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8888民主化運動

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8888民主化運動英語: 8888 Uprising, ビルマ語: ၈လေးလုံး または ရှစ်လေးလုံး)は、1988年にビルマ(現ミャンマー)でおこなわれた国民的な民主化要求運動である。1988年8月8日のゼネスト・デモが民主化運動の象徴として捉えられているため「8888民主化運動」の名があるが、学生を主体とする運動は1988年3月21日から継続して行われていた。

瑣末な事件がこのような民主化運動に発展した背景には、前年の1987年、国連から後発開発途上国(LLDC)に認定されたこと、9月に75、35、25チャット紙幣を廃止する廃貨令を発令、しかも廃止された紙幣と小額紙幣との交換を認めなかったため、財産を失う者が続出し、国民の不満が溜まっていたことがあった[1]

運動の中、7月23日にネ・ウィンの長期独裁政権は退陣したが、9月18日に国家法秩序回復評議会 (SLORC、後の国家平和発展評議会(SPDC)) による軍事クーデターが発生し、民主化運動は流血をともなって鎮圧された。この過程で、僧侶と一般人(主に学生)を含む数千人がミャンマー軍 (Tatmadaw) により殺された。

経過

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3月事件

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3月12日、ヤンゴン工科大学近くの喫茶店サンダーウィン[2]で、工科大生3人が持参したSai Hti Saingというシャン族のフォーク歌手のカセットテープをかけるか否かで、先客の青年と喧嘩になり[3]、学生の1人が先客の青年に椅子で頭を殴られた。この青年は警察に逮捕されたものの、地区人民評議会議長の息子だったためすぐに釈放された。

翌3月13日、怒った学生3人は200人ほどの学生仲間を引き連れてその喫茶店に赴き、そこで付近住民と衝突。放火、乱闘の騒動となって治安部隊が出動する事態となり、治安部隊が学生たちに発砲して少なくとも2人が死亡、数十人の負傷者が出る事態となった[4]。犠牲者の1人はマウンフォンマウ(Maung Phone Maw)[5]というビルマ社会主義計画党(BSPP)青年組織と工科大赤十字チームのリーダーの1人で、学業優秀な青年[3]だったことから、学生たちに与えた衝撃は大きかった。

この事件に抗議して工科大学の有志たちが抗議のポスターとビラを制作して、ヤンゴンの他の大学でも配ったが、15日、600人以上の治安部隊が工科大学を襲撃して、少なくとも300~400人の学生を逮捕、大学を閉鎖した。

3月16日、ヤンゴン大学で学生たちによる数千人規模の抗議集会が開かれ、「ネウィンを火葬せよ」「軍政に終止符を」「全国で革命を開始する」などと書かれたビラが配られた[6]。その後、デモ隊はヤンゴン工科大学へ向けて行進を始めたが、ピュー・ロードのインヤー湖のほとりホワイト・ブリッジのあたりで治安部隊と衝突。100~200人ほどの死者が出た。インヤー湖には犠牲となった学生たちの遺体が浮かんでいたのだという[7]。なおこのホワイト・ブリッジはミャンマー語で「ダダピュー(白い橋)」と言うが、事件後は人々から「ダダニー(赤い橋)」と呼ばれるようになった[8]

3月18日、今度はヤンゴン市内で大規模なデモが発生して治安部隊と衝突。大量の逮捕者を出したが、その逮捕者の一部はトラックの荷台にすし詰めにされ、催涙ガスを吸入した後の換気不良が原因で41人が窒息死した(この事実は、7月25日、国営放送が事件を報道するまで伏せられていた)[9]

以後、街は平穏を取り戻したが、釈放されて戻ってきた学生たちが刑務所内で拷問を受けたという話が広まり、学生活動家の間で政府に対する怒りが高まっていった。また学生運動の組織化も進んでいった。

