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「バハラーム6世」の版間の差分

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新ペルシア語表記についてパフラヴィー語と併記 その他全体的な配置修正
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'''バハラーム・チョービン''' ([[ペルシア語]]:بهرام چوبین、[[パフラヴィー語]]:𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭、生没年:不明〜[[591年]])は[[サーサーン朝]]の[[シャー|シャーハンシャー]]。「光明神[[ミスラ]]の僕(しもべ)」を意味する'''メフルバンダク(Mehrbandak)'''の渾名でも知られる{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。パルティア系貴族[[ミフラーン家]]の出身であり、即位する以前には北部の軍司令官([[スパーフベド]])を務めた。のちに王位を僭称し、初めてのサーサーン家出身でないシャーハンシャー、'''バハラーム6世'''として国内を短期間統治した(在位:[[590年]]〜[[591年]])。
'''バハラーム・チョービン''' ([[ペルシア語]]:بهرام چوبین、[[パフラヴィー語]](pal):𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭(ヴァフラーム・チョービーン)、生没年:不明〜[[591年]])は[[サーサーン朝]]の[[シャー|シャーハンシャー]]。「光明神[[ミスラ]]の僕(しもべ)」を意味する'''メフルバンダク(Mehrbandak)'''の渾名でも知られる{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。パルティア系貴族[[ミフラーン家]]の出身であり、即位する以前には北部の軍司令官([[スパーフベド]])を務めた。のちに王位を僭称し、初めてのサーサーン家出身でないシャーハンシャー、'''バハラーム6世'''(pal:ヴァフラーム6世)として国内を短期間統治した(在位:[[590年]]〜[[591年]])。


バハラームは{{仮リンク|バハラーム・グシュナスプ|en|Bahram Gushnasp}}の息子で、[[七大貴族|パルティア系貴族]]の[[ミフラーン家]]出身。役職としては、[[シャフレ・レイ|レイ]](レイイ)の統治者から始まり、{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=東ローマ・サーサーン戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}での{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}の要塞の攻略の功によって、北西部の軍司令官([[スパーフベド]])に昇進した。[[588年]]の大規模な[[エフタル]]と[[西突厥|突厥]]による{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|label=侵略|en|First Perso-Turkic War}}の中で、彼は{{仮リンク|歴史的ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}のスパーフベドに任じられ、その結果サーサーン朝に決定的な勝利をもたらした。
バハラームは{{仮リンク|バハラーム・グシュナスプ|en|Bahram Gushnasp}}の息子で、[[七大貴族|パルティア系貴族]]の[[ミフラーン家]]出身。役職としては、[[シャフレ・レイ|レイ]](レイイ)の統治者から始まり、{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=東ローマ・サーサーン戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}での{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}の要塞の攻略の功によって、北西部の軍司令官([[スパーフベド]])に昇進した。[[588年]]の大規模な[[エフタル]]と[[西突厥|突厥]]による{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|label=侵略|en|First Perso-Turkic War}}の中で、彼は{{仮リンク|歴史的ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}のスパーフベドに任じられ、その結果サーサーン朝に決定的な勝利をもたらした。


バハラームは家格、性格、才能、実績が相まって、帝国内で高い地位を確立した。サーサーン朝の王[[ホルミズド4世]]はこれに不信感を抱き、指揮権を剥奪した。バハラームはホルミズド4世に対して、「[[パルティア|アルサケス朝]]の復活」を大義名分に掲げて[[サーサーン内乱 (589年-591年)|反旗を翻し]]た。反乱の中でバハラームは自身を[[ゾロアスター教]]の救世主になぞらえた。バハラームの反乱軍が首都[[クテシフォン]]に向かう最中、反ホルミズド派閥を率いる[[イスパフベダーン家]](アスパーフバド家)の[[ヴィスタム]]・{{仮リンク|ヴィンドゥーヤ|label=ヴィンドゥーヤ|en|Vinduyih}}(Vinduyih)兄弟によってホルミズドは暗殺され、ホルミズドの息子シェーローエが[[ホスロー2世]]として即位したが、バハラームがクテシフォンに到着すると、ホスローは[[東ローマ帝国]]に亡命した。[[東ローマ帝国]]のバックアップを得たホスローは、バハラームに対して軍事行動を起こし、バハラームは敗北を喫し[[西突厥]]へ亡命した。まもなくバハラームは復位したホスロー2世が放った刺客により暗殺される。
バハラームは家格、性格、才能、実績が相まって、帝国内で高い地位を確立した。サーサーン朝の王[[ホルミズド4世]](pal:オフルマズド4世)はこれに不信感を抱き、指揮権を剥奪した。バハラームはホルミズド4世に対して、「[[パルティア|アルサケス朝]](pal:アルシャク朝)の復活」を大義名分に掲げて[[サーサーン内乱 (589年-591年)|反旗を翻し]]た。反乱の中でバハラームは自身を[[ゾロアスター教]]の救世主になぞらえた。バハラームの反乱軍が首都[[クテシフォン]](pal:テースィフォーン)に向かう最中、反ホルミズド派閥を率いる[[イスパフベダーン家]](アスパーフバド家)の[[ヴィスタム]](pal:ヴィスターフム)・{{仮リンク|ヴィンドゥーヤ|en|Vinduyih}}兄弟によってホルミズドは暗殺され、ホルミズドの息子シェーローエが[[ホスロー2世]]として即位したが、バハラームがクテシフォンに到着すると、ホスローは[[東ローマ帝国]]に亡命した。[[東ローマ帝国]]のバックアップを得たホスローは、バハラームに対して軍事行動を起こし、バハラームは敗北を喫し[[西突厥]]へ亡命した。まもなくバハラームは復位したホスロー2世が放った刺客により暗殺される。


バハラーム・チョービンの生涯とその勇姿は[[イスラーム教徒のペルシア征服]]後も、イランの民族主義者([[ナショナリスト]])に語り継がれ、「'''バハラーム・チョービン・ナーマ'''(Bahrām Chōbīn Nāma、バハラーム・チョービンの書)」を始めとする[[ペルシア文学]]作品にも描かれている。
バハラーム・チョービンの生涯とその勇姿は[[イスラーム教徒のペルシア征服]]後も、理想的騎士としてイランの民族主義者に語り継がれ、「'''バハラーム・チョービン・ナーマ'''(pal:ヴァフラーム・チョービーン・ナーマグ、バハラーム・チョービンの書)」を始めとする[[ペルシア文学]]作品にも描かれている。


== 名前 ==
== 名前 ==
{{仮リンク|テオフォリックネーム|en|Theophoric name}}{{refnest|group="注釈"|古代ギリシアや、メソポタミア等で見られる、神の加護を受けるために付けられた、神の名前に由来関連する名前である。}}である「'''Bahram'''(バハラーム){{refnest|group="注釈"|バフラーム、ヴァフラームなどの表記ゆれもみられる。}}」は[[アヴェスター語]]で勝利の神'''[[ウルスラグナ]]'''を意味する。バハラームは{{仮リンク|新ペルシア語|en|New Persian}}での綴であり、[[イラン語群#古代ペルシア語|古代ペルシア語]]では「'''Vṛθragna'''」、[[パフラヴィー語]](中期ペルシア語)では「'''Warahrān'''(ワラフラーン、ワルフラーン)」または「'''Wahrām'''」とつづられる。サーサーン朝時代には中期ペルシア語が用いられている{{refnest|group="注釈"|対して古代ペルシア語はアケメネス朝期、新ペルシア語はサーマーン朝以降のイラン系王朝で用いられる。}}。[[パルティア語]]では'''Warθagn'''と綴る。またチョービン(Chobin)は「投げ槍のような、木製の棒」を意味し、バハラームの背が高く細身な体型に由来して付けられている{{sfn|Kia|2016|p=240}}。著名なペルシア文学家[[フィルドゥシー]]は、[[シャー・ナーメ]]の作中でバハラームを「背が高い、黒い巻き毛(カーリーヘア)で色黒な戦士」と表現している{{sfn|Kia|2016|p=240}}。その他の言語でもバハラーム・チョービンの名は記されており、[[ギリシア語]]では'''Baram Č‛ubin[i]'''{{sfn|Rapp|2014|pages=195, 343}}、[[アルメニア語]]ではVahram Ch’obin{{Sfn|Sebeos|1999|p=168}}となる。[[ラテン語]]では'''Vararanes'''{{sfn|Jones|1971|p=945}}、また[[ギリシア語]]では[[テオフィラクトス・シモカテス]]がBaram(Βαράμ)、{{仮リンク|ヨハネス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}はBaramos(Βάραμος)と記述している{{sfn|Martindale|Jones|Morris|1992|p=166}}。
バハラーム6世が生きたサーサーン朝時代には中期ペルシア語が用いられているため本項では、中期ペルシア語表記を主とした。君主名など新ペルシア語表記で呼ばれることが一般的(シャープールなど)と判断したものに関しては新ペルシア語表記(初出に限り、『pal:中期ペルシア語表記』と中期ペルシア語表記を併記する)、地名に関しては主に一般的呼称(クテシフォンなど)を使用した。また、中期ペルシア語表記は原則、青木『ペルシア帝国<ref>[[#青木 2020|青木 2020]]</ref>』を参考にした。
{{仮リンク|テオフォリックネーム|en|Theophoric name}}{{refnest|group="注釈"|古代ギリシアや、メソポタミア等で見られる、神の加護を受けるために付けられた、神の名前に由来関連する名前である。}}である「'''Bahram'''(バハラーム){{refnest|group="注釈"|バフラーム、ヴァフラームなどの表記ゆれもみられる。}}」は[[アヴェスター語]]で勝利の神'''[[ウルスラグナ]]'''を意味する。バハラームは{{仮リンク|新ペルシア語|en|New Persian}}での綴であり、[[イラン語群#古代ペルシア語|古代ペルシア語]]では「'''Vṛθragna'''」、[[パフラヴィー語]](中期ペルシア語)では「'''Warahrān'''(ワラフラーン、ワルフラーン)」または「'''Wahrām'''」とつづられる。[[パルティア語]]では'''Warθagn'''と綴る。またチョービン(pal:チョービーン)は「投げ槍のような、木製の棒」を意味し、バハラームの背が高く細身な体型に由来して付けられている{{sfn|Kia|2016|p=240}}。著名なペルシア文学家[[フィルドゥシー]]は、[[シャー・ナーメ]]の作中でバハラームを「背が高い、黒い巻き毛(カーリーヘア)で色黒な戦士」と表現している{{sfn|Kia|2016|p=240}}。その他の言語でもバハラーム・チョービンの名は記されており、[[ギリシア語]]では'''Baram Č‛ubin[i]'''{{sfn|Rapp|2014|pages=195, 343}}、[[アルメニア語]]ではVahram Ch’obin{{Sfn|Sebeos|1999|p=168}}となる。[[ラテン語]]では'''Vararanes'''{{sfn|Jones|1971|p=945}}、また[[ギリシア語]]では[[テオフィラクトス・シモカテス]]がBaram(Βαράμ)、{{仮リンク|ヨハネス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}はBaramos(Βάραμος)と記述している{{sfn|Martindale|Jones|Morris|1992|p=166}}。


