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'''上有知藩'''(こうずちはん)は、[[美濃国]][[武儀郡]](現在の[[岐阜県]][[美濃市]] |
'''上有知藩'''(こうずちはん)は、[[美濃国]][[武儀郡]]上有知(現在の[[岐阜県]][[美濃市]][[美濃町 (岐阜県)|中心地区]])を居所として、[[江戸時代]]初期まで存在した[[藩]]<ref name="kadokawachimei_7344193"/>{{sfn|『藩と城下町の事典』|p=306}}。[[豊臣政権]]下では佐藤氏が当地を治めていたが、[[関ヶ原の戦い]]後に改易され、代わって[[飛騨高山藩|飛騨高山城主]]であった[[金森長近]]が当地で加増を受けて本拠を移した。長近は[[小倉山城 (美濃国)|小倉山城]]を築き、城下町を整備した。1608年に長近が没すると金森家の所領は分割され、二男が上有知藩を継いだが、1608年に無嗣断絶となった。 |
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|caption=関連地図(岐阜県){{efn|赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。}} |
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=== 佐藤氏の時代 === |
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戦国期の天正年間、[[佐藤清信]]が当地に拠り、鉈尾山に[[鉈尾山城|{{ruby|鉈尾山|なたおやま}}城]]を、麓の長良川畔に居館を営んだ<ref name="kadokawachimei_7344190"/>。清信の跡を継いだ[[佐藤秀方]]は武儀郡の大半<ref name="kadokawachimei_7344190"/>、2万5000石を治めた{{sfn|『藩と城下町の事典』|p=306}}。 |
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一方、方政の叔父で[[飛騨国|飛騨]]一国を支配する[[金森長近]]は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後に所領として上有知1万8000石を加増された。これを機に家督を養子の[[金森可重|可重]]に継がせて自身は鉈尾山城に入った。後に小倉山に新城を築いて移り住み、上有知の殖産興業化を目指し、牧谷地域の製紙業を発展させ、城下町の建設にも尽力した。 |
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=== 金森氏の入封 === |
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慶長13年([[1608年]])8月、長近が死去すると、可重が[[高山城 (飛騨国)|高山城]]を居城として[[飛騨高山藩]]を統治し3万8000石、上有知藩は次男の[[金森長光|長光]]が2万石で統治した。だが、慶長16年([[1611年]])10月、長光は6歳で夭折したため、上有知藩は廃藩となった。 |
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== 参考文献 == |
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*{{citation|和書|author=[[二木謙一]]監修、[[工藤寛正]]編|title=藩と城下町の事典|publisher=東京堂出版|year=2004|ref={{SfnRef|『藩と城下町の事典』}}}} |
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*{{citation|和書|author=川辺町史編さん委員会 編|title=川辺町史 通史編|publisher=東京堂出版|year=1988|url=https://www.kawabe-gifu.jp/?page_id=12750|ref={{SfnRef|『川辺町史 通史編』}} |
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2024年12月18日 (水) 08:03時点における版
上有知藩(こうずちはん)は、美濃国武儀郡上有知(現在の岐阜県美濃市中心地区)を居所として、江戸時代初期まで存在した藩[1][2]。豊臣政権下では佐藤氏が当地を治めていたが、関ヶ原の戦い後に改易され、代わって飛騨高山城主であった金森長近が当地で加増を受けて本拠を移した。長近は小倉山城を築き、城下町を整備した。1608年に長近が没すると金森家の所領は分割され、二男が上有知藩を継いだが、1608年に無嗣断絶となった。
歴史
佐藤氏の時代
戦国期の天正年間、佐藤清信が当地に拠り、鉈尾山に
秀方の子・方政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担[3]。岐阜城の戦いに敗れ[3]、戦後に改易された[3]。
金森氏の入封
