バー・スエ
表示
バー・スエ ဘဆွေ | |
---|---|
1955年のバー・スエ | |
生年月日 | 1915年10月17日 |
出生地 | イギリス領ビルマ、タヴォイ |
没年月日 | 1987年12月6日(72歳没) |
死没地 | ビルマ連邦社会主義共和国、ラングーン |
出身校 | ラングーン大学 |
前職 | 政治家 |
所属政党 | 反ファシスト人民自由連盟 |
配偶者 | ヌ・ヌ・スエ |
子女 |
ネイ・ヌエ・バー・スエ ネイ・ミョー・バー・スエ ネイ・チー・バー・スエ ネイ・トゥン・バー・スエ ネイ・イー・バー・スエ ネイ・バラー・バー・スエ ネイ・ニュン・バー・スエ ネイ・プー・バー・スエ ネイ・シー・バー・スエ ネイ・ミン・バー・スエ |
在任期間 | 1956年6月12日 - 1957年2月25日 |
大統領 | バー・ウ |
バー・スエ(ビルマ語: ဘဆွေ, 1915年10月17日 - 1987年12月6日)は、ミャンマーの政治家。元ビルマ連邦第2代首相
経歴
[編集]1915年10月17日、イギリス領ビルマ、タヴォイにて誕生する。バー・スエはタキン党の一員であり、1938年に発生した全国的な抗議、デモ、ストライキ中に、イギリス植民地政府に逮捕された。1942年にヌ・ヌ・スエと結婚、1945年にはバー・ヘインらと共に人民革命党を設立した。1956年初めに行われた議会選挙の結果により、バー・スエは首相に就任した。首相を務めていたウー・ヌは、反ファシスト人民自由連盟の再編と強化の為に一時的に辞任し、バー・スエはその職を受け継ぐ形での就任であり、ウー・ヌは1957年2月28日に再び首相職に復帰した。1958年半ばまで、バー・スエとウー・ヌは対立していた。AFPFLは二つの派閥に分裂し、バー・スエとチョー・ニェインら13人は6月4日に政府を辞任、議会でウー・ヌに対する不信任決議案を提出した。6月8日、不信任決議案は議会で採決にかけられたが、左派政党が政府に同調した為、ウー・ヌ政権はわずか8票差で可決された[1]。1960年に行われた総選挙では、分裂したAFPFLのバー・スエとチョー・ニェイン率いる安定派と、ウー・ヌ率いる清廉派で争われ、最終的には清廉派が勝利を治めた[2]。1962年に発生した、ネ・ウィンによるクーデターによってバー・スエは権力を失い、左派および右派の政治家と同様に拘留されたが、1966年10月27日に釈放された。バー・スエは、1987年12月6日に首都ラングーンにて死去した。