== 背景 ==
== 背景 ==
バハラームは、[[七大貴族]]の一つに数えられる[[パルティア]]系の有力貴族[[ミフラーン家]]出身である。[[ミフラーン家]]は現在のイランの首都[[テヘラン]]の南に位置する[[シャフレ・レイ|レイ]](レイイ)を根拠地としていた。ミフラーン家のグシュナスプ・ミフラーンは[[ヤズデギルド2世]]の没後、後継争いに際して、[[ペーローズ1世]]を擁立した。ヤズデギルド2世の統治下で権勢を張り、[[ホルミズド3世]]を擁立した{{仮リンク|スーレーン家|en|House of Suren}}勢力を破ると、[[ペーローズ1世]]を即位させサーサーン朝の実権を握った<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,208,209</ref>。しかし、ペーローズ1世は対エフタル戦役で戦死し、おそらく[[ミフラーン家]]の重鎮たちが大勢戦死し、その影響もあってか実権は{{仮リンク|カーレーン家|en|House of Karen}}に戻った<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,218、220</ref>。
バハラームは、[[七大貴族]]の一つに数えられる[[パルティア]]系の有力貴族[[ミフラーン家]]出身である。[[ミフラーン家]]は現在のイランの首都[[テヘラン]]の南に位置する[[シャフレ・レイ|レイ]](レイイ)を根拠地としていた。ミフラーン家のグシュナスプ・ミフラーンは[[ヤズデギルド2世]](pal:ヤザドギルド2世)の没後、後継争いに際して、[[ペーローズ1世]]を擁立した。ヤズデギルド2世の統治下で権勢を張り、[[ホルミズド3世]](pal:オフルマズド3世)を擁立した{{仮リンク|スーレーン家|en|House of Suren}}勢力を破ると、[[ペーローズ1世]]を即位させサーサーン朝の実権を握った<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,208,209</ref>。しかし、ペーローズ1世は対エフタル戦役で戦死し、おそらく[[ミフラーン家]]の重鎮たちが大勢戦死し、その影響もあってかミフラーン家は一旦衰退し、実権は{{仮リンク|カーレーン家|en|House of Karen}}に戻った<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,218、220</ref>。


[[ホスロー1世]]の治世下(在位:531年〜579年)において、軍制改革の一環としてサーサーン朝を東西南北4つの軍管区に分割し、それぞれに軍司令官([[スパーフベド]])を置き、パルティア系貴族を登用した<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,236~238</ref>。祖父の{{仮リンク|ゴーローン・ミフラーン|en|Golon Mihran}}は[[サーサーン朝領アルメニア|アルメニア]]の[[マルズバーン]]([[辺境伯]]に近い、辺境の州の将軍を指す役職)や{{sfn|Pourshariati|2008|p=103}}、北部の軍司令官を務めた<ref name="p248">[[#青木 2020|青木 2020]] p,248~250</ref>。父の{{仮リンク|バハラーム・グシュナスプ|en|Bahram Gushnasp}}も同様に北部の軍司令官を務め、[[東ローマ帝国]]と{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=戦い|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}、[[イエメン]]への戦役にも従軍して、イエメンの首都サヌアを奪還しサーサーン朝の衛星国としている<ref name="p248"/>。このイエメン戦役にかけて、ミフラーン家は北部軍管区の兵を私有化し、軍事力を強めた<ref name="p248"/>。また、ホスロー1世の治世後半には、ミフラーン家出身の貴族が宰相となり、ミフラーン家が再び政治・軍事両面においてサーサーン朝の実権を握った。
[[ホスロー1世]]の治世下(在位:531年〜579年)において、軍制改革の一環としてサーサーン朝を東西南北4つの軍管区に分割し、それぞれに軍司令官([[スパーフベド]])を置き、パルティア系貴族を登用した<ref>[[#青木 2020|青木 2020]] p,236~238</ref>。祖父の{{仮リンク|ゴーローン・ミフラーン|en|Golon Mihran}}は[[サーサーン朝領アルメニア|アルメニア]]の[[マルズバーン]]([[辺境伯]]に近い、辺境の州の将軍を指す役職)や{{sfn|Pourshariati|2008|p=103}}、北部の軍司令官を務めた<ref name="p248">[[#青木 2020|青木 2020]] p,248~250</ref>。父の{{仮リンク|バハラーム・グシュナスプ|en|Bahram Gushnasp}}も同様に北部の軍司令官を務め、[[東ローマ帝国]]と{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=戦い|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}、[[イエメン]]への戦役にも従軍して、イエメンの首都サヌアを奪還しサーサーン朝の衛星国としている<ref name="p248"/>。このイエメン戦役にかけて、ミフラーン家は北部軍管区の兵を私有化し、軍事力を強めた<ref name="p248"/>。また、ホスロー1世の治世後半には、ミフラーン家出身の貴族が宰相となり、ミフラーン家が再び政治・軍事両面においてサーサーン朝の実権を握った。


バハラームの兄弟姉妹には{{仮リンク|ゴルディヤ|en|Gordiya}}、ゴルデュヤ(Gorduya)、{{仮リンク|マルダンスィーナー|en|Mardansina}}(Mardansina)の3人の名前が記録されている。
バハラームの兄弟姉妹には{{仮リンク|ゴルディヤ|en|Gordiya}}{{refnest|group="注釈"|青木『ペルシア帝国』によれば、ゴルディヤは、ヴィンドゥーヤ・ヴィスタム兄弟の妹である<ref name="p259">[[#青木 2020|青木 2020]] p,259</ref>。}}、ゴルデュヤ(Gorduya)、{{仮リンク|マルダンスィーナー|en|Mardansina}}(Mardansina)の3人の名前が記録されている。


== 台頭 ==
== 台頭 ==
[[Image:The Battle between Bahram Chubina and Sava Shah LACMA M.2009.44.1 (3 of 9).jpg|thumb|250px|西突厥の[[カガン|可汗]]、[[葉護可汗]](ヤブク・カガン)と戦うバハラーム([[シャー・ナーメ]]の挿絵より)]]
[[Image:The Battle between Bahram Chubina and Sava Shah LACMA M.2009.44.1 (3 of 9).jpg|thumb|250px|西突厥の[[カガン|可汗]]、[[葉護可汗]](ヤブク・カガン)と戦うバハラーム([[シャー・ナーメ]]の挿絵より)]]


バハラームの経歴はレイの[[マルズバーン]](辺境地域の総督)から始まった。当時のサーサーン朝はホスロー1世の統治下で、[[ユスティニアヌス1世]]率いる[[東ローマ帝国]]と一進一退の攻防を繰り返しながら、ともに最盛期を迎えていた。[[572年]]、[[東ローマ帝国]]の[[メソポタミア]]における重要拠点、{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}の要塞を{{仮リンク|ダラ包囲戦 (573年)|label=包囲|en|Siege of Dara (573)}}した。この包囲戦でバハラームは騎兵隊を率い、4ヶ月に渡る包囲戦の結果サーサーン朝が要塞を攻略した{{sfn|Nicholson|Canepa|Daryaee|2018}}。この戦功により、[[アーザルバーイジャーン|アゼルバイジャン]]や{{仮リンク|メディア (地域)|label=メディア|en|media (region)}}地方の軍事力を掌握する、北部の軍司令官([[スパーフベド]]){{refnest|group="注釈"|ホスロー1世以降(または[[カワード1世]])、スパーフベドは帝国を東西南北の4つの地区に分割し、それぞれの地区ごとに置かれる役職となっている。{{仮リンク|ホラーサーン地方|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}(東部)、南部、西部、そしてアゼルバイジャンのスパーフベド(アゼルバイジャン地方の人々が「北」という呼称を嫌ったために、アゼルバイジャンのスパーフベドと呼ばれる)の4役職は以降のサーサーン朝において軍事的に大きな権力を握った<ref name="Iranica">Gyselen (2004)</ref><ref>Pourshariati (2008), pp. 95ff.</ref>。}}に昇進した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。スパーフベドに就任してからも、北[[メソポタミア]]を巡る東ローマ帝国との{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=長きにわたる戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}に参戦している。[[588年]]、[[突厥]]の[[カガン|可汗]]、[[葉護可汗]](ヤブグ・カガン){{refnest|group="注釈"|ペルシア語文献にはŠāwa、Sāva、Sāba等と表記される<ref name=IranicaShahbazi>{{cite encyclopedia |last=Shahbazi |first=A. Sh. | title= BAHRĀM (2), (Section vii. Bahrām VI Čōbīn) | encyclopedia=Encyclopædia Iranica | access-date=2011-06-25|url=http://www.iranicaonline.org/articles/bahram-06}}</ref><ref name=":0">{{Cite journal |last=Golden |first=Peter |date=2016 |title="The Great King of the Türks" |url=https://tl.harrassowitz-library.com/article/TL/2016/1/3 |journal=Turkic Languages |language=de |volume=20 |issue=1 |pages=26–59 |doi=10.13173/TL/2016/1/26}}</ref>。}}は家臣となった[[エフタル]]{{refnest|group="注釈"|ホスロー1世は[[突厥]]と挟撃して、[[567年]]頃にはエフタルを滅ぼしていたが、その後もエフタルと呼ばれる人々は存在していた。}}を引き連れて、[[アムダリヤ川|オクサス川]](アムダリヤ川、アム川)の南部の領土に{{仮リンク|第1次ペルソ・テュルク戦争|label=侵攻|en|First Perso-Turkic War}}した。[[バルフ]]のサーサーン朝軍を敗走させると、さらに[[タールカーン]]、[[バードギース州|バードギース]]、[[ヘラート]]等の諸都市に侵攻した{{sfn|Rezakhani|2017|p=177}}。
バハラームの経歴はレイの[[マルズバーン]](辺境地域の総督)から始まった。当時のサーサーン朝はホスロー1世の統治下で、[[ユスティニアヌス1世]]率いる[[東ローマ帝国]]と一進一退の攻防を繰り返しながら、ともに最盛期を迎えていた。[[572年]]、[[東ローマ帝国]]の[[メソポタミア]]における重要拠点、{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}の要塞を{{仮リンク|ダラ包囲戦 (573年)|label=包囲|en|Siege of Dara (573)}}した。この包囲戦でバハラームは騎兵隊を率い、4ヶ月に渡る包囲戦の結果サーサーン朝が要塞を攻略した{{sfn|Nicholson|Canepa|Daryaee|2018}}。この戦功により、[[アーザルバーイジャーン|アゼルバイジャン]]や{{仮リンク|メディア (地域)|label=メディア|en|media (region)}}地方の軍事力を掌握する、北部の軍司令官([[スパーフベド]]){{refnest|group="注釈"|ホスロー1世以降(または[[カワード1世]])、スパーフベドは帝国を東西南北の4つの地区に分割し、それぞれの地区ごとに置かれる役職となっている。{{仮リンク|歴史的ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}(東部)、南部、西部、そしてアゼルバイジャンのスパーフベド(アゼルバイジャン地方の人々が「北」という呼称を嫌ったために、アゼルバイジャンのスパーフベドと呼ばれる)の4役職は以降のサーサーン朝において軍事的に大きな権力を握った<ref name="Iranica">Gyselen (2004)</ref><ref>Pourshariati (2008), pp. 95ff.</ref>。}}に昇進した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。スパーフベドに就任してからも、北[[メソポタミア]]を巡る東ローマ帝国との{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=長きにわたる戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}に参戦している。[[588年]]、[[突厥]]の[[カガン|可汗]]、[[葉護可汗]](ヤブグ・カガン){{refnest|group="注釈"|ペルシア語文献にはŠāwa、Sāva、Sāba等と表記される<ref name=IranicaShahbazi>{{cite encyclopedia |last=Shahbazi |first=A. Sh. | title= BAHRĀM (2), (Section vii. Bahrām VI Čōbīn) | encyclopedia=Encyclopædia Iranica | access-date=2011-06-25|url=http://www.iranicaonline.org/articles/bahram-06}}</ref><ref name=":0">{{Cite journal |last=Golden |first=Peter |date=2016 |title="The Great King of the Türks" |url=https://tl.harrassowitz-library.com/article/TL/2016/1/3 |journal=Turkic Languages |language=de |volume=20 |issue=1 |pages=26–59 |doi=10.13173/TL/2016/1/26}}</ref>。}}は家臣となった[[エフタル]]{{refnest|group="注釈"|ホスロー1世は[[突厥]]と挟撃して、[[567年]]頃にはエフタルを滅ぼしていたが、その後もエフタルと呼ばれる人々は存在していた。}}を引き連れて、[[アムダリヤ川|オクサス川]](アムダリヤ川、アム川)の南部の領土に{{仮リンク|第1次ペルソ・テュルク戦争|label=侵攻|en|First Perso-Turkic War}}した。[[バルフ]]のサーサーン朝軍を敗走させると、さらに[[タールカーン]]、[[バードギース州|バードギース]]、[[ヘラート]]等の諸都市に侵攻した{{sfn|Rezakhani|2017|p=177}}。


