瓜生震
瓜生 震(うりゅう しん/ふるう、1853年7月16日(嘉永6年6月11日)- 1920年(大正9年)1月9日[1])は、明治から大正時代の実業家、官僚である[2][3]。通称は雷吉[4]。本姓は多部[2][3]。幕末の長崎で坂本龍馬の海援隊で活動。明治維新後に工部省鉄道寮の官僚として岩倉使節団に随行し、3年間欧米諸国で過ごした。退官後は実業家として、高島炭鉱長崎事務所支配人、三菱合資会社副支配人、麒麟麦酒役員など三菱財閥の要職を務めたほか、汽車製造会社社長なども務めた[2][5]。
経歴・人物
[編集]福井藩士だった多部五郎右衛門の三男として生まれる[3][5]。実兄は後に官僚を務めた瓜生寅であり[2]、幼少時に兄と共に分家して1856年(安政3年)に瓜生姓を名乗った[3][6]。その後兄と同じく長崎にて外国人に就いて洋学を学ぶ[2][5][6]。1864年9月(元治元年)、兄の寅(三寅)が前島密(巻退蔵)とともに、何礼之の許可を得て苦学生のための私塾・培社を崇福寺境内の広福庵に開設して塾長を務めると、雷吉も前島や同志の生徒たちと勉学に励んだ。同志の学生には、林謙三(のちの安保清康、坂本龍馬の友人)、高橋賢吉(のちの芳川顕正、伊藤博文の友人)、橘恭平(のちの神戸郵便局長)、鮫島誠造(尚信)らがいた[7][8]。
その後坂本龍馬が率いた海援隊に入隊しその補佐として活動する[3][5]。明治維新後の1871年(明治4年)には工部省に入省し[2][5]、鉄道寮にて勤務した[3][5]。翌1872年(明治5年)に岩倉具視が率いた岩倉使節団の一員として[2][3]、欧米諸国の視察に携わるため3年間同寮を離れる[3][5]。1875年(明治8年)に帰国後再度鉄道寮に復帰するが[5]、1877年(明治10年)に退所した[5]。
その後は後藤象二郎が設立した高島炭鉱売炭課長(1881年(明治14年)に三菱財閥に経営譲渡し[3]高島炭鉱長崎事務所支配人に役職名変更)を経て[2][5]、1893年(明治26年)に同財閥の副支配人を務め[3][5]、1899年(明治32年)には営業部長に昇格する[3][5]。1907年(明治40年)に麒麟麦酒取締役となる[9]。1911年(明治41年)には大日本製糖会社の監査役として経営整理強化を提案したが[3][5]、企業側は受諾を拒否したため再度三菱財閥に勤務した[5]。その後は東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)を経て[2][5]、汽車製造会社[5]、日本興業銀行等多くの企業に勤め[5]、代表取締役社長等の職にあたった[3]。墓所は青山霊園(1ロ21-31)。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2328号附録、1920年5月8日。
- ^ a b c d e f g h i “瓜生震”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)株式会社DIGITALIO. 2023年2月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “瓜生震”. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)株式会社DIGITALIO. 2023年2月21日閲覧。
- ^ 村瀬寿代「長崎におけるフルベッキの人脈」『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、桃山学院大学総合研究所、2000年3月、63-94頁、ISSN 0286973X、NAID 110000215333。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “瓜生 震”. 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)株式会社DIGITALIO. 2023年2月21日閲覧。
- ^ a b 名古屋大学大学院法学研究科 『人事興信録』データベース 『瓜生震』 第4版 大正4(1915)年1月
- ^ 井上卓朗 『日本文明の一大恩人』前島密の思想的背景と文明開化 郵政博物館 研究紀要 第11号 2020年3月
- ^ 意志力道場ウォーク 『日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―』Ⅴ 何礼之とその門弟・前島蜜 丸屋武士 2012年6月1日
- ^ 閨閥学・瓜生家 『多部震【瓜生震】』