コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

北アフリカ戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
独米戦 (北アフリカ)から転送)
第二次世界大戦 > 北アフリカ戦線
北アフリカ戦線

進撃するドイツアフリカ軍団
戦争第二次世界大戦
年月日:1940年9月13日~1943年5月13日
場所北アフリカ北岸
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
連合国
イギリスの旗 イギリス帝国

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[nb 1]
自由フランス

ポーランド
ギリシャ
チェコスロバキア
ユーゴスラビア

枢軸国
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
イタリア王国の旗 イタリア王国

フランスの旗 ヴィシー・フランス[nb 2]

指導者・指揮官
イギリスの旗 アーチボルド・ウェーヴェル
イギリスの旗 ハロルド・アレグザンダー
イギリスの旗 クロード・オーキンレック
イギリスの旗 リチャード・オコーナー捕虜
イギリスの旗 ニール・リッチー
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー
イギリスの旗 ケネス・アーサー・ノエル・アンダーソン英語版
アメリカ合衆国の旗 ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・パットン
フィリップ・ルクレール
マリー=ピエール・ケーニグ
フランソワ・ダルラン [nb 3]
イタリア王国の旗 ウーゴ・カヴァッレーロ
イタリア王国の旗 イタロ・バルボ 
イタリア王国の旗 ロドルフォ・グラツィアーニ
イタリア王国の旗 イータロ・ガリボルディ
イタリア王国の旗 エットーレ・バスティコ
イタリア王国の旗 ジョヴァンニ・メッセ 降伏
ナチス・ドイツの旗 エルヴィン・ロンメル
ナチス・ドイツの旗 ゲオルク・シュトゥンメ
ナチス・ドイツの旗 アルベルト・ケッセルリンク
ナチス・ドイツの旗 ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム 降伏
フランスの旗 フランソワ・ダルラン
損害
  • イギリスの旗 イギリス帝国
    戦死 35,478 [1]
    死傷者計 220,000[2]
  • 自由フランス
    戦死、負傷、行方不明 16,000[3]
  • アメリカ合衆国の旗 アメリカ
    戦死 2,715
    負傷 8,978
    行方不明 6,528[4][5]
  • 物的損害
    戦車 2,000
    航空機 1,400
  • イタリア王国の旗 イタリア
    戦死 22,341[6]
    捕虜 250,000–350,000[7][nb 4]
  • ナチス・ドイツの旗 ドイツ[8]
    戦死 18,594
    行方不明 3,400
    捕虜 180,000
  • フランスの旗 ヴィシー・フランス[nb 5]
    戦死 1,346
    負傷 1,997
  • 物的損害[9][10]
    戦車 2,550
    トラック 70,000
    銃 6,200
    航空機 8,000
    総輸送量 2,400,000
北アフリカ戦線

北アフリカ戦線(きたアフリカせんせん)は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアの戦い英語版により、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた。

概要

[編集]

第二次世界大戦の中でも特異な戦場であった[11]砂漠地域での戦いであり、前線においては、その地形を利用した大胆な機動戦が行われた。その進撃距離は長いが地域は細長く、占領した地域が広域であろうとも土地そのものの価値は低く、地上戦だが補給は孤島に援軍を送るように困難であり兵站能力が極めて重要であった。また、全軍への補給に際しての、地中海の制海権、少ない港湾の能力、マルタ島の価値、制空権が地上戦に大きな影響を与えた。

同時に両軍の戦力や補給量の問題により、戦線が短時間で大きく移動した。このとき移動に活用された主なルートはその多くがかつてのサハラ交易路である。

アフリカで苦戦するイタリア軍への援軍として送り込まれたドイツアフリカ軍団の指揮官であるエルヴィン・ロンメル大将は、少数の派遣軍という劣勢な状態ながら地理・気候を利用した巧みな用兵で連合国軍と戦い「砂漠の狐」と呼ばれ[12]、1942年6月22日北アフリカ戦線での働きが認められてドイツ国防軍で当時最年少の元帥となった[13]