サーサーン朝陣営の軍議で、バハラームは討伐軍の指揮官に選出され、{{仮リンク|歴史的ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}の総督に相当する役職を与えられた。バハラームは、1万2千の精鋭から成る騎兵隊を率いて戦った。その軍勢の中には戦象や[[ダイラム]]系の歩兵もみられた<ref>{{Cite book |last=Farrokh |first=Kaveh |title=Shadows in the Desert |pages=245–246}}</ref>{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。588年4月、バハラーム軍は突厥とエフタルの連合軍を奇襲した(ヒュルカニアン・ロック(Hyrcanian rock)の戦い){{sfn|Jaques|2007|p=463}}。この戦いの中で、バハラームは突厥の[[可汗]]・[[葉護可汗]]を射殺したとされている{{refnest|group="注釈"|葉護可汗の死については諸説ある。いくつかのトルコの史料では[[達頭可汗]]征伐の際に敗死したと記述されている<ref>{{Cite book |last=Taşağıl |first=Ahmet |title=Gök-Türkler I-II-III |publisher=[[Turkish Historical Society]] |year=2012 |edition=1st |pages=48–49 |language=tr}}</ref>。また[[:en:Josef Markwart|Josef Markwart]]や[[:en:Denis Sinor|Denis Sinor]]は589年9月以前のペルソ・突厥戦争中(この日付は[[レフ・グミリョフ]]が特定した)に既に射殺されていたと主張しており<ref name="IranicaShahbazi">{{cite encyclopedia |last=Shahbazi |first=A. Sh. | title= BAHRĀM (2), (Section vii. Bahrām VI Čōbīn) | encyclopedia=Encyclopædia Iranica | access-date=2011-06-25|url=http://www.iranicaonline.org/articles/bahram-06}}</ref>、対して[[:en:Peter Benjamin Golden|Peter Golden]]は、588年に死去したことを示す資料の存在から、その説を否定している.
サーサーン朝陣営の軍議で、バハラームは討伐軍の指揮官に選出され、{{仮リンク|歴史的ホラーサーン|label=ホラーサーン|en|Greater Khorasan}}の総督に相当する役職を与えられた。バハラームは、1万2千の精鋭から成る騎兵隊を率いて戦った。その軍勢の中には戦象や[[ダイラム]]系の歩兵もみられた<ref>{{Cite book |last=Farrokh |first=Kaveh |title=Shadows in the Desert |pages=245–246}}</ref>{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。588年4月、バハラーム軍は突厥とエフタルの連合軍を奇襲した(ヒュルカニアン・ロック(Hyrcanian rock)の戦い){{sfn|Jaques|2007|p=463}}。この戦いの中で、バハラームは突厥の[[可汗]]・[[葉護可汗]]を射殺したとされている{{refnest|group="注釈"|葉護可汗の死については諸説ある。いくつかのトルコの史料では[[達頭可汗]]征伐の際に敗死したと記述されている<ref>{{Cite book |last=Taşağıl |first=Ahmet |title=Gök-Türkler I-II-III |publisher=[[Turkish Historical Society]] |year=2012 |edition=1st |pages=48–49 |language=tr}}</ref>。また[[:en:Josef Markwart|Josef Markwart]]や[[:en:Denis Sinor|Denis Sinor]]は589年9月以前のペルソ・突厥戦争中(この日付は[[レフ・グミリョフ]]が特定した)に既に射殺されていたと主張しており<ref name="IranicaShahbazi">{{cite encyclopedia |last=Shahbazi |first=A. Sh. | title= BAHRĀM (2), (Section vii. Bahrām VI Čōbīn) | encyclopedia=Encyclopædia Iranica | access-date=2011-06-25|url=http://www.iranicaonline.org/articles/bahram-06}}</ref>、対して[[:en:Peter Benjamin Golden|Peter Golden]]は、588年に死去したことを示す資料の存在から、その説を否定している.
<ref name=":0" />。}}。さらに589年には、バルフを奪還し<ref name="p255">[[#青木 2020|青木 2020]] p,255</ref>、突厥の財宝や黄金の玉座を奪った{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。さらにオクサス川(アムダリヤ川)を渡河して、突厥軍を追撃した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}{{sfn|Litvinsky|Dani|1996|pp=368-369}}。[[ブハラ]]近郊のBaykand(バイカンド)まで追撃し、葉護可汗の息子Birmudhaを捕虜として首都[[クテシフォン]]に送還した{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。Birmudhaを、[[ホルミズド4世]]在位:579年〜590年)は歓迎して迎え入れた。のちに[[マー・ワラー・アンナフル|トランスオクサシナ]]へ送り返すよう命令すると、バハラームの所へ戻ってきた{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。この戦争でサーサーン朝は[[タシュケント]]や[[サマルカンド]]を始めとする[[ソグディアナ]]諸都市を支配し、ホルミズドは硬貨を鋳造している{{efn|これらサマルカンド諸都市はのちに突厥に奪還され、サーサーン朝の支配は数年間で終わった。その際、[[:en:Kadagistan|Kadagistan]]も占領された{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。}}{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}<ref name="p256">[[#青木 2020|青木 2020]] p,256</ref>。
<ref name=":0" />。}}。さらに589年には、バルフを奪還し<ref name="p255">[[#青木 2020|青木 2020]] p,255</ref>、突厥の財宝や黄金の玉座を奪った{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。さらにオクサス川(アムダリヤ川)を渡河して、突厥軍を追撃した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}{{sfn|Litvinsky|Dani|1996|pp=368-369}}。[[ブハラ]]近郊のBaykand(バイカンド)まで追撃し、葉護可汗の息子Birmudhaを捕虜として首都[[クテシフォン]]に送還した{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。Birmudhaを、[[ホルミズド4世]](pal:オフルマズド4世、在位:579年〜590年)は歓迎して迎え入れた。のちに[[マー・ワラー・アンナフル|トランスオクサシナ]]へ送り返すよう命令すると、バハラームの所へ戻ってきた{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。この戦争でサーサーン朝は[[タシュケント]]や[[サマルカンド]]を始めとする[[ソグディアナ]]諸都市を支配し、ホルミズドは硬貨を鋳造している{{efn|これらサマルカンド諸都市はのちに突厥に奪還され、サーサーン朝の支配は数年間で終わった。その際、[[:en:Kadagistan|Kadagistan]]も占領された{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。}}{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}<ref name="p256">[[#青木 2020|青木 2020]] p,256</ref>。


[[Image:Coin of Hormizd IV, Darabgerd mint.jpg|thumb|[[ホルミズド4世]](在位:[[579年]]〜[[590年]])の{{仮リンク|ドラクマ (古代)|label=ドラクマ硬貨|en|Ancient drachma}}]]
[[Image:Coin of Hormizd IV, Darabgerd mint.jpg|thumb|[[ホルミズド4世]](在位:[[579年]]〜[[590年]])の{{仮リンク|ドラクマ (古代)|label=ドラクマ硬貨|en|Ancient drachma}}]]
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第1次ペルソ・テュルク戦争で大勝利を収めたあと、遊牧民([[ハザール]]とされている)の侵入に対応するために、[[コーカサス]]に派遣され、勝利している。さらに対[[東ローマ帝国]]{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}の指揮官に抜擢され、[[ジョージア (国)|ジョージア]]で東ローマ帝国軍を打ち破った。しかし、[[アラス川]]の辺で、小規模であるものの、東ローマ帝国軍に敗北した。かねてよりバハラームの活躍をよく思っていなかったホルミズド4世は、この敗戦を口実にバハラームを要職から解き、さらに彼を辱めた{{sfn|Martindale|Jones|Morris|1992|p=167}}{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514-522}}。
第1次ペルソ・テュルク戦争で大勝利を収めたあと、遊牧民([[ハザール]]とされている)の侵入に対応するために、[[コーカサス]]に派遣され、勝利している。さらに対[[東ローマ帝国]]{{仮リンク|東ローマ・サーサーン戦争 (572年-591年)|label=戦争|en|Byzantine–Sasanian War of 572–591}}の指揮官に抜擢され、[[ジョージア (国)|ジョージア]]で東ローマ帝国軍を打ち破った。しかし、[[アラス川]]の辺で、小規模であるものの、東ローマ帝国軍に敗北した。かねてよりバハラームの活躍をよく思っていなかったホルミズド4世は、この敗戦を口実にバハラームを要職から解き、さらに彼を辱めた{{sfn|Martindale|Jones|Morris|1992|p=167}}{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514-522}}。


この少し前まで、宮廷ではバハラーム4世が粛清を行っており、ミフラーン家出身の大宰相イーザド・グシュナスプ・ミフラーンを始めとして、ホスロー1世が重用していた家臣たちを処刑してた<ref name="p256"/>。パルティア系貴族にも粛清は及び、{{仮リンク|カーレーン家|en|House of Karen}}出身の、東の軍司令官[[:en:Zarmihr Karen|Zarmihr Karen]](チフルブルゼーン・カーレーン)や、[[イスパフベダーン家]]出身で義理の父にあたるシャープール・イスパフベダーンも処刑されている<ref name="p257">[[#青木 2020|青木 2020]] p,257,258</ref>。バハラームは中央アジア遠征の最中であったことから、この時には粛清を免れている。
この少し前まで、宮廷ではホルミズド4世が粛清を行っており、ミフラーン家出身の大宰相イーザド・グシュナスプ・ミフラーンを始めとして、ホスロー1世が重用していた家臣たちを処刑してた<ref name="p256"/>。パルティア系貴族にも粛清は及び、{{仮リンク|カーレーン家|en|House of Karen}}出身の、東の軍司令官[[:en:Zarmihr Karen|Zarmihr Karen]](チフルブルゼーン・カーレーン)や、[[イスパフベダーン家]]出身で義理の父にあたるシャープール・アスパーフバド(pal:シャーブフル・イスパフベダーンも処刑されている<ref name="p257">[[#青木 2020|青木 2020]] p,257,258</ref>。バハラームは中央アジア遠征の最中であったことから、この時には粛清を免れている。


