]

フリゲート(5隻)[63]

[編集]

コルベット(3隻)[63]

[編集]

ミサイル艇(13隻)[63]

[編集]

高速艇(9隻)[63]

[編集]

哨戒艦(1隻)[63]

[編集]

哨戒艇(69隻)[63]

[編集]

ドック型輸送揚陸艦(1隻)[63]

[編集]

揚陸艇(43隻)[63]

[編集]

支援艦(3隻)[63]

[編集]

輸送艦(5隻)[63]

[編集]

設標艦(1隻)[63]

[編集]

給油艦(1隻)

[編集]

国家元首ヨット(1隻)[63]

[編集]

空軍

[編集]

組織

[編集]
ミャンマー国軍機構図(1988)。中西嘉宏著『軍政ビルマの権力構造』P243

国軍は、国軍総司令官の下に陸・海・空軍それぞれの参謀次長が置かれ、各軍を統括している。1962年以降は国防大臣を国軍総司令官が兼任したため、実質的な国軍の最高責任者は国軍総司令官で、次が陸軍参謀次長だった。陸・海・空軍のうち陸軍が圧倒的に大きいので、陸軍参謀次長がNo.2になる。他に国防省と陸軍参謀本部の内局全般を統括する国防省の兵站局長と軍務局長、陸軍参謀本部を統括する陸軍参謀大佐、陸軍参謀本部内に設けられた情報局が重要だった[64]。キンニュンによれば、国軍はトップ1人(国軍総司令官)だけが権力者であり、国軍トップがすべてを決め、決定事項となり、他の者はそれに従わなければならなかったのだという[65]

人事に関しては、国軍総司令官や陸軍参謀次長の最重要職にはネウィンが信頼する人物が長期間務める傾向があったのに対し、その他の職はパターン化した昇進システムを採用し、昇進から外れた者は、前述したように速やかにBSPP、人民議会、行政機関に出向させてその懐柔を図り、分断人事や諜報機関の監視によって彼らの不満を抑制した[66]。1990年代以降は数々の経済特権もそれに加わる。ネウィン時代は許容されていなかったが、現在は地位を利用して金銭的利益を得ることは黙認される傾向が強いのだという[67]

国軍の中心である陸軍の基礎となる部隊の単位は歩兵大隊であり、歩兵大隊は4個中隊からなる将校・兵士合わせて800人の部隊だった。1961年までは北部、南部の2軍管区の下、数個大隊ごとに第1旅団から第13旅団までの旅団制が採られていたが、1961年に軍管区制が敷かれ、当初は東南、西南、中央、西北、東部の5軍管区制だったが、1972年にはこれにヤンゴン、北部、東北、西部の4軍管区を加えた9軍管区制となり、さらに1966年には1個師団約10個の大隊で構成される陸軍の直轄の歩兵師団が設立され、兵力も10万人から1980年代末には20万人に拡大した[64]。さらに2010年までに陸軍の特別作戦部が2から6へ、軍管区が9から13へ、歩兵師団が8から10へ拡大、兵力も1992年には27万人、2007年には40万人に拡大した[25]。兵士の供給源となっているのは、ドライゾーンと呼ばれるミャンマー中央部の貧困地域で、口減らし目的で国軍に入隊したり、あるいは強制的に入隊させられていたのだという[27]

歴代国軍総司令官 [68]
氏名 在任期間 前職 備考
アウンサン少将 1945年 - 1947年7月19日
ボーレッヤ准将 1947年 - 1948年
スミス・ドゥン中将 1948年1月4日 - 1949年1月31日 カレン族
ネウィン大将 1949年2月1日 - 1972年4月20日
サンユ大将 1972年4月20日 - 1974年3月1日 陸軍参謀次長 1981年大統領
ティンウー大将 1974年3月1日 - 1976年3月6日 ビルマ国防次官兼陸軍参謀次長 日本軍政期士官学校第3期生

国民民主連盟(NLD)副議長

チョーティン大将 1976年3月6日 - 1985年11月3日 陸軍参謀次長 第4ビルマ・ライフル部隊出身
ソウマウン上級大将 1985年11月4日 - 1992年4月22日 陸軍参謀次長 士官訓練学校(OTS)第6期生
タンシュエ上級大将 1992年4月22日 - 2011年3月30日 陸軍参謀次長 士官訓練学校(OTS)第9期生
ミンアウンフライン上級大将 2011年3月30日 - 陸海空軍統合参謀長 国軍士官学校(DSA)第19期生

2021年のクーデターで三権を掌握

軍諜報機関

[編集]

軍情報局(MIS)

[編集]

1962年にクーデターで政権を奪取したネウィンは、機能不全に陥っていた軍情報局(Military Intelligence Service:MIS)の改革に乗り出した。改革を担ったのは、ネウィンが若い頃から目をかけていた、モン族のティンウー(Tin Oo)だった(1974年から1976年まで国軍総司令官を務め、NLD副議長も務めたティンウーとは別人)[69]。ネウィンは日本軍の指揮下にあった時、憲兵隊仕込みの諜報術を習得したと言われており、それをティンウーに授けた[70]。その後、1957年にサイパン島に派遣されてCIAの訓練を受け、さらにイギリスの王立憲兵隊(RMP)でも訓練を受けた。1962年のクーデターの際には元大統領のウィンマウンや元首相のウー・ヌの世話役を担った[69]

