アウンジー
アウンジー | |
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အောင်ကြီး 陈旺枝 | |
アウンジー(1960年) | |
国民民主連盟(NLD)創設者 | |
任期 1988年9月27日 – 1988年12月3日 | |
指導者 | アウンサンスーチー |
前任者 | 議長 |
革命評議会メンバー | |
任期 1962年3月2日 – 1963年2月8日 | |
個人情報 | |
生誕 | 1919年2月16日 英領ビルマ、パウンデ |
死没 | 2012年10月25日 (93歳没) ミャンマー ヤンゴン、マヤゴン郡区 |
死因 | 心臓麻痺 |
国籍 | ミャンマー |
配偶者 | ムムテイン(Mu Mu Thein) |
子供 | 4 |
職業 | 政治家 (1963 – 2012); 国軍副司令官 (- 1963) |
兵役経験 | |
所属国 | ミャンマー連邦 |
所属組織 | ミャンマー軍 |
軍歴 | 1948 – 1963 |
最終階級 | 准将 |
部隊 | 第4ビルマ・ライフル部隊 |
指揮 | 西部地方司令部 |
アウンジー(ビルマ語:အောင်ကြီး [ʔàʊɰ̃ dʑí] ; 1919年2月16日 - 2012年10月25日)は、ビルマの軍人、政治家。国民民主連盟(NLD)の共同創設者の一人であり、同党の議長を務めた。
軍歴
[編集]1919年2月16日、バゴー地方域パウンデ郡区に生まれる。中国系ミャンマー人で、中国名は陈旺枝(Chén Wàngzhī)である。
1937年にわれらビルマ人連盟(タキン党)に参加[1]。1948年の独立時、ミャンマー軍(国軍)が創設された時には、多くの有為な人材を輩出した、ネウィン率いる第4ビルマ・ライフル部隊に所属した。[2]その後、1953年に参謀本部第1作戦参謀、1956年に陸軍参謀次長に昇進し、ネウィンに次ぐ国軍No.2の実力者となり、マウンマウンとともに国軍改革において主導的な役割を果たした[3]。短期間ながらビルマ社会党に所属して国会議員も務めた[1]。
1958年、北部軍管区司令部がクーデターを計画した際は、アウンジーはマウンマウンとともに各所を奔走し、ウー・ヌが平和裏にネウィンに政権を移譲するように努めた(ミャンマー軍#選挙管理内閣《1958年~1960年》)。しかし、1962年にネウィンがクーデターを起こした際は、アウンジーはまったく蚊帳の外で、計画すら知らされていなかったのだという[4]。
アウンジーはクーデター後に設立された革命評議会のメンバーになり、ビルマ経済開発公社(BEDC)総裁と貿易産業大臣を兼任した[1]。しかし1963年2月、「同僚と政策について意見の相違が見られたため」、アウンジーのすべての役職の辞任が発表された。理由については、経済政策をめぐってネウィンと対立したからと伝えられている。急進的な一党独裁と国有化を進めるネウィンに対して、アウンジーは、1962年3月7日・8日の外国人記者と産業界代表との会見で、次のように述べていた。
- 政党を禁止せず、健全な政党活動を奨励する。
- 民主主義にもとづく政府が最良の政府である。いずれ文民政府とするが、その時期はまだ言えない。
- 今後2年間輸入業の国営化は行わない。
- 外資を導入して重工業の振興を図る。このため投資法を改正し、投資保証措置を講ずる。また民族資本を育成する[5]。
アウンジーは、1965年から1968年、そして1973年から1974年の2度投獄されたが、ネウィンと国軍への忠誠心は失わなかった[1]。その後、ヤンゴンで喫茶店を営み、日本式の丁寧な接客が評判を呼んで、繁盛していたのだという。
国民民主連盟(NLD)創設
[編集]8888民主化運動の際、1988年3月の国軍による市民の虐殺についてアウンジーが書いたアウンジー書簡が、全国の市民の間に出回り、反政府デモに火を点けるきっかけとなった。その腹いせかネウィンは、自身のビルマ社会主義計画党(BSPP)議長辞任を発表した場で、1962年のヤンゴン大学の学生運動弾圧の首謀者だと暴露した。
デモが盛り上がる中、アウンジーは、アウンサンスーチー、ティンウー、ウー・ヌとともに次期リーダー候補の1人に祭り上げられたが、そのネウィンと国軍に対する忠誠心の高さが人々を白けさせ、結局、人心を掴みきれなかった。8月8日に大規模なデモに対する国軍の弾圧があった際には、「国軍を怒らせてはいけない。心の中でさえも」と発言して、人々を激昂させた[1]。国民民主連盟(NLD)が結成された時は議長に就いたが、「NLDは共産主義者に指導されている」と批判してすぐに離党し、連邦国民民主党(UNDP)を結党した。しかし1990年に実施された総選挙では、1議席しか獲れず、アウンジーは落選の憂き目に遭い惨敗した。
1989年、ビルマ共産党(CPB)が崩壊してワ州連合軍(UWSA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)、民族民主同盟軍(NDAA)、カチン新民主軍(NDA-K)の4つの武装勢力に分裂した際、国家法秩序回復評議会(SLORC)第1書記のキンニュンは、コーカンの麻薬商人だった楊金秀、同じくコーカン出身の麻薬王・ロー・シンハン、アウンジーに仲介を頼み、各勢力と停戦合意を結んだ。
その後、再びビジネスを手がけていたが、1993年、自身が経営するパン屋チェーン店に配達された卵の代金を支払わなかったとして懲役6ヶ月の判決を受けた。しかしこの判決の真の理由はアウンジーの政府批判にあったと言われている[6]。
1998年、アウンジーは訪米して、ラジオ・フリー・アジア(RFA)のインタビューを受け、以下のような発言をした[6]。
- 「国の経済状況は非常に悪い。国民は非常に貧しく、物価はどんどん上がっている。誰もおいしい食事を食べる余裕がない」
- 「人々は国を軽蔑している。これは悪い兆候だ。ビルマの人々は国軍への信頼を失っている」
- 憲法起草に取り組んでいた国民会議をボイコットしたとしてスーチーを批判。
- ヤンゴンを発つ前にネウィンとその娘サンダーウィンに手紙を書いた。その内容は「あなたの父上が再び国を率いなければならないことは否定できない。さもなければ国は崩壊するだろう」「ネウィンには死ぬ前に何か貢献してほしい。なぜなら、彼は正しいことと間違っていることを知っているからだ」と相変わらずのネウィンへの忠誠心を明らかにした。
インタビューを聞いた8888民主化運動の際の学生運動のリーダー・モーティーズンは、「アウンジーは来ない。ただ不幸をもたらすだけだ」と嘆いた。
2002年12月にネウィンが亡くなった時は、数少ない葬式の参列者となり、「彼の人生の最後が不名誉なものだったことを残念に思います」「国に起こったことの責任は彼にあります」と初めて公の場でネウィン批判をした[7]。
死
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e “Former Junta No. 2 Aung Gyi Dies Aged 94”. The Irrawaddy. 2024年10月13日閲覧。
- ^ “Whose Army?”. The Irrawaddy. 2024年10月13日閲覧。
- ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、74頁。
- ^ 中西嘉宏『軍政ビルマの権力構造』京都大学学術出版会、2009年、86-91頁。
- ^ 佐久間平喜『ビルマ現代政治史』勁草書房、1984年、70-71頁。
- ^ a b “Aung Gyi, Burma's general of ill om”. 2024年10月14日閲覧。
- ^ “The Death of Burma's Despot”. The Irrawaddy. 2024年10月14日閲覧。