他の資料によれば、バハラームは突厥に対する勝利等から、貴族たちの妬みを買うようになったと指摘している。ホルミズド4世の宰相、{{仮リンク|アゼン・グシュナスプ|en|Azen Gushnasp}}(アードゥル・グシュナスプ)もその一人で、バハラームは戦利品の大半を横領し、ホルミズドの下にはわずかしか送っていないと非難した{{sfn|Tafazzoli|1988|p=260}}。またさらに別の資料によれば、Birmudha(ヤブグ・カガンの息子)や他の貴族がその噂を流したとされる{{sfn|Tafazzoli|1988|p=260}}。いずれにせよ、ホルミズドはバハラームの名声の高まりを危惧し、戦利品を横領していたとして、要職から解いた。この際に、ホルミズドは「女のように恩知らずで卑しい奴隷」であることを示唆する鎖と[[紡錘]]、さらに女の衣服を送りつけている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。この仕打ちに対してバハラームは遂にホルミズドに対する反乱を起こすことを決意した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。サーサーン朝研究を創始した[[テオドール・ネルデケ]]は、[[1879年]]に東ローマ帝国に敗れたために反乱を起こしたという説を提唱したが、その10年後にバハラームの反乱は、彼が東部(中央アジア方面)に遠征していた時に起こったことを確証付ける資料が発見され、その説は否定されている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。
他の資料によれば、バハラームは突厥に対する勝利等から、貴族たちの妬みを買うようになったと指摘している。ホルミズド4世の宰相、{{仮リンク|アゼン・グシュナスプ|en|Azen Gushnasp}}(アードゥル・グシュナスプ)もその一人で、バハラームは戦利品の大半を横領し、ホルミズドの下にはわずかしか送っていないと非難した{{sfn|Tafazzoli|1988|p=260}}。またさらに別の資料によれば、Birmudha(ヤブグ・カガンの息子)や他の貴族がその噂を流したとされる{{sfn|Tafazzoli|1988|p=260}}。いずれにせよ、ホルミズドはバハラームの名声の高まりを危惧し、戦利品を横領していたとして、要職から解いた。この際に、ホルミズドは「女のように恩知らずで卑しい奴隷」であることを示唆する鎖と[[紡錘]]、さらに女の衣服を送りつけている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。この仕打ちに対してバハラームは遂にホルミズドに対する反乱を起こすことを決意した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。サーサーン朝研究を創始した[[テオドール・ネルデケ]]は、[[1879年]]に東ローマ帝国に敗れたために反乱を起こしたという説を提唱したが、その10年後にバハラームの反乱は、彼が東部(中央アジア方面)に遠征していた時に起こったことを確証付ける資料が発見され、その説は否定されている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。


== 反乱 ==
== 反乱 ==
[[File:The Night Attack of Bahram Chubina on the Army of Khusraw Parvis LACMA M.2009.44.3 (2 of 8).jpg|250px|thumb|right|{{仮リンク|ナフラワーン運河|en|Nahrawan Canal}}で、バハラーム・チョービンがホスロー2世支持者に夜襲を仕掛ける場面]]
[[File:The Night Attack of Bahram Chubina on the Army of Khusraw Parvis LACMA M.2009.44.3 (2 of 8).jpg|250px|thumb|right|{{仮リンク|ナフラワーン運河|en|Nahrawan Canal}}で、バハラーム・チョービンがホスロー2世支持者に夜襲を仕掛ける場面]]


ホルミズド4世の仕打ちに憤慨したバハラームは[[サーサーン内乱 (589年-591年)|反乱を起こした]]。バハラームは、その身分に加えて優れた軍事知識を兼ね備えていたため、彼の配下の兵士たちのみならず、多くの人々が反乱に加わった。
ホルミズド4世の仕打ちに憤慨したバハラームは[[サーサーン内乱 (589年-591年)|反乱を起こした]]。バハラームは、その身分に加えて優れた軍事知識を兼ね備えていたため、彼の配下の兵士たちのみならず、多くの人々が反乱に加わった。ホラーサーンに新しい領主を据えると、クテシフォンへ進軍した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。[[パルティア|アルサケス朝]]の後継を名乗ることで、サーサーン朝の正統性を脅かす反乱がおきた初めての事例であった{{sfn|Pourshariati|2008|p=96}}。大宰相アードゥル・グシュナスプは反乱鎮圧軍として派遣されたが、その道中[[ハマダーン]]で配下の将軍Zadesprasに暗殺され、反乱軍は霧消した<ref name="p259">[[#青木 2020|青木 2020]] p,259</ref>。また[[:en:Sarames the Elder|Sarames the Elder]]も鎮圧軍として派遣されたが、バハラームによって撃退され{{仮リンク|ペルシアの戦象|label=戦象|en|Persian war elephants}}に踏み殺された{{sfn|Warren|p=26}}。ホルミズドは[[イスパフベダーン家]]の{{仮リンク|ヴィンドゥーヤ|en|Vinduyih}}・[[ヴィスタム]]兄弟との関係を修復しようとしていたが、彼らも父シャープールを処刑したホルミズドを嫌っていた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514-522}}。ホルミズドはヴィンドゥーヤを投獄し、ヴィスタムはなんとか逃れることができた。しばらくして、二人はクーデターを決行し、ホルミズドの目を潰した上で、廃位した。彼らは投獄されていたホルミズドの長男かつ自分たちの甥にあたるシェーローエを解放し、590年6月27日、[[ホスロー2世]]として即位させた。ホルミズドはすぐに殺されたが、ホルミズドへの復讐という旗印を変えずにバハラームはクテシフォンへの進軍を続けた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。

=== バハラームと終末論 ===
バハラームは自身の正当性を[[ゾロアスター教]]の[[終末論]]に依った。ゾロアスター教は宇宙を12000年周期と捉え、そのうち3000年ずつ4つの期間に分類している。宇宙の始まりから9000年後に[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]が誕生し、その後にも1000年おきに、3人の救世主が誕生するとされていた。実際にサーサーン朝期には、ゾロアスターは[[セレウコス朝]]期([[紀元前312年]]成立)の人物とみなされていて{{refnest|group="注釈"|ゾロアスターの生没年は今に至るまで分かっていない。その生没年や活動地域にも諸説ある。もともとゾロアスター教の伝承では「[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の時代より258年前、ゾロアスターは30歳で啓示を受けた」とされていることから、紀元前6世紀と推定できる。しかし、この説では明らかに遅すぎて、年代に矛盾が生じるため、紀元前20世紀から紀元前10世紀の間と推定されてはいる。詳細は[[:en:Zoroaster#data|英語版(ゾロアスター#年代の章)]]を参照。}}、バハラームの生きた時代はちょうどゾロアスターの死後1000年にあたっていた<ref name="EIB6"/>。ローマやエフタル、[[フン族|フン]]による戦乱により世界は混沌に見舞われてこそいるが、ゾロアスター教徒は今こそ救世主が現れると信じていた。バハラームは多くのゾロアスター教徒に、約束された1人目の救世主「カイ・バハラーム・ヴァルジャーヴァンド」(Kay Bahram Varjavand)とみなされた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。バハラームは[[パルティア|アルサケス朝]]を再建することで、新たな千年紀を始めることを試みた。

なお、ホスロー2世がバハラーム6世を破ると、ホスロー2世は「アパルヴェーズ」(勝利者)の称号を名乗った<ref name="p268">[[#青木 2020|青木 2020]] p,268</ref>。ホスロー2世はバハラーム6世が利用した終末論を、「千年紀の終わりに、卑しい王位僭称者が到来し、王位を簒奪するであろう。しかし、すぐに姿を消し、ローマから多くの都市を奪う「勝利者」によって平和と繁栄がもたらされる」と内容を変えて宣伝させた<ref name="EIB6"/>。

ホラーサーンに新しい領主を据えると、クテシフォンへ進軍した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。大宰相アードゥル・グシュナスプは反乱鎮圧軍として派遣されたが、その道中[[ハマダーン]]で配下の将軍Zadesprasに暗殺され、反乱軍は霧消した<ref name="p259">[[#青木 2020|青木 2020]] p,259</ref>。また[[:en:Sarames the Elder|Sarames the Elder]]も鎮圧軍として派遣されたが、バハラームによって撃退され{{仮リンク|ペルシアの戦象|label=戦象|en|Persian war elephants}}に踏み殺された{{sfn|Warren|p=26}}。

=== 王都でのクーデター ===
ホルミズドは[[イスパフベダーン家]]の{{仮リンク|ヴィンドゥーヤ|en|Vinduyih}}・[[ヴィスタム]]兄弟との関係を修復しようとしていたが、彼らも父シャープールを処刑したホルミズドを嫌っていた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514-522}}。ホルミズドはヴィンドゥーヤを投獄し、ヴィスタムはなんとか逃れることができた。しばらくして、二人はクーデターを決行し、ホルミズドの目を潰した上で、廃位した。彼らは投獄されていたホルミズドの長男かつ自分たちの甥にあたるシェーローエを解放し、590年6月27日、[[ホスロー2世]]として即位させた。ホルミズドはすぐに殺されたが、ホルミズドへの復讐という旗印を変えずに{{refnest|group="注釈"|青木『ペルシア帝国』によれば、バハラームはホルミズドの処刑を受けて、「ホルミズドへのクーデター」から「ホルミズドの敵討ち」へと進軍目的を体よく変えたとある<ref name="p260"/>。}}、バハラームはクテシフォンへの進軍を続けた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}{{sfn|Rezakhani|2017|p=178}}。


ホスローは[[アメとムチ]]の態度を取り、バハラームに対して自身の正統な王権を主張する書状を送った。
ホスローは[[アメとムチ]]の態度を取り、バハラームに対して自身の正統な王権を主張する書状を送った。
95行目: 107行目:
私たちは合法的に王位を継承し、エーラーンの慣習を覆していない。私たちは強く王冠を手放さないと決意していて、もし可能であれば、他の世界でさえも支配することを望んでいた。もし貴方が自身の幸福を望むならば、何をすべきか考えるべきであろう{{sfn|Kia|2016|p=241}}。}}
私たちは合法的に王位を継承し、エーラーンの慣習を覆していない。私たちは強く王冠を手放さないと決意していて、もし可能であれば、他の世界でさえも支配することを望んでいた。もし貴方が自身の幸福を望むならば、何をすべきか考えるべきであろう{{sfn|Kia|2016|p=241}}。}}