MISの監視の対象になっていたのは、国内の反政府武装勢力、反体制活動家、麻薬組織などだった。当時、シャン州を占拠していた中国国民党軍はCIAから、ビルマ共産党(CPB)は中国共産党からの支援を受けていた。MISはスパイを炙り出すだけではなく、軍事作戦遂行に必要な情報を戦場にいる司令官たちに提供して、MISの監視の目は、海外亡命者や外国の使節団、一般市民にも及び、日常的に無線通信を傍受し、国内外の電話を盗聴し、私的な会話を録音し、郵便物を開封していた[71]。またMISには独自の刑務所と拷問センターがあり、多くの政治犯が取り調べ中に拷問を受けて死亡したと伝えられている。

MISは軍人も監視の対象として、その告発を恐れ、軍人が国軍の忠実であろうとするインセンティブになっていると言われていた。軍人が失脚する際は、大抵、MISが入手した情報にもとづく収賄その他の経済犯罪であることが多かった。

MISは1965年と1976年の2度、軍人によるネウィン暗殺計画を阻止している。1965年、チャウズワミン(Kyaw Zwa Myint)というイギリス人とビルマ族との混血で、キリスト教徒である陸軍大尉が、ネウィン暗殺を計画したとして指名手配された。暗殺の理由は「ビルマ社会主義への道」が国家経済を破滅に導くことに気づいたからとも、国内のキリスト教徒弾圧に憤りを覚えたからとも、ネウィンの妻・キンメイザンに近づきすぎたからとも言われる。チャウズワミンはタイへ逃亡し、バンコクのレストランで食事中にネウィンが送った刺客に刺され、危うく死にかけたが、なんとかオーストラリアまで逃げのび、その後も暗殺を恐れて同郷のミャンマー人たちとの交際を一切絶ったまま、1981年に49歳で亡くなった。残された彼の家族は全員逮捕され、国軍にいたイギリス人との混血の兵士たちは、ほとんど解雇された。インド人とユダヤ人の血を引き、カソリックで、後年、国家秩序回復評議会(SLORC)で経済閣僚を歴任したデヴィッド・アベル(David Abel)は数少ない例外だった[72]。1976年には、前年のティンウー国軍最高司令官が更迭に不満を抱いていたオーチョーミン(Ohn Kyaw Myint英語版)陸軍大尉以下若い陸軍将校のグループが、ネウィン大統領、サンユBSPP書記長、そしてティンウー国家情報局長の暗殺を計画した。暗殺は3月27日ヤンゴンの大統領官邸で開催された国軍記念日の晩餐会で決行する予定だったが、グループの連携が上手くいかず失敗。後日、再決行する予定だったが、その前に情報が漏れた。4月2日、オーチョーミンはアメリカ大使館に赴き政治亡命を求めた。しかし、当時のアメリカ政府はミャンマー政府と良好な関係を保ちたいと考えていたので、これを拒否。結局、裏切り者が出てオーチョーミン以下計画の首謀者13名が逮捕され、裁判にかけられた後、オーチョーミンには死刑判決が下され、1979年執行された。裁判ではビルマ式社会主義に否定的な国軍の首脳部ののかなりの数が事前に計画を知っていたという事実が明らかにされ、ティンウー元国軍総司令官も暗殺計画に関わったとして7年の懲役刑を受けた。もう一人チャウゾー(Kyaw Zaw)准将が計画への関与を疑われたが、逮捕直前にヤンゴンを脱出して、CPBに合流し、CPBの司令官に就任した。後に彼はクーデター後からCPBに内通しており、ヤンゴンでのテロ工作に関与していたことが明らかにされた[73][72]

MISの名前は、“エムアイ”と文盲の国民の間でさえ知れわたり、ティンウーは”MIティンウー”と呼ばれ、恐れ、憎まれていた[70]。その一方でネウィンの絶大な信頼を得、1974年の民政移管の際には、大統領となったネウィンの特別軍事顧問となり、1981年にネウィンが大統領を辞職した後は、BBSPの中央執行委員、国家評議会のメンバー、そしてBSPP副書記長となって党内No.3にまで出世した。しかし、1983年7月、ティンウーは突然、中央執行委員と副書記長を解任され、11月、公共財産不正利用の罪で5回の終身刑を受けた。政敵に疎まれ、謀略にあったというのが、もっぱらの噂だった[74]。ティンウーは8888民主化運動の後、恩赦を受けて釈放され、その後瞑想に拭ける生活を送った後、ネウィンの秘密を暴露することもなく、1998年に亡くなった[75]

国防省情報局(DDSI)

[編集]
キンニュン

ティンウー失脚後、 アウンコー(Aung Koe) 大佐という人物がMISのトップになったが、1983年10月9日、彼はラングーン事件を引き起こしてすぐに失脚した。事件当時、ゴルフをやっていたことがネウィンの怒りを買ったのだという。代わりにトップに就いたのがキンニュンで、シンガポールの首相だったリー・クアンユーが「もっとも聡明な人物」と評したほど、頭の切れる人物だった[76]。MISは国防省情報局( Directorate of the Defense Services Intelligence:DDSI)に改組された。組織図としては、国家情報局(National Intelligence Bureau:NIB)の下にDDSIがあり、外務省、内務省の情報関係部局、国家開発経済省の関税部局、入国管理・人口省の入国管理局を統括した[77]