エジプトそしてその先にある中東を目指すという野望もむなしく北アフリカはイタリアにとっては地中海覇権の夢が破れる土地であり、ナチス・ドイツにとっては資源を枯渇させる地でしかなかったのである。

経緯

[編集]

1940年秋 イタリア軍のエジプト侵攻

[編集]

当時のイタリア政府は東アフリカ植民地の拡大を企図していて、またイギリス本土への攻勢を控えたドイツ政府からは北アフリカ駐留イギリス軍への攻撃を要請されていた[14]。イタリア軍上層部は装備や補給面での不足から慎重な行動を求めたが、ムッソリーニは軍の反対を押し切る格好で、1940年9月7日、軍にイタリア領リビアからエジプトへの攻撃を命じた[15]

9月13日、エジプト侵攻を開始したグラッツィアーニ元帥は兵員8万人からなるイタリア第10軍(5個師団基幹)[nb 6]を戦地に投入し、イギリス軍が撤退を行ったこともあって[nb 7]、順調に進撃し国境から約 100km 東のシディ・バラニ占領した[18]。しかし、徒歩移動の部隊が大勢を占め、かつ補給が慢性的に不足したため、そこで進撃を停止した[19]。その結果、十分な機械化と補給を受けたイギリス軍3万人は優位に戦いを進めた。

1940年末 イギリス軍の反攻(コンパス作戦)

[編集]
1941年におけるリビア・エジプトの地図

イタリア軍は、シディ・バラニに留まったままであったが、1940年12月9日にオコンナー将軍の指揮下で、イギリス西方砂漠軍 (Western Desert Force)[nb 8]は第7機甲師団(3個旅団)及び第4インド師団(兵員合計約3万人[21])を投じ、大規模な反攻作戦であるコンパス作戦を開始した[22][nb 9]

イギリス軍の圧倒的な機甲戦力の前にまともな機甲戦力や機械化部隊を持たないシディ・バラニのイタリア第21軍団の4個師団は為す術も無く包囲され壊滅し[24]、1月初頭にはイギリス軍の新戦力第6オーストラリア師団が投入され、後方のバルディアに展開していた残余部隊も激戦の末1941年1月6日に降伏した[24]。その後、これを好機と見てリビアにまで足を伸ばしたイギリス軍に対しイタリア第10軍は後退戦闘を続けた末にペダ・フォムで内陸部を先回りしたイギリス軍の機械化部隊によって退路を遮断された[25]。イタリア第10軍は2月7日に決行された包囲突破を目的とする最後の攻撃をもって壊滅した[25]。この戦闘中に第10軍指揮官のテレラ将軍は戦死し、コナ中将が指揮を継いだ[26]。リビア駐留軍の総指揮官も グラツィアーニ元帥に代わり、ガリボルディ将軍に引き継がれた[27]。この戦いで、イタリア軍は将兵の捕虜13万名を出す敗北を喫した[28]

イギリス軍は1941年2月までにリビアのトブルクバルディアなどキレナイカ地方を占領したが、ドイツ軍がバルカン半島へ侵攻したためギリシャへ援軍を送らねばならず進撃は停止してしまった[29]。一連の戦闘に大敗したイタリアの要請を受け、ドイツが支援を開始することとなりロンメルがその指揮官として北アフリカに派遣されることとなった[30]

1941年から1942年6月 ドイツ軍の参加とトブルクの攻防

[編集]
炎上するドイツ軍IV号戦車とイギリス軍クルセーダー巡航戦車

1941年2月にイタリア軍支援のためにエルヴィン・ロンメルを指揮官とするドイツアフリカ軍団が編成され、リビアに派遣された[30]。ロンメルは3月には本格的な反攻を開始し[31]、4月にはベンガジを奪回[32]、イギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げた[33]

枢軸国軍はイギリス軍の要塞となっていたトブルクを包囲したものの、イギリス軍の抵抗とこれまでの戦いによる戦力の消耗などにより陥落させることはできなかった[34]。イギリス軍はトブルクの解囲を目指し、5月にブレビティ作戦、6月にバトルアクス作戦を行ったがこれに失敗した[35][nb 10]。11月にクルセーダー作戦を発動しトブルクの解囲に成功し、さらに戦闘を重ね撤退する枢軸国軍をエル・アゲイラ付近まで追撃し、再びキレナイカはイギリス軍が支配した[37]。しかしながら、補給物資の輸送拠点をトブルクにしか設けられなかったため[nb 11]、前線まで長距離の物資輸送を行なわなければならなくなり、イギリス軍の進撃は停止した[37]