バハラームはこの警告を無視した。また、ホスローは最高軍司令官の役職を復活させて提供すると、バハラームに打診しているが相手にされなかった<ref name="p260"/>。クテシフォン近郊の{{仮リンク|ナフラワーン運河|en|Nahrawan Canal}}でホスロー陣営と戦った。ホスロー陣営は数で大きく劣勢であったものの、数度の衝突を経てなんとかバハラーム軍を食い止めた。しかし、ホスローの軍は次第に士気を失い、バハラーム軍に敗北した。その後、ホスローは2人の叔父や妻、30人の貴族の従者とともに東ローマ帝国領に逃亡し{{refnest|group="注釈"|この際に、ヴィンドゥーヤは捨て身で奮闘し、バハラームの捕虜になったともされている<ref name="p260">[[#青木 2020|青木 2020]] p,260</ref>。}}、バハラームは帝都クテシフォンを占領した{{sfn|Howard-Johnston|2010}}。590年夏、バハラームは「もともと羊飼いだったサーサーン朝の初代皇帝[[アルダシール1世]]は[[パルティア|アルサケス朝]]の王位を簒奪し即位した」として、「アルサケス朝の正式な後継者であり、アルサケス朝の支配を復活する」との名目の下、シャーハンシャーに即位した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}<ref name="p261">[[#青木 2020|青木 2020]] p,261</ref>。貴族によって皇帝が暗殺されることは何度かあったが、貴族による王位の簒奪は初めてである
バハラームはこの警告を無視した。また、ホスローは最高軍司令官の役職を復活させて提供すると、バハラームに打診しているが相手にされなかった<ref name="p260"/>。クテシフォン近郊の{{仮リンク|ナフラワーン運河|en|Nahrawan Canal}}でホスロー陣営と戦った。ホスロー陣営は数で大きく劣勢であったものの、数度の衝突を経てなんとかバハラーム軍を食い止めた。しかし、ホスローの軍は次第に士気を失い、バハラーム軍に敗北した。この際に、ヴィンドゥーヤは捨て身で奮闘し、ホスローの身代わりとなってバハラームの捕虜になった<ref name="p260">[[#青木 2020|青木 2020]] p,260</ref><ref name="EIB6"/>。その後、ホスローは叔父や妻、30人の貴族の従者とともに東ローマ帝国領に逃亡し、バハラームは帝都クテシフォンを占領した{{sfn|Howard-Johnston|2010}}。


== 治世 ==
== 治世 ==
[[Image:Coin of Bahram Chobin, Susa mint.jpg|thumb|[[スサ]]で鋳造されたバハラーム6世の{{仮リンク|ディナール金貨|en|Gold dinar}}。]]
[[Image:Coin of Bahram Chobin, Susa mint.jpg|thumb|[[スサ]]で鋳造されたバハラーム6世の{{仮リンク|ディナール金貨|en|Gold dinar}}。]]
=== バハラームの統治 ===
590年夏、バハラームは「もともと羊飼いだったサーサーン朝の初代皇帝[[アルダシール1世]]は[[パルティア|アルサケス朝]]の王位を簒奪し即位した」として、「アルサケス朝の正式な後継者であり、アルサケス朝の支配を復活する」との名目の下、シャーハンシャーに即位した{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}<ref name="p261">[[#青木 2020|青木 2020]] p,261</ref>。貴族によって皇帝が暗殺されることは何度かあったが、貴族による王位の簒奪は初めてである。


バハラームは自身の支配を強調するために、硬貨の鋳造を始めた。バハラームの硬貨は、表面にバハラームが髭を生やし、冠を着けた高貴な人物として描かれている。また、裏面には二人の従者とともに伝統的な[[拝火神殿|火の祭壇]]が描かれている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。バハラーム統治下では寛容的な宗教政策が行われた。対して、ホスロー2世は人頭税を半減し、拝火神殿に寄進することでゾロアスター神官たちの歓心を買い、バハラームは彼らからの支持を失った<ref name="p267"/>。サーサーン朝貴族は本来は同格であるはずのバハラームに臣従することを良しとせず、大多数は経験不足で優位性に欠けるホスロー2世の陣営についた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。また、騎士の作法に則るバハラームはホスロー2世の支持者たちの国外逃亡を許した。その中にはバハラームが捕虜として捕らえ丁重に扱っていたヴィンドゥーヤも含まれている<ref name="EIB6"/>。これらバハラームの騎士道精神はバハラームにとって不利に働いた。
バハラームは自身の正当性を[[ゾロアスター教]]の[[終末論]]に依った。ゾロアスター教は宇宙を12000年周期と捉え、そのうち3000年ずつ4つの期間に分類している。宇宙の始まりから9000年後に[[ザラスシュトラ|ゾロアスター]]が誕生し、その後にも1000年おきに、3人の救世主が誕生するとされていた。実際にサーサーン朝期には、ゾロアスターは[[セレウコス朝]]期([[紀元前312年]]成立)の人物とみなされていて{{refnest|group="注釈"|ゾロアスターの生没年は今に至るまで分かっていない。その生没年や活動地域にも諸説ある。もともとゾロアスター教の伝承では「[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の時代より258年前、ゾロアスターは30歳で啓示を受けた」とされていることから、紀元前6世紀と推定できる。しかし、この説では明らかに遅すぎて、年代に矛盾が生じるため、紀元前20世紀から紀元前10世紀の間と推定されてはいる。詳細は[[:en:Zoroaster#data|英語版(ゾロアスター#年代の章)]]を参照。}}、バハラームの生きた時代はちょうどゾロアスターの死後1000年にあたっていた。ローマやエフタル、[[フン族|フン]]による戦乱により世界は混沌に見舞われてこそいるが、ゾロアスター教徒は今こそ救世主が現れると信じていた。バハラームは多くのゾロアスター教徒に、約束された1人目の救世主「カイ・バハラーム・ヴァルジャーヴァンド」(Kay Bahram Varjavand)とみなされた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。バハラームは[[パルティア|アルサケス朝]]を再建することで、新たな千年紀を始めることを試みた。また、自身の支配を強調するために、硬貨の鋳造を始めた。バハラームの硬貨は、表面にバハラームが髭を生やし、冠を着けた高貴な人物として描かれている。また、裏面には二人の従者とともに伝統的な[[拝火神殿|火の祭壇]]が描かれている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。しかし、サーサーン朝貴族や聖職者の大多数は経験不足で優位性に欠けるホスロー2世の陣営についた{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}


=== ホスローの逆侵攻と復位 ===
東ローマ皇帝[[マウリキウス]](在位:[[582年]]〜[[602年]])の関心を得るため、ホスローは[[シリア属州|シリア]]へ出向き、サーサーン朝が占領していた旧東ローマ帝国領{{仮リンク|シルヴァン (ディヤルバクル)|label=マルティロポリス|en|Silvan, Diyarbakır}}に対して、東ローマ帝国に対する抵抗運動をやめるよう書状を送ったが、効果はなかった{{sfn|Greatrex|Lieu|2002|p=172}}。ホスローは皇帝マウリキウスに、自身の復位への協力を呼びかけた。「暗黒の勢力がサーサーン朝を占領したら、次は東ローマ帝国の番でしょう」と救援の要請を示唆する文面が残されている<ref name="p266">[[#青木 2020|青木 2020]] p,266</ref>。マウリキウスとローマ帝国元老院は、「東ローマ帝国へ[[ディヤルバクル|アミダ]]、[[ハッラーン|カルラエ]]、{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}、マルティロポリスなどコーカサス地方の割譲、サーサーン朝の[[イベリア王国|イベリア]]や[[アルメニア]]への介入の禁止、ホスロー2世はマウリキウスの娘{{仮リンク|マリア (マウリキウスの娘)|label=マリア|en|Maria (daughter of Maurice)}}を娶る」といった厳しい条件で合意した{{sfn|Howard-Johnston|2010}}<ref name="p266"/>。
東ローマ皇帝[[マウリキウス]](在位:[[582年]]〜[[602年]])の関心を得るため、ホスローは[[シリア属州|シリア]]へ出向き、サーサーン朝が占領していた旧東ローマ帝国領{{仮リンク|シルヴァン (ディヤルバクル)|label=マルティロポリス|en|Silvan, Diyarbakır}}に対して、東ローマ帝国に対する抵抗運動をやめるよう書状を送ったが、効果はなかった{{sfn|Greatrex|Lieu|2002|p=172}}。ホスローは皇帝マウリキウスに、自身の復位への協力を呼びかけた。「暗黒の勢力がサーサーン朝を占領したら、次は東ローマ帝国の番でしょう」と救援の要請を示唆する文面が残されている<ref name="p266">[[#青木 2020|青木 2020]] p,266</ref>。マウリキウスとローマ帝国元老院は、「東ローマ帝国へ[[ディヤルバクル|アミダ]]、[[ハッラーン|カルラエ]]、{{仮リンク|ダラ (メソポタミア)|label=ダラ|en|Dara (Mesopotamia)}}、マルティロポリスなどコーカサス地方の割譲、サーサーン朝の[[イベリア王国|イベリア]]や[[アルメニア]]への介入の禁止、ホスロー2世はマウリキウスの娘{{仮リンク|マリア (マウリキウスの娘)|label=マリア|en|Maria (daughter of Maurice)}}を娶る」といった厳しい条件で合意した{{sfn|Howard-Johnston|2010}}<ref name="p266"/>。