1988年のクーデターの後設立された国家秩序回復評議会(SLORC)では、キンニュンは第1書記長を務めた。翌1989年、兵士の反乱によってCPBが崩壊すると、彼はすぐさま現地に飛んで、CPBの残留勢力であるワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)と停戦合意を結んだ。なおキンニュンは、ノンフィクション作家の高野秀行ワ州滞在記『ビルマ・アヘン王国潜入記』を英訳させて、熟読していたのだという[78]。この後、キンニュン主導で国軍は多くの少数民族武装勢力と停戦合意を結んでいった。

SLORC/SPDC下でDDSIは拡大され、1991年までに9つの新部隊が設立され、19の拷問センターを運営しており、そのうち7つはヤンゴンにあり、中でもYay Kyi Aing(「澄んだ池」という意)悪名高い[42]。 1990年代半ばからは、ネットの監視を始め、EメールやSNSのチェックを行っていたが、2001年の段階でミャンマーの電話加入者はわずか29万5千人、ネットユーザーは1000人しかいなかったので、その諜報活動も低いレベルに留まっていた。DDSIは、8888民主化運動の際に多くの民主化活動家が逃亡したタイでも諜報活動を行っていた。キンニュンの右腕と言われていたテインスエ(Thein Swe)大佐は、バンコクの国防武官時代に、タイの外交官、諜報員、情報提供者、一部メディアの間に広範なネットワークを構築し[70]、少数民族武装勢力の関係者、闇商人、麻薬・人身売買業者、反体制政治活動家、亡命者、難民、さらには外国人ジャーナリストや学者、活動家などを監視し、ブラックリストを作成していた。また中国、インド、ASEAN諸国、イスラエルなどの諜報機関とも協力関係を築いていた[71]。この時期の国軍最大の敵はNLD関係者だったが、ミャンマー特命全権大使を務めた宮本雄二によれば、NLDの会議の内容は国軍に全部筒抜けだったのだという[79]。1993年には、元NLD議員で、ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)の閣僚だった者が2人、それぞれバンコクと昆明で暗殺されている[72]。この時期に形成された諜報員のネットワークは現在でも生きていて、チェンマイメーソートなど民主化活動家やカレン民族同盟(KNU)の関係者が多い地域では、国軍の諜報員が活動していると言われている[70]

2000年にはミャンマー語・英語双方によるミャンマー・タイムズ英語版を発刊。DDSIの国際関係部門の責任者であるテインスウェ准将とその息子のソニースウェが出資しており、当時、他のすべてのメディアが厳しい検閲に直面する中、軍政から特権を与えられた唯一のメディアで、DDSIのプロパガンダ的役割を担っていると言われていた(2021年3月に業務停止)[80]。ちなみにソニースウェは、キンニュンとともに失脚して、2004年から2013年まで獄中生活を送って釈放後、2015年にフロンティア・ミャンマー英語版を創刊している。

2001年、DDSIは戦略研究所(Office of Strategic Studies:OSS)と合併して軍情報総局(Office of the Chief of Military Intelligence:OCMI)となり、2003年、キンニュンは首相に任命された。しかし2004年10月19日、キンニュンは突然、自宅で拘束され、22日にはOCMIは解体され、政府高官27人を含むOCMIの幹部約300人も逮捕され、約3000人の職員が退職・配転となった。その後、キンニュンは44年の禁固刑を受け、自宅軟禁下に置かれた。形式的には、キンニュン失脚の約2週間前にOCMI局員100人が国境検問所における税金着服の罪で摘発された責任を問われたということだったが、より本義的には、OCMI局長と首相を兼ね、ミャンマーの体外的な顔役となり、「政府内政府」「経済内経済」とまで言われるほど強大化したキンニュンをタンシュエSPCD議長、マウンエイ副議長が脅威と見なしたことが原因と言われている[77]

元オーストラリア大使のトレバー・ウィルソンは、2016年に出版した著書『ミャンマー初期改革の目撃者(Eye Witness to Early Reform in Myanmar)』の中で、次のように述べている[81]

OSS職員は教育水準が高く、政策立案能力に優れ、英語も流暢で、外国人とのやり取りに明らかに慣れており、自信を持っていた…キンニュンと副官のチョーウィン少将は総じて印象的で有能であり、彼らの先輩であるテインスエ准将とチョーテイン准将(麻薬・民族問題担当)も協力的で有能だった。結局のところ、OSS職員はやや傲慢で、おそらく自分の役割に自信過剰だったため、粛清の標的になったのかもしれない。

軍保安局長事務所(OCMSA)

[編集]

OCMI解体後、軍保安局長事務所(OCMSA)が設立されたが、強大化したOCMIの二の轍を踏まないように、その活動は軍事問題に限定されているとも伝えられている。他にミャンマーで諜報活動に携わる組織は、ミャンマー警察(Myanmar Police Force英語版:MPF)傘下の政治問題を捜査する特別情報部(Special Intelligence Branch:SB)と犯罪捜査部(the Criminal Investigation Department:CID)、そして汚職、金融犯罪、マネーロンダリングなどを捜査する特別捜査局(Bureau of Special Investigation英語版:BSI)などがある[71]