アウンジー書簡

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アウンジー

5月中旬頃から、元国軍ナンバー2で、1963年にネウィンの経済政策を批判して失脚した後、喫茶店の店主をやっていたアウンジー元准将が、書いたとされる書簡[10]がヤンゴンに出回り始めた。内容は、ネウィン批判を慎重に避けつつ、3月事件の事実を明らかにし、現状を変えるためには労働者、農民、軍人、学生が団結して革命を起こすべきと訴えるというものだった(アウンジーは昨年7月にもネウィンに経済政策の変更を求める書簡を出しており、因果関係は不明だが、実際、ネウィンが経済失政を認める演説をしたという経緯があった)。この書簡はコピーされ、ヤンゴンのみならず全国に出回り、3月事件における国軍の蛮行が人々に広く知られるようになった[11][12]

ちなみにこの書簡の中で、アウンジーは宮澤喜一大蔵大臣(当時)の意を受けた2人の日本人の密使に会い、ネウィン体制に変更のない限り、日本の対ミャンマー支援を縮小すると伝えられたと書いているが[13]、真偽は不明である。

6月事件

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6月15日頃からヤンゴンの各大学で頻繁に学生集会が開かれるようになった。当初は平穏なものだったが、20日、政府がヤンゴン大学の閉鎖を発表したため、翌21日、怒った学生たちはヤンゴン大学からデモ行進を開始し、プロムナードを南下。国会議事堂前で治安部隊と対峙したが、警官たちが武器を所持していなかったため、その機に乗じたデモ隊が治安部隊に投石、逃走するトラックに乗り遅れた警官が何人か死亡した。さらに暴徒化したデモ隊が商店・警察署などを襲撃。国営紙の発表では、この日、逮捕者77人、死者は警官6人、暴徒3人だった。そしてこの日を境にヤンゴンの大学はすべて閉鎖、夜間外出禁止令が出され、6月22日には集会・デモが全面的に禁止された[14]。デモはマンダレーバゴーモーラミャインなどの地方都市へ、学生以外の階層の人々へ波及する動きを見せてきた。

ネウィン辞任

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ネウィン

7月23日から25日にかけてBSPPの臨時党大会が開かれ、その初日、ネウィンが突然BSPP議長の辞任と単一政党制か複数政党制かを問う国民投票の実施を発表した。その際「今後騒乱があれば威嚇射撃することなく、狙いを定め当たるように撃つ」という発言も飛び出した。結局、国民投票の実施は党大会で否決されたが、宣言どおりネウィンと大統領のサンユ辞任し、セインルインが後任の大統領となった。この辞任劇には自作自演説、乱心説など様々な憶測を呼んだが、いずれにせよネウィンの口から複数政党制の言葉が出たことにより、反政府運動の焦点が民主主義に絞られるきっかけとなった[15][16]

ちなみにこれより前、7月19日に母の看病のために一時帰国していたアウンサンスーチーが殉教者の日の式典に出席した旨を国営新聞が伝え、国民がその存在を知ることになった。

8888

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セインルインはカレン族の独立運動の英雄・ソーバウジー(Saw Ba U Gyi)殺害や1962年クーデター直後の学生デモの弾圧の指揮を取った、治安・公安畑で長らく権力を振るっていた人物で、3月事件、6月事件弾圧の責任者でもあり、国民の間ではすこぶる評判が悪い人物だった。あだ名は”肉屋”[17]。彼が議長に就任した直後、アウンジーやAP通信記者・セインウィンなど反政府的言動を繰り返してきた人物9人が逮捕された。

ミンコーナイン

ヤンゴンではデモや集会は相変わらず散発的に行われていたが、いずれも平和的なものであり、特段騒動もなかった。8月1日には全ビルマ学生連合(All-Burma Student's Union/通称バ・カ・タ)が1988年8月8日、8が4つ並ぶ吉祥の日にゼネストを呼びかけるビラを街中で配り始めた。ビラの署名には後に高名な民主化運動家となるミンコーナインの名前があった。1938年という年は、ミャンマー中部・マグウェの油田労働者によるストライキをきっかけに、ヤンゴンで学生・活動家による大規模な反英植民地運動が巻き起こった、後の独立運動の発端となった年ということで1300年革命と言われていたが、1988年はその1300年革命50周年に当たる年という認識が人々の間に広まっていった。

