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  • 一色 貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。侍所頭人。丹後一色家の当主。はじめ義範、のち貫と称した。五郎。若狭国・三河国・丹後国および尾張国知多郡・同国海東郡を有し、一色氏の最盛期を築いた。 応永16年(1409年)1月6日、父・一色満範が死去する。このとき10歳。家督を継ぐと…
    9キロバイト (1,298 語) - 2024年7月3日 (水) 13:02
  • 一色 紗英(いっしき さえ、1977年〈昭和52年〉4月29日 - )は、日本の女優、タレント。東京都杉並区出身。ボックスコーポレーション所属。旧姓 : 畠山 紗英(はたけやま さえ)。 1991年(平成3年)、フジテレビ系ドラマ『学校へ行こう!』でデビュー。出演作に、CM「ポカリスエット」、テレビ…
    11キロバイト (1,008 語) - 2024年11月4日 (月) 23:04
  • 三河国のサムネイル
    新田義高:←延文5年(1360年)10月 〜 永和3年(1377年)11月→ 一色範光:←永和5年(1379年)4月 〜 嘉慶2年(1388年)1月 一色詮範:嘉慶2年(1388年)1月 〜 明徳3年(1392年)→ 一色満範:応永13年(1406年)9月 〜 応永16年(1409年)1月 一色義貫:応永22年(1415年)8月 〜 永享12年(1440年)5月…
    39キロバイト (4,717 語) - 2024年10月19日 (土) 06:20
  • 一色氏は一色義定の代に織田信長の家臣・細川藤孝が丹後に侵攻してくると、抗戦の後、明智光秀の仲介で藤孝の娘と婚姻して織田氏に降った。しかし、本能寺の変において、光秀の味方をしたことから舅の藤孝により討たれ、定の叔父義清が家督を継いだものの、これも討たれて一色氏の嫡流は滅んだ。…
    5キロバイト (869 語) - 2022年1月11日 (火) 03:46
  • 西尾市のサムネイル
    氏が、承久の乱の恩賞として額田郡を領有し、鎌倉幕府の三河守護等として東海道矢作東宿(愛知県岡崎市明大寺町)に拠点を構え、地頭を務めた吉良荘の西条城(現西尾城)に庶長子吉良長氏を、東条城にその弟の吉良義継をそれぞれ置き、ここに吉良氏が発祥した。その後、足利氏宗家第四代足利泰氏の一色
    90キロバイト (8,645 語) - 2024年10月29日 (火) 00:28
  • 細川忠興のサムネイル
    天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城主一色義道を滅ぼした。 天正8年(1580年)、父の藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は一色満信の領国)。 天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅錦の小袖」は、忠…
    38キロバイト (5,972 語) - 2024年10月28日 (月) 14:23
  • 一色 公深(いっしき きみふか/こうしん)は、鎌倉時代の武士。一色氏の祖。左京大夫。入道して、大夫法師と号す。宮内卿律師、一色阿闍梨。また公深は法名ともいう。 弘長3年(1263年)10月23日、誕生した。足利泰氏の男。母は桜井判官代某の娘。 はじめ三河国幡豆郡吉良荘一色に住み、一色
    5キロバイト (485 語) - 2024年7月23日 (火) 21:50
  • 尾張国のサムネイル
    なお、1391年には知多郡が、1395年には海東郡の分郡守護に一色氏が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は1430年に一色義貫が足利義教と対立して没収され、知多郡も応仁の乱で一色義直が西軍に着いた際に室町幕府に没収されている。…
    63キロバイト (9,232 語) - 2024年10月24日 (木) 14:30
  • 室町幕府のサムネイル
    『南方紀伝』等によると、三職頭の家格が定められたとされる。管領職には斯波氏、畠山氏、細川氏の三氏が就いて「三職(三管領)」と称し、山名氏、一色氏、土岐氏、赤松氏、京極氏、上杉氏、伊勢氏の氏が「頭」と称され、特に氏のうちの山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏の四氏と土岐氏を含めた計五…
    32キロバイト (5,143 語) - 2024年10月19日 (土) 14:18
  • 細川藤孝のサムネイル
    一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。…
    33キロバイト (4,925 語) - 2024年10月31日 (木) 00:19
  • 武田信栄が若狭守護となり、6月29日に若狭国に入部したが、一色義貫誅殺の際、忠治から一太刀を受けており、これが原因で7月23日に死亡したと伝えられている。 また、貫に仕えた三方一族に、三方修理亮が今富名又代官として記録されている。一色氏が若狭の守護を解任された後は、本拠を京都に移し、侍所の所司であった一色氏の下で所司代をつとめるなど、中央政界で活躍した。…