キンニュン失脚後、6人の将軍がOCMSAのトップに就任している。1人目はクーデター後の2021年2月1日から2024年7月22日まで国家行政評議会(SAC)で大統領代行を務めたミンスエで、キンニュン逮捕の際は主導的役割を果たしたと言われている。2005年にはイェミン英語版がトップに就任したが、のちに彼はテインセイン政権下ででマンダレー地方域の首相に就任した。その後を引き継いだのはチョースウェ英語版で、彼は現SAC副議長ソーウィン英語版と国軍士官学校(DSA)の同期で、2014年にNLD政権が成立すると、ミンアウンフラインにより国防大臣に任命された。その後、ミャトゥンウーが後を引き継いだが、彼は2024年11月現在SACのメンバーであり、国防大臣も務めている。2016年からはソートゥッが後を引き継ぎ、彼はNLD政権とSAC下で国防大臣を務めていたが、2023年に汚職の罪で懲役5年の刑を受け、失脚した[80]

民政移管後も少数民族武装勢力やNLD関係者に対する諜報活動は行われており、2012年にはカチン独立軍(KIA)に関係している疑いでカチン族の男性2人を拘束し、暴行を受け、お互いに強姦するよう強要されたと報道された。また同年実施された補欠選挙では、NLD選出の下院議員・キンサンフラインに対して尾行や演説の録音を行っていたと報道された。2017年と2019年にはNLD所属議員が正式に苦情を申し立てたが、当時のミンヌエ国防副大臣は、「これらの活動は公の場で行われたため、いかなる法律にも違反していない」と議会で答弁した[80]

2020年からOCMSAのトップはイェウィンウー英語版中将で、彼はミンアウンフラインと家族ぐるみの付き合いと言われている。彼は2021年2月1日のクーデターの際に、ネピドーにある大統領官邸とスーチーの邸宅への襲撃を指揮し、その後、ミンアウンフラインの外遊にも同行することが多い[80]

2021年クーデター直後の2月9日、すべての諜報機関を統括する国家保安局(National Security Bureau:NSB)が設置され[82]、上ミャンマー事務所と下ミャンマー事務所を開設した。またイスラエルからスパイウェア・システム、中国からCCTVを導入してプライバシー規制を強化しており、OCMSAの諜報員が、破壊活動、反政府抵勢力への二重スパイの配置、偽PDFの結成などさまざまな諜報活動に携わっているとも伝えられている[83]

またミンアウンフラインは諜報機関を強化するために、、ミンアウンフラインの国軍士官学校(DSA)の同期であるングエ・トゥン(Ngwe Tun)大佐、8888民主化運動の際にスーチー中傷ビラを配布する責任者だったニャンリン(Nyan Linn)中佐、そして『ミャンマー・タイムズ』創刊者テインスエなど、キンニュン失脚の際に一緒に粛清された元情報局員を呼び戻しており、テインセイン政権下で、少数民族武装勢力との和平交渉において重要な役割を果たした人々が情報提供者として活動していると伝えられている[70]

教育機関

[編集]

人材育成

[編集]

国軍は、独立直前の1946年に士官訓練学校(Officers Training School:OTS)を設立していたが、訓練期間も訓練マニュアルも訓練用兵器も不足しており、兵士の質は低かった。1950年代後半には年間2000人から4000人の脱走兵がいたのだという[25]。また将校についても、イギリス、インド、パキスタンなどの国々の訓練学校に派遣して養成していたが、それも不十分だった。当時、国軍No.2だったアウンジーは以下のように述べている。

軍事科学や軍事思想を理解しておらず、軍事史の知識もなく、ゲリラ戦以上の軍事経験もない将校が大半を占める国軍の質は非常に低いことを受け入れなければならない。

2021年3月27日国軍記念日。旧日本軍風の軍服を着て行進する国軍兵士たち。

こうした状態を憂慮した国軍は、軍事訓練プログラムと訓練方針を学ばせるために、多くの軍事代表団をインド、パキスタン、イスラエル、ユーゴスラビア、東ドイツ、英国、アメリカ、ソビエト連邦などに派遣した。1950年代に国軍士官学校(Defence Services Academy:DSA)、国防大学(National Defence College:NDC)(1958年)などの教育施設を設立。入隊前教育・訓練の双璧はOSTとDSAで、両校の出身者の間には確執があるとも言われている。ネウィン時代は、昇進人事を円滑に行うために将校の数は意図的に低く抑えられていたが、タンシュエ時代には将校団の規模が増大し、国軍士官学校(DSA)の卒業生は1990年代初期は100人台だったものが、後期には200人台となり、2000年代には2000人台と激増した[25]

さらに留学にも力を入れ、サンドハースト王立陸軍士官学校等イギリス、アメリカ、オーストラリアの名門士官学校に多数の将校を留学させ、人材育成に力を注いだ。ちなみにミャンマーの訓練学校のマニュアルはイギリスのもの、教官は日本軍の下で訓練を受けた者が多かったので、国軍は「日本的な心を持った英国的な組織」とも言われているのだという。しかし軍事独裁政権となった1962年以降は、海外留学は激減。1959年に106人いた留学者は、1970年代には1桁台に落ちこみ、1980年代には2桁台に回復したものの、それでも1987年に36人が留学するだけだった[84]。しかし、国家法秩序回復評議会(SLORC)成立後は、西側諸国からは制裁を受けていたものの、再び留学が盛んとなり、中国、ロシア、マレーシア、シンガポール、インド、パキスタンなどの国々に多数の軍人を派遣した。また戦力の近代化と拡大計画の下で、多くの新しい訓練学校を設立した[85]

