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理研科学映画

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理研科学映画社から転送)

理研科学映画株式会社(りけんかがくえいが)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。

本項では、その後身の理研映画株式会社(りけんえいが)、新理研映画株式会社(しんりけんえいが)についても触れる。

概要

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戦前の理研科学映画時代に、下村兼史記録映画『或日の干潟』が文部大臣賞皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席となり[1]、戦後の新理研映画時代には、『若戸大橋』(企画=日本道路公団)が教育映画祭最高賞、日本産業映画コンクール奨励賞を受賞するなど、優れた記録映画教育映画を製作した。

戦時中は、陸海軍などからの発注による訓練映画、国民に対する国防映画なども製作した。戦後は、一転して、GHQの占領政策に沿う時事解説映画をつくり、ニュース映画にも着手、民主社会党の代議士・中崎敏が経営にあたった。1950年代には新東宝配給による劇映画を製作した。1960年代の高度成長期には省庁や政府系の機関、公団などの発注・企画によるPR映画を多く作った。

理研科学映画理研映画新理研映画を通じて、在籍した著名な映画人として、古賀聖人、中田弘二、下村兼史加藤泰松本俊夫らがいる。また、関係した音楽家として松村禎三佐藤勝柴田南雄がいる。

略歴

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理研科学映画(1938年 - 1946年)

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  • 1938年4月26日、理化学研究所の理研産業団(理研コンツェルン)の一つとして設立された[2]。設立の目的は、映画のトーキーシステムのなかで注目されていた、理研トーキー方式(大河内正敏研究室の渡辺俊平によって開発されたX線を用いた新しい録音法)[3]という画期的な新録音法発明と現像の自動化というイノベーションを実践するためのものだった[2]。同時に、科学映画の製作という目的もあわせもっていた[2]。理化学研究所主任研究員海老原敬吉の下に、「機械工作シリーズ〔旋盤編・フライス盤編〕」など工場や学校向けの教材映画を製作した[2]
  • 1939年、農林省の鳥獣調査室に勤務していた鳥類研究者・下村兼史が入社[4]。下村は、同年、『水鳥の生活−第一輯−』(16分)を完成。
  • 1940年、北九州周辺や有明海の鳥たちの生態をとらえた記録映画『或日の干潟』(25分)が文部大臣賞、皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席となる[1]
  • 1942年、下村兼史監督『慈悲心鳥』製作。
  • 1943年1月、文化映画製作会社を日本映画社朝日映画社電通映画社、理研科学映画に統合整理。都映画社、劦映社、新世紀映画社などが理研科学映画に併合。その内、山口シネマ・加治商会・旭日映画社3社は廃業届を呈出
  • 1943年加藤泰監督『泡』。9月、音楽家の柴田南雄が嘱託として入社[5]
  • 1944年、陸海軍からの委託作品の製作が増え、委託製作の訓練映画=「術科映画」の発注もあった。緊急指導映画として、委託を受けた『爆風と弾片』を製作。
  • 1945年、兵器を組み立てる小学生を描く『教室工場』を製作。敗戦後の同年11月に理研科学映画株式会社の全重役が退陣。同年12月1日松竹東宝大日本映画製作の劇映画3社と理研科学映画を含むニュース短篇教育映画4社によって、GHQや政府との窓口として「映画製作者連合会」発足。

理研映画(1946年 - 1952年)

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  • 1946年、菅沼完二監督『あなたの議會』を初め、連合国軍総司令部の占領政策に沿う時事解説映画『帰還兵』、『婦人平等へ』、『国民を戦争に駆り立てたのは誰だ』製作。科学映画『雲と気流』、『植林』、『電熱』、『オールウエーブの話』などを製作[6]。しかし、連合国軍総司令部による財閥解体のなかで理研財閥もその対象となり、理研の傘下から外れる。毎日新聞社系のふたりの役員を総務と製作担当に迎え、「理研映画」として再発足。同年3月31日、労働者有志が中心となり、全日本映画労働組合(後の日本映画演劇労働組合)の共同闘争として、単一組合を結成し、経営協議会の設置の要求を実現した[7]
  • 1947年2月から時事通信社と提携した『文化ニュース』を製作し、35ミリバージョンを大映に、16ミリ版を東横映画に配給するようになる[6]。3月、加盟する映画製作者連合会が劇映画4社、ニュース短篇教育映画5社となり、「日本映画連合会」と改称。
  • 1948年、『東京裁判・世紀の判決』(日本映画社新世界映画社との共同製作、提供=日本映画連合会)
  • 1949年関川秀雄監督『育ち行く村』、『くちびるに歌をもて』(家の光協会企画)製作[6]。。
  • 1950年、『新聞のはたらき』、『日本の象徴』豊田敬太監督・菅沼正義撮影『鉄道電化』製作。
  • 1951年、『造船工業』、『海上輸送』、『私たちの学校』製作。

新理研映画(1952年 - 1960年代末)

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終焉期

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出典

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