一時、エル・アゲイラまで撤退した枢軸国軍であったが、1942年1月には反攻を開始した。1月29日にベンガジが枢軸国軍に占領されたため、イギリス軍はトブルクの西にあるガザラ付近に防衛線を構築することとした[39]。 2月から両軍とも物資補給と戦力の補充のためガザラ付近でいったんは対峙する形勢となった[40]。1942年5月26日に枢軸国軍はイギリス軍のガザラ防衛線に攻撃を開始し、激戦の末イギリス軍は敗北した[41]。さらに枢軸国軍の攻撃が続き、6月21日にはトブルクが陥落した[42]

1942年7月から1942年11月 エル・アラメインの戦い

[編集]
エル・アラメインに展開するイギリス軍マチルダ歩兵戦車

ガザラの戦いに敗北したイギリス軍は、エジプト領内に撤退しアレキサンドリアの西、エル・アラメインに防御ラインを設定した[43]。1942年7月1日には、ドイツ軍との戦闘(エル・アラメインの戦い)が開始されたが、ドイツ軍の戦力不足により戦闘はこう着状態に陥った[44][45]

1942年8月にイギリス軍はエル・アラメインの防御にあたっていたイギリス第8軍の指揮官にバーナード・モントゴメリーを任命した[46]。イギリス首相チャーチルは、イギリス軍の早期反攻を求めたが、モントゴメリーはこれを断り、戦力の充実につとめた[47][48]。イギリス軍の反攻は1942年10月23日夜ライトフット作戦から始まり、さらに11月1日夜からスーパーチャージ作戦を開始した[49]。この攻撃により枢軸国軍の戦車等の戦力は残り僅かとなり、11月4日、指揮官のロンメルは枢軸国軍の西(リビア方面)への撤退を命令した[50]

1942年11月トーチ作戦

[編集]
トーチ作戦の上陸計画。

1942年6月にアメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルがワシントンで会談し、連合国軍のヨーロッパ反攻の第一歩として、ヴィシー政権が統治する北アフリカに侵攻することが決定され、この決定に基づきアイゼンハワーの総指揮のもとで準備が進められた。侵攻作戦はトーチ作戦と名付けられ連合国軍は1942年11月8日にモロッコへ西方任務部隊が[nb 12]、アルジェリアのオランへ中央任務部隊[nb 13]が、アルジェへは東方任務部隊[nb 14]が上陸した。いったんはこの地域を統治していたヴィシー政権フランス軍の抵抗にあったが、アルジェリアのダルラン提督に対して説得工作を行ない、11月10日に在アルジェリア・ヴィシー政権フランス軍と停戦が成立した[52]

1942年11月から1943年5月 チュニジアの戦い

[編集]

