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王玄恕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 玄恕(おう げんじょ、? - 621年)は、中国初の人物。鄭の初代皇帝王世充の次男。

生涯

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開明元年(619年4月10日、漢王に封ぜられた[1][2]

開明2年(620年7月21日洛陽の含嘉城に派遣されて駐屯した。

武徳4年(621年)、虎牢の戦い後に王世充が唐に降伏して以降は、庶人に落とされ、兄弟らとともにの地へ流された。その途中で、王世充とその兄の王世惲は、かねての仇敵であった独孤修徳によって殺害された。王世充のその他の親族は、みな謀反のかどで誅殺された[3][4]

脚注

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  1. ^ 旧唐書』巻54列伝第四「王世充伝」:四月,假為侗詔策禪位,遣兄世惲廢侗於含涼殿,世充僭即皇帝位,建元曰開明,國號鄭。先封同姓王隆為淮陽王,整為東郡王,楷為馮翊王,素為樂安王。次封叔瓊為陳王,兄世衡為秦王,世偉為楚王,世惲為齊王。又封瓊子辯為杞王,衡子虔壽為蔡王,偉子弘烈為魏王,行本為荊王,琬為代王;惲子仁則為唐王,道誠為衛王,道詢為趙王,道夌為燕王;兄世師子太為宋王,君度為越王。立子玄應為皇太子,封子玄恕為漢王。
  2. ^ 新唐書』巻85列伝第十「王世充伝」:四月,矯侗策禪位,幽侗於含涼殿,猶三讓。遣諸將以兵清宮,世充襲戎服,法駕,導鼓吹入宮,每歷一門,從者必呼。至東上閤,更袞冕,即正殿僭位。建元開明,國號鄭。乃封兄世衡為秦王,世偉楚王,世惲齊王,諸族屬以次封拜,以子玄應為皇太子,玄恕為漢王。
  3. ^ 『旧唐書』巻54列伝第四「王世充伝」:秦王以世充至長安,高祖數其罪,世充對曰:「計臣之罪,誠不容誅,但陛下愛子秦王許臣不死。」高祖乃釋之。與兄芮、妻、子同徙於蜀,將行,為仇人定州刺史獨孤修德所殺。子玄應及兄世偉等在路謀叛,伏誅。
  4. ^ 『新唐書』巻85列伝第十「王世充伝」:五月,王擒建德,並獲王琬、長孫安世,俘示東都城下,且遣安世入言敗狀。世充惶惑,將突圍出保襄、漢,謀於諸將,皆不答,遂率將吏降軍門。王受之,以屬吏,陳兵入城,發府庫賚將士。其黄門侍郎薛德音以移檄嫚逆,崔弘丹造弩多傷士,前誅之;又收段達、楊汪、孟孝義、單雄信、楊公卿、郭士衡、郭什柱、董浚、張童仁、朱粲、王德仁等斬洛渚上。以世充歸長安,高祖數其罪,世充曰:「計臣罪不容誅,但秦王許臣以不死。」乃赦為庶人,與其族徙於蜀。將行,為羽林將軍獨孤修德所殺。初,修德父機嘗仕越王侗,世充既簒,謀歸唐,為所屠者也。高祖免修德官。子玄應,兄世偉,在道謀反,伏誅。

参考資料

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