国軍の海外経験不足を捉えて、その視野の狭さを指摘する声もあるが、藤川大樹、大橋洋一郎共著『ミャンマー権力闘争 アウンサンスーチー、新政権の攻防』では以下のように述べられている。

西側諸国には、ミャンマー国軍を「ならず者集団」と見なす向きがあるが、それは間違いだ。軍事政権の支配が長引く中、優秀な若者たちは国軍を目指し、政治・経済を牛耳ってきた。今も、国軍は国会で一定の議席数を占め、天下りなどを通じて主要企業の多くをコントロールしている。企業経営や金融など経済発展に必要なノウハウは国軍が握っている[86]

初等教育

[編集]

また8888民主化運動を受けて、愛国教育に力を入れた宿営地学校(Cantonment School)と呼ばれる学校を全国に約20校設立。小学校から高校まであり、校長は陸軍心理局所属の大学院卒の軍人 で、教師は大卒以上の軍人の妻が多く、進歩状況も教育省ではなく陸軍心理局へ報告することになっている 。生徒の80%は軍人家庭。残りは公務員家庭で、生徒の成績はおしなべて優秀なのだという[87]

2021年クーデター後は、国軍は仏教教育に力点を置いたダンマ(Dhamma)・スクールを各地に設立している。教育を担っているのはミャンマー愛国協会(マバタ)やビルマ仏教青年会(YMBA)英語版などの国軍系の僧侶なのだという[88]

