玄櫶

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玄 櫶(ヒョン・ホン、朝鮮語: 현헌/玄櫶1880年8月9日 - 1939年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮教育者官僚

息子は理論家玄永燮[1]

生涯[編集]

1905年、官立漢城日語学校(のちの官立漢城外国語学校)を卒業後、官立漢城外国語学校時代の母校で教員を務めた。その後京城高等普通学校および京城女子高等普通学校で教員を務め、 1921年朝鮮総督府学務局視学官(教育監に該当)に任命され、学務局編修官を兼職した。1931年には江原道の参与官に選ばれ、同年朝鮮総督府中枢院の参議に任命され1936年に再任されたほか、 同民会の理事も務めた。 その後は、玄永燮と共に巡回時局講演に参加した。

2002年に民族精気を立てる国会議員の会が光復会と共同発表した親日派708人名簿と2008年発表された民族問題研究所親日人名辞典収録予定者名簿に息子の玄永燮と共に選定された。

2007年、大韓民国親日反民族行為真相糾明委員会が発表した親日反民族行為195人名簿にも含まれている。

脚注[編集]

  1. ^ 반민족문제연구소 (1993-03-01). “현영섭 : ‘일본인 이상의 일본인’ 꿈꾼 몽상가 (김민철)”. 친일파 99인 2. 돌베개. ISBN 9788971990124 

参考文献[編集]

  • 親日反民族行為進相究明委員会(2007年12月)。《2007年度調査報告書II - 親日反民族行為決定理由書》。ソウル。1664~1671ページ。発行番号11-1560010-0000002-10。