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== 死後の影響 ==
== 死後の影響 ==
バハラームの生涯とその勇姿{{仮リンク|パフラヴィー語文学|label=パフラヴィー語(中期ペルシア語)文学|en|Pahlavi literature}}作品「'''バハラーム・チョービン・ナーマ''' 」("バハラーム・チョービンの書")にかれている。バハラーム・チョービン・ナーマはJabalah bin Sālimによって翻訳され、後世ではホスロー2世賛美の記述も付け加えられて、[[アブー・ハニーファ・ディーナワリー|ディーナワリー]]や[[フィルドゥシー]]、{{仮リンク|アブー・アリー・バルアミー|en|Abu Ali Bal'ami}}の著作に影響を与えている{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。[[ペルシア文学]]に登場する様々な英雄のように、バハラーム6世(バハラーム・チョービン)についても様々な伝説が語り継がれている。11世紀のフィルドウゥシーによる著作「シャー・ナーメ」の第8巻は<ref>online at http://persian.packhum.org/persian/</ref>、「ホスロー1世の息子、ホルミズド4世」と「ホスロー・パルヴィーズ(ホスロー2世)」に関する章であるが、ホルミズド4世やホスロー2世の記述と同程度、バハラーム6世に関しても記述している。[[イブン・ナディーム]]は彼の著作([[図書目録]])「[[フィフリスト]]」で、バハラームは弓術の指南書を書いたことを記録している{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}。またバハラームの死後、[[:en:Sunpadh|Sunpadh]]は「[[アブー・ムスリム]]は死んでおらず、[[マフディー]](救世主)とともに真鍮の要塞の中で生きている」と主張している。この真鍮の要塞は、バハラームがトルキスタン地方での住処としていた場所を指している。これらはイランの民族主義者たちの間でバハラーム人気が高かったことを示している{{sfn|Shahbazi|1988|pp=514–522}}
バハラームの生涯とその勇姿が文学作品に描かれた。例えば{{仮リンク|パフラヴィー語文学|label=パフラヴィー語(中期ペルシア語)文学|en|Pahlavi literature}}「'''バハラーム・チョービン・ナーマ''' 」(pal:ヴァフラーム・チョービーン・ナーマグ、"バハラーム・チョービンの書")では理想的な騎士としてバハラーム6世をている<ref name="p269">[[#青木 2020|青木 2020]] p,269,270</ref>。バハラーム・チョービン・ナーマはJabalah bin Sālimによって翻訳され、後世ではホスロー2世賛美の記述も付け加えられてた。原本は失われたが、[[アブー・ハニーファ・ディーナワリー|ディーナワリー]]や[[フィルドゥシー]]、{{仮リンク|アブー・アリー・バルアミー|en|Abu Ali Bal'ami}}の著作に影響を与えている<ref name="p269"/><ref name="EIB6">{{Cite encyclopedia |last= |first= |author=A. Sh. Shahbazi |authorlink= |editor= |encyclopedia=[[イラン百科事典|Encyclopædia Iranica]] |title=Bahrām VI Čōbīn |url=https://www.iranicaonline.org/articles/bahram-06 |accessdate=2024-12-21 |edition= |date= |year= |publisher= |volume= |location= |id= |isbn= |oclc= |doi= |pages= |quote= }}</ref>。[[ペルシア文学]]に登場する様々な英雄のように、バハラーム6世(バハラーム・チョービン)についても様々な伝説が語り継がれている。11世紀のフィルドウゥシーによる著作「シャー・ナーメ」の第8巻は<ref>online at http://persian.packhum.org/persian/</ref>、「ホスロー1世の息子、ホルミズド4世」と「ホスロー・パルヴィーズ(ホスロー2世)」に関する章であるが、ホルミズド4世やホスロー2世の記述と同程度、バハラーム6世に関しても記述している。[[イブン・ナディーム]]は彼の著作([[図書目録]])「[[フィフリスト]]」で、バハラームは弓術の指南書を書いたことを記録している<ref name="EIB6"/>。シャー・ナーメの成立背景にあるように、イスラーム支配下において、イランの民族意識高揚を目指した民族主義者たちの間で人気が高かったことを示している<ref name="EIB6"/>。また、政治的救世主としてのバハラーム6世の描写は、[[アッバース朝革命]]で活躍した将軍[[アブー・ムスリム]]の描写に影響を与えている<ref name="p269"/>。<!--バハラームの死後、[[:en:Sunpadh|Sunpadh]]は「[[アブー・ムスリム]]は死んでおらず、[[マフディー]](救世主)とともに真鍮の要塞の中で生きている」と主張している。この真鍮の要塞は、バハラームがトルキスタン地方での住処としていた場所を指している<ref name="EIB6"/>-->


サーサーン朝の滅亡後、現在のイラン地方はアラブ人の支配下に入ったが、9世紀には[[サーマーン朝]]が独立した。このサーマーン朝はバハラームの子孫が建国した<ref>{{cite book|last1=Narshakhī|first1=Abū Bakr Muḥammad ibn Jaʻfar|author-link1=Narshakhi|last2=Frye|first2=Richard N.|author-link2=Richard N. Frye|title=The History of Bukhara|url=https://books.google.com/books?id=nbYp4hQhTB4C|year=2007|publisher=Markus Wiener Publishers|isbn=978-1-55876-419-4}}, pages 77-78.</ref>。
サーサーン朝の滅亡後、現在のイラン地方はアラブ人の支配下に入ったが、9世紀には[[サーマーン朝]]が独立した。このサーマーン朝はバハラームの子孫が建国した<ref>{{cite book|last1=Narshakhī|first1=Abū Bakr Muḥammad ibn Jaʻfar|author-link1=Narshakhi|last2=Frye|first2=Richard N.|author-link2=Richard N. Frye|title=The History of Bukhara|url=https://books.google.com/books?id=nbYp4hQhTB4C|year=2007|publisher=Markus Wiener Publishers|isbn=978-1-55876-419-4}}, pages 77-78.</ref>。

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バハラーム6世
バハラーム・チョービン
𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭
エーラーンと非エーラーンの諸王の王
バハラームのドラクマ硬貨英語版590年アッラジャーン英語版で鋳造された。
在位 590年591年

死去 591年
フェルガナ西突厥の勢力範囲)
次代(復位) ホスロー2世
子女
家名 ミフラーン家
王朝 サーサーン朝
父親 バハラーム・グシュナスプ英語版
宗教 ゾロアスター教
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バハラーム・チョービンペルシア語:بهرام چوبین、パフラヴィー語(pal):𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭(ヴァフラーム・チョービーン)、生没年:不明〜591年)はサーサーン朝シャーハンシャー。「光明神ミスラの僕(しもべ)」を意味するメフルバンダク(Mehrbandak)の渾名でも知られる[1]。パルティア系貴族ミフラーン家の出身であり、即位する以前には北部の軍司令官(スパーフベド)を務めた。のちに王位を僭称し、初めてのサーサーン家出身でないシャーハンシャー、バハラーム6世(pal:ヴァフラーム6世)として国内を短期間統治した(在位:590年591年)。

バハラームはバハラーム・グシュナスプ英語版の息子で、パルティア系貴族ミフラーン家出身。役職としては、レイ(レイイ)の統治者から始まり、東ローマ・サーサーン戦争英語版でのダラ英語版の要塞の攻略の功によって、北西部の軍司令官(スパーフベド)に昇進した。588年の大規模なエフタル突厥による侵略英語版の中で、彼はホラーサーン英語版のスパーフベドに任じられ、その結果サーサーン朝に決定的な勝利をもたらした。

バハラームは家格、性格、才能、実績が相まって、帝国内で高い地位を確立した。サーサーン朝の王ホルミズド4世(pal:オフルマズド4世)はこれに不信感を抱き、指揮権を剥奪した。バハラームはホルミズド4世に対して、「アルサケス朝(pal:アルシャク朝)の復活」を大義名分に掲げて反旗を翻した。反乱の中でバハラームは自身をゾロアスター教の救世主になぞらえた。バハラームの反乱軍が首都クテシフォン(pal:テースィフォーン)に向かう最中、反ホルミズド派閥を率いるイスパフベダーン家(アスパーフバド家)のヴィスタム(pal:ヴィスターフム)・ヴィンドゥーヤ英語版兄弟によってホルミズドは暗殺され、ホルミズドの息子シェーローエがホスロー2世として即位したが、バハラームがクテシフォンに到着すると、ホスローは東ローマ帝国に亡命した。東ローマ帝国のバックアップを得たホスローは、バハラームに対して軍事行動を起こし、バハラームは敗北を喫し西突厥へ亡命した。まもなくバハラームは復位したホスロー2世が放った刺客により暗殺される。

バハラーム・チョービンの生涯とその勇姿はイスラーム教徒のペルシア征服後も、理想的騎士としてイランの民族主義者に語り継がれ、「バハラーム・チョービン・ナーマ(pal:ヴァフラーム・チョービーン・ナーマグ、バハラーム・チョービンの書)」を始めとするペルシア文学作品にも描かれている。

名前

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バハラーム6世が生きたサーサーン朝時代には中期ペルシア語が用いられているため本項では、中期ペルシア語表記を主とした。君主名など新ペルシア語表記で呼ばれることが一般的(シャープールなど)と判断したものに関しては新ペルシア語表記(初出に限り、『pal:中期ペルシア語表記』と中期ペルシア語表記を併記する)、地名に関しては主に一般的呼称(クテシフォンなど)を使用した。また、中期ペルシア語表記は原則、青木『ペルシア帝国[2]』を参考にした。

テオフォリックネーム英語版[注釈 1]である「Bahram(バハラーム)[注釈 2]」はアヴェスター語で勝利の神ウルスラグナを意味する。バハラームは新ペルシア語での綴であり、古代ペルシア語では「Vṛθragna」、パフラヴィー語(中期ペルシア語)では「Warahrān(ワラフラーン、ワルフラーン)」または「Wahrām」とつづられる。パルティア語ではWarθagnと綴る。またチョービン(pal:チョービーン)は「投げ槍のような、木製の棒」を意味し、バハラームの背が高く細身な体型に由来して付けられている[3]。著名なペルシア文学家フィルドゥシーは、シャー・ナーメの作中でバハラームを「背が高い、黒い巻き毛(カーリーヘア)で色黒な戦士」と表現している[3]。その他の言語でもバハラーム・チョービンの名は記されており、ギリシア語ではBaram Č‛ubin[i][4]アルメニア語ではVahram Ch’obin[5]となる。ラテン語ではVararanes[6]、またギリシア語ではテオフィラクトス・シモカテスがBaram(Βαράμ)、ヨハネス・ゾナラス英語版はBaramos(Βάραμος)と記述している[7]

背景

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バハラームは、七大貴族の一つに数えられるパルティア系の有力貴族ミフラーン家出身である。ミフラーン家は現在のイランの首都テヘランの南に位置するレイ(レイイ)を根拠地としていた。ミフラーン家のグシュナスプ・ミフラーンはヤズデギルド2世(pal:ヤザドギルド2世)の没後、後継争いに際して、ペーローズ1世を擁立した。ヤズデギルド2世の統治下で権勢を張り、ホルミズド3世(pal:オフルマズド3世)を擁立したスーレーン家英語版勢力を破ると、ペーローズ1世を即位させサーサーン朝の実権を握った[8]。しかし、ペーローズ1世は対エフタル戦役で戦死し、おそらくミフラーン家の重鎮たちが大勢戦死し、その影響もあってかミフラーン家は一旦衰退し、実権はカーレーン家英語版に戻った[9]

ホスロー1世の治世下(在位:531年〜579年)において、軍制改革の一環としてサーサーン朝を東西南北4つの軍管区に分割し、それぞれに軍司令官(スパーフベド)を置き、パルティア系貴族を登用した[10]。祖父のゴーローン・ミフラーン英語版アルメニアマルズバーン辺境伯に近い、辺境の州の将軍を指す役職)や[11]、北部の軍司令官を務めた[12]。父のバハラーム・グシュナスプ英語版も同様に北部の軍司令官を務め、東ローマ帝国戦い英語版イエメンへの戦役にも従軍して、イエメンの首都サヌアを奪還しサーサーン朝の衛星国としている[12]。このイエメン戦役にかけて、ミフラーン家は北部軍管区の兵を私有化し、軍事力を強めた[12]。また、ホスロー1世の治世後半には、ミフラーン家出身の貴族が宰相となり、ミフラーン家が再び政治・軍事両面においてサーサーン朝の実権を握った。

バハラームの兄弟姉妹にはゴルディーヤ英語版[注釈 3]、ゴルデュヤ(Gorduya)、マルダンスィーナー英語版(Mardansina)の3人の名前が記録されている。

台頭

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西突厥の可汗葉護可汗(ヤブク・カガン)と戦うバハラーム(シャー・ナーメの挿絵より)