兵役

[編集]
入隊前教育・訓練[85]
名称 設立 場所 備考
国防(陸軍)士官訓練学校(DSOTS) 1946年 バトゥー(Ba Htoo) 1946年、士官訓練学校(OTS)として設立。将校養成機関。大卒、高卒、中卒それぞれの学歴に応じた養成コースがある。
国軍士官学校(DSA) 1955年 ピン・ウー・ルウィン 将校養成機関。16歳から19歳までの高卒を入学させ、4年間の訓練を受ける。卒業した士官候補生には学士号か理学士号が授与され、国軍の3つの軍のどこかに配属される。現在、コンピューター・サイエンスの学位コースも導入しているが、コースの大部分は軍事科学に充てられている。
テザ(国軍士官コース《OTC》) 1971年~2002年 将校養成コース。2000年、国軍はテザ将校の募集を停止。2002年までに計30期、合計4,958人のテザ将校が国軍に入隊した。
国防医学学校(DSMA) 1993年 ヤンゴン 国軍唯一の医官養成機関。1950年代初めから、医学部卒業者を対象とした国家公務員制度を実施してきたが、1990年代になると採用が難しくなり、1993年、国防医学研究所( DSIM)として設立され、その後改称。
国防技術学校(DSTA) 1994年 ピン・ウー・ルウィン 1994年、国防技術大学( DSIT)として設立。1999年改称。技官養成機関。機械工学、土木工学、電力工学、電子工学、防衛産業工学、化学工学、海洋工学、航空工学、冶金工学の学位を取得できる。2006年には海軍建築、海洋電気システム・エレクトロニクス、航空宇宙・航空工学、航空宇宙推進・飛行体、メカトロニクスの5つのカテゴリーが追加された。DSTAは国軍将校のための大学院コースも提供している。
国防看護・医療従事者科学研究所(DSINPS) 2000年 ヤンゴン 2000年、国防看護大学(DSIN)として設立。2002年改称。看護士官訓練センター。卒業生は国軍に徴用されず、在学中に少尉から中佐までの官職に任命される。看護学や、薬学、放射線学、理学療法、医療技術などの医療従事者科学の4年制の学位プログラムでは、男性候補者のみを募集。
入隊後教育・訓練[85]
名称 設立 場所 備考
指揮幕僚大学(CGSC) 1948年 カロー 1948年、ビルマ陸軍参謀学校(BASC)として設立。1996年改称。毎年、陸海空軍から少佐と中佐の下級将校と警察官数名が大佐への昇進のために選抜され、約12ヶ月間の訓練を受ける。訓練生のほとんどは陸軍出身で、空軍、海軍、警察出身の将校はわずか。その教育の趣旨は(1)歩兵師団を指揮できる将校の育成と地方司令部のスタッフ業務の遂行(2)国防政策、軍事ドクトリン、国際政治、地域政治、軍事科学、地政学、ミャンマーの現在の政治・社会経済状況との相関関係の枠組みの中で、軍事問題に対する迅速かつ正しい解決策を見出すことができるような将校の養成である。指揮、軍事指導、幕僚任務、ジャングル戦の特殊戦術、河川横断戦、山脈戦、低地戦、トンネル戦、ゲリラ戦、コマンド、ABC(原子・生物・化学)戦、合同作戦、人民戦争戦略、情報収集技術、支援部隊などのコースがある。
国防情報センター(DSIC) 1950年 1950年、軍事情報訓練センター(MITC)として設立。1958年改称。情報将校のためのコースを提供。尋問、情報収集と分析、特別警備作戦、その他の専門科目の訓練を受ける。
国防信号電気学校(DSSES) 1951年 1951年、ビルマ信号訓練連隊(BSTR)として設立。1997年改称。戦闘レベルの信号運用に関する基本的な知識を得る。信号部隊の将校は、信号小隊、信号中隊、信号(電子)工学のためのコースを受講しなければならない。これらのコースには、無線操作、信号情報、傍受、暗号作成と解読、電子戦などが含まれる。 電子・情報技術の発展に追いつくため、歩兵将校のための新しいコースが数多く開講されており、これには C4 I(指揮、統制、通信、コンピュータ、情報)戦の基礎コースもある。
国防工兵学校(DSES) 1952年 ピン・ウー・ルウィン 1952年、ビルマ陸軍工兵隊センター(BAECC)として設立。1997年改称。工兵部隊の将校その他の階級の軍人を対象。将校向けには地雷作業、野外工学、トンネル戦、土木工学のコースがある。
国防(陸軍)戦闘部隊学校(DSCFS) 1955年 バインナウン(Bayinnaung) 1952年、ビルマ陸軍中央学校(BACS)として設立。2000年に新設された。陸軍士官の訓練所。3ヶ月~5ヶ月間、軍事指導、幕僚任務、軍事戦略・戦術、軍事法規、戦史、戦争原理、対反乱戦などを学ぶ。
国防大学(NDC) 1958年 ヤンゴン 上級士官を対象。ほとんどが大佐。1998年に修士コースを導入。(1)国家の独立と主権、国民の連帯、ミャンマー連邦の発展と進歩を永続させるために、適切な軍事ドクトリンと公共政策を研究・開発できる(2) 国家の安全保障に密接に関わる軍事問題、国内政治、経済問題、国家政策の目的を理解できる。(3)近代先進国建設のための国際・国内政策を決定するうえで、相互に関連し重要な軍事的、政治的、後方支援的、経営的、心理的要因を分析し、効率的に活用することができる(4)国家の防衛・安全保障目標と国家政策の目的を分析し、国家目標を支援するために、平和と戦争の両方において、将来の国家大戦略を策定することができる人材を育成。演習の一環として国家安全保障計画の立案も義務付けられている。卒業生は、准将以上への昇進が検討され、司令官と幕僚の両方の役職に就くことができる。
陸空戦・空挺部隊学校(LAWPS) 1958年 1958年、陸空戦学校(LAWS)として設立。1963年、落下傘部隊学校と合併して改称。空挺作戦を学ぶ。
国防行政学校(DSAS) 1964年 ピン・ウー・ルウィン 1964年、ビルマ陸軍行政支援訓練学校(BAASTS)として設立。1997年改称。将校コースは、優秀な准尉将校や準士官、司法将校を育成することを目的としている。ほとんどすべての下級将校はDSASのコースを受講することが義務付けられている。
装甲・砲兵訓練学校(AAS) 1990年 ピン・ウー・ルウィン 1994年、国防技術大学( DSIT)として設立。1999年改称。砲兵、装甲、防空大隊に勤務する将校その他の階級の軍人が対象。多くの下士官、主に任官直後の将校が、砲兵訓練のためにAASに行く。
国防機械・電気工学学校(DSMEES) 1990年 ピン・ウー・ルウィン 将校を対象に小隊レベルおよび中隊レベルのコースを提供。その内容は、兵器システムの整備と修理、レーダー検査、ミサイル整備、電子機器整備などである。
特殊部隊訓練センター 空軍と海軍の士官を対象。空軍向けには、基本飛行、航法、航空交通、管制塔の操作、輸送機の飛行、ヘリコプターの飛行、防空システムなどのコースがある。海軍向けは、電子情報、水雷・魚雷作戦、水雷掃海、航海、測量、海軍コマンド、海軍砲兵などのコースがある。
戦闘関連組織活動訓練センター(CROATC) ビルマ社会主義計画党(BSPP)のイデオロギー教育センターで、地方司令部でイデオロギー教育センターを運営していて、廃止された中央政治学院の代わりの教育機関。すべての軍人はCROATCで3ヶ月のコースを受講しなければならない。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ アーカイブされたコピー”. 2012年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月25日閲覧。
  2. ^ a b c ミャンマー連邦共和国(Republic of the Union of Myanmar)基礎データ日本国外務省(2019年9月5日閲覧)。
  3. ^ a b c d e f Civil-Military Relations in Burma: Portents, Predictions and Possibilities”. Griffith University. 2024年10月7日閲覧。
  4. ^ Please don’t call the Myanmar military ‘Tatmadaw’ · Global Voices”. web.archive.org (2024年2月19日). 2024年9月19日閲覧。
  5. ^ 中西, 嘉宏 (2014). “Chapter 8 軍と政治的自由化”. 日本比較政治学会年報 16: 183–205. doi:10.11193/hikakuseiji.16.0_183. https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikakuseiji/16/0/16_183/_article/-char/ja/. 
