王秀之

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王 秀之(おう しゅうし、442年 - 494年)は、南朝宋からにかけての官僚は伯奮。本貫琅邪郡臨沂県

経歴[編集]

宋の金紫光禄大夫の王瓚之(王裕之の子)の子として生まれた。著作佐郎を初任とし、太子舎人となった。父が死去すると、墓のそばに庵舎を営んで喪に服した。喪が明けると復職した。吏部尚書の褚淵が秀之の廉潔ぶりを買って、婚姻関係を結びたいと望んだが、秀之は受け入れなかった。このため秀之は左遷されて、二府の外兵参軍を転々とした。太子洗馬となり、司徒左西属をつとめた。泰豫元年(472年)、桂陽王劉休範の下で司空従事中郎となるよう命じられたが、秀之は劉休範が反乱を計画していることを察知して、病と称して就任しなかった。

元徽初年、晋平郡太守として出向した。任期を満了して建康に召還されると、安成王劉準の下で驃騎諮議となり、中郎に転じた。さらに蕭道成の下で驃騎諮議となった。昇明2年(478年)、蕭嶷の下で左軍長史・尋陽郡太守となった。蕭嶷が荊州刺史となると、秀之はその下で鎮西長史・南郡太守に任じられた。建元元年(479年)、蕭嶷が豫章王に封じられると、秀之はその下で司馬・河東郡太守に任じられたが、郡太守については受けなかった。寧朔将軍の号を加えられた。黄門郎に任じられたが受けず、豫章王驃騎長史に転じた。蕭嶷が荊州に州学を立てると、秀之は儒林祭酒を兼ねた。寧朔将軍・南郡王司馬に転じた。再び黄門郎となり、羽林監を兼ねた。長沙王蕭晃の下で中軍長史となった。建元4年(482年)、武帝が即位すると、太子中庶子となった。吏部郎に任じられ、義興郡太守として出向した。都官尚書に転じた。まもなく侍中として召還され、游撃将軍の号を加えられた。受けないうちに、輔国将軍・呉興郡太守となった。

隆昌元年(494年)、在官のまま死去した。享年は53。は簡子といった。

子に王峻があった。

伝記資料[編集]