8月3日、突然、政府はヤンゴンに戒厳令を敷いた。しかし、その後もデモ・集会は行われ、1988年8月8日、ヤンゴンで5万人規模[18](20万人規模とも[19])の歴史的な大規模なデモが行われた。デモに慣れていないため、シュプレヒコールもプラカードもなく、ただ旗を2、3本掲げぞろぞろ歩くだけの奇妙なデモだったが、デモ隊を囲んだ市民は拍手でこれを歓迎した[20]。しかしヤンゴン市庁舎前に居座ったデモ隊が解散の気配を見せなかっために、治安部隊が発砲を開始。弾圧は8日から12日まで5日間続き、正確な数は不明だが、かなりの数の犠牲者が出たと思われる。同様のデモや弾圧はミャンマーの他の地域でも行われた[21]

結局、この争乱を引き起こした責任を問われ、セインルインは12日に辞任に追いこまれた。

スーチー登場

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アウンサンスーチー

8月19日、法律家で穏健な人物として定評があり、がしかしネウィンには忠実なマウンマウンが大統領となる[22]。マウンマウンは治安部隊に発砲を控えるよう厳命していたため、彼の議長就任後、デモは全国各地で広がり、学生だけではなく、労働者、公務員、僧侶、経営者、医者、弁護士、芸術家、ムスリムあらゆる人々が参加した。また学生運動のシンボル・赤い孔雀の旗、シュプレヒコール、プラカードとデモの体裁も整っていった。プラカードには「軍政打倒」「複数政党制実現」などと書かれていた[23]。24日にはヤンゴンの戒厳令が解除され、マウンマウンは9月12日臨時党大会を開き、あらためて国民投票の是否について協議するという声明を発表した。

デモを主導したのは学生たちだったが、彼らは自分たちには政権担当能力がないことを重々承知しており、自分たちのリーダー探しに苦労していた。当初はアウンサンの長男で、アメリカ在住のアウンサンウーに期待がかけられたが、彼は政治には興味がなかった[24]。25日には釈放されたアウンジーがヤンゴン市内のサッカー場で演説をして、多くの人が集まったが、彼はネウィンに忠実な元軍人で、やはりリーダーには物足りなかった。元国防大臣で投獄された経験があり、当時は弁護士をしていたティンウーも公衆を前にして演説し、好評を博したが、彼もまた元軍人だった[25]。インドで瞑想生活を送っていたウー・ヌ元首相もインドから帰国してひさびさに表舞台に出、民主平和協会を結成を発表して元同僚などから支持を得たが、いかんせん高齢だった。

ということで独立の英雄・アウンサン将軍の娘で、教養があり、容姿端麗なスーチーに白羽の矢が立ち、26日、シュエダゴン・パゴダで彼女の演説会が開かれた。聴衆は約30万人。内容は多党制への移行または総選挙実施のための暫定政権樹立を求め、国軍に国民の側に付くことを訴え、国民には平和的手段で戦うことを求めるものだった。後年歴史的演説と評価されているが、演説は原稿を淡々と読み上げるだけで迫力を欠き、スピーカーの出力が弱く、ほとんどの人々が聞き取れなかったのだという[26]

しかし、海外のメディアはスーチーに注目し、彼女も彼らのインタビューに堪能な英語で当意即妙に応じ、国内だけではなく海外からもミャンマー民主化運動の象徴的存在と目されていった。1986年にエドゥサ革命を経て、大統領に就任したフィリピンコラソン・アキノと姿をだぶらせる声も多かった[27]。9月初旬にミャンマーを訪問した、アメリカの下院外交委員会・アジア太平洋小委員会委員長スティーブン・J・ソラーズ議員は、アメリカは民主化運動を全面支援し、現政権への支援を見直すべきと主張して、民主化運動を後押しした[28]

