王法慧
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王皇后 | |
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東晋の皇后 | |
在位 |
寧康3年8月20日[1] - 太元5年9月10日 (375年10月1日 - 380年10月24日) |
全名 | 王法慧 |
別称 | 孝武定皇后 |
出生 |
升平4年(360年) |
死去 |
太元5年9月10日[2] (380年10月24日) |
埋葬 | 隆平陵 |
配偶者 | 孝武帝 |
氏族 | 太原王氏 |
父親 | 王蘊 |
母親 | 劉氏 |
兄弟 | 王華、王恭、王爽 |
王 法慧(おう ほうけい)は、中国東晋の孝武帝の皇后。哀帝の皇后王穆之の姪。本貫は太原郡晋陽県。
生涯
[編集]父は王蘊(王穆之の兄)。母は正妻の劉氏。
若くして美貌をもって知られ、寧康3年(375年)8月、桓沖らの上奏[3]を採った孝武帝によって皇后に立てられた。法慧の兄の王恭を重視した謝安は「昔、毛嘉[4]は魏で嘲笑され、楊駿[5]は晋王朝を危うくした。もし皇帝が皇后を迎えるならば、その父親は王蘊のような家門の名望がなければならない」と話し、法慧の入后を薦めた。しかし法慧は酒に溺れ、暴飲の上に無礼を働き、孝武帝の不興を買った。孝武帝は王蘊を召して法慧の過失について論じ、訓戒してくれることを頼んだ。王蘊が冠を脱いで謝罪すると、法慧も品行を少しは直したという[6]。
太元5年9月癸未(380年10月24日)、崩じた。享年は21。定と諡された。
脚注
[編集]- ^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 寧康三年八月癸巳条による。
- ^ 『晋書』巻9, 孝武帝紀 太元五年九月癸未条による。
- ^ 「臣聞天地之道、蓋相須而化成、帝后之徳、必相協而政隆。然後品物流形、彝倫攸叙、霊根長固、本枝百世。天人同致、莫不由此。是以塗山作儷、而夏族以熙、妊姒配周、而姫祚以昌。今長秋将建、宜時簡擇。伏聞試守晋陵太守王蘊女、天性柔順、四業允備。且盛徳之冑、美善先積。臣等参議、可以配徳乾元、恭承宗廟、徽音六宮、母儀天下」
- ^ 魏の明悼皇后の父
- ^ 西晋の武悼皇后の父
- ^ 『晋書』巻32, 孝武定王皇后伝
伝記資料
[編集]- 『晋書』巻32 列伝第2 后妃下