王永和
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王 永和(おう えいか、洪武24年(1391年)- 正統14年8月15日(1449年9月1日))は、明代の官僚。字は以正。本貫は蘇州府崑山県。
生涯
[編集]若くして孝行で知られ、病床の父を18年にわたって看病した。永楽年間、郷試に及第して、厳州府と饒州府の訓導を歴任した。蹇義の推薦により、兵科給事中となった。薊州に駐屯した都督の王彧や錦衣衛の馬順の不法を弾劾した。韓王世子妃の冊立にあたって節を持った。宦官の傲慢の罪を糾弾して剛直で知られた。正統6年(1441年)、都給事中に進んだ。正統8年(1443年)、工部右侍郎に抜擢された。正統13年(1448年)、黄河が河南で決壊し、曹州・濮州・東昌府が水没し、寿張県沙湾が壊滅した。永和はこれの修復にあたった[1]。正統14年(1449年)、オイラトのエセン・ハーンが侵攻してくると、永和は英宗の親征に扈従して、土木の変により殺害された。工部尚書の位を追贈された。諡は襄敏といった。
子の王汝賢は大理寺評事となった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻167 列伝第55