停滞と過激化

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しかし長引くデモとストで国民生活は麻痺して経済は悪化。政府系商店の略奪放火も横行。また2021年クーデターと時と同じく国軍が大量に囚人を釈放したことにより治安も悪化し、各地区はバリケードを築いてナタや刀で武装した自警団を結成した。警察官やスパイ疑惑をかけられた人々の斬首も相次ぎ、ガリ版刷りのアングラ新聞にその写真が度々掲載された[29]。この自警団に感化されてデモ隊も徐々に武装化していき、手槍、日本刀、ジングリーを使って治安部隊を威嚇した。ヤンゴンやマンダレーでは「武装決死隊」が結成され、本格的に武装闘争を開始する動きもあった[30]。また当時国防省情報局(DDSI)局長だったキンニュンによれば、ビルマ共産党(CPB)がこの混乱を奇貨として政権掌握を目論見、工作員をデモ隊に紛れこませたり、アメリカの戦艦4隻が領海侵犯してきたりしたのだという[31]

9月9日、ウー・ヌが暫定政権の樹立を宣言。しかしその内容は①自分は1962年に非合法なクーデターで政権を奪われたが、1947年憲法にもとづき今でも自分は合法的な首相である②10月9日に選挙を行うが、投票用紙や投票箱を用意できないので大集会における拍手で議決したい③地方で選挙ができないのは大変遺憾というもので、失笑を買っただけに終わり、結局、ウー・ヌは3日後に撤回に追いこまれた。

翌9月10日、マウンマウンは国民投票を行わずに複数政党制の総選挙を3ヶ月以内に行うと発表した。セインルイン辞任(8月12日)、国民投票の実施(8月14日)に次ぐ大幅な譲歩で、暫定政権樹立はBSPP支配の死を意味するので、これ以上はない政権の譲歩だった。

9月13日、デモを主導する学生たちが、スーチー、ウー・ヌ、アウンジー、ティンウーの4人をヤンゴン市内の医科大学の教室に集めて、暫定政権樹立を求める会合を開いた。翌日、ウー・ヌが同じ教室に現れ自分の所信を述べたが、昔話と自慢話に終始し、学生たちは大いに失望した[32][33]。他の3人も返答期限の15日に「平行的に暫定政権を樹立するのは好ましくない」と返答を送った。

クーデター

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9月17日、貿易省前で武装化したデモ隊が国軍兵士24人を拘束して、その武器を奪うという事件が発生した。これが決定打となり、翌9月18日、国営ラジオが「国軍が全権力を掌握した」と発表。国家秩序回復評議会(SLORC)が設置され、国軍総司令官のソウマウンが議長に就任し、クーデターの目的は①治安と法秩序の維持②運輸通信の安定③国民生活の便宜④複数政党制の下での総選挙実施と発表された。キンニュンによれば、事態を収拾できなくなったので、ソウマウンとキンニュンがネウィンに相談したところ、クーデターの決行を促されたのだという[31]。クーデター後3日間、各地で暴動が発生したが、国軍はこれを徹底的に弾圧。正確な数は不明だが全国で多数の死傷者が出た。なおこの時のヤンゴンでの弾圧の模様は1988年11月21日にNHKで放映された『ビルマ・戒厳令下の記録~ラングーン・カメラ日誌[34]』に収録されている。

10月に入るとストライキをしていた続々と職場復帰し始め、事態は終息に向かった。当時ヤンゴンに滞在していた外交官の藤田昌宏氏は、①暫定政権の非現実性②リーダーシップの不統一が民主化運動失敗の要因であったと述べている[35]。ミャンマー農村経済を専門とする高橋昭雄は①当初から国軍の動向が鍵であったこと②経済政策が語られていなかったこと③民主化運動のリーダーたちが都市部出身の比較的富裕な人々ばかりで、当時人口の3分の2を占めていた農民、農村政策が語られていなかったこと(下層軍人のほとんどが貧農出身)を問題点に挙げている[36]