バハラームの経歴はレイのマルズバーン(辺境地域の総督)から始まった。当時のサーサーン朝はホスロー1世の統治下で、ユスティニアヌス1世率いる東ローマ帝国と一進一退の攻防を繰り返しながら、ともに最盛期を迎えていた。572年東ローマ帝国メソポタミアにおける重要拠点、ダラ英語版の要塞を包囲英語版した。この包囲戦でバハラームは騎兵隊を率い、4ヶ月に渡る包囲戦の結果サーサーン朝が要塞を攻略した[14]。この戦功により、アゼルバイジャンメディア英語版地方の軍事力を掌握する、北部の軍司令官(スパーフベド[注釈 4]に昇進した[1]。スパーフベドに就任してからも、北メソポタミアを巡る東ローマ帝国との長きにわたる戦争英語版に参戦している。588年突厥可汗葉護可汗(ヤブグ・カガン)[注釈 5]は家臣となったエフタル[注釈 6]を引き連れて、オクサス川(アムダリヤ川、アム川)の南部の領土に侵攻英語版した。バルフのサーサーン朝軍を敗走させると、さらにタールカーンバードギースヘラート等の諸都市に侵攻した[19]

サーサーン朝陣営の軍議で、バハラームは討伐軍の指揮官に選出され、ホラーサーン英語版の総督に相当する役職を与えられた。バハラームは、1万2千の精鋭から成る騎兵隊を率いて戦った。その軍勢の中には戦象やダイラム系の歩兵もみられた[20][1]。588年4月、バハラーム軍は突厥とエフタルの連合軍を奇襲した(ヒュルカニアン・ロック(Hyrcanian rock)の戦い)[21]。この戦いの中で、バハラームは突厥の可汗葉護可汗を射殺したとされている[注釈 7]。さらに589年には、バルフを奪還し[23]、突厥の財宝や黄金の玉座を奪った[24]。さらにオクサス川(アムダリヤ川)を渡河して、突厥軍を追撃した[1][25]ブハラ近郊のBaykand(バイカンド)まで追撃し、葉護可汗の息子Birmudhaを捕虜として首都クテシフォンに送還した[24]。Birmudhaを、ホルミズド4世(pal:オフルマズド4世、在位:579年〜590年)は歓迎して迎え入れた。のちにトランスオクサシナへ送り返すよう命令すると、バハラームの所へ戻ってきた[24]。この戦争でサーサーン朝はタシュケントサマルカンドを始めとするソグディアナ諸都市を支配し、ホルミズドは硬貨を鋳造している[注釈 8][24][26]

ホルミズド4世(在位:579年590年)のドラクマ硬貨英語版

第1次ペルソ・テュルク戦争で大勝利を収めたあと、遊牧民(ハザールとされている)の侵入に対応するために、コーカサスに派遣され、勝利している。さらに対東ローマ帝国戦争英語版の指揮官に抜擢され、ジョージアで東ローマ帝国軍を打ち破った。しかし、アラス川の辺で、小規模であるものの、東ローマ帝国軍に敗北した。かねてよりバハラームの活躍をよく思っていなかったホルミズド4世は、この敗戦を口実にバハラームを要職から解き、さらに彼を辱めた[27][1]

この少し前まで、宮廷ではホルミズド4世が粛清を行っており、ミフラーン家出身の大宰相イーザド・グシュナスプ・ミフラーンを始めとして、ホスロー1世が重用していた家臣たちを処刑してた[26]。パルティア系貴族にも粛清は及び、カーレーン家英語版出身の、東の軍司令官Zarmihr Karen(チフルブルゼーン・カーレーン)や、イスパフベダーン家出身で義理の父にあたるシャープール・アスパーフバド(pal:シャーブフル・イスパフベダーン)も処刑されている[28]。バハラームは中央アジア遠征の最中であったことから、この時には粛清を免れている。

他の資料によれば、バハラームは突厥に対する勝利等から、貴族たちの妬みを買うようになったと指摘している。ホルミズド4世の宰相、アゼン・グシュナスプ英語版(アードゥル・グシュナスプか)もその一人で、バハラームは戦利品の大半を横領し、ホルミズドの下にはわずかしか送っていないと非難した[29]。またさらに別の資料によれば、Birmudha(ヤブグ・カガンの息子)や他の貴族がその噂を流したとされる[29]。いずれにせよ、ホルミズドはバハラームの名声の高まりを危惧し、戦利品を横領していたとして、要職から解いた。この際に、ホルミズドは「女のように恩知らずで卑しい奴隷」であることを示唆する鎖と紡錘、さらに女の衣服を送りつけている[1]。この仕打ちに対してバハラームは遂にホルミズドに対する反乱を起こすことを決意した[1]。サーサーン朝研究を創始したテオドール・ネルデケは、1879年に東ローマ帝国に敗れたために反乱を起こしたという説を提唱したが、その10年後にバハラームの反乱は、彼が東部(中央アジア方面)に遠征していた時に起こったことを確証付ける資料が発見され、その説は否定されている[1]

反乱

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ナフラワーン運河英語版で、バハラーム・チョービンがホスロー2世支持者に夜襲を仕掛ける場面

ホルミズド4世の仕打ちに憤慨したバハラームは反乱を起こした。バハラームは、その身分に加えて優れた軍事知識を兼ね備えていたため、彼の配下の兵士たちのみならず、多くの人々が反乱に加わった。

バハラームと終末論

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バハラームは自身の正当性をゾロアスター教終末論に依った。ゾロアスター教は宇宙を12000年周期と捉え、そのうち3000年ずつ4つの期間に分類している。宇宙の始まりから9000年後にゾロアスターが誕生し、その後にも1000年おきに、3人の救世主が誕生するとされていた。実際にサーサーン朝期には、ゾロアスターはセレウコス朝期(紀元前312年成立)の人物とみなされていて[注釈 9]、バハラームの生きた時代はちょうどゾロアスターの死後1000年にあたっていた[30]。ローマやエフタル、フンによる戦乱により世界は混沌に見舞われてこそいるが、ゾロアスター教徒は今こそ救世主が現れると信じていた。バハラームは多くのゾロアスター教徒に、約束された1人目の救世主「カイ・バハラーム・ヴァルジャーヴァンド」(Kay Bahram Varjavand)とみなされた[1]。バハラームはアルサケス朝を再建することで、新たな千年紀を始めることを試みた。

なお、ホスロー2世がバハラーム6世を破ると、ホスロー2世は「アパルヴェーズ」(勝利者)の称号を名乗った[31]。ホスロー2世はバハラーム6世が利用した終末論を、「千年紀の終わりに、卑しい王位僭称者が到来し、王位を簒奪するであろう。しかし、すぐに姿を消し、ローマから多くの都市を奪う「勝利者」によって平和と繁栄がもたらされる」と内容を変えて宣伝させた[30]

ホラーサーンに新しい領主を据えると、クテシフォンへ進軍した[1]。大宰相アードゥル・グシュナスプは反乱鎮圧軍として派遣されたが、その道中ハマダーンで配下の将軍Zadesprasに暗殺され、反乱軍は霧消した[13]。またSarames the Elderも鎮圧軍として派遣されたが、バハラームによって撃退され戦象英語版に踏み殺された[32]

王都でのクーデター

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ホルミズドはイスパフベダーン家ヴィンドゥーヤ英語版ヴィスタム兄弟との関係を修復しようとしていたが、彼らも父シャープールを処刑したホルミズドを嫌っていた[1]。ホルミズドはヴィンドゥーヤを投獄し、ヴィスタムはなんとか逃れることができた。しばらくして、二人はクーデターを決行し、ホルミズドの目を潰した上で、廃位した。彼らは投獄されていたホルミズドの長男かつ自分たちの甥にあたるシェーローエを解放し、590年6月27日、ホスロー2世として即位させた。ホルミズドはすぐに殺されたが、ホルミズドへの復讐という旗印を変えずに[注釈 10]、バハラームはクテシフォンへの進軍を続けた[1][24]

ホスローはアメとムチの態度を取り、バハラームに対して自身の正統な王権を主張する書状を送った。

諸王の王かつ支配者の支配者、民衆の主、平和の王、人々の救世主、神々の中では善良で永遠に生きる人間、人間の中では最も尊敬される神、非常に高名な者、勝者、太陽とともに昇り夜に視力を貸し与える者、祖先から名声を与えられた者、憎悪する王、ホスローより、

サーサーン朝と交戦し、エーラーン帝国に我らの王権を保持した恩人__エーラーンの将軍にして我らの友バハラームへ

私たちは合法的に王位を継承し、エーラーンの慣習を覆していない。私たちは強く王冠を手放さないと決意していて、もし可能であれば、他の世界でさえも支配することを望んでいた。もし貴方が自身の幸福を望むならば、何をすべきか考えるべきであろう[34]

バハラームはこの警告を無視した。また、ホスローは最高軍司令官の役職を復活させて提供すると、バハラームに打診しているが相手にされなかった[33]。クテシフォン近郊のナフラワーン運河英語版でホスロー陣営と戦った。ホスロー陣営は数で大きく劣勢であったものの、数度の衝突を経てなんとかバハラーム軍を食い止めた。しかし、ホスローの軍は次第に士気を失い、バハラーム軍に敗北した。この際に、ヴィンドゥーヤは捨て身で奮闘し、ホスローの身代わりとなってバハラームの捕虜になった[33][30]。その後、ホスローは叔父や妻、30人の貴族の従者とともに東ローマ帝国領に逃亡し、バハラームは帝都クテシフォンを占領した[35]

治世

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スサで鋳造されたバハラーム6世のディナール金貨英語版

バハラームの統治

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590年夏、バハラームは「もともと羊飼いだったサーサーン朝の初代皇帝アルダシール1世アルサケス朝の王位を簒奪し即位した」として、「アルサケス朝の正式な後継者であり、アルサケス朝の支配を復活する」との名目の下、シャーハンシャーに即位した[1][36]。貴族によって皇帝が暗殺されることは何度かあったが、貴族による王位の簒奪は初めてである。

バハラームは自身の支配を強調するために、硬貨の鋳造を始めた。バハラームの硬貨は、表面にバハラームが髭を生やし、冠を着けた高貴な人物として描かれている。また、裏面には二人の従者とともに伝統的な火の祭壇が描かれている[1]。バハラーム統治下では寛容的な宗教政策が行われた。対して、ホスロー2世は人頭税を半減し、拝火神殿に寄進することでゾロアスター神官たちの歓心を買い、バハラームは彼らからの支持を失った[37]。サーサーン朝貴族は本来は同格であるはずのバハラームに臣従することを良しとせず、大多数は経験不足で優位性に欠けるホスロー2世の陣営についた[1]。また、騎士の作法に則るバハラームはホスロー2世の支持者たちの国外逃亡を許した。その中にはバハラームが捕虜として捕らえ丁重に扱っていたヴィンドゥーヤも含まれている[30]。これらバハラームの騎士道精神はバハラームにとって不利に働いた。

