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王殿忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王殿忠
今村俊三ほか『満洲国人傑紹介号』(1936年)
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)[1][2][3]
死去: 1951年
中華人民共和国の旗 中国
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区蓋平県[1][2][4]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 王殿忠
簡体字 王殿忠
拼音 Wáng Diànzhōng
ラテン字 Wang Tien-chung
和名表記: おう でんちゅう
発音転記: ワン・ティエンチョン
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王 殿忠(おう でんちゅう、1882年1951年)は、中華民国満洲国の軍人。回族で旧名は王道光[4]。別号は孝先[2]中華民国時代は張宗昌率いる直魯聯軍に属し、満洲国では第1軍管区司令官(陸軍上将)をつとめた。

事績

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直魯聯軍での活動

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初等中学卒業後に江蘇陸軍補助教導団に所属した。その後は江蘇陸軍で排長、連長、営長を歴任し、1914年(民国3年)に福建省へ移って督軍署中校参謀に任命された[1][4]1916年(民国5年)、督軍署衛隊第1団団長に任命され、上校参謀もつとめている[1]

1926年(民国15年)、王殿忠は山東省の張宗昌配下となり、直魯聯軍に属することになった[4]。直魯聯軍では第6軍騎兵第23団団長、第12連隊司令兼江北警備司令兼津浦護路司令を歴任し、1928年(民国17年)には騎兵総指揮兼歩兵第1師師長兼前敵総司令に任命されている[1]北伐軍に敗れて直魯聯軍が崩壊すると、王も国民政府から指名手配されている。王は各地を逃亡した末に、天津の日本租界へ逃げ込んだ[4]

満洲国での活動

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国民政府時代は雌伏を強いられた王殿忠だったが、満洲事変勃発後に日本側と連絡を取り合い、再起することになる[4]満洲国建国後の1932年大同元年)、奉天省暫編陸軍歩兵第1旅中将旅長兼遼河地区警備司令として起用された。翌1933年(大同2年)、奉天省警備軍混成第3旅旅長兼遼河地区警備司令となる。1934年康徳元年)、第1軍管区(司令官:于芷山)第1地区警備司令官(安東地区)となる[2][4][5]

1936年(康徳3年)、王殿忠は第6軍管区(牡丹江)司令官に起用され[4]、同年8月24日、第5軍管区司令官・王静修と共に陸軍上将に昇進した[6]1938年(康徳5年)、王殿忠は第1軍管区司令官に移り[4]1941年(康徳8年)3月3日、軍事諮議官となった[7][8]

晩年・最期

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満洲国崩壊後、王殿忠は中国国民党営口支部書記長と連携し、営口治安(維持)委員会兼市長に就任した。翌1946年(民国35年)、中国共産党軍に王殿忠は逮捕され、安東省自治政府の地域へ連行・収監された。ところが情勢の変化により王殿忠は赦免され、元同僚の王家善[9]の推薦で営口市政府顧問に起用されている[4]

中華人民共和国建国後の1950年12月、王殿忠は反革命罪で当局に摘発され、翌1951年に処刑された[4]。享年70。

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  1. ^ a b c d e 帝国秘密探偵社編(1943)、「満洲」68頁。
  2. ^ a b c d 尾崎監修(1940)、10頁。
  3. ^ 高・王主編(1993)、383頁は「1880年生まれ」としているが、本記事は帝国秘密探偵社編(1943)と尾崎監修(1940)に従う。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 高・王主編(1993)、383頁。
  5. ^ 帝国秘密探偵社編(1943) 、「満洲」68頁は、この時に王殿忠が「第1軍管区司令官」になったとしているが、于芷山の軍歴と矛盾・抵触するため、誤りと考えられる。
  6. ^ 「海外ニュース/満洲国上将二名」『朝日新聞』(東京)昭和11年8月25日、3面。
  7. ^ 「満洲国軍首脳異動」『朝日新聞』(東京)昭和16年3月4日朝刊、2面。
  8. ^ 高・王主編(1993)、383頁は「1940年」としているが誤り。
  9. ^ 満洲国の軍人だが、密かに中国国民党との連携を取っていた人物。後に営口で中国共産党側へ転向し、東北人民解放軍第5師師長として朝鮮戦争にも参戦した。1979年没。

参考文献

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  • 高文・王水主編『遼寧文史人物録』遼寧人民出版社、1993年。ISBN 7-205-02954-6 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1