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王潤貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王潤貞
プロフィール
出生: 1891年(光緒17年)[1]
死去: 不詳
出身地: 清の旗 湖北省漢陽府
職業: 政治家・鉄道官僚
各種表記
繁体字 王润贞
簡体字 王潤貞
拼音 Wáng Rùnzhēn
ラテン字 Wang Jun-chen
和名表記: おう じゅんてい
発音転記: ワン ルンジェン
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王 潤貞(おう じゅんてい、1891年 – 没年不詳)は中華民国の政治家・鉄道官僚。冀東防共自治政府中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会で各職を歴任した。別号は伯高[2][3]

事績[編集]

日本に留学し、旧制第四高等学校鉄道院教習所を卒業した[4]。帰国後は北京政府において、京漢鉄路管理局車務処運輸課主任員、交通部交通研究会会員、交通部鉄路技術委員会委員、交通部路政司などを歴任している[5]1930年民国19年)時点では平漢鉄路所長に在任しており、同年7月16日に来日して視察した[6]

1936年(民国25年)秋、冀東防共自治政府秘書長の池宗墨が外交処長の兼務を解かれ、王潤貞が後任の外交処長となった[7]。翌1937年(民国26年)7月28日に通州事件が起き、自治政府政務長官代理となった池が唐山へ政府所在地を移す。この際に自治政府の改組が行われ、王は総務庁長に改任された[8]

中華民国臨時政府成立後の1938年(民国27年)1月6日付で、王潤貞は河北省政府公署(省長:高凌霨)民政庁長に任命された[9][10]。翌1939年(民国28年)6月、退任している(後任は高培枢[10]

中華民国臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流して華北政務委員会へ改組された後の1940年(民国29年)7月1日、王潤貞は同委員会政務庁交通局長代理に任命された[11]。その後、正式に同職に任命されたと見られ、1942年(民国31年)時点では交通局長と華北採金股份有限公司董事を兼任している[12]

以後、王潤貞の行方は不詳となっている。

[編集]

  1. ^ 満蒙資料協会(1941)、925頁が「光緒17年(1891年)」、神田・東洋事情研究会(1937)、48頁が「年歳四十七」(数え年ならば1891年生)とそれぞれ記述していることに基づき、本記事は1891年説をとる。高木(1937)、138頁は「本年四十八歳」(数え年ならば1890年生)。外務省情報部(1928)、399頁は「年齢四十四」(数え年ならば1885年生)としている。
  2. ^ Who's who in Japan TWENTY-FOURTH ANNUAL EDITION, 1943, p.25.
  3. ^ 劉ほか編(1995)、1253頁。
  4. ^ 高木(1937)、138頁及び神田・東洋事情研究会(1937)、48頁による。満蒙資料協会(1941)、925頁は「早大卒」、外務省情報部(1928)、399頁は「東京帝国大学卒業」としているが、これらについて前二者に記載は無い。
  5. ^ 中華民国政府官職資料庫
  6. ^ 『日華学報』16号、1930年9月号、日華学会学報部、87頁。
  7. ^ 高木(1937)、138頁。
  8. ^ 『外交時報』83巻5号通号786号、1937年9月1日号、外交時報社、190頁。
  9. ^ 『国際知識及評論』18巻3号、1938年3月号、日本国際協会、137頁。なおこの時、冀東防共自治政府で同僚(政務処長)だった陳曽栻も、同公署建設庁長に任命された。
  10. ^ a b 劉ほか編(1995)、1127頁
  11. ^ 『華北政務委員会公報』1940年(民国29年)7月9日、11頁。
  12. ^ 満蒙資料協会(1941)、925頁及び1131頁。

参考文献[編集]

  • 満蒙資料協会編『満華職員録 康徳九年版 民国三十一年版』満蒙資料協会、1941年。 
  • 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 神田隆介著・東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。 
  • 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1