トーチ作戦で連合国軍がモロッコとアルジェリアに上陸したことで、エル・アラメインで敗退(1942年11月初旬)した枢軸国軍は東と西から連合国軍にはさみうちされることが懸念される状況になった。このためヒトラーは北アフリカの死守とチュニジア(フランス軍が駐留)への派兵を命じ、最初の部隊は11月11日に到着した(ネーリングが司令官)[53]。部隊は逐次増強され、最新のティーガー戦車も配備されて、名前は第5装甲軍となり司令官はアルニムに交代した。トーチ作戦で上陸した連合国軍は11月末にチュニジアに到着し、両軍の戦闘が始まった。1943年1月末にはエル・アラメインからリビアを横断して2200Kmを退却したロンメルドイツ・イタリア装甲軍もチュニジアに到着し、第5装甲軍に加わりアフリカ軍集団となった[54]。アルニムとロンメルの2人の司令官に指揮された枢軸国軍は西から迫る連合国軍に対して2月中旬に春風作戦を発動し、カセリーヌ峠の戦いなどで局地的な勝利を収めたものの、補給の制約もあって攻勢はすぐに止まってしまった。続いて、東のリビア側の防衛線のマレス・ラインでエル・アラメインから追撃してきた仇敵のイギリス第8軍に対してロンメルの指揮のもとで攻勢を行ったが、ここでも大きな損害を出して撃退された。3月中旬に戦況説明のためドイツに戻ったロンメルは、アフリカに戻ることを許されず、北アフリカ戦線の指揮はアルニムに委ねられた。連合国軍はチュニジア北部の港湾のビゼルトチュニスに向かって枢軸国軍の防衛線を少なくない損害を出しながらも逐次突破するとともに、枢軸国軍のヨーロッパからの補給線を激しく攻撃した[55]。5月7日にアメリカ軍がビゼルト、イギリス軍がチュニスに突入したことで、チュニジア戦線の勝敗は決し、5月12~13日に枢軸国軍は降伏し北アフリカ戦線は消滅した[56]。 降伏して捕虜となった枢軸国軍は 27万5000人[56]で、これは4ヶ月前にソ連に敗北したスターリングラードでの捕虜の数の約3倍であった。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ a b c d 1942年11月-1943年5月
  2. ^ a b c d 1942年11月8日から11日まで。ヴィシー政権は公式には武装中立政策をとり、枢軸国および連合国の交戦国からの武力侵攻に対して軍事行動を行った。フランス領北アフリカのヴィシー軍が連合国に忠誠を誓ったことで、枢軸国はヴィシーがこの政策を継続することは信頼できないと確信し、フランスに侵攻し占領した(アントン作戦)。)
  3. ^ ダルランは1942年11月に連合国に加わり、アフリカのフランス軍に停戦と自由フランスとの統一を命じ、フランス領北アフリカの文民・軍事高等弁務官に就任した。後の1942年12月24日、彼は暗殺された。
  4. ^ Historian Giorgio Rochat wrote:
    Sono circa 400.000 i prigionieri fatti dagli inglesi in Etiopia e in Africa settentrionale, 125.000 presi dagli americani in Tunisia e in Sicilia, 40.000 lasciati ai francesi in Tunisia ("There were about 400,000 prisoners taken by the British in North Africa and in Ethiopia, 125,000 taken by the Americans in Tunisia and Sicily, 40,000 by the French in Tunisia")
    Considering that about 100,000 Italian prisoners were taken in East Africa and that prisoners taken by the Americans were mainly in Sicily, the total is around 340,000–350,000.
  5. ^ トーチ作戦の間のみ(1942年11月8日–16日)
  6. ^ 5個歩兵師団、リビア兵団隷下の3個師団及び黒シャツ師団3個ならびに戦車大隊11個などが所属していた[16]
  7. ^ エジプト領内のメルサ・マトルーに防衛拠点を構築し、そこまでは交戦を避ける方針だった[17]
  8. ^ 1941年1月1日に第13軍団に改称[20]
  9. ^ 作戦開始にあたりイギリス空軍のイタリア空軍基地への攻撃[23]とイギリス海軍艦艇による艦砲射撃が行なわれている[22]
  10. ^ この結果、アーチボルド・ウェーヴェルは6月21日に中東軍総司令官を解任され、7月5日にクロード・オーキンレックが総司令官に任命された[36]
  11. ^ 前線に近いベンガジは爆撃と機雷により港としての機能を失っていた[38]
  12. ^ ジョージ・パットン少将指揮のアメリカ合衆国第2、第3機甲師団及び同第9歩兵師団(3分の2)の約3万5,000名[51]
  13. ^ フリーデンドール少将指揮のアメリカ合衆国第1機甲師団及び同第9歩兵師団(2分の1)の約3万9,000名[51]
  14. ^ ライダー少将指揮のアメリカ合衆国第34歩兵師団、同第9歩兵師団(3分の1)同第1機甲師団(2分の1)及びイギリス第78歩兵師団の約3万3,000名[51]

