王永江
王永江 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1872年2月17日 (清同治11年正月初9日) |
死去: |
1927年(民国16年)11月1日 中華民国奉天省金州 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府金州庁 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王永江 |
簡体字: | 王永江 |
拼音: | Wáng Yǒngjiāng |
ラテン字: | Wang Yung-chiang |
和名表記: | おう えいこう |
発音転記: | ワン ヨンジアン |
王 永江(おう えいこう)は、清末民初の政治家・教育者。北京政府、奉天派に属し、奉天省長などを務めた。また、東北大学の初代校長でもある。字は岷源。号は鉄龕。祖籍は山東省蓬莱県。
事績
[編集]清末の事績
[編集]21歳で廩生となり[1]、最初は漢方薬店を運営していた。後に日本人が創設した南金書院という学校で漢文教員を務める。1907年(光緒33年)、遼陽地方団総・袁金鎧の命により、王は租界での日本の警察行政を調査する[2][3]。
まもなく遼陽で警務学堂を創設した。王は、ここで警察人員の養成に努め、後に東三省総督趙爾巽からその功績を表彰されている。その後も、遼陽警務所長、南路巡防営管帯などを歴任した。辛亥革命勃発に際しては、革命派討伐に従事している[4][3]。
奉天派での活躍
[編集]中華民国成立後は、趙爾巽・袁金鎧の推薦もあって、王永江は各地で税務部門の職を歴任する。1915年(民国4年)、奉天省税務局長兼清丈局長兼屯墾局長に昇進した。翌年には、やはり袁の張作霖への推薦もあって、奉天督軍署高等顧問に任じられた。11月には、全省警務処長兼省会警察庁長に任命され、後には省財政庁長、代理奉天省長などもつとめた[4][3]。
王永江の行政手腕は、警務・税務・実業の各方面で発揮された。特に警務方面では、近代的な警察行政制度の導入により、緑林出身者が多かった奉天派内部の粛清に大きく貢献している。王の統制に対しては湯玉麟が諍いを起こしたが、張作霖は王を支持した[注 1]。このほかにも、財政改革や税務改革にも貢献し、奉天派の財政状況を好転させ、その軍事力・政治力の拡張に貢献した。これらの実績により王は、奉天派内部で「文治派」の首領と目された[6]。
1920年(民国9年)7月から、張作霖が北京政府中央の政治闘争に介入しようとする。王永江は民力休養を唱えてこれに反対したため、次第に張から冷遇されていく。それでも1922年(民国10年)4月の第1次奉直戦争で張が敗北すると、張は失策を悔悟して、王を奉天省長に任命した。翌年4月に東北大学が創設されると、王が初代校長を兼任した[7][3]。
張作霖への隔意、晩年
[編集]軍備を再建した張作霖が再び北京政府中央に介入しようとすると、王永江はこれに反対したが、結局聞き入れられることはなかった。1924年(民国13年)10月、奉天派が第2次奉直戦争に勝利した後に、王は黄郛臨時内閣の内務総長に任じられた。まもなく同内閣が崩壊したため、王も辞職している。1925年(民国14年)2月、善後会議議員となった[8][3]。
1926年(民国15年)2月、王永江は各職を辞任して、故郷に戻った。その後も、張作霖の武断政策を諌め、民力休養を勧める文書を奉呈し続けたが、受け入れられることは無かった。また、張も王に政務復帰を望んだが、王は固辞し続けている。晩年の王は、詩作、易経・管子研究、医学などに関して著作を残した[9]。
1927年(民国16年)11月1日、金州にて病没。享年56(満55歳)[3][10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 武育文「王永江」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 浅田次郎『中原の虹』(1〜4巻, 講談社, 2006年〜2007年) ISBN 978-4-06-213606-8 & ISBN 978-4-06-213739-3 & ISBN 978-4-06-214071-3 & ISBN 978-4-06-214393-6
- 澁谷由里『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』(講談社, 2008年) ISBN 978-4-06-2584043
中華民国(北京政府)
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