ホスローの逆侵攻と復位

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東ローマ皇帝マウリキウス(在位:582年602年)の関心を得るため、ホスローはシリアへ出向き、サーサーン朝が占領していた旧東ローマ帝国領マルティロポリス英語版に対して、東ローマ帝国に対する抵抗運動をやめるよう書状を送ったが、効果はなかった[38]。ホスローは皇帝マウリキウスに、自身の復位への協力を呼びかけた。「暗黒の勢力がサーサーン朝を占領したら、次は東ローマ帝国の番でしょう」と救援の要請を示唆する文面が残されている[39]。マウリキウスとローマ帝国元老院は、「東ローマ帝国へアミダカルラエダラ英語版、マルティロポリスなどコーカサス地方の割譲、サーサーン朝のイベリアアルメニアへの介入の禁止、ホスロー2世はマウリキウスの娘マリア英語版を娶る」といった厳しい条件で合意した[35][39]

バハラーム6世とホスロー2世の戦い

591年、ホスロー2世はコンスタンティアに移動し、サーサーン朝への逆侵攻に向け準備し始めた。また、ヴィスタムとヴィンドゥーヤもJohn Mystaconの監視下で、アゼルバイジャンで募兵した。John Mystaconは東ローマ帝国指揮官で、ホスロー2世の逆侵攻では、アルメニア一帯の軍を率いることとなる。そしてついに、591年1月、ホスローは東ローマ帝国南部軍司令官コメンティオルス英語版とともにサーサーン朝領のメソポタミアに侵攻した。この援軍は4万もの大軍であった。侵攻中、ニシビスとマルティロポリスは即座にホスロー側に寝返り[35]、バハラーム陣営の将軍Zatsparhamは敗死し[40]、 BryzaciusはMosil(現在のモースル)で捕虜となり、鼻と耳を削ぎ落とされた上で、ホスローのもとに送られ処刑された[41][42]。この間、コメンティオルスが無礼であると感じていたホスロー2世は、軍司令官をナルセス英語版に交代させるようにマウリキウスを説得した[35][40]。その後、ホスローとナルセスはサーサーン朝領の奥深くまで侵攻し、2月にはダラ、次いでマルディンを占領すると、ホスローは復位を宣言した[40]。さらにホスローのイラン人支持者Mahbodhをクテシフォンに送り、帝都の奪還に成功した[43]

東ローマ帝国とサーサーン朝の勢力圏。591年にホスロー2世がバハラームに勝利した際に確定した国境線も含まれている。

同時に、ヴィスタム指揮下の8000のイラン兵とムッシェグ2世・マミコニアン英語版指揮下のアルメニア兵12000もアゼルバイジャンに侵攻してきた[1]。バハラームはアルメニア軍を離反させるために、ムッシェグ2世に対して書状を送った。「時を誤った忠誠心を示すアルメニア人諸君よ、サーサーン家は貴方がたの土地と主権を破壊したではないか。そうでなければ、なぜアルメニア人の先祖たちはサーサーン家に反乱を起こし、サーサーン朝の支配から抜け出し、今日まで祖国アルメニアのために戦ってきたのか[44]。」という内容だった。バハラームの書状では、もしアルメニアがホスローを裏切りバハラーム側に与したら、バハラームの帝国とアルメニアは対等なパートナーとして扱うことを保証している[45]。しかし、ムッシェグ2世はこの申し出を断った[45]

591年夏、ホスロー2世はアルメニア軍、ヴィスタム・ヴィンドゥーヤ軍と合流し、6万の軍勢に膨れ上がった[46]。バハラームはこの2軍の合流を防ごうと少ない軍を引き連れてクテシフォンを発ったが、合流に間に合わなかった[37][46]。両軍はペルシア北西部のブララトン川沿いの平原で戦った。バハラーム軍は、数で圧倒的に劣勢だったものの奮戦し、3日間に渡って戦いは続いた。3日目の夕暮れには、ヴィンドゥーヤがバハラーム軍の兵士に対して身の安全を保証したためにその多くが脱走した。この戦いはホスロー2世が勝利し、サーサーン朝における優位が確定した[46]

亡命とその死

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ブララトンの戦い英語版で敗北したバハラームは、4000人の兵士とともに東方へ逃亡した。ニーシャープールへ進軍し、クーミス英語版カーレーン家英語版の貴族率いる軍隊とバハラーム迎撃軍を破った。逃避行には苦難が絶えなかったが、遂に突厥の勢力圏フェルガナに到着した[47][1]。バハラームは突厥の可汗に丁重に饗された。このときの可汗はおそらく、数年前にバハラームが捕虜にしたBirmudhaである[24]。バハラームは突厥でも軍の指揮官の職を得て、さらに功績を挙げている [48][1]。とりわけ可汗の兄弟であるByghu(おそらく大臣職に相当するヤブグの誤訳である)の陰謀を防ぎ、可汗を救ったことは、彼の突厥における人気を高めた[24]。しかしホスロー2世は、突厥でも人気を持つバハラームが生きていることで自身の地位を脅かされると考え、刺客を放ちバハラームを暗殺した[1]。この暗殺の成功の裏では、ホスローが突厥の女王や皇族に賄賂を贈っていたと伝わっている [48]。遺されたバハラーム支持者の大多数は北部イランに戻り、ヴィスタムの反乱に参加している[49]

遺族の運命

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バハラームの死後、妹でかつ妻であったゴルディヤ(Gordiya)は、ホラーサーンに渡り、ヴィスタムに嫁いだ。ヴィスタムもまたのちに国王ホスロー2世に対して、反乱を起こしている。バハラームには3人の息子がいた。長男シャープールはサーサーン朝への反乱を続け、ヴィスタムの反乱にも協力している。ヴィスタムの反乱が鎮圧されると、シャープールは処刑された[1]。次男ミフラーン英語版は、イスラーム教徒のペルシア征服が進む中、633年アイン・アル・タムルの戦い英語版にサーサーン朝の将軍として参戦している[50]。その息子スィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh)英語版レイを支配していた。バハラームの反乱の鎮圧に貢献したヴィンドゥーヤ(Vinduyih)英語版に対する報復として、元女帝アーザルミードゥフトと協力し、その息子ファッルフ・ホルミズド(アーザルミードゥフトから王位を簒奪し、ホルミズド5世として即位していた)を処刑した[51]。末子のノーシュラドは、サーマーン朝の祖先とされている。ミフラーン家の子孫という肩書きは、トランスオクサシナやホラーサーン地方などのイラン東北部における支配の正当性を与えた[1]

死後の影響

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バハラームの生涯とその勇姿が文学作品に描かれた。例えばパフラヴィー語(中期ペルシア語)文学英語版バハラーム・チョービン・ナーマ 」(pal:ヴァフラーム・チョービーン・ナーマグ、"バハラーム・チョービンの書")では理想的な騎士としてバハラーム6世を描いている[52]。バハラーム・チョービン・ナーマはJabalah bin Sālimによって翻訳され、後世ではホスロー2世賛美の記述も付け加えられてた。原本は失われたが、ディーナワリーフィルドゥシーアブー・アリー・バルアミー英語版の著作に影響を与えている[52][30]ペルシア文学に登場する様々な英雄のように、バハラーム6世(バハラーム・チョービン)についても様々な伝説が語り継がれている。11世紀のフィルドウゥシーによる著作「シャー・ナーメ」の第8巻は[53]、「ホスロー1世の息子、ホルミズド4世」と「ホスロー・パルヴィーズ(ホスロー2世)」に関する章であるが、ホルミズド4世やホスロー2世の記述と同程度、バハラーム6世に関しても記述している。イブン・ナディームは彼の著作(図書目録)「フィフリスト」で、バハラームは弓術の指南書を書いたことを記録している[30]。シャー・ナーメの成立背景にあるように、イスラーム支配下において、イランの民族意識高揚を目指した民族主義者たちの間で人気が高かったことを示している[30]。また、政治的救世主としてのバハラーム6世の描写は、アッバース朝革命で活躍した将軍アブー・ムスリムの描写に影響を与えている[52]

サーサーン朝の滅亡後、現在のイラン地方はアラブ人の支配下に入ったが、9世紀にはサーマーン朝が独立した。このサーマーン朝はバハラームの子孫が建国した[54]

家系図

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ゴーローン・ミフラーン英語版
バフラーム・グシュナスプ英語版
マルダンスィーナー英語版(Mardansina)バハラーム・チョービンゴルデュヤ(Gorduya)ゴルディヤ英語版
ノーシュラドミフラーン英語版シャープール
スィヤーヴァフシュ(Siyavakhsh)英語版
Toghmath
Jotman
サーマーン・フダー
サーマーン朝の祖先)

脚注

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注釈

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  1. ^ 古代ギリシアや、メソポタミア等で見られる、神の加護を受けるために付けられた、神の名前に由来関連する名前である。
  2. ^ バフラーム、ヴァフラームなどの表記ゆれもみられる。
  3. ^ 青木『ペルシア帝国』によれば、ゴルディヤは、ヴィンドゥーヤ・ヴィスタム兄弟の妹である[13]
  4. ^ ホスロー1世以降(またはカワード1世)、スパーフベドは帝国を東西南北の4つの地区に分割し、それぞれの地区ごとに置かれる役職となっている。ホラーサーン英語版(東部)、南部、西部、そしてアゼルバイジャンのスパーフベド(アゼルバイジャン地方の人々が「北」という呼称を嫌ったために、アゼルバイジャンのスパーフベドと呼ばれる)の4役職は以降のサーサーン朝において軍事的に大きな権力を握った[15][16]
  5. ^ ペルシア語文献にはŠāwa、Sāva、Sāba等と表記される[17][18]
  6. ^ ホスロー1世は突厥と挟撃して、567年頃にはエフタルを滅ぼしていたが、その後もエフタルと呼ばれる人々は存在していた。
  7. ^ 葉護可汗の死については諸説ある。いくつかのトルコの史料では達頭可汗征伐の際に敗死したと記述されている[22]。またJosef MarkwartDenis Sinorは589年9月以前のペルソ・突厥戦争中(この日付はレフ・グミリョフが特定した)に既に射殺されていたと主張しており[17]、対してPeter Goldenは、588年に死去したことを示す資料の存在から、その説を否定している. [18]
  8. ^ これらサマルカンド諸都市はのちに突厥に奪還され、サーサーン朝の支配は数年間で終わった。その際、Kadagistanも占領された[24]
  9. ^ ゾロアスターの生没年は今に至るまで分かっていない。その生没年や活動地域にも諸説ある。もともとゾロアスター教の伝承では「アレクサンドロス大王の時代より258年前、ゾロアスターは30歳で啓示を受けた」とされていることから、紀元前6世紀と推定できる。しかし、この説では明らかに遅すぎて、年代に矛盾が生じるため、紀元前20世紀から紀元前10世紀の間と推定されてはいる。詳細は英語版(ゾロアスター#年代の章)を参照。
  10. ^ 青木『ペルシア帝国』によれば、バハラームはホルミズドの処刑を受けて、「ホルミズドへのクーデター」から「ホルミズドの敵討ち」へと進軍目的を体よく変えたとある[33]

引用

[編集]
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  19. ^ Rezakhani 2017, p. 177.
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  53. ^ online at http://persian.packhum.org/persian/
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参考文献

[編集]

外部リンク

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バハラーム6世

不明 - 591年

先代
ホスロー2世
エーラーンと非エーラーンの諸王の王
590年〜591年
次代
ホスロー2世 (復位)