出典

[編集]
  1. ^ Carell, p. 597
  2. ^ Zabecki, North Africa
  3. ^ Cartier, Raymond. La Seconde Guerre Mondiale, vol4: 1943-Juin1944 [The Second World War, vol4: 1943-June1944]. Press Pocket. p. 40 
  4. ^ Playfair, Volume IV, p. 460. United States losses from 12 November 1942
  5. ^ Atkinson, p. 536
  6. ^ Roma: Instituto Centrale Statistica' Morti E Dispersi Per Cause Belliche Negli Anni 1940–45 Roma 1957
  7. ^ Colin F. Baxter. "The War in North Africa, 1940–1943: A Selected Bibliography". 1996. Page 38. 500,000 prisoners are listed as being taken in North Africa, East Africa, and Sicily; as 150,000 POWs were taken in the Allied invasion of Sicily and about 100,000 in East Africa, this would leave ~250,000 to be taken in North Africa; 130,000 during Operation Compass, and 120,000 afterwards.
  8. ^ Carell, p. 596
  9. ^ Barclay, Mediterranean Operations
  10. ^ Porch, Douglas: "The Path to Victory: The Mediterranean Theater in World War II", 2004, p. 415.
  11. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.73
  12. ^ 山崎 (2009)、pp.335-337
  13. ^ 山崎 (2009)、p.285
  14. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10-12
  15. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.12
  16. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.13-14
  17. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.25-26
  18. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.20-21
  19. ^ 『北アフリカ戦線』 (2009)、p.14
  20. ^ 山崎 (2009)、p.196
  21. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.38
  22. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.15-16
  23. ^ ムーアヘッド (1977)、p.37
  24. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.16
  25. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.16-17
  26. ^ ムーアヘッド (1977)、p.109
  27. ^ 山崎 (2009)、pp.198
  28. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.17
  29. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.114-116
  30. ^ a b 山崎 (2009)、pp.196-202
  31. ^ 山崎 (2009)、pp.213-214
  32. ^ 山崎 (2009)、p.216
  33. ^ ムーアヘッド (1977)、p.119
  34. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.41-43
  35. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.24-26
  36. ^ 山崎 (2009)、p.246
  37. ^ a b 『北アフリカ戦線』(2009)、p.50
  38. ^ ムーアヘッド (1977)、p.185
  39. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.28
  40. ^ ムーアヘッド (1977)、pp.195-198
  41. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.51-53
  42. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.53
  43. ^ 山崎 (2009)、p.295
  44. ^ 山崎 (2009)、pp.295-298
  45. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.64
  46. ^ 山崎 (2009)、pp.299
  47. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.67-70
  48. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.105
  49. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、pp.70-72
  50. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.115
  51. ^ a b c 『北アフリカ戦線』(2009)、p.78
  52. ^ 『北アフリカ戦線』(2009)、p.77
  53. ^ 『砂漠のキツネ』P.400 - 464
  54. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.163
  55. ^ 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.188-192
  56. ^ a b 『ライフ ロンメル対モントゴメリー』、P.195

参考文献

[編集]
  • 山崎雅弘 『ロンメル戦記』 学研M文庫、2009年。ISBN 978-4059012481
  • アラン・ムーアヘッド 『砂漠の戦争』 平井イサク訳、ハヤカワ文庫、1977年。ISBN 978-4-15-050008-5
  • 『北アフリカ戦線 1940-1943』 学研パブリッシング〈歴史群像アーカイブVol.11〉、2009年。ISBN 978-4-05-605789-8
  • チャールズ・メッセンジャー著 『ノルマンディー上陸作戦』 鈴木主税、浅岡政子訳、河出書房新社、2005年、 ISBN 4-309-61187-7
  • 油井大三郎、古田元夫著 『世界の歴史 28』 樺山紘一、礪波護、山内昌之編、中央公論社、1998年。ISBN 4-12-4-03428-8
  • リチャード・コリアー著、加登川幸太郎 監修、浦野進 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ロンメル対モントゴメリー」』、タイム ライフ ブックス。
  • パウル・カレル 『砂漠のキツネ』 松谷健二訳、中央公論新社、1998年。ISBN 978-4120028298

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]