松本俊夫
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まつもと としお 松本俊夫 | |
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映画芸術社『映画芸術』1月号(1967)より | |
生年月日 | 1932年3月26日 |
没年月日 | 2017年4月12日(85歳没) |
出生地 | 日本・愛知県名古屋市 |
職業 | 映画監督、映像作家、映画理論家 |
活動期間 | 1955年 - 2017年[要出典] |
活動内容 | 劇映画、実験映画、映画理論 |
松本 俊夫(まつもと としお、1932年3月26日 - 2017年4月12日[1])は、日本の映画監督、映像作家、映画理論家。元日本映像学会会長。愛知県名古屋市出身。
略歴
[編集]- 1932年 - 名古屋市に生まれる。
- 1955年 - 東京大学文学部美学美術史学科を卒業。映画プロダクション「新理研映画」に入社し、アヴァンギャルドなドキュメンタリー映画を制作。
- 1959年 - 新理研映画を退社。以後も政治的・美学的に前衛であるドキュメンタリー映画を撮り続ける。
- 1969年 - 初の劇映画『薔薇の葬列』を監督。以降、長編劇映画を撮りながら、並行して実験的な短編映画を制作。
- 1980年 - 九州芸術工科大学及び同大学院教授に就任。
- 1985年 - 京都芸術短期大学教授に就任。
- 1991年 - 京都造形芸術大学及び同大学院教授に就任。
- 1999年 - 日本大学芸術学部研究所教授に就任。
- 2002年 - 日本大学大学院芸術学研究科客員教授に就任。
- 2012年 - 日本大学大学院芸術学研究科客員教授を定年退任。
- 2017年4月12日 - 腸閉塞により死去。85歳没[1]。
主な作品
[編集]短編映画
[編集]- 銀輪(1955年)12分
- 潜凾(1956年)20分
- 春を呼ぶ子ら(1959年)21分
- 300トン・トレーラー(1959年)26分
- 安保条約(1959年)18分
- 白い長い線の記録(1960年)12分
- 西陣(1961年)25分
- オリンピックを運ぶ(1964年)41分
- 母たち(1967年)37分
- 凧(1976年)27分
演劇
[編集]- 嘘もほんとも裏から見れば(1964年)劇団青俳
ラジオドラマ
[編集]- 黒い長い影の記録(1962年)TBSラジオ
テレビドラマ
[編集]- 傷だらけの夜(1962年)TBS
テレビ番組
[編集]- 石の詩(1963年)TBS
劇映画
[編集]実験映画
[編集]- つぶれかかった右眼のために(1968年)
- マグネチック・スクランブル(1968年)
- イコンのためのプロジェクション(1969年)
- エクスタシス(1969年)
- メタスタシス 新陳代謝(1971年)
- モナ・リザ(1973年)
- アートマン(1975年)
- ホワイトホール(1979年)
- 気 Breathing(1980年)
著作
[編集]- 『映像の発見 - アヴァンギャルドとドキュメンタリー』清流出版、2005年。三一書房(1963年刊)の改訂版
- 『表現の世界 - 芸術前衛たちとその思想』清流出版、2006年。三一書房(1967年刊)の改訂版
- 『映画の変革 - 芸術的ラジカリズムとは何か』三一書房、1972年。
- 『幻視の美学』フィルムアート社、1976年。
- 『映像の探究 - 制度・越境・記号生成』三一書房、1991年。
- 金子遊 編『逸脱の映像 - 拡張・変容・実験精神』月曜社、2013年。
- 阪本裕文 編『松本俊夫著作集成Ⅰ:一九五三─一九六五』森話社、2016年。
脚注
[編集]- ^ a b “映像作家の松本俊夫さん死去 「薔薇の葬列」「母たち」”. 朝日新聞. (2017年4月13日12時29分) 2017年4月13日閲覧。
参考文献
[編集]- “「幻視の美学・松本俊夫映画回顧展」 松本俊夫監督インタビュー”. 映画芸術 (2009年1月21日). 2016年5月2日閲覧。
- クリストフ・シャルル. “第四章 松本俊夫” (PDF). 現代日本の映像芸術. 2016年5月2日閲覧。
外部リンク
[編集]- 松本俊夫 - allcinema
- 松本俊夫 - KINENOTE
- 松本俊夫 - 日本映画データベース
- Toshio Matsumoto - IMDb