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高部正樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たかべ まさき

高部 正樹
生誕 1964年
日本の旗 日本 愛知県
職業 タレント、ライター、軍事評論家、コメンテーター
雇用者 カートプロモーション
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高部 正樹(たかべ まさき、1964年 - )は、日本出身の元傭兵である。元航空自衛隊飛行幹部候補生二等空曹。現在はタレント、軍事評論家フリーライター

経歴

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1964年、愛知県で生まれる。

将来の夢をパイロットもしくは歩兵と定め、高校卒業と同時に航空学生として航空自衛隊に入隊。航空学生課程を修了し、飛行幹部候補生三等空曹に昇任。その後は飛行幹部候補生として、戦闘機パイロットとなるべく訓練を受けたが、訓練中に負った背中の怪我により飛行幹部候補生を罷免された。航空自衛隊では、飛行幹部候補生を罷免された自衛官を直ちに除隊させることはなく、部内の他職種への配置転換を命じるという一種の救済措置を実施しているが自ら除隊した。除隊時の階級は飛行幹部候補生二等空曹。

子供の頃から「最前線で戦う戦闘機パイロットもしくは歩兵になりたい」という夢を持っていた高部は、その後もうひとつの夢であった肉体的・精神的に精強な歩兵になることを決意し1988年、当時ソビエト連邦の侵攻を受けていたアフガニスタンに単身乗り込む。ムジャーヒディーンの中の一派の「ジャマアテ・イスラーミー」に加わり、ソビエト軍との紛争やソビエト軍撤退後のムジャーヒディーン同士の抗争(アフガニスタン内戦)を戦う。

1990年代に入り、活動拠点を東南アジアに移しカレン民族解放軍に加わり、ミャンマー軍事政権からの独立闘争に参加する。途中94年から95年の間は、クロアチア傭兵部隊「ビッグ・エレファント」の一員として、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に参戦している。帰国後は再びカレン民族解放軍に参加した。

2000年代中頃、民間軍事会社に雇われていた傭兵仲間と共にイラク入りする予定であったが、足の骨折のため断念している。

1990年と2002年にイラクのサッダーム・フセイン政権からのオファーを受けているが、1990年は結果としてイラク入りしていない。また2002年はオファー自体を断っている。

傭兵を引退後、ジャーナリスト、軍事評論家として活動。タイ・ミャンマー情勢に精通し、タイ語を操り紛争地域の取材活動や幅広い人脈からコーディネーターとしても活動している。また近年では多くの映画やドラマに軍事、アクションなどの監修としても参加している。

人物

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  • 高部によれば、前線の軍隊では「殺害」への敷居が低いため、自分の気に入らないものを誤射同士討ち)を装って銃殺する行為が散見されており、自分の命を守る上で重要なことは、軍隊内でを作らないことだという[1]
  • 高部も戦場での体験から暗いところで寝ることが出来なくなり、夜は明かりを付けた部屋でしか寝れなくなったという。

年表

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  • 1964年 - 愛知県に生まれる
  • 幼少期に神風特別攻撃隊の本を読み、将来の夢を歩兵またはパイロットと定める
  • 1982年 - 航空自衛隊に航空学生として入隊、パイロットとなるための訓練を積む
  • 1988年頃 - 訓練中の怪我により空自を除隊。アフガニスタンのムジャヒディンに加わる
  • 1990年 - イスラムの生活になじめず、東南アジアに活動の拠点を移し、カレン民族解放軍に参加
  • 1994年 - ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に参加
  • 1995年 - 再びカレン民族解放軍に参加
  • 2007年 - 7月いっぱいで傭兵を引退。引退後も、カレン民族解放軍の集会への出席や、執筆活動を行う。
  • 2011年3月 -東日本大震災の被災地を支援。ボランティアのトラックドライバーとして被災地に支援物資を届ける活動に従事するとともに、福島第一原子力発電所事故に際して、適切な対応を怠り事故の被害を拡大させたとして、当時の菅直人首相、枝野幸男官房長官、清水正孝東京電力社長ら6人を、業務上過失傷害刑法211条)の疑いで東京地検に告発。

著書

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9784801938427

メディア出演

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テレビ

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ラジオ

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動画サイト

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外部リンク

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脚注

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  1. ^ a b 20年異国の戦場で戦った元日本人傭兵/ミサイル爆撃で瀕⚫︎/同僚が頭撃ち抜かれ即⚫︎/高部正樹”. 街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜 (2022年12月27日). 2022年12月27日閲覧。