  6. ^ 国軍士官学校の志願者が激減、マンダレー - NNA ASIA・ミャンマー・政治”. NNA.ASIA. 2024年10月6日閲覧。
  7. ^ Steinberg 2009: 37
  8. ^ a b Hack、Retig 2006:186
  9. ^ Dun 1980:104
  10. ^ Steinberg 2009:29
  11. ^ Seekins 2006:124-126
  12. ^ Andrew Selth: Power Without Glory
  13. ^ Maung Aung Myoe: Building the Tatmadaw
  14. ^ a b Whose Army?”. The Irrawaddy. 2024年9月19日閲覧。
  15. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、86-88頁。 
  16. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、94頁。 
  17. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、102頁。 
  18. ^ 大野, 徹 (1964). “ビルマの社会主義への道(国家革命評議会)解説並みに邦訳”. 東南アジア研究 1 (3): 80–85. doi:10.20495/tak.1.3_80. https://www.jstage.jst.go.jp/article/tak/1/3/1_KJ00000132331/_article/-char/ja/. 
  19. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、97-111頁。 
  20. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、139-160頁。 
  21. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、233-239頁。 
  22. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、227-230頁。 
  23. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、271-292頁。 
  24. ^ キンニュン『私の人生にふりかかった様々な出来事―ミャンマーの政治家 キン・ニュンの軌跡〈上巻〉』三恵社、2020年3月26日、50-66頁。 
  25. ^ a b c d e f g h i j 第 2 章 国軍 ― 正統性なき統治の屋台骨 ―”. アジア経済研究所. 2024年9月25日閲覧。
  26. ^ a b 民政移管後のミャンマーにおける新しい政治”. アジア経済研究所. 2024年10月3日閲覧。
  27. ^ a b アジ研ワールド・トレンド 2008年8月号(No.155) 特集:ミャンマー軍政の20年—何が変わり、何が変わらなかったのか”. アジア経済研究所. 2024年10月2日閲覧。
  28. ^ a b ミャンマー国軍ビジネスの要、MEHL, MECについて”. www.mekongwatch.org. 2024年9月20日閲覧。
  29. ^ ミャンマー連邦共和国憲法(日本語訳)”. アジア経済研究所. 2024年10月2日閲覧。
  30. ^ ミャンマー新憲法-国軍の政治的関与(1)”. 国立国会図書館. 2024年10月2日閲覧。
  31. ^ ミャンマークーデター 軍政体制の「完全復活」と「完全解体」をかけた軍と国民の激突”. 読売新聞オンライン (2021年4月16日). 2024年8月22日閲覧。
  32. ^ ミャンマークーデター 軍政体制の「完全復活」と「完全解体」をかけた軍と国民の激突”. 読売新聞オンライン (2021年4月16日). 2024年8月22日閲覧。
  33. ^ (2020年ミャンマー総選挙)選挙結果速報――国民民主連盟が再び地滑り的な勝利(長田 紀之)”. アジア経済研究所. 2022年2月21日閲覧。
  34. ^ ミャンマー軍が非常事態宣言、権力を1年掌握-スー・チー氏拘束”. Bloomberg.com. 2022年2月21日閲覧。
  35. ^ ミャンマー国軍、前例のない打撃 北東軍管区「司令部」を民主同盟軍が占拠、4000人以上降伏か:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2024年8月9日閲覧。
  36. ^ Maung Aung Myoe (2009-01). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 16-19 
  37. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、231-233頁。 
  38. ^ The Battle of Insein Never Really Ended”. The Irrawaddy. 2024年8月21日閲覧。
  39. ^ ミャンマーにおけるセキュリティ・ガヴァナンスの変容”. pp. 72-74,76. 2024年8月29日閲覧。
  40. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948 . Institute of Southeast Asian Studies. pp. 19-33 
  41. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 33-42 
  42. ^ a b c d Thiha, Amara (2017年6月22日). “Understanding the Tatmadaw's 'Standard Army' reforms” (英語). Frontier Myanmar. 2024年9月19日閲覧。
  43. ^ CEUMC official visit to MYANMAR | EEAS” (英語). www.eeas.europa.eu. 2024年9月19日閲覧。
  44. ^ ミャンマー軍が75人の少年兵士を解放 ミャンマーニュース”. www.myanmar-news.asia. 2024年9月19日閲覧。
  45. ^ ミャンマー:子ども兵士を解放へ-24時間体制のホットラインを運用。子どもの徴用の廃止と予防に向けた取り組みを強化 | 日本ユニセフ協会 | 子どもの保護”. www.unicef.or.jp. 2024年9月19日閲覧。
  46. ^ Cobra Gold Military Exercise Kicks Off in Thailand Without Myanmar”. The Irrawaddy. 2024年9月19日閲覧。
  47. ^ a b 長田, 紀之 (2015). “2014年のミャンマー 加速する経済,難題に直面する政治改革”. アジア動向年報 2015: 487–510. doi:10.24765/asiadoukou.2015.0_487. https://www.jstage.jst.go.jp/article/asiadoukou/2015/0/2015_487/_html/-char/ja. 
  48. ^ 防衛省がミャンマー軍幹部らの教育訓練受け入れ 人権団体から批判:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2022年2月6日). 2024年9月19日閲覧。
  49. ^ a b 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、216-221頁。 
  50. ^ a b c d Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 163-190 
  51. ^ ミャンマー:天然ガスへの依存を強めるミャンマー経済(岡本 郁子)”. アジア経済研究所. 2024年9月25日閲覧。
  52. ^ Frontier (2023年12月19日). “The end of Myanmar’s resource boom could doom the junta” (英語). Frontier Myanmar. 2024年9月25日閲覧。