金森長近(兵部卿法印)は、天正14年(1586年)に飛騨一国3万8700石を領し、高山城主となった[4]。金森家と佐藤家は姻戚で[5]、金森長近の姉が佐藤秀方に嫁いだという(佐藤秀方・佐藤方政参照)。
関ヶ原の役においてを金森家は東軍に与し、養子の可重[注釈 2]は郡上八幡城攻めに加わり[4][6](八幡城の合戦)、次いで父子で家康に従い本戦に参加した[4]。戦後の10月、長近は恩賞として美濃国武儀郡上有知・関、および河内国金田において2万3000石を加増され、合計6万1000余石を領した[4]。長近は新領地となった上有知に本拠を移し[4]、小倉山に新城(小倉山城)を築いて移り住んだ。金森長近の統治下、上有知には長良川の河湊が開かれ[7]、城下は繁華であった[7]。
慶長13年(1608年)8月12日、長近は84歳で死去した[4]。家督は可重が継いだ[7]。『寛政譜』によれば、可重は長近の遺領のうち飛騨国(飛騨高山藩3万8700石)を領し、美濃・河内両国内2万3000石は長近二男[注釈 3]の長光(五郎八、2歳)に分与したといい[6]、長光はここから河内国内の3000石を「母および家臣等」に分与したという[6]。これに従えば、長光の知行地は美濃国内2万石である。
慶長16年(1611年)10月、長光は6歳で夭折した[1]。これにより上有知藩は廃藩となった[1]。『寛政譜』によれば、家臣の島四郎兵衛[注釈 4]・肥田忠親(主水)[注釈 5]・池田政長(図書)[注釈 6]が幕臣として召し出され、上有知藩旧領でそれぞれ1000石が与えられた[6]。
歴代藩主
- 金森家
外様(慶長5年(1600年)-慶長16年(1611年))1万8000石→2万石。
脚注
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 実父は長屋景重。
- ^ 『寛政譜』には、長近の長男は金森長則である[6]。長則は幼少より織田信忠に仕え、天正10年(1582年)の本能寺の変の際に二条城において死亡した[6]。
- ^ 『寛政譜』には慶長17年(1612年)に徳川家に召し出され、美濃国武儀郡で1000石を与えられた島三安(四郎兵衛)の記載がある[8]。島三安は島一政の二男であり、一政は尾張楽田城主であった織田信正の子である。三安は幕臣となったのち御書院番を務めたが[8]、『寛政譜』編纂時点で子孫は無嗣により断絶している。
- ^ 肥田忠親の父は、美濃米田城主であった[9]肥田忠政、母は金森長近の娘[10]。父が没した時に幼少であったため、外祖父金森長近の許で育ったという[10]。慶長17年(1612年)に徳川家に召し出され、のち小姓組に列したが、配下が諍いを起こして刃傷沙汰を起こし、改易された[10]。ただしこれより先に忠親の子が別に出仕しており、家名は存続した。
- ^ 池田政長の父は大塚元重、母は池田平兵衛の娘で、政長は母方の名字を名乗った[11]。上有知藩の家老を務めていたという[12]。慶長17年(1612年)に召し出されて幕臣となったのちには御使番を務める[11]。『寛政譜』によれば江戸浅草の白泉寺に葬られたとあるが[11]。(白泉寺は巣鴨に移転し、池田家の墓は現存せず[12])、関市の臨川寺にも一族の墓がある[12]。東京・お茶の水の「池田坂」(別名「唐犬坂」)は、この旗本池田家末裔の屋敷があり、珍しい唐犬を飼っていたことで知られていたための名という[12]。
出典
- ^ a b c “上有知藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年12月18日閲覧。
- ^ a b 『藩と城下町の事典』, p. 306.
- ^ a b c d e “上有智荘(古代)”. 角川日本地名大辞典. 2024年12月18日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十二「金森」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1040。
- ^ 『川辺町史 通史編』, p. 172.
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第三百六十二「金森」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1041。
- ^ a b c “上有知村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年12月18日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四百九十三「島」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.588。
- ^ 『川辺町史 通史編』, pp. 139–140.
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第三百八「肥田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.691。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第八百三十三「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.355。
- ^ a b c d “お殿様 池田図書政長”. 黄檗宗 萬亀山 臨川寺. 2024年12月18日閲覧。