第71師団 (日本軍)
第71師団 | |
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創設 | 1942年(昭和17年)4月16日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
所在地 | 満州-台湾 |
編成地 | 満州 琿春 |
通称号/略称 | 命(みこと) |
補充担任 | 旭川師管区 |
最終上級単位 | 第10方面軍 |
最終位置 | 台湾 嘉義 |
戦歴 | 太平洋戦争/大東亜戦争 |
第71師団(だいななじゅういちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
沿革
[編集]1942年(昭和17年)4月に琿春駐屯隊(歩兵第87連隊・第88連隊基幹)と第110師団所属の歩兵第140連隊を基幹に編成された。同年6月に編成完了後、関東軍に属し、満州東部のソ連国境付近の警備と防衛に従事した。
1944年(昭和19年)2月、第71歩兵団司令部と歩兵大隊2個などを抽出して第5派遣隊を編成し、マリアナ諸島のパガン島に送った。また、同時期に千島にも歩兵第140連隊の1個大隊を派遣した。師団主力も同年7月、南方転用された第10師団に代わって満州北部のチャムスに移動し、南方転出に対応するための訓練を実施した。
1945年(昭和20年)1月、第10方面軍の第40軍に編入され「ガ号演習」の名で台湾に転用された。この転用に伴い、第71歩兵団司令部と捜索第71連隊が廃止された。同年2月、台湾に到着後、嘉義付近に布陣し連合国軍の侵攻に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。師団の将兵は1946年(昭和21年)前半に日本に復員した。なお、台湾駐留中にマラリアが流行し、歩兵第88連隊では将兵の8割以上が罹患していた。
第5派遣隊
[編集]第5派遣隊は、絶対国防圏の防衛強化のため、1944年2月の大陸令第948号に基づいて第71師団の隷下部隊から編成された。第71歩兵団司令部と、歩兵第87連隊と歩兵第88連隊の各第3大隊、山砲兵第71連隊第1大隊、工兵第71連隊第3中隊から成り、第71歩兵団長の天羽馬八少将が派遣隊長となった。2月下旬に琿春を出発し、3月20日にパガン島に上陸した。
同年6月に第5派遣隊は独立混成第9連隊(通称号:備17583部隊)に改編され、引き続きパガン島の防衛にあたった。パガン島は連合国軍の上陸は受けなかったものの、将兵は連日の空襲と補給途絶による食糧難に苦しんだ。終戦後、1945年10月末に日本に上陸復員した。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]参謀長
[編集]最終所属部隊
[編集]- 歩兵第87連隊(旭川):中村敏夫大佐
- 歩兵第88連隊(旭川):松浦龍一大佐
- 歩兵第140連隊(旭川):竹内主計中佐
- 山砲兵第71連隊(旭川):石山虎夫大佐
- 工兵第71連隊(旭川):佐藤久少佐
- 輜重兵第71連隊:関広太中佐
- 第71師団通信隊:保科年夫大尉
- 第71師団兵器勤務隊:野口求大尉
- 第71師団第1野戦病院:
- 第71師団制毒隊:石田林之助大尉
- 第71師団病馬廠:小田重夫大尉
- 第71師団防疫給水部:坂倉広海少佐
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 『別冊歴史読本 戦記シリーズNo.32 太平洋戦争師団戦史』、新人物往来社、1996年。
- 示村貞夫『旭川第七師団』新北海、1984年。