  53. ^ Chairman of State Administration Council Prime Minister Senior General Min Aung Hlaing inspects operations of heavy industries of Tatmadaw in Mayangon Township”. myawady.net. 2024年10月6日閲覧。
  54. ^ a b Fatal Business: Supplying the Myanmar Military’s Weapon Production”. specialadvisorycouncil.org. 2024年10月6日閲覧。
  55. ^ a b Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948.. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 105-130 
  56. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948.. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 105-130 
  57. ^ a b Where does Myanmar’s junta get its munitions?”. Radio Free Asia. 2024年10月12日閲覧。
  58. ^ Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948.. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 105-130 
  59. ^ 第 9 章 ミャンマー ― 国家および国軍の安全保障上の課題”. 防衛研究所. 2024年9月25日閲覧。
  60. ^ 第9章 日本の対ミャンマーODA ―― 拡大と凍結の論理 ――”. アジア経済研究所. 2024年9月25日閲覧。
  61. ^ Ties Between Warmongering Regimes in Myanmar, Russia as Cozy as Ever”. The Irrawaddy. 2024年9月25日閲覧。
  62. ^ Tan, Rebecca (2024年10月11日). “Myanmar military unleashes drones to counter rebel advances” (英語). Washington Post. ISSN 0190-8286. https://www.washingtonpost.com/world/2024/10/12/myanmar-civil-war-drones/ 2024年10月12日閲覧。 
  63. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『世界の艦船増刊 第1016集 世界の海軍 2024-2025』海人社、2024年3月14日、85頁。 
  64. ^ a b 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、240-243頁。 
  65. ^ キンニュン『私の人生にふりかかった様々な出来事―ミャンマーの政治家 キン・ニュンの軌跡〈上巻〉』三恵社、2020年3月26日、91頁。 
  66. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、240-270頁。 
  67. ^ Myanmar's military mindset: An exploratory survey”. Griffith University. 2024年10月7日閲覧。
  68. ^ Maung Aung Myoe, Building the Tatmadaw, Appendix (6)
  69. ^ a b The Dictators: Part 3—Military Intelligence”. The Irrawaddy. 2024年10月4日閲覧。
  70. ^ a b c d e Myanmar’s Dictators Have Always Relied on a Brutal Secret Police Force”. The Irrawaddy. 2024年10月4日閲覧。
  71. ^ a b c G, C. (2021年4月7日). “Myanmar: An Enduring Intelligence State, or a State Enduring Intelligence? • Stimson Center” (英語). Stimson Center. 2024年10月4日閲覧。
  72. ^ a b c A Look at Myanmar’s Long History of Political Assassinations”. The Irrawaddy. 2024年10月4日閲覧。
  73. ^ A Tale of 3 Myanmar Political Assassination Plots”. The Irrawaddy. 2024年10月24日閲覧。
  74. ^ 1984アジア・中東動向年報”. アジア経済研究所. 2024年10月4日閲覧。
  75. ^ The Dictators: Part 4—Ne Win’s Paranoia Grows”. The Irrawaddy. 2024年10月4日閲覧。
  76. ^ The Dictators: Part 5—Ne Win Promotes Than Shwe”. The Irrawaddy. 2024年10月4日閲覧。
  77. ^ a b 遠のく民主化: 2004 年のミャンマー”. アジア経済研究所. 2024年10月5日閲覧。
  78. ^ 高野秀行『ビルマ・アヘン王国潜入記』草思社、1998年。 
  79. ^ 宮本雄二『激変 ミャンマーを読み解く』東京書籍、2012年。 
  80. ^ a b c d With Return of Military Rule, Myanmar Again Living Under Big Brother”. The Irrawaddy. 2024年11月14日閲覧。
  81. ^ The Warped World View of Myanmar Military Intelligence”. The Irrawaddy. 2024年11月16日閲覧。
  82. ^ 赤津陽治 (2021年5月7日). “<ミャンマー>情報機関を統括する「国家保安局」を国軍側が設置(文書全文)恐怖政治の復活か”. アジアプレス・ネットワーク. 2024年10月4日閲覧。
  83. ^ It’s Time to Re-evaluate the Myanmar Military’s Intelligence Capabilities” (英語). thediplomat.com. 2024年10月4日閲覧。
  84. ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、221-224頁。 
  85. ^ a b c Maung Aung Myoe (2009). Building the Tatmadaw: Myanmar Armed Forces Since 1948. Institute of Southeast Asian Studies. pp. 135-159 
  86. ^ 藤川大樹、大橋洋一郎『ミャンマー権力闘争 アウンサンスーチー、新政権の攻防』角川書店、2017年。 
  87. ^ Thu, Mratt Kyaw (2018年11月27日). “Inside the Tatmadaw's schools” (英語). Frontier Myanmar. 2024年9月22日閲覧。
  88. ^ Frontier (2023年5月24日). “‘Psychological violence’: Nationalist Dhamma schools make a comeback under junta” (英語). Frontier Myanmar. 2024年9月25日閲覧。

関連項目

[編集]