ビルマ共産党の影響

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1989年8月5日、キンニュンは記者会見を開いて、8888民主化運動の際のCPBの活動について、次のように述べている[37]。のちにNLD関係者がキンニュンの指摘はある程度事実であったことを認めている[38]

  1. 8888民主化運動の際の略奪・放火・首切り等の反政府活動はCPBの工作であり、NLDがCPBの影響を受けているたしかな証拠がある。
  2. CPBは権力奪取の手段としてスーチーを利用してきたが、8888民主化運動以降、スーチーを指導者に仕立て利用してきた。スーチーは無自覚のうちにCPBに誘導された。CPBは7月19日の蜂起の計画が失敗すると、8月8日に再度計画を立てた。
  3. スーチーはCPBはの戦術を熟知していなかったため、利用された。元CPB党員に対する油断があった。
  4. NLDにはCPBの工作員が浸透し、スーチーに政府に対する対決路線を取らせた。
  5. スーチーの周囲には共産主義者が多く集まっていた。
  6. スーチーはカレン民族同盟(KNU)議長ボーミャ全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)からの支持を取りつけていた。外国公館との接触もあった。CPB中央委員会委員チョーゾー(Kyaw Zaw)からの書簡など多数の証拠物件がスーチーの自宅から発見された。
  7. NLD内部では、印刷出版業者登録法、殉難者の日式典をめぐって内部対立が生じ、基本的政治方針を出せないまま共産主義的方法にしたがって対決路線を強めていた。NLDに浸透していたCPBの工作員は、元CPB議長タキン・ジン(Thakin Zin)の妻チーチー(Kyi Kyi)、元新聞社主筆ウィンティン(Win Tin)、弁護士ミンミン(Myint Myint)などである。

余波

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民主化運動を担った若者たちの中には、都市部に残って許される範囲内で政治活動を続ける者もいれば、ミャンマー・タイ国境地帯に逃れ、反政府武力闘争をすべくカレン民族解放軍(KNLA)などの少数民族武装勢力の下で軍事訓練を受ける者もいた。1989年9月、その若者たちが結集して全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)を結成し、同年、少数民族武装勢力とビルマ族民主派の連帯組織・ビルマ民主同盟(DAB)にも参加した[39]。ただ当時、カレン民族解放軍に参加していて件の学生たちに訓練を施した西山孝純氏は、その著書の中で、彼らのほとんどが運動経験がないため厳しい訓練に付いていけず、またエリート意識が強すぎて少数民族武装勢力の人々を見下し、被害者意識が強すぎ、自己アピールが強すぎたと苦言を呈している[40]。結局、若者たちの多くは厳しい訓練、粗食、マラリアなどに耐えきれず、政府の呼びかけに応じて投降、政府がタイへ飛ばした飛行機に乗って故郷に戻っていった。1998年12月までに3320人の学生たちが帰還したのだという[41]

8888民主化運動の後、他の若者たちとともにジャングルに逃れてゲリラに加わり、その後、ケンブリッジ大学で英文学の学生になったパスカル・クー・テュエが著した『緑の幽霊の国から』にある、若者たちと喧々諤々の議論を交わしている際に「自分たちは軍事政権の連中と同じではないか」と気づいた際の記述が示唆に富む。