    6キロバイト (928 語) - 2019年10月10日 (木) 19:39
  • 応仁の乱のサムネイル
    廉(管領)・畠山就・一色義直・土岐成頼・大内政弘であった。 応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ、斯波義敏が越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。…
    101キロバイト (16,426 語) - 2024年11月28日 (木) 15:01
  • 足利氏のサムネイル
    年)に豊臣政権が確立し足利義昭が京都で出家するまでは将軍職にあったと記録している。 義昭の子、尋の男子は全て出家し、足利将軍家の直系は絶家した。なお、義昭の子あるいは孫と伝承される人物に一色義喬や永山在がいるが、その出自を証明する明確な証拠は現在のところない。…
    52キロバイト (6,054 語) - 2024年11月9日 (土) 15:28
  • 土岐氏のサムネイル
    永享12年(1440年)、持頼は将軍独裁を進める足利義教の命により大和出陣中に殺害された。伊勢北半国守護は一色氏に移る。 応仁の乱が起こると美濃土岐氏が西軍に属したのに対して、持頼の子の政康は東軍に属している。また、伊勢北半国守護の一色義直が西軍であったことも政康が東軍に属した理由である。政康は東軍によって伊勢北半国守護…
    47キロバイト (5,941 語) - 2024年11月1日 (金) 00:02
  • 足利義昭のサムネイル
    4月10日、甲斐の武田信玄が義昭の側近・一色藤長に対し、嫡子の武田勝頼へ官途と義昭からの一字拝領を求めた。だが、信長の妨害にあったのか、これは実現されなかった。 4月14日、二条御所の竣工を記念し、祝言として舞の興業が行われ、観世・金春の能が演じられた。義昭と信長のほか、姉小路頼綱や北畠具教、徳川家康、畠山秋高、一色義
    179キロバイト (30,999 語) - 2024年11月22日 (金) 05:12
  • 義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後国の一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した。 信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本…
    12キロバイト (1,735 語) - 2024年9月29日 (日) 15:56
  • 相良氏:遠江国榛原郡相良荘(静岡県牧之原市相良) 三河国 足助氏:三河国加茂郡足助荘(愛知県豊田市足助町) 一色氏:三河国幡豆郡一色荘(愛知県西尾市一色一色) 今川氏:三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町) 加納氏:三河国加茂郡加納邑(愛知県豊田市加納) 吉良氏:三河国幡豆郡吉良荘(愛知県西尾市吉良町)…
    65キロバイト (5,149 語) - 2024年11月24日 (日) 01:41
  • 足利義政のサムネイル
    粟飯原政胤(粟飯原氏、父は教胤) 赤松政則 赤松政資(七条政資)(村の実父) 荒川政宗 安東政季(初め師季)> 河野政通 泉 政重(高梨政高の娘婿) 一色政煕(上杉政憲の実兄、丹後一色義直の養子) 一色政照(式部一色家) 一色政具(政照の子) 井上政家(信濃井上氏) 今川義忠 今川義秋(→持永氏を参照、今川仲秋の末裔)…
    87キロバイト (14,352 語) - 2024年11月12日 (火) 05:06
  • 弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼってこの日を「高家」制度のはじまりとすることもある。元和2年(1616年)には、一色
    23キロバイト (4,049 語) - 2024年9月23日 (月) 16:44
  • 石川五右衛門のサムネイル
    丹後国の伊久知城を本拠とした豪族丹後石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正10年(1582年)、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の謀略を引き受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。…
    26キロバイト (3,751 語) - 2024年7月28日 (日) 05:50
  • 住すといへり。是れ則ち通貞の先祖なるべし。然れども通貞迄の来歴の次第、詳ならずと云々。扨通貞、土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より、土岐頼芸・一色義龍・斎藤龍興に属し、永禄七年の秋より心変りして、織田信長に属したり。此人勇猛武功の事は、さして其名なし。然れども、其気質温和にして、人愛深くして、
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