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  • 弘仁式(こうにんしき)は、平安時代初期に編纂・施行された式。全40巻。三代格式(弘仁格式、貞観格式、延喜格式)の一つ。 格式編纂の構想は、桓武天皇の頃から存在したが、嵯峨天皇の時代に「造格式所」を設置して、藤原冬嗣を総裁として藤原葛野麻呂・秋篠安人・藤原三守・橘常主・興原敏久らと事にあたらしめてから編纂事業が本格化した。…
    4キロバイト (565 語) - 2024年7月13日 (土) 13:38
  • 越中国のサムネイル
    藤原鷹養〈延暦8年(789年)6月〉 石浦王 〈延暦10年(791年)6月5日〉 石淵王 〈延暦18年(799年)1月29日〉 藤原鷹養〈弘仁3年(812年)5月12日〉 登美藤津〈弘仁5年(814年)12月2日〉 和気真綱〈弘仁14年(823年)6月23日〉 藤原三成〈天長2年(825年)〉 藤原良房〈天長7年(830年)11月〉…
    25キロバイト (4,430 語) - 2024年5月23日 (木) 12:53
  • 空海のサムネイル
    弘仁7年(816年)初頭頃に訣別する。2人の訣別に関しては、後述の最澄からの理趣釈経の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題もある。 大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇につき鎮護国家のための大祈祷を行った。 弘仁2年(811年)から弘仁
    69キロバイト (10,972 語) - 2024年10月3日 (木) 10:54
  • 相模国のサムネイル
    多入鹿(弘仁元年〈810年〉1月10日 - 弘仁元年〈810年〉9月10日)従四位下 直世王(弘仁元年〈810年〉9月10日 - 「弘仁5年〈814年〉9月17日」)従五位下→従五位上 春原五百枝(弘仁7年〈816年〉1月10日 - 「弘仁10年〈819年〉3月1日)」従三位参議 紀百継(弘仁9年〈818年〉1月10日…
    43キロバイト (7,033 語) - 2024年1月7日 (日) 01:40
  • 薬子の変 (弘仁元年の政変からのリダイレクト)
    「薬子の変」と呼ばれるのは、嵯峨天皇が平城上皇に配慮したためだという指摘もある。また、様々な解釈が可能であるこの事件を新元号の弘仁に由来する「弘仁元年の政変」もしくは「弘仁の変」と呼ぶ研究者もいる。 延暦25年(806年)、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位、平城天皇は弟の神野親…
    35キロバイト (6,132 語) - 2023年5月19日 (金) 02:55
  • 平安時代のサムネイル
    - 大同元年(806年)…… 桓武天皇 大同元年(806年) - 大同4年(809年)…… 平城天皇 大同4年(809年) - 弘仁14年(823年)…… 嵯峨天皇 弘仁14年(823年) - 天長10年(833年)…… 淳和天皇 天長10年(833年) - 嘉祥3年(850年)…… 仁明天皇 嘉祥3年(850年)…
    42キロバイト (7,228 語) - 2024年9月7日 (土) 14:29
  • 皇別(こうべつ)とは、日本の皇室から、神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族を分類した用語。弘仁6年(815年)に朝廷が編纂した古代氏族の系譜集『新撰姓氏録』で、天津神・国津神の子孫を指す神別、中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々の子孫を指す諸蕃とともに用いられた。また皇別の分類は明治時代の華族の宗族制度でも用いられた。…
    13キロバイト (2,104 語) - 2024年3月28日 (木) 14:27
  • を行っている。大火砕流が発生した午後4時8分にサイレンが鳴らされ、市民に黙祷を呼びかけている。 伝教大師御影供( 日本) 天台宗開祖伝教大師最澄は、弘仁13年(822年)旧暦6月4日に遷化したことに由来。命日の前日である新暦6月3日に、毎年比叡山延暦寺では「伝教大師御影供」が行われる。なお、この日は…
    53キロバイト (5,821 語) - 2024年10月6日 (日) 04:12
  • 生年不詳 - 冬木るりか、漫画家 生年不詳 - 森川久美、漫画家 775年(宝亀6年7月1日)- 藤原蔵下麻呂、奈良時代の公卿(* 734年) 824年(弘仁15年7月7日)- 平城天皇、第51代天皇(* 774年) 882年 - ルイ3世、西フランク王(* 863年) 989年(永祚元年6月26日)- 藤原頼忠、平安時代の公卿(*…
    58キロバイト (5,851 語) - 2024年9月30日 (月) 13:46
  • 國學院大學日本文化研究所『神道事典』 ^ 中野幡能『八幡信仰』P91、蘇我馬子と大神比義 ^ 『神岩清水文書』宝亀4年 ^ 『大神氏家伝』 ^ 弘仁官符に引用された、弘仁六年(815年)『大神清麻呂解状』 ^ 訓読:祝部〔謂ふ、祭主(まつりぬし)となりて賛辞(たたへごと)する者をいふ。〕その祝は、国司、神…