ミャンマーでの生活も教育も―そしてカトリックという宗教でさえも―権威への服従と従順の美徳を教え、人々から自分で考える自由を奪ってゆく。そのような生活を送って来た自分たちは、反乱に身を投じて、自由を手に入れても、自分で考えることができず、まさに軍事政権と同じように、スローガンを叫び、そうすることによってスローガンがすぐにでも実現できると信じるのだ。自分で作ったプロパガンダが、自分の中で現実になる。これこそは、「幻影の政治(Politics of Illusion)」とでも呼べるもので、自分たち反乱学生も同じ自己欺瞞に満ちた幻影の政治をしている。ただ、軍事政権側か、反政府かというのが違うだけだ[42]

日本政府の対応

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3月事件の直後の4月19日から1週間、当時の副首相・トゥラ・ウー・トゥンティンが来日。日本政府にミャンマー経済の窮状を訴え、配慮を求めた。1987年~1988年のミャンマーの円借款の返済が滞っていたため、既に新規の経済協力は停止していた。日本政府内でも長年の経済支援のわりには成果が上がっていないと問題になっていたようだ。この際はまだミャンマー政府の弾圧は政治問題になっていなかったが、日本政府は、ミャンマーの日本に対する債務のうち、5億6000万$分については無償資金の供与で相殺することにしたものの、その他の経済協力については、ミャンマーの経済改革の進展と国際的支援体制を考慮にいれて検討すると約束するに留まった[43]

しかしミャンマー情勢の緊迫を受けて、日本政府はミャンマー政府への経済協力を事実上凍結。が、1989年2月17日、日本政府は他国に先駆けて国家秩序回復評議会(SLORC)を承認し、進行中の経済支援の再開に踏み切った。背景には2月24日に予定されていた大喪の礼に、長年の友好国であるミャンマーの代表を招かないわけにも行かず、両国の国交正常化を早期に図ったという事情があったと言われている。なお軍政の承認を後押ししたのは、当時、日本ビルマ協会の会長を務めていた大鷹淑子氏だった。この日本政府の決定は、ミャンマーの民主派や一部西側諸国から非難を浴びた[44]

関連項目

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出典

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  1. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 11-26.
  2. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 21.
  3. ^ a b Bertil Lintner 1995
  4. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 200.
  5. ^ March 1988: A Month of Revolt”. The Irrawaddy. 2024年8月16日閲覧。
  6. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 201.
  7. ^ When a White Bridge Ran Red With Students’ Blood”. The Irrawaddy. 2024年8月16日閲覧。
  8. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 47.
  9. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 13.
  10. ^ Aung Gyi's letters to Ne Win” (英語). New Mandala (2011年6月17日). 2024年8月16日閲覧。
  11. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 40-46.
  12. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 202.
  13. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 46.
  14. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 207-209.
  15. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 72-80.
  16. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 210-218.
  17. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 81-84.
  18. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 224.
  19. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 90.
  20. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 223.
  21. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 223-234.
  22. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 102-106.
  23. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 250.
  24. ^ 【連載】親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター 第4回「なぜアウン・サン・スー・チー女史は国民に支持されるのか」 – ミャンマー最新ニュース・情報誌-MYANMAR JAPON” (英語). 2024年8月19日閲覧。
  25. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 283-28.
  26. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 260.
  27. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 112.
  28. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 118.
  29. ^ 『誰も知らなかったビルマ』, p. 284.
  30. ^ 桐生稔, 髙橋昭雄『「ビルマ式社会主義」体制の崩壊 : 1988年のビルマ』アジア経済研究所〈アジア動向年報 1989年版〉、1989年、479-512頁。doi:10.20561/00039007hdl:2344/00002088ISBN 9784258010899https://ir.ide.go.jp/records/39012。「Ja/3/Aj4/89」 
  31. ^ a b キンニュン『私の人生にふりかかった様々な出来事―ミャンマーの政治家 キン・ニュンの軌跡〈上巻〉』三恵社、2020年3月26日、50-66頁。 
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  42. ^ ミャンマーの熱い季節”. 国際開発研究者協会. 2024年8月23日閲覧。
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  44. ^ 『ビルマ民主化運動1988』, p. 222-232.

参考文献

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外部リンク

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