    4キロバイト (739 語) - 2024年6月11日 (火) 11:48
  • 真言宗のサムネイル
    教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。 平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、東寺に対して「真…
    49キロバイト (7,856 語) - 2024年6月17日 (月) 03:08
  • 美濃国のサムネイル
    紀広浜(従四位下):大同3年(808年)任官 藤原緒嗣(従四位下):大同5年(810年)任官 小野岑守(従五位下):弘仁3年(812年)任官 安倍易笠(従四位下):弘仁9年(818年)任官(権守) 春原五百枝(従三位):天長3年(826年)任官 源弘(従四位下):承和5年(838年)任官…
    48キロバイト (6,774 語) - 2024年7月15日 (月) 02:02
  • 藤原 総継(ふじわら の ふさつぐ)は、平安時代初期の貴族。美作守・藤原末茂の子。光孝天皇の外祖父。 弘仁2年(811年)従五位下に叙爵し、中務少輔次いで相模介に任ぜられる。のち、従五位上・紀伊守に叙任されるが、紀伊守任期中に卒去。 没後の元慶8年(884年)2月に仁明天皇の女御であった娘・沢子所生…
    4キロバイト (385 語) - 2022年1月5日 (水) 13:33
  • 賀陽親王のサムネイル
    賀陽親王(かやしんのう)は、桓武天皇の第十皇子。官位は二品・大宰帥。高陽親王とも記される。 嵯峨朝末の弘仁12年(821年)四品に叙せられる。淳和朝では弘仁14年(823年)治部卿、天長3年(826年)中務卿を歴任。天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく三品に叙せられ、承和7年(840年)…
    5キロバイト (702 語) - 2024年3月13日 (水) 15:26
  • 源信 (公卿)のサムネイル
    まこと)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第一源氏)。官位は正二位・左大臣、贈正一位。初代源氏長者。北辺大臣と号した。 嵯峨朝の弘仁5年(814年)に弟の弘・常と共に源朝臣姓を賜与されて臣籍降下し、左京に貫付されて戸主となった。淳和朝の天長2年(825年)無位から従四位上に直叙さ…
    11キロバイト (1,607 語) - 2024年7月10日 (水) 08:58
  • 佐藤方定(佐藤鶴城・佐藤民之助・佐藤神符満と同一人物)らは偽書説を唱えて論争となった。 近代になると富士川游、服部敏良、和田英松、物集高見、物集高量らが佐藤の偽書説を支持したため、今日では現存する諸本は全て偽書であり真本は散逸したとみなすのが通説となっている。ただし佐藤
    16キロバイト (2,849 語) - 2024年4月30日 (火) 19:51
  • 延暦寺のサムネイル
    延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。 延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗…
    76キロバイト (11,711 語) - 2024年6月28日 (金) 10:34
  • 監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。 810年(弘仁元年)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、観察使は反天皇勢力を形成していった。嵯峨天皇は観察使の処遇を格下げし、これに対して同…
    7キロバイト (1,093 語) - 2024年5月19日 (日) 13:12
  • 源 弘(みなもと の ひろむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第二源氏)。官位は正三位・大納言。広幡大納言と号す。 弘仁5年(814年)に兄弟の信・常とともに源朝臣姓を賜与され臣籍降下。淳和朝の天長5年(828年)无位から従四位下に直叙され、天長7年(830年)従四位上・宮内卿に叙任される。…
    6キロバイト (822 語) - 2024年5月3日 (金) 10:40
  • 延暦24年(805年)8月に安芸国賀茂郡地50町を、12月に河内国交野郡白田2町を父の桓武天皇から賜った。 嵯峨朝の弘仁5年(814年)四品に叙せられた。淳和朝では天長3年(826年)上総太守、天長4年(827年)中務卿、天長7年(830年)大宰帥に任じられ、天長10年(833年)正月三品に進んだ。…
    7キロバイト (947 語) - 2023年11月26日 (日) 09:58
  • 原の郷・墨俣の渡は、古よりの戦場にして、獄所なり。何れの乱にしても、不破・墨俣の両所にて、合戦のなかりし時なし。天武・大友の乱を始として、 〈嵯峨〉弘仁、〈清和〉貞観、〈村上〉天暦、〈白河〉承暦〈鳥羽〉天仁、〈後白河〉保元、〈二条〉平治、〈安徳〉養和・寿永、〈後鳥羽〉